ひこうき雲.12




  まるで自分を縛り付ける何もかもから抜け出すように、自分の身体から抜け出して消えてしまった時任のいる場所…。
 それがどこなのかわからないが、おそらく志島と一緒にいるに違いない。
 なぜ二人の魂がくっつくことになったのかはわからなかったが、時任が消えると同時に志島もかけつけた久保田の前から消えてしまっていた。けれど、志島に連れて行かれたのか、それとも自分の意思で行ったのかは時任にしかわからないが…、そうなる原因を作ったのは久保田自身で…、

 消える前に志島が言った言葉は、紛れもない事実だった。

 だが、生徒会本部を止めなかったことをいくら後悔しても…、どんなにどんなに後悔しても…、時任は戻ってこない。それはどんなに後悔しても、過ぎてしまった時間が戻らないのと同じだった。
 けれど、時任をおとりに使うことを黙認していたのは、松本に十円の借りがあったからでも…、早く犯人を捕まえて校内の治安を守りたかったわけでもなくて…、
 ただ…、抱きしめても抱きしめても、いくら好きだと言っても…、何度もキスしても時任からはさみしさと痛みしか伝わってこなかったから…、
 どんなことがあっても、何があったとしても…、時任が自分の名前しか呼ばないことを確かめたかったのかもしれなかった。

 「大切だって言いながら、好きだって囁きながら…、一番傷つけてるのは俺なのにね…」

 久保田は焼けたアスファルトの道を自転車で走りながら、そう小さく呟くと目の前に見える灰色の街に視線を向ける。この中には時任と二人で暮らしているマンションがあったが…、青空の下の街はまるで玩具の模型のようで…、
 そんな模型のような灰色の街を見ていると、帰り道を見失ってしまいそうだった。

 今と現実と過去と…、そして夢と…。
 
 時任といる今が現実だとわかっていても…、強く抱きしめれば抱きしめるほど…、
 あまりにも抱きしめた身体があたたかくてあたたかすぎて現実が遠くなる。
 だから…、柔らかい毛布にくるんで抱きしめてたいのに…、
 一緒にいるだけで…、そうしていたいと願っているはずなのに…、
 いつの間にか毛布を剥ぎ取って…、冷たい手で頬を撫でて…、
 その冷たさを知りながらも、握り返してくる手のあたたかさを確認して自己満足していた。
 けれど自分の中にある醜いエゴを自覚していても…、想いは止まらない。
 たとえ、時任を傷つけることしかできなくても…、壊すことしかできなかったとしても…、

 ・・・・つないだ手を離すことはできなかった。


 トゥルルル…、トゥルルルル・・・・・…。
 
 
 しばらく自転車を走らせていると携帯の着信音が鳴って、登録されていない番号が画面に表示される。携帯の電話番号を知っている人間は限られていたが、かかってきた番号は今まで見たことがないものだった。
 久保田は少し画面を見つめて後に、携帯の通話ボタンを押す。
 すると、そこから聞こえてきたのは松本でも桂木でもなく、廃屋で別れたはずの香坂だった。
 『誠人先輩…』
 「なに?」
 『時任先輩は?』
 「・・・・ココにはいないけど?」
 『そう…、やっぱり…』
 「会えなかったんじゃなくて、今から会いに行くトコ」
 『今からって、もう着いてる時間じゃ…』
 「用件がそれだけなら、切りたいんだけど?」
 『あ…、よ、用件はもっと別にあるんです。実は執行部に電話した時、五十嵐先生に聞いたことで、どうしても確かめたいことがあって…』
 「・・・・・・」

 『あかずの資料室には本当に幽霊がいて…、それが…、志島健だというのは本当なんですか?』

 そう言った香坂の声は、自分の悪事がばれた時の強気な態度が信じられないほど弱々しくて震えてしまっていた。だが、今まで何回か時任と顔を合わせていたのに、香坂には志島の姿が少しも見えていない。
 けれど、香坂は受話器の向こう側で…、静かに会いたいと呟いた。
 『会いたくても会えないのは…、きっと会う資格がないから…。あいつらに協力し、悪いことばかりしたから…、だから会いたくてももう会えない』
 「そう」
 『けど…、一度でいいから、幽霊でもいいから会いたかった…』
 「どうして?」
 『ずっと…、ずっと好きだった…』
 香坂は誰かに想いを伝えようとするかのようにそう言うと、久保田との通話をボタンを押して切ろうとする。だが、通話を切ろうとした瞬間に、もう何も答えてくれないだろうと思っていた久保田の声が聞こえてきた。

 「資格なんてなくても、もう会えないとわかっていたとしても…、会いたいと思うなら行くしかないから…」

 久保田の言葉が胸の奥に哀しく響いて…、香坂は切れてしまった携帯をきつく握りしめる。その言葉が時任のことを言っているのだということが、優しすぎる声音から伝わってきて…、やっぱり時任の身に何かが起こったのだということを悟った。
 会いたいのに会えなくなることが…、どんなに哀しくて哀しくてたまらないことなのか…、
 それを一番良く知っていたのは自分のはずだったのに…、金をもうけるために平塚の悪事に手を染めている内に、心まで同じ色に染まってしまっていた。
 
 「金なんて…、いくらあっても会えるはずなんかなかったのに…、僕は今ままで一体何をしてたんだろう…」

 香坂はそう呟くと、こぼれ落ちそうになる涙を隠すようにうつむいて唇を噛んだ。すると香坂の前に一台のバスが止まったが、香坂が乗らないことがわかるとバスはドアを閉めてまた走り出す。今、香坂のいる場所は廃屋から少し離れた場所にあるバス停の前で…、そこは志島が事故で亡くなった日に二人で待ち合わせしていた場所だった。
 待ち合わせたしたのは二人で海に行くためだったが、海に行こうと言い出したのは当時小学生になったばかりの香坂で…、
 その香坂との約束を守るために事故のあった日、志島はバイト帰りの疲れた身体でバス停に向かっていたのである。事故の原因は疲れてぼんやりとしていて信号が変わったのに気づかずに、飛び出してしまったからのようだった。

 『ごめんなさいね』

 そう書かれた紙が突然、リビングのテーブルに置かれてから、母親と志島の暮らしていた家には志島一人しかいなくなってしまっていて、それから志島は自分のバイト代だけでなんとか生活していた。そんな生活がしばらく続くと、高校もやめなければならないと言いながら志島がさみしそうに笑っていたのを今も香坂は覚えている。
 けれど、どんなに志島がさみしそうな顔をしていても…、小学生だった香坂にできることはなにもなかった。
 一緒にバイトをして稼ぐことも、大きな志島の身体を抱きしめることも…。
 だから、いつか志島の母親と志島と、三人で行った海に行ったら少しは元気になるかもしれないと思って…、海に行こうと誘ったのに…。

 日が暮れても…、志島はこのバス停には来なかった…。

 『明日、バス停で待ってるからさっ』
 『ああ…、バイトが終わったら必ず行く』
 『だったら、ゆびきりっ』
 『・・・・・・』
 『どうしたの?』
 『本当にちっちゃいな…、お前の手は…』
 『ちっちゃいから、ゆびきりできない?』

 『ちっちゃくても大きくても…、お前の手とゆびきりしたら、どんな約束でも守れそうな気がするよ…』

 守られるはずだった約束…、一緒に行くはずだった海。
 誰も来なかったバス停から、母親の手に引きずられるようにして帰った夜道で見た志島の家は…、真っ暗で明かりが一つもついていなかった。
 いつも一緒に遊んでくれた大好きなお兄ちゃんと…、その母親と…、この家にはたくさん幸せが詰まっていたはずなのに、暗がりの中の家は何もなくなっていて空っぽで…、
 後でなんとか高校を卒業するために深夜までバイトをしていて疲れて…、志島が信号が赤に変わった横断歩道をわたってしまったことを知った時…、もしもお金があったら志島が死ななかったかもしれないとわかった時…、
 香坂はまるでその空っぽになった場所に何かに詰め込もうとするかのように…、お金を稼いで貯金し始めた。
 どれくらいあったら、いくらあったら…、助けることができたんだろう…。
 志島を…、大好きだった人を死なせないですんだんだろう…。
 ただひたすらそれだけを考えながら…、貯金してお金を増やして…、
 けれど、いくら通帳の数字のゼロが増えても…、志島を助けることはできなかった。
 小さかった手が大きくなっても…、もう志島を抱きしめることはできなくて…、
 いくら海に行こうとさそったことを…、後悔して後悔しても何も残らなかった…。

 「約束なんていらない…。約束なんて何もいらないから…、ずっとそばにいたかった…」

 涙に声をつまらせながらそう言うと、握りしめた銀行の預金通帳をゴミ箱の中に投げ捨てる。そして次のバスが目の前に止まると…、香坂はあの日は乗ることのなかったバスに乗った。
 二人で行くはずだった海へと…、青い海へと向かうバスに…。
 会う資格なんてなくても…、もう会えないとわかってたとしても…、

 そこに行けば…、志島に会えるような気がした。
 

 




 



 『・・・とう、…時任』
 「うっ…、う…」
 『時任』
 「…くぼちゃん?」

 聞き覚えのある優しい声に名前を呼ばれたような気がして時任が意識を取り戻すと、身体が軽くてフワフワとしていて…、まるで水の中に浮かんでいるようだった。
 その感覚がとても気持ちよくて、また目を閉じて眠りたくなかったが…、さっきまで自分が置かれていた状況を思い出して勢い良く身体を起こす。しかし、起こそうとした身体はうまくバランスを取ることができずにクルクルと前に回転した。
 身体がまるで重さなどないかのように異常に軽くて、自分の足元にはあるはずの地面がない。
 そのことに気づいた時任は、なんとかバランスを取って身体を静止させると…、自分の足元に広がっている信じられない光景を見つめた。

 「げっ…、う、ウソだろっ!?」

 時任の足元に広がっていたのは、まるでジオラマのような街の風景だった。飛行機に乗って上空からしか見られない光景が、信じられないことに時任の目の前にあったのである。
 大きいはずの灰色のビル群も、まるでマッチ箱を並べたように小さくて…、
 さっきまでいた病院は小さすぎて、どこら辺にあるのかさえわからない。
 青空と街の間に浮かんでいる時任は、少し眩暈を感じて頭を振った。しかし、いくら頭を振っても目の前の光景が消えることはない。
 時任は体育教師に拉致されて、病院で二人の男の欲望の前にさらされていたはずなのに…、

 今は男達の手だけではなく…、誰の手も届かない場所にいた。

 どうしてこんなことになっているのか理由はわからなかったが、自分の手のひらが少しだけ透けてしまっているのがわかる。
 手のひらを目の前にかざすと、透けた部分からも灰色の街が見えた。
 自分に何が起こったのか、志島に会う前までならわからなかったかもしれないが、今なら自分の身に何が起こったのか少しは理解できる。
 時任は透けてしまった手のひらを握りしめると、じっとジオラマのような街を眺めた。

 「マジで死んじまったのか…、俺…」
 
 平塚達の会話から考えると、それはあり得ないことじゃなかった。
 これが夢だったらどんなにか良かったのかもしれなかったが、なぜか灰色の街を見ていると現実だということが理解できる。ここまで薄汚い男達の手は届かなかったが…、時任の手もどこにも届かなくなってしまっていた。
 自分の身体がどうなってしまったのか見当もつかなくて…、これからどうしていいのかもわからない。透き通って消えてしまいそうな身体は、頼りなく時任の目にうつった。
 もしかしたら、このまま消えてしまうかもしれないと思うと…、無いはずの鼓動がドクンと大きく跳ねる。
 その鼓動を聞きながら時任が想っていたのは…、いなくなった自分のことを探してくれているはずの久保田のことだった。

 「このままもう会えないなんて…、そんなのあるワケねぇよな…。いつだってどんな時だって一緒なのが当たり前だったのに…、もう会えなくなるなんてそんなのあるワケねぇじゃんか…」

 そう呟いてみても、透けている手のひらを見つめていると怖くなってくる。
 もしも今日が明日にならなかったとしても…、ずっと一緒にいたいと想っていたのに…、
 さみしさに、さみしい気持ちにとらわれている内に…、何も伝えることのできないまま…、

 こんな灰色の街と青い空の狭間で…、時任は一人きりになってしまっていた。




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