ひこうき雲.8




 ジリリリリン…、ジリリリリリン・・・・・・。

 時任稔が何者かにさらわれてから十五分後、生徒会長である松本の携帯電話のアンティーク調な呼び出し音が生徒会本部に響き渡った。
 その音を聞いた松本は不吉な予感を感じて、少し眉間に皺を寄せながら通話ボタンを押す。
 すると携帯から聞こえてきたのは、やはり本部に所属している生徒の声だった。
 松本は生徒から報告の内容を聞くと、厳しい顔をして人差し指で机をコツコツと叩く。
 時任の護衛に四名の生徒をつけていたが、どうやら時任本人がいきなり走り出してしまったので姿を見失ってしまったらしかった。
 屋上にいた時任が、なぜ走り出したのかその理由はわからない。だが、それきり学校内から時任の姿が消えてしまったことだけは確かだった。
 学校周辺に範囲を広げて引き続き時任を探すように命じると、松本は通話を切ると深く息を吐く。護衛はつけているものの、学校内ということもあってやはり少し油断しすぎていたかもしれなかった。

 「久保田君には…、連絡なさらないおつもりですか?」

 携帯を持ったままで動かないでいる松本の前に、そっとお茶の入った湯飲みを差し出しながら橘がそう声をかける。すると松本は軽く頭を振りながら、携帯を机の上に置いて湯飲みを手に取った。
 今回の件で時任稔をおとりに使うことを決定したが、そうすることに迷いがなかったわけではない。しかし事件を早く解決しなければ、完全に逃げられてしまう可能性が高かったために、やむを得ずこんな手段を使うしかなかった。
 屋上で時任の写真を取っていた男子生徒は捕らえたが、ただ時任の写真を金目当てにある人物に提供していただけで、それが何に使われていたのかまでは知らないらしい。
 それにどうやら校内で男子生徒の写真を収集していた人物は、その生徒だけではなく、写真部からも写真を買っていたらしかった。
 その人物が何者なのか判明すればことは簡単なのかもしれないが、香坂に鉢を落とした生徒と同様に、写真を取っていた生徒も下駄箱を通して金と写真の売り買いをしている。当初は犯人を捕まえようと下駄箱を見張っていたが、その情報がどこからか漏れているのか犯人を捕まえることはできなかった。
 そのため、時任をおとりにして犯人を捕まえるというのが最後の手段だったのだが…、それもこのままでは被害者をまた一人増やしただけで終わってしまうかもしれない。松本は橘の入れたお茶を一口飲むと、再び携帯を手にとってメモリーの中から久保田の番号を表示したが、やはりその番号に電話をかけなかった。
 「・・・・・必ず犯人は捕らえてみせる。だから、誠人に連絡するのはそれからだ」
 「やはり、僕が護衛についた方が良かったようですね」
 「お前ては目立ちすぎだ…、それは自分でもわかっているだろう?」
 「ですが、事件の内容を考えると時任君の身が心配でなりません」
 「まさか、この学校でこんな事件が起こるとはな」
 「僕はこの学校だからだと…、そんな気がしますよ」
 「・・・・・・嫌なことを言う」
 「ですが、やはり事実でしょう?」

 「違うと、否定したいところだがな…」

 苦い顔をして松本はそう言うと、机の中から一冊のアルバムを出した。
 そしてそのアルバムを松本が開くと、そこにはたくさんの男子生徒の写真が貼られている。写真は登校途中や休憩時間…、そしてなぜか着替える途中やシャワーシーンまで含まれていた。
 こういう写真が校内で売買されていることは、本部も知っていて黙認していたが…、
 問題なのは…、このアルバムの写真の下につけられている値段だった。
 その値段は、写真一枚の値段とは思えないほどの高額の値段が書かれている。
 実は、偶然このアルバムがバスケット部の盗難事件を調べた時に、部員のロッカーから出てきたことが事の発端なのだが…、
 アルバムの入っていたロッカーを使っていた生徒は、一週間前から練習中の骨折で入院していて、このアルバムが自分のロッカーに入っていた事を知らなかった。
 アルバムの存在があまりにも不審だったために、松本は久保田に調査を依頼しようとしたが、ちょうどアルバムが見つかった時期と同じ時期に、ある問題が学校側から本部に持ち込まれたのである。その問題は、校内で気分が悪くなって倒れたという生徒からの被害届だったが…、

 出された被害届の内容は…、保健室で眠っている間に何者かに悪戯をされたかもしれないというものだった。

 悪戯ということについて、それがどういう意味なのかはわざわざ尋ねなくても松本にもわかっている。男子校の時からの名残りなのか、その手の問題はこの荒磯高校では良く起こっていた。しかし、気を失っている間に何かされたかもしれないという被害届は初めてである。
 被害届を出した男子生徒は気分が悪くなって倒れた後、保健室で寝ていたらしかった。
 いつもは保健医の五十嵐が保健室にいるのだが、その日は偶然、用事があって出かけていて不在。体育があったのが四時間目で放課後の時間まで眠っていたので、その間に何があったのかは誰も見ていなかったらしかった。
 松本は男子生徒の証言を思い出しながら、机の上で両手をゆっくりと組む。
 そしてじっと何もない空間をにらむと、考え込むような表情で小さく息を吐いた。
 「普通、何かされれば眠っていても気づくとは思うが…、気づかなかったとなれば薬を使われた可能性があるかもしれない」
 「何も残ってなければ気のせいですんだのかもしれませんが…、被害届の通り身体には悪戯された痕跡が残ってましたから、それが事実だという動かぬ証拠です。なので、会長のおっしゃる通り薬が使われたのだと僕も思います」
 「・・・・・・・・姑息だな」
 「おそらく、被害者は予想以上に多いでしょう。何かされたのだとしても、気のせいにして忘れてしまいたいでしょうから…」
 「だが、もう二度と犯人の思い通りにさせるつもりはない。そのために、時任をおとりにする選択を選んだんだからな…」
 松本はそう言うと、ポケットに携帯を入れてイスから立ち上がる。
 しかし、昨日の深夜に電話をかけてきた久保田の様子が気にかかっていた。
 今回の件についてすぐに気づくだろうことは予想していたが、久保田の時任に対する想いは松本が予想していたよりも深く…、
 悲しいくらい深すぎて…、誰にも入り込めないものだった。
 中学の頃から久保田と付き合いがあるが、こんな風に誰かのことを言うのを聞いた事がない。それは…、時任を見る時の久保田の優しすぎる瞳を見ていればその理由はわかるのだが…、
 好きだという一言で片付けられるような、そんな想いではないのかもしれなかった…。
 松本にも橘という恋人がいるが…、その気持ちは好きだという想いから痛みが伝染して伝わってきてしまうくらい激しくはない。
 だからと言って、橘のことを好きではないのかもしれないとは思わないが、時任に自分以外の誰かの助けを呼ぶよりも、みっともなく地面に這いずっていて欲しいと…、
 まるで愛していると叫ぶように、そう言った久保田には叶わなかった。

 「もしも時任に何かあったら、俺は殺されるだろうな」

 松本は真剣な声でそう言いながら、ポケットに入っている携帯を握りしめる。
 本当は時任がいなくなったことを久保田に電話をするべきなのだが、想いの激しさが今回のおとり捜査をぶち壊してしまう可能性があった。
 普段は冷静な久保田も、時任がからめば何をするかわからない。
 それを一番良く知っていたのは…、もしかしたら時任に出会ってからの久保田の変化を見てきた松本のなのかもしれなかった。
 「久保田君は、貴方を殺したりはしませんよ」
 松本の言葉を聞いた橘がそう言ったが、松本は首をゆっくりと左右に振る。
 時任をおとりにすると決めた時から覚悟は決めていたが、事態は松本の予測を越えて良くない方向へと転がり始めていた。
 「確かに誠人とは中学の時に執行部をしていたが…、ただそれだけだ…」
 「ですが、久保田君のことを誠人と呼んでいるのは貴方だけでしょう?」
 「少し前まではそうだったかもしれないが、今は俺だけじゃなく香坂も呼んでいたはずだ。つまり、誠人にとっては呼び名はなんだろうと、たいした意味はないということだ」
 「だったら、なぜ貴方は久保田君のことを誠人と呼ぶんです?」
 「・・・・・それはたぶん」
 「たぶん?」

 「少しは赤の他人より誠人の近くにいることの…、その証拠が欲しかったのかもしれん。 それはもちろん友人としてだがな…」

 階段を駆け下りて廊下に出ると、松本はそう呟いてから軽く片手を上げて本部に在籍している生徒を呼んだ。すると、橘はいつもとは少し違った微笑を顔に浮かべて松本の方に手を軽く乗せる。
 その手に手を重ねることなく松本が前へと歩き始めようとしたが…、橘の強い力がそれを止めた。
 「やっぱり、そんな風に貴方が言っているのを聞くと焼けますね…」
 「と、友達としてだと言っただろうっ」
 「ですが、お付き合いはまず友達からと言うでしょう?」
 「橘っ」
 「もし貴方が久保田君に殺されたら…、一緒に死んでは差し上げられませんが、僕が久保田君を殺して差し上げますよ」
 「・・・・・そしてその後で、時任を手に入れるつもりなんだろう?」

 「ふふっ…、そうして欲しいですか?」

 橘はじっと松本の瞳を見つめながらそう言うと、肩から手を離して松本の一歩後ろに下がる。会長である松本の影のように付き従っているその位置が、副会長としての橘の定位置だった。
 松本は会長ということにこだわるつもりはないが、やはり生徒会本部を背負っている会長の立場を維持するためにこの位置は崩せない。
 会長としての地位を確立するためには、誰よりも上に立たなくてはならなかった。
 
 「お前がそうすることを望むなら、俺は止めたりはしない…」
 
 松本の返事を聞いた橘は、わずかに目を細めて松本の後ろ姿を見る。
 だが、橘は松本の一歩後ろの位置を保ったまま、前に出ようとはしなかった。
 二人はお互いの距離を保ちながら、少し焦った様子の本部所属の生徒の所まで行くと、時任がいなくなった時の状況と収集した目撃情報を詳しく尋ねる。
 すると、最後の目撃情報からわかったことは…、力なくぐったりとしている時任が廊下で何者かに抱きかかえられてたというものだった。
 しかし…、時任を抱きかかえていた人物は松本の予想から大きく外れている。犯人はこの学校内にいる生徒の誰かだと思っていたが、時任を抱きかかえていたのは生徒ではなかった。
 
 「なるほど…、それで今まで被害届がでなかったのか…」
 
 松本はそう呟くと、校内のどこかにいる久保田に連絡をしないまま…、
 犯人を捕まえて時任を探し出すために、本格的な捜査に乗り出したのだった。










 もう十年近くも放置されたままになっている廃屋は、かなり壊れかかっていて危険だった。
 だが、その廃屋の玄関のカギを開けると、久保田は迷うことなく中へと足を踏み入れる。そして玄関から土足で廊下へと上がると、ギシギシと床が苦しそうに音を立てた。

 平凡な町並みの一角にある、青い屋根の廃屋。

 松本会長が時任の捜査に乗り出した頃、志島のことを調べるために、アルバムに書かれていた住所をたどって、久保田と香坂はこの廃屋まで来ていた。
 久保田についてきていた香坂は少し迷った様子だったが、久保田と同じように音を立てて土足で床へと上がる。すると、床に積もっていた白い埃がふわっと舞い上がった。
 廃屋特有のよどんだ空気が室内を満たしていて、埃とその空気に香坂が顔をしかめる。しかし久保田はそれに構うことなく、すぐに二階へと続いている階段をゆっくりと上がり始めた。
 実はこの廃屋は、手に入れた卒業アルバムに書かれていた志島の住所にあるのだが…、外にまだ表札がそのまま残っていて…、
 それを見ると、やはり志島の家族はただ引っ越したというのではなさそうだった。
 志島が幽霊になってしまっていることと関係があるのかどうかはわからないが、この廃屋は住む人もなく朽ち果てていくしかない寂しさに包まれている。
 十年ぶりに開けられた玄関のカギは、庭に置かれていた鉢植えの下に置かれていたのだが…、
 それを見つけたのは久保田ではなく香坂だった。

 「もうじき、この階段も登れなくなるかもね…」

 久保田がギシギシと音をたてる階段を登りながらそう言うと、香坂は何も言わずに久保田に続いて階段を登り始める。すると階段の立てる音が大きく廃屋中に響き渡って、そのきしむ音が過ぎ去ってしまった時の流れを感じさせた。
 かつて志島が毎日登っていた階段を登り終えると、そこには二つ部屋があって…、
 二つの部屋の内の一つは乱雑にたくさん物が入れられて物置きにされていたが、もう一つは本棚と勉強机とベッドの置かれた部屋だった。
 久保田が机のそばまで行くと、そこには受験のための参考書が置かれていて…、
 机のそばの壁には、荒磯高校の制服がかかっていた。
 今も昔も荒磯高校は学ランなので、かけられている制服は久保田や香坂の着ているものと同じである。しかし、ずっと放置されていて埃で汚れてしまっているせいか、二人が着ているものと同じには見えなかった。
 「クリーニングかけても…、もうダメかもしれないですね」
 学ランを見ていた香坂は、そう言うと本棚に入っていた本を取り出してパラパラとめくる。
 すると、そこからも長い時をかけて降り積もった埃が白く舞っていた。
 香坂は本に書かれた文字を読むでもなくページを半分くらいまでめくり終えると…、そのページを見つめながら静かに本を閉じる。
  その瞳はなぜか…、この部屋と同じように寂しさに満ちているように見えた。
 「誠人先輩……」
 「なに?」
 「この家に何の用事があるんですか? 廃屋だし、誰もいないのに?」
 「ん〜、ちょっちね」

 「それに…、この制服着てた人だって…」

 香坂はそう言いかけたが、途中で口を閉じて唇をかんだ。
 そんな香坂を見ていた久保田は、ポケットからセッタとライター取り出すとなれた仕草で取り出して一本くわえて火をつける。すると煙は空気の流れがないからなのか、やけに真っ直ぐ上に立ち登っていた。
 その細く立ち登っていく煙を見ていると…、なぜか線香の匂いを思い出す。煙をじっと眺めていた香坂は少し顔をしかめてから、本を持ったまま窓際まで行くと窓を大きく開けた。
 「もう出ませんか? 空気が濁ってて息がつまりそうですし…」
 「出てもいいけど、その前に持っている本貸してくれない?」
 「持ってる本って…、これのことですか?」
 「そうソレ」
 「ただの空ばかり写ってる、ただの写真集ですよ?」
 「知ってるよ」
 「・・・・・・・・」

 「けど、見たいのは写真じゃなくて、それに挟まってるモノなんだけど?」

 久保田がそう言いながら手を差し出すと、香坂は驚いたように目を見開く。すると、その動揺が伝わったのか、空の写真の載っている本を持った手もわずかに震えてしまっていた。
 少し迷った様子だったが、本を持つ手にぎゅっと力を入れるとそれを久保田の手に乗せると…、
 香坂は本から手をゆっくりと放しながら、窓から見える空を見上げた。
 「僕が昔、ここの近所に住んでいたことを知ってて連れてきたんですね」
 「いんや」
 「なら、どうして?」
 「アルバム見た時、何か知ってそうなカオしてたからなんとなくね」
 「なんとなくって、それだけで…」
 「それだけで、十分だと思うけど?」
 「本に挟まってるって…、まさかそれも…」
 「さぁ?」
 「・・・・・・あの松本会長が、なぜ先輩を頼りにしているかわかった気がします」
 「べつに、頼りにされた覚えはないけどね?」
 「でも、せっかく連れてきてもらったのに悪いんですけど、僕が知っていることはこの家に住んでいた人が蒸発していなくなったことと…」
 「それと?」

 「志島が…、志島健が事故で死んだということだけです」

 胸の奥の想いを押し殺したような声で香坂がそう告げるのを聞くと、久保田は受け取った空の写真が乗っている本を開く。
 そしてパラパラと半分くらいめくると…、そこには一枚の紙切れが挟まっていた。

 『ごめんなさいね…』

 たった一行・・・・、それだけが書かれた紙…。
 その紙が挟まっていた場所には…、青い空に真っ直ぐに伸びていく白いひこうき雲が鮮やかに写っていた。




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