ひこうき雲.7




 『あぁっ…、あっ…』
 『・・・きつい?』
 『いいから…、やめんな…』
 『うん…』

 キスの温度も…、抱きしめ合った時の想いも変わらない。
 幽霊騒ぎがあってから初めて久保田に抱かれて…、それでわかったことは少しも何も変わっていないということだった。
 久保田の手で追い上げられて、心を犯すように身体の奥まで熱に犯されて…、
 伸ばした腕も触れた手のひらも…、繋がり合ったその場所も…、すべてが久保田を感じようとして熱く熱くなっていく。 
 荒く吐き出される息と流れ落ちる汗と、ベッドのきしむ音。
 そして叫んでいるような、泣いているような自分の声が耳に届くと…、その声も音も遠く近く鼓膜に響いて…、それを聞きながら久保田を感じていると目眩がした。
 こんな風に繋がり合うようにできていない身体でも、抱きしめ合えば感じられるものが…、そこから生まれ落ちる何かがある。
 キスしながら抱きしめ合いながら、笑い合いながら泣き叫びながら…、いつも真っ直ぐに腕を伸ばし合って…、
 そして、その想いから生まれるあたたかい何かが…。
 だから、さみしい気持ちの壁に阻まれて涙で頬を濡らしていても、そこからは逃げることができなかった。

 この…、あたたかすぎる檻の中から…。

 今日も授業が終わった放課後に学校の屋上で風に吹かれながら、時任は昨日の夜、鎖骨のあたりに久保田がつけた赤い跡のある辺りを手で触る。
 すると、まだその痕がつけられた時のように熱い気がした。
 いつかは消えるはずの痕なのに、この熱だけは胸の奥で抱きしめている想いが消えない限り消えることはないのかもしれない。
 時任は鎖骨に当てていた手を下におろしてから、深呼吸して空を見上げた。

 「変わらない…。なにも変わらないことが大事なんだよな…、たぶん…」

 誰に言うでもなく、そう呟いたと時任はすぐそばで浮かんでいる志島の方に澄んだ瞳を向ける。
 けれど、その視線はそばにいるから仕方なく向けたものではなく、時任らしい強い意志を秘めた視線だった。
 久保田に抱きしめられて…、胸を押し返そうとしてできなかった…、
 その時にしていた切なさとさみしさの混じった想いが、まだ胸の中に残っていたけれど、変わらない気持ちが心の中にあるなら…、することは決まっている。
 好きだと、大好きだと想う気持ちが変わらずに、胸を熱くさせているなら…、
 逃げるコトを考えるよりも…、もっともっと近くに…、

 ぎゅっと息もつけないくらい…、その想いだけを感じていたかった。

 そんな時任の視線を受けた志島は、わずかに驚いたように目を見開いたが、時任と同じようにその瞳をそらさずにいた。
 じっと何かを探るかのように…、いつもいつも時任ばかりを見つめている。
 けれど志島の視線は時任を見つめてるというよりも…、何かを探しているようでもあった。
 その不思議な色をした瞳を見た時任は、髪を吹いてくる風に少し乱されながら…、少し太陽の光に透けてしまっている志島に向かってゆっくりと口を開く。
 すると、志島は浮かんでいるのをやめて屋上のコンクリートの上に立った。
 「なんで、ガッコの開かずの資料室なんかにいたのか知んねぇけど、俺に憑いててもなんも見つからねぇよっ」
 「・・・・・・」
 「言いたいことがあんなら、黙ってねぇでなんかしゃべりやがれっ!」
 「・・・・俺は志島という名だが、生身の人間ではなく幽霊だ。だから、幽霊らしく不気味に笑ってみたりもしている」
 「はぁ? そんなのは不気味に笑わなくっても、見ればわかるに決まってんだろっ」
 「だったら、なぜそんな風に思う? ただ、いわれのない恨みで祟っているだけだとは思わないのか?」
 「幽霊だからって、誰かを恨んでなきゃならねぇって決まりでもあんのかよ?」
 「・・・・・・・」

 「一人きりでずっと…、あの資料室にいたイミはあんのかもしんねぇけどな…」

 そう時任が言ったように、相浦と一緒に偶然入ってしまった資料室は一人きりでいるにはさみしすぎる場所だった。
 廊下を行き交う生徒達の声…、足音…、そして窓から見える変わらない景色。
 その中で志島が何を想い、何を考えて…、幽霊としてこの世界に留まっていたのかはわからなかったが、なぜかそれは誰かを恨んだり呪ったりするためではない気がしてならなかった。
 ただ、そういう気がするだけで、理由もワケも何もなかったが…、
 時任は自分に取り憑いている志島に向かって、こうして志島がここにいるのは恨みや呪いのためじゃないと言い切ったのだった。
 そんな時任の言葉を聞いた志島は、珍しく人らしい感情を顔に浮かべて、
 「お人よしだな…」
と、言いながら苦笑する。
 すると、時任は屋上のフェンスに寄りかかって、志島から視線をはずして空ではなく校庭を眺めた。
 「誰がお人よしだっつーのっ! けど、ちゃんとワケ話せば協力してやらないこともないぜ?」
 「幽霊に向かってそう言いながら、お人よしじゃないと言い切るのか?」
 「バーカッ、ただ早く追い払いたいだけに決まってんだろっ!」
 「なるほど…」
 「そしたら…、もしかしたらさみしいのも治るかもしんねぇし…」
 「さみしい?」
 時任が言った言葉に、志島が反応してわずかに首をかしげる。
 だがすぐに何か思い当たることがあったのか、納得したようにひとつだけうなづいた。
 そして、時任の隣から同じように校庭を見つめると、志島はフェンスに手をかけようとしたが…、その手はすぅっとフェンスをすり抜ける。何もつかむことのできなかった志島は、自分の手をじっと見つめてから頭上に広がる青い空を見上げた。
 「そう感じるのは…、さみしいと想う感情は間違いなくお前のものだ。さみしいと感じていることに、その感情に覚えがあるだろう?」
 「それは・・・、ないとは言えねぇけど…」
 「そうなるきっかけはあったとしても、心当たりがあるなら治るかもしれないという希望は持たない方がいい」
 「志島」

 「お前をさみしい気持ちにさせているのは、俺ではなく久保田誠人だ」

 さみしいと感じているのは…、志島が取り憑いているからではない。
 そう言われた時任は、どうしても違うとは言い返せなかった。
 それは、さみしいと感じ始めたのが志島が取り憑いてからなのか、それとも香坂が誠人先輩と呼ぶのを聞いてからなのかわからなかったからである。こんな胸が痛くなるくらい悲しい気持ちは、自分のものではないと言いながらも…、今まで久保田にさみしいと言えなかったのはそのためだった。

 嫉妬と切なさと…、恋しさと…。

 さみしいという気持ちには、そんなたくさんの想いも入り混じってしまっている。
 けれど時任は、今も香坂といるかもしれない久保田のことを想いながらも、うつむいたりせずに前だけを見つめ続けていた。
 「たとえば、久保ちゃんがさみしくなる原因だとしてさ…。これ以上、こんなのはイヤだからってバイバイしたとしたら…、きっともっともっとさみしくなるだけだって気がする…」
 「そんなのは最初の内だけで、時が過ぎればただの思い出だ」
 「・・・・・思い出になんかならない」
 「どうして、そう言い切れる? さみしくなるような想いは、早く思い出にしなければ悲しくなるだけだろう?」
 「思い出にするくらいなら、ぐちゃぐちゃに壊してやるっ」
 「・・・・そんな考え方は、破滅を招くだけだ」
 「そうかもしれねぇけど、さみしくても悲しくても…、たとえぐちゃぐちゃに壊すことになったとしても、一緒にいたいって想うならいるしかねぇじゃんか…」
 「・・・・・・・お前」

 「だから、俺は久保ちゃんの隣にいる…。ずっとずっと、一緒にいたいから…」

 好きだから嫉妬や寂しさを感じて…、その気持ちが嫌になって逃げ出すくらいなら、最初から好きになんかならなかった。
 ずっとずっと…、一緒にいたいなんて想わなかった…。
 だから、たとえ今みたいに心が揺れてしまうことがあったとしても、好きだって気持ちが。変わらない想いが胸の中にあるなら…、
 久保田と一緒に明日に向かって歩いていくことに迷いはない。
 時任は校舎の下を歩いている久保田と香坂らしき人影を見つけると、何かを考えるように空ばかりを見つめている志島を置いて走り出した。

 「どうせ壊れる日がくるなら…、さみしいって…、すげぇさみしくて死にそうだって…、ぐちゃぐちゃにココロが壊れるくらい叫んでやるっ!」

 そう叫んだ時任は、何かを言おうとしている志島を置いてドアを開けると、久保田のいる一階を目指して階段を駆け下り始めた。
 さみしいという気持ちを、好きだからさみしいって感じてる想いを…、
 本当の気持ちを…、大好きな人に伝えるために…。
 ただ自分以外の誰かと歩いてるだけで、名前の呼び方が気になるからって…、そんなことで嫉妬してさみしいって想ってる自分の気持ちはみっともなくて嫌いだけれど…、
 本当の気持ちだけを、思い切り叫びたかった。
 
 まるで…、大好きだって告白する時のように…。

 しかし二階から一階に降りようとした瞬間に、何者かの手が背後から時任に向かって伸びてきて背中を強く押す。すると、時任はとっさにバランスを取って前に倒れるのを避けようとしたが、今度は手で押すのではなく足を引っかけてきた。
 一度だけ当たったのなら偶然ということもあるかもしれないが、二度目があるということは完全に相手は時任を階段から落とそうと狙っていた事になる。
 時任は身体をまるめて受身を取ろうとしたが、足をかけられたことで完全にバランスが崩れたので間に合わなかった。
 とっさに自分を押した人物を確認しようとしたが…、そうする前に世界が不自然な形に歪んで真っ暗になる。鋭い痛みが全身に走ったのを感じた瞬間、時任は意識を失ってしまった。

 『久保ちゃん…』

 久保田に伝えたいことがたくさんあったはずなのに、心の中で名前を呼んだだけで…、
 何も伝えることができないままに、時任は階段の一番下の段で倒れる。
 するとそこを通りかかった男が、ゆっくりと時任の身体を抱き上げた。
 しかし、その男は荒磯高校の制服を着てはいないので生徒ではないようである。
 けれど、この高校にいることを誰も不審には思っていないようだった。
 気を失った時任が男に抱きかかえられて連れて行かれる様子を偶然見てしまった生徒も、気分が悪くなって倒れて保健室に運ばれているようしか見えなかったようである。
 男は気を失っている時任の顔を覗き込むと、ニヤッといやらしい笑みを浮かべた。

 「さて、倒れるくらい気分も顔色も悪いようだし、保健室ではなく病院に運ぶとしようか」

 低く声を立てて笑うと、男は比較的人目につきにくい場所を通って校舎を出た。
 その様子を見ていた生徒は偶然にも一人もいないかに思われたが、実は一人屋上からじっと男に運ばれていく時任の姿を眺めている人物がいた。
 しかし、その人物は荒磯の制服を着てはいたが、卒業証書をもらうこともなく…、

 ただ…、アルバムの集合写真の片隅に残っているだけの人物だった。




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