ひこうき雲.6




 志島の写った卒業アルバムと…、もうじき転校する生徒会本部書記の香坂。

 この二つの問題が目の前にあらわれるまでは、生徒会の公務はあるものの何事も無い日々が続いていた。いつもと同じように朝起きて学校へ行って、二人でマンションに戻ってきて…、そんな繰り返しの平凡な日々が…、
 けれど、そんな日々がどこかへ消え去ってしまったかのように、今は静けさだけが二人の住む部屋の中に満ちている。二人で暮らしているはずだったが、そんな静けさに満ちた部屋の中にいると、まるで一人きりでいるような気がした。
 そんな感じを覚えたのも、こんな胸の奥に染み込んでくるような静けさに部屋が包まれたのも、久保田が時任と同居してから始めてのことで…、
 久保田は学校から帰ってきてから作ったカレーの鍋の前で、らしくなく小さく息を吐いた。
 今はもう夜中で夕飯を食べる時間はとっくに過ぎていたが、鍋にはカレーが作った時と同じ量だけ入っている。このカレーを食べてくれる予定だった時任は、いくら呼んでも呼んでもふさぎ込んだままベッドから出てこなかった。
 久保田は水道の蛇口をひねってコップに水を入れると、一口だけそれを飲んでベランダの方を見る。するとそこには星一つ無い暗い夜空が広がっているだけで、曇っているからなのか出ているはずの三日月も見えなかった。
 
 「幽霊が出そうな晩ってヤツかもね…」

 そう呟きながら久保田が暗闇を睨んだが、そこには志島の姿は無い。
 この部屋のどこかにいるのかもしれないが、今は時任のそばにもいないようだった。
 けれど志島がいなくても時任は寂しそうで悲しそうな顔をするばかりで、久保田が何を話しかけてもうつろな返事をするだけで…、
 しかもその寂しさも悲しさも、久保田と一緒にいる時の方が強いのか…、前までは二人でいる時の方が笑顔でいることが多かったのに…、

 今は学校よりも、マンションにいる時の方がつらそうな表情をしていた。
 
 そんな時任を見るとそばにいたいのに、そばにいられなくなる。
 こうやって同じマンションの別の部屋にいることが、今は精一杯の近い距離だった。
 久保田はリビングに移動してイスに座ると、テーブルの上にガラスのコップを握ったまま置く。すると、コップの中で揺れている水が外からのわずかな光を反射させた。
 その光は弱すぎて何も照らしたりはしなかったが、ゆらゆらと揺れ動く水面が良く見える。しばらくの間、久保田はじっとその水面を眺めていたが…、揺れは少しも収まる様子が無かった。
 
 「誰よりも近くにいるはずなのに、ね…」

 まるで時任が目の前にいるかのようにそう言ったが、やはり返事は返ってこない。
 久保田はコップから手を離して自嘲気味な笑みを口元に浮かべると、帰ってきた時に置いてからそのままになっている自分の携帯電話を手に取った。だが、メモリーの中には時任と書かれた電話番号が一つしか入っていないので、かける番号を一つ一つ自分の指で押していく。
 すると、久保田の耳に電話の着信音が耳に届いた。

 プルルル…、プルルル・・・・、ピッ。
 『・・・・・・誠人か?』

 そう言って着信音が五回くらい鳴った後に眠そうな声で出たのは、同じ生徒会のメンバーではなく生徒会長の松本だった。
 すでにに眠っていたらしく、その声はいつもの張りのある声からは想像もつかないくらいかすれてしまっていたが、今は真夜中のニ時なので眠っていて当然なのかもしれない。
 夜は眠るためにあるのだと、そんな言葉があったような気もしたが…、まだ久保田には松本のように眠りの時間は訪れていないようだった。 
 けれどしっかりと起きているはずなのに、久保田は携帯を握ったまま何も話そうとしない。
 すると受話器の向こうから、松本が深く息を吐いたのが聞こえてきた。
 『今回の件で怒っているのはわかるが、何も真夜中にかけてくることはないだろう…』
 「怒ってるって誰のコト?」
 『・・・・・・お前のコトだ』
 「俺ってイタ電するくらい、会長会長サンに怒るようなことされてたっけ?」
 『怒ってはいなくても…、今回の件を知っていれば少なくとも不機嫌にはなるはずだ』
 「へぇ、確信しちゃってるワケね?」
 「他のことならともかく…、時任のことには無関心ではいられないと認識しているが、その認識は間違ってるか? 誠人」

 「さぁ、どうだろうね?」

 そんな風に曖昧な返事しかしなかったが、その返事にはいつもと違ってわずかに久保田の感情が滲み出している。
 無関心ではいられないのではなく…、ただ時任にしか関心がないのだと…、
 まるでそんな風に言っているように聞こえるのは、気のせいではないかもしれなかった。
 こうやって松本と話をしていても、久保田の視線の先には時任のいる部屋へと続いているドアがあって…、そのドアを見つめる瞳には暗い陰りだけではなく…、
 一人きりのベッドで眠っている時任を想う気持ちが、テーブルに置かれたコップの中の水のようにゆらゆらと揺らめいていた…。
 『・・・話さなかったのは悪かったが、正直に言えば承知しなかっただろう?』
 「香坂のボディーガードは、実はオトリにするために時任を俺から引き離すのが目的だったんだよねぇ?」
 『だが、香坂が狙われているのは事実だ』
 「上から鉢を落としたのは、金握らされて頼まれただけだったみたいだけど?」
 『もう突き止めたのか…、早いな』
 「タダ金もらうと、自慢したくなるらしいしね」
 『じゃあ、それを頼んだ犯人も?』
 「それは不明。下駄箱に鉢を落とす日時の指定と、報酬金額を書いた紙が入ってたってだけ」
 『日時指定か…』
 松本は少し考え込むようにそう言ったが、特に驚いた様子はない。
 やはり時任をおとりに使うだけあって、犯人の目星くらいはつけているのかもしれなかった。
 今、久保田が調べている今回の件について依頼してきたのは、実は生徒会本部ではなく学校側である。しかし普段は荒磯高校は生徒の自治にまかせているので、こんな風に学校側から何か言ってくることは少なかった。
 つまりこんな風に学校側から言ってくるということは、それだけ今回の件は重大な問題だということでもある。しかも、学校で起こった問題であるにも関わらず、そのために作られた機関である執行部ではなく久保田だけが動いていた。
 『生徒会本部の意向としては…、今回の件について犯人はあげたいが公にはしたくない。この件が表沙汰になれば警察やマスコミが動くだろうからな』
 「ま、確かにワイドショー向きかもね?」
 『そのワイドショー向きな今回の件で、時任が始めから狙われていたのは事実だ。押収した写真の中に、時任の写真も混じっていたのはお前も知ってるだろう…』
 「だから、おとりを見逃せってコト?」
 『護衛はちゃんとつける』 
 「おとりの件はもう動き出した以上、犯人を突き止めない限り止められないよねぇ? けど、おとりにされてたとしても、正義の味方に護衛は必要ないっしょ?」
 『しかし…』

 「護衛なんてつけてても、時任は助けなんて呼ばないしね…」

 松本が護衛のことを言うと、久保田はそう答えながら口元にうっすらと笑みを浮かべる。
 しかしその笑みは冷たいものではなくなぜか温かい印象で…、電話の向こうにいる松本はそれを見る事はできないが…、
 温かいけれど見ていると少し切なく胸が痛んでくるような、そんな感じの笑みだった。
 それはもしかしたら、時任が護衛だけではなく久保田にも助けてなんて言わないことを知っていたせいかもしれない。
 地面に這いつくばっても時任は自分の足で立とうとして…、何度も何度も転びながらも、それでも空を睨んで上に向って手を伸ばそうとするに違いなかった。

 澄んだ瞳で真っ直ぐ前だけを見つめて…、どんな時でも…。

 だから、もしかしたら今も廊下へと続くドアの向こうで、時任は戦っているのかもしれない。
 久保田の知らない何かと…、一人きりで…。
 もしも助けてと泣き叫んでくれたら、代わりには戦えなくても抱きしめることができるのに…、時任はただずっと毛布に包まっているだけだった。
 
 「もしも時任になにかあったとしても…、俺以外の誰かに助けてって叫ぶくらいなら、みっともなく地面に這いつくばってて欲しいから…」

 そう静かな口調で呟かれた久保田の言葉に、松本は何も答えなかった。
 それはたぶん…、それが本心からの言葉だとわかっていたせいかもしれない。
 二人は中学からの付き合いだが、高校に入ってからしばらくすると松本は『お前がこんな風に笑えるとは知らなかった…』と、校庭でサッカーをしている時任を眺めていた久保田に向って言ったことがあった。
 その頃は、まだ自分の中の想いもおぼろげでわかりづらくて…、
 けれど満開の桜の木の下で時任と出会った瞬間から、なぜか目を離せなかった。
 いつも言いがかりをつけられたりして、ケンカばかりしているから心配だっていうのではなく…、一人で廊下の窓から外を眺めている姿がさみしそうだったからというのでもなく…、
 ただ…、ずっと視界の中に捕らえていたかった…。

 カメラのレンズやガラス越しではなく…、自分の手で作った四角いファインダーの中に…。

 愛しさも恋しさも独りよがりでただのエゴでしかなくて…、そんな想いしか胸の中に抱えられなくて…、
 なのに、こうしている今もその想いが心も身体も犯していく。
 閉ざされたドアばかりを見つめながら…、それでも想いが時任へと流れ落ちていくように…。
 そんな自分自身の想いに苦笑しながらポケットからセッタを取り出すと、久保田はそれをくわえてライターを手に持った。
 そしてカチカチと音を立てて火をつけると…、ジリリと小さな炎が暗がりを照らし出す。
 するとその小さな明かりがともった瞬間に、ゆっくりと廊下へと続くドアが開いた。

 「…じゃあね」
 『じゃあねって…、まだ話しがっ』
 「・・・・・・」
 『誠人っ!』

 携帯電話から誠人と名を呼ぶ松本の声が聞こえていたが、それに構わずに久保田は通話ボタンを切る。口にくわえたセッタに火がつけられないままに消えてしまったライターは、まだ久保田の手の中に握られていた…。
 リビングに入ってきた時任は…、そこからキッチンに回って…、
 さっきの久保田と同じように、水道の蛇口をひねってコップに水を入れる。
 その水音がリビングに響くと…、久保田はくわえていたまだ長いままのセッタを手に取って、灰皿の中にきつく押し付けた。

 ギリギリと…、胸の奥の想いをその中に押しつぶすように…。

 けれど、暗がりの中で時任がこちらを向いた気配を感じた瞬間…、押しつぶそうとした想いは時任の手のひらの中であふれ出した水のように…、
 ゆっくりとゆっくと…、心の奥からにじみ出していく…。
 そして聞きなれた時任の声が…、誰よりも名前をたくさん呼んでくれてる声が自分の名を呼ぶのが聞こえると…、久保田は座っていたイスから音を立てずに静かに立ち上がった。

 「久保ちゃん…」

 久保田でも誠人でもなく…、そう久保田を呼ぶ声は…、
 たとえ街の雑踏の中だったとしても、聞き間違えることのない…、

 ・・・・・・・・・・誰よりも大切な愛しい人の声だった。











 リビングに久保田がいることは知っていて…、けれど水を飲んだらまたベッドに戻るつもりだった。でも、コップから溢れ出して手のひらを濡らしていく水を眺めながら、時任は久保田の気配を感じた瞬間に名前を呼んでしまっていた…。

 久保田でも誠人でもなく…、いつものように久保ちゃんと…。

 松本が誠人と呼ぶのも香坂が誠人先輩と呼ぶのも、心のどこかで引っかかっているはずなのに、やっぱりそう呼ぶことしかできない。
 それは…、はずかしいからというだけではなく…、
 たぶん、いつもそう呼ぶと久保田が微笑んで返事をしてくれていたからかもしれなかった。
 けれど、今は久保田の返事は返ってこなくて…、胸を刺すような痛みか走りかける。
 でも、その痛みに濡れた右手で胸を抑えようとした瞬間に、後ろから温かい腕が伸びてきて優しく抱きしめられて痛みはすぐに遠のいた。

 「・・・時任」

 名前を呼ばれると…、なぜか目の奥が熱くなってくるような気がして…、
 胸を抑えようとしたはずの右手のこぶしを、溢れ出してくる想いを止めようとするかのようにぎゅっと握りしめた。
 久保田の腕から感じられる温かさも…、暗がりの中で感じる気配も…、
 深く優しくてこんなにも大好きだって気持ちが、その想いが握り込んだ手のひらの中にも胸の奥にもあるのに…、心の中に小さな隙間が開いていて…、
 それがなぜか胸をズキズキさせて痛くて、痛くてたまらなくて…、その痛みが切なさと涙に変わりそうになる。
 こんな風に名前を呼ばれて抱きしめられて…、それだけで胸の奥も心の中もいっぱいになるはずなのに…、今はさみしさだけが静かすぎる部屋に満ちていた。
 時任はにぎりしめた拳を開くと、そっと久保田の腕の上にのせる。
 そして、しばらくそうしてそのままじっとしていたけれど、その腕に唇をかみしめながら軽く爪を立てた。
 「・・・・今から、また寝る」
 「そう」
 「だから…、離せよ…」
 「・・・・・時任が泣き止んだらね」
 「べつに、泣いてなんか…」
 「もしも泣いてなかったとしても、離したくないから…」
 「・・・・・・」

 「笑ってても泣いてても…、いつでもどんな時でも…」

 そう言って強く抱きしめてきた久保田の腕の温かさを感じながら…、大好きだって言いたかった。
 久保ちゃんと…、いつものように呼びながら…。
 けれど、今は好きだって言おうとするたびに…、大好きだって気持ちを感じるたびに…、
 さみしいという想いが心をじわじわと犯していく…。
 こんなにそばにいるのに…、さみしさが壁になって久保田を遠く感じさせていた。
 そんな時に浮かんでくるのはやっぱり久保田の名前を呼んだり…、今も抱きしめてくれている腕にすがりついてくる誰かで…、
 その時に感じた気持ちが、その想いが…、
 大好きだって何度も何度も心の中で叫んでも…、消えないさみしさと部屋に満ちた暗がりと一緒に涙になって…、
 
 時任の瞳ににじんでいた…。

 声にならなくて…、だから唇だけで好きだからって、大好きだからって言って…、
 ゆっくりと上から降りてきた…、久保田の唇と唇を重ねる。
 すると優しく触れてくるその感触に…、胸が苦しく苦しくなって…、
 その苦しさと痛みに胸の中がいっぱいになって…、泣き叫びたくなった。
 こんな気持ちで、胸の中も心の中もいっぱいになりたくないのに…、

 それだけで…、壊れてしまいそうなくらいいっぱいだった…。

 時任は思わず手を伸ばして久保田の胸を押し返そうとしたが…、押し返そうとした瞬間に手のひらに久保田の鼓動を感じて…、どうしてもそうすることができなかった。
 トクントクンと規則的に生きている時間と…、一緒にいる時を刻んでいる鼓動の音を…、
 痛くても苦しくても…、こんな風に手のひらで押しかえすことなんてできなくて…、
 大切な時を…、泣き叫びたくなるくらい愛しいこの瞬間を…、

 …突き放すことなんてできなかった。

 腕を伸ばして抱きしめて…、深く深くキスをして…。
 大好きな気持ちと恋しさと愛しい想いと…、そして胸の奥に忍び込んでくるさみしさを抱きしめながら…、
 コップからあふれ続けている水を止めるコトもできずに…、

 時任は温かい腕と鼓動を感じながら…、ゆっくりと瞳を閉じた。
 



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