ひこうき雲.5




 「ま、とりあえずそういうことなんで…」
 「はいっ、よろしくお願いします。誠人先輩」

 そんな言葉のやり取りで始まったボディーガードの一日目。
 とりあえず授業中以外の間、久保田は香坂のそばについていなくてはならなかった。
 誰がどういう目的で香坂を狙ったのかは不明だったが、放課後になっても今の所は香坂が襲われたりする気配はまるでない。だが、それはやはり久保田がそばにいるからというのもあるのかもしれなかった。
 香坂に向って屋上から鉢が落ちてきたことも、こうして久保田がボディーガードをしていることもすでに校内に広まってしまっている。その広まり方がやけに早いのは、久保田の隣に香坂がいることに違和感がありすぎたせいだった。
 いくら香坂が同じような背格好をしていると言っても、時任とは雰囲気が違いすぎる。二人の持っている雰囲気は対照的で、時任が熱い真夏の太陽だとすると香坂は穏やかな春風の印象だった。
 香坂はいつもニコニコしていて愛想が良く、今も久保田にしきりに笑顔を向けて話しかけている。その穏やかでのんびりとした雰囲気は、どちらかと言えば時任よりも久保田に近いのかもしれないが、二人が並んでいるのを見るとくっきりと違いがわかる。
 久保田は香坂と違って…、微笑みながら他人を受け入れるのではなく拒絶していた。
 しかし近寄りがたさ感じてはいても、それに気づく人間はあまりいない。
 その中に相方である時任も含まれていたが、それは気づかないのではなく…、

 久保田の向ける微笑みが、時任に対してだけは違っていたせいだった。

 けれど今は久保田がいくら微笑んでも…、時任は同じように微笑み返してはくれない。
 抱きしめてもキスしても…、なぜか悲しい瞳をしていた。
 拒絶されているのではないことも、もしかしたら志島が取り憑いていることが関係しているかもしれないとわかっているはずなのに…、胸の奥が少しだけ痛み続けている気がした。

 「あの…」
 「なに?」
 「ボディーガードにかこつけるみたいな感じになってしまうけど…、今度、一緒に映画に行きませんか?」
 「映画、ねぇ?」
 「今、ちょうど面白いのやってるし…」
 「そう…」
 「次の日曜はダメですか?」
 「うん」

 「じゃあその次は・・・・・?」

 どんなに香坂が話しかけても、久保田の返事は短くてかなりそっけない。
 それでもめげない様子なのは、もうじき転校してしまうからなのかもしれなかったが…、久保田の心は離れていても時任だけに向けられていた。
 そのことをさすがに何か感じ取ったのか、いつまでも次の返事をしない久保田の横顔をじっと香坂が少し熱っぽい瞳で見つめていたが…、
 久保田がその耳に捕らえたのは、すぐそばにいる香坂の声ではなく…、
 もっとずっと…、いつも名前を呼んでくれている聞きなれた声だった。
 
 『久保ちゃん…』

 そう時任に呼ばれたような気がして久保田が視線をふと上げると…、窓から下に向って何か小さな白くてヒラヒラする物が下へと落ちていくのが見える。
 その白はゆっくりと風に舞うように…、下へ下へと落ちていっていた。
 太陽の光を受けているせいか、その白さはまぶしすぎて見ていると目をそらしたくなったが…、久保田は目を細めただけで、まるでその落ちていく様を見守るように…、

 じっと潔く散っていく花びらのような…、そんな白の色を見つめていた。 

 なにかあったとは限らないし…、聞こえた声も気せいに違いなくて…、
 けど、時任の声を聞いた瞬間に走り出したくなる。
 たとえ悲しそうな笑顔しかさせられなくても、助けることも何もできなかったとしても…、それでも少しでもそばにいるために…。
 でも、今はそうしたくてもそばにいて抱きしめるよりも、他にしなくてはならないことがある。
 実はそのために必要な物は、隣に立っている香坂が持っていた。
 香坂は小脇に抱えていた物を手に持ち変えると、少しも自分の方を見てくれない久保田の横でパラパラとページをめくってみる。
 するとそこには…、見覚えのある顔と志島という名があった。
 だが、集合写真の志島の顔は…、クラスメイト達から離れた場所に片隅に小さく載ってる。その意味を考えると、志島が今も荒磯の制服を着ているのは…、

 この学校を卒業することが、出来なかったからかもしれなかった。

 更にパラパラとめくってみると、ページの後ろ方には卒業生の住所と電話番号が載っている。その中には、ちゃんと志島の住所と電話番号があった。
 久保田はポケットから携帯電話を取り出すと、その番号を正確に押す。
 しかし聞こえてきたのは、ただ今使われておりませんという電話会社のメッセージだけだった。どうやら志島の家族は、引っ越すかどうかしてしまったらしい。
 メッセージが完全に終わるのを待たずに久保田が携帯を切ってポケットに仕舞い込むと、香坂が集合写真に写っている志島を指差した。
 「この人…、卒業写真の時に欠席してるみたいですね」
 「そうねぇ」
 「どうして卒業アルバムを見たいなんて、言い出したんですか?」
 「それはナイショ」

 「答えてくれないのは、時任先輩がらみだから?」
 
 香坂の口から時任の名前が出たが、久保田は口元に笑みを浮かべたまま表情を動かさなかった。その表情は肯定とも否定とも取れる感じだったが、香坂は肯定と取ったらしく…、生徒会本部から持ち出してきたアルバムを勢い良くパタンと閉じる。
 すると…、香坂の周りを包んでいた春風がその音に遮られて止んだ。
 
 「・・・・・・・時任先輩って、本当に以外にモテますよね」

 その一言を言い終わると同時に、また香坂の雰囲気が元の春の日和に戻る。
 ニコニコとした香坂の笑顔は人懐っこくて、生徒会や部活ではおそらく先輩達にも可愛がられていそうなそんな感じだった。
 久保田はその笑顔に、感情の読めない笑みを返すとポケットからセッタを取り出す。そして生徒会書記である香坂の前で、くわえたセッタに火をつけた。
 「抱きたい男の最下位にも入ってないんだけどね?」
 「それは…、知ってます」
 「だからさ、時任がモテるなんて本人以外の口から初めて聞いたかも?」
 「ふぅん、そうなんですか…」

 「ホント…、意外だよねぇ?」

 久保田はそう言うとセッタをくわえて歩きながら、今度は生徒会室ではなく屋上を見上げる。すると、屋上の辺りで何かが太陽の光に反射してまぶしく光った。
 しかも、その光は屋上の出入り口のある一段高い場所からのようである。
 昼寝のために何度もそこに上ったが、そこからは屋上全体が良く見えた。
 両手をあげて人差し指と親指で四角を作ると、久保田はその四角の中の屋上を見上げる。その切り取られた空間には、屋上とわずかな空しか入らなかったが…、
 もしも目の前にずっと見つめていたい人がいるのなら…、その人だけが四角い空間の中に入れば十分なのかもしれなかった。











 「…ただいま」

 マンションに戻ってそう言いながら玄関を開けたが、そこにはやはり久保田の靴はまだない。あれから時任は、結局、相浦が生徒会室に戻ってからも屋上で風に吹かれていたが…、そのままずっとそこでそうしている訳にもいかなくて一人で帰ってきてしまっていた。
 一人でこんな風に暗い部屋に帰ってくるのは嫌だったが、今は久保田の顔を見ているのがつらくてたまらなくて…、けれどやっぱりそばにいたくて…、
 リビングに行かず寝室にしている部屋に入ると、セッタの匂いの染み付いているベッドにゴロリと寝転がった。
 そうして寝転がりながら…、大好きな人に向って腕を伸ばす時のように腕を伸ばして毛布にぎゅっと抱きしめてみる。すると少しだけさみしい気持ちがどこかに行ってしまったような気がしたが、やっぱりそれは気のせいだった。
 マンションに戻るまでは上で浮いていた志島は、今はどこかに行っているらしく姿が見えかったけれど、さみしい気持ちはなくならない。
 こうやって一人でいると久保田に会いたくてさみしくなるのに…、一緒にいてもなぜか久保田の存在が遠く感じられてさみしくて…、
 その気持ちを…、みっともなく叫んでしまいそうだった。

 「どこにも行くなって…、そんなのはただのガキじゃんか…」

 そう呟きながら毛布に顔をうずめると、少しだけ瞳に涙がにじむ…。
 けれどその涙の訳がわからなくて…、胸が痛くて苦しかった。
 別れの日が来たわけでもなんでもなくて、だからこんなにさみしいはずなんかないのに…、胸の中から何かが欠けてしまったみたいになる。
 久保田と手を繋いで一緒にいて…、それで十分だったはずなのに…、
 まだ、何かが足りなかった…。
 胸の中で欠けてしまった何かが、さみしさになって押し寄せてくる。

 まるで去年も行けなかった海の波のように…、さみしさが心を浸していた。
 
 このさみしさは一体どこから来るんだろうって…、考えてみてもわからなくて…、
 けれど心の中では香坂のことや松本のことや…、五十嵐のことや藤原のこととかたくさんのことが渦巻いていて息が苦しくて詰まりそうだった。
 あたたかな想いを…、好きだって気持ちだけを毛布にくるんで抱きしめていたいのに、心の隙間から苦しさと痛みが染み込んできて…、
 誰よりも一緒にいたい人と一緒にいるはずなのに…、時任を一人きりにしていた…。

 
 「こんなのは俺のキモチじゃない…。久保ちゃんと一緒にいてさ…、さみしいとかってそんなのは思うはずなんかねぇのに…」

 さみしくてさみしくて…、抱きしめて抱きしめられたくて…、
 けれど…、抱きしめられるとさみしいって思ってる気持ちがなくならないことが、つらくてたまらなくて胸がズキズキと痛くなる。
 好きだって大好きだって言っても…、さみしい気持ちにしかならなくて…、
 その歯がゆさに、きつく唇を噛みしめることしかできなかった。

 『好きだよ…、時任』

 きつく毛布を抱きしめた時任の耳に、久保田の口から昨日聞いた言葉がよみがえる…。
 するとその瞬間、ドアのチャイムが鳴った。
 けれどその音が聞こえていたのに…、ただいまって言ってる声が聞こえたのに…。
 時任は毛布に潜り込んだまま出なかった。




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