ひこうき雲.2




 駅から歩いて徒歩三分で、目の前にコンビニのあるマンション…。
 そういう場所にあるマンションは家賃がかなり高いに違いなかったが、そこの4階の401号室に住んでいるのは二人の高校生だった。
 普通は高校生と聞いただけで親に家賃を払ってもらって住んでいると思うかもしれないが、401号室の住人はちゃんと自力で家賃を払っている。家賃を払っているのは久保田という高校生で、表札にもその久保田の名前しかなかったが、ここにはもう一人住人がいた。
 学校から401号室の部屋の前に帰りつくと、久保田ではなくもう一人の住人である時任がドアのカギを開ける。一緒に暮らし始めた頃は久保田が開けていたが、いつの間にか時任が開ける習慣になっていた。
 時任は玄関から中に入ると靴を脱ぎ捨てて、すぐにリビングに向かう。
 そして、そのままリビングにあるソファーの上に勢い良く倒れこんだ。
 
 「あー…、なんか今日はすっげぇ疲れた…」

 時任はそう呟きながら制服のままソファーに寝転んで両腕を伸ばして軽く伸びをして、それからまるで眠るときのように、クッションを抱きしめて猫のように丸くなる。
 時任がソファーでこういう姿勢を取るのは、本当に疲れている時だった。いつもは制服がシワになるので帰ったらすぐに着替えるのだが、今日はその気力もないらしい。
 久保田は制服をハンガーにかけて着替えをすませると、寝転んでいる時任のそばへと歩み寄ったが、時任は久保田ではなく別の方向を見ていた。
 「・・・・・・・マジでまだいやがる」
 「取り憑かれる証拠なんでない?」
 「資料室には相浦もいたのに、なんで俺様だけが幽霊に取り憑かれんだよっ」
 「さぁねぇ?」

 「・・・・・ぐあぁぁっ、なんかムカつくっ!」

 時任の視線の先にいるあかずの資料室で取り憑いた志島と名乗る幽霊は、学校からマンションまで着いてきてしまっていた。
 別に志島をここに招待した覚えはなかったが、幽霊なので壁やドアをすり抜けて部屋の中にいる。今の所、身体が少しだるい以外は特に支障がないが…、やはり幽霊と四六時中ずっと一緒にいたいとは思わなかった。
 時任が志島と離れる方法はないか考えながらソファーに寝転がってうなっていると、そんな時任の頭を久保田が慰めるようにゆっくりと髪を撫で始める。
 すると、時任は気持ちよさそうに少しだけ目を細めた。
 学校では嫌がってしまうことでも、この部屋では二人きりなのでこんな風に無防備な表情を見せることが多い。時任はくすぐったそうな顔をして微笑むと、自分の頭を撫でている手に、自分の手を伸ばした。
 だがその瞬間、ハッとした表情になってガバッと時任がソファーから起き上がる。
 すると顔をのぞき込もうとしていた久保田の顎に、上に伸ばされた時任の右手が当たってガツッと派手な音を立てた。

 「な、なにジロジロ見てんやがんだよっ!!俺らは見せもんじゃねぇっつーのっ!」

 けれど時任が強気な調子でそう怒鳴ると、志島は「ひひひ…」と笑い声を立てる。
 すると志島はさっきよりも更に青白い顔になって、おどろおどろしい雰囲気に包まれた。
 志島に少し長めの髪を少し口にくわえながら上目遣いで見られると、なぜかゾクゾクっと時任の背中に冷たいものが走る。やたら迫力のある不気味な微笑みを浮かべると、志島はそんな時任の方へと寄ってきた。
 すると時任は声にならない叫び声をあげて、少し赤くなった顎を撫でている久保田に勢い良くしがみつく。だが、ぎゅっと激しく抱きしめられた久保田が抱き返そうとして背中に伸ばした瞬間、時任は急に自分のしたことが恥ずかしくなってらしく赤い顔をしてその腕から逃れた。
 「そ、そんなカオしたって、てめぇなんかぜんっぜんっ恐かねぇんだよっ!」
 「うーん、そのセリフ説得力ないと思うんだけど?」
 「うるせぇっ!」
 「恐いならムリしないで、こっちに来なよ」
 「だ、誰が行くかっ!」
 「なんで?」
 「目つきがやらしすぎんだよっ!!」
 「そう?」

 「今日はぜってぇっ、一人で寝るかんなっ!!」

 時任はそんな風に言っていたが、夜になるとそんな強がりを言っていられなくなったらしくベッドにコソコソとその中に潜り込んできた。
 リビングから移動して来た時任の暖かさを感じた久保田は、少し寝返りを打つと腕を伸ばしてその身体をゆっくりと抱き込む。すると、時任は抵抗せずに久保田の腕の中に身を預けた。
 暗くて時任の顔は見えなかったが、やはり志島のことが気になって眠れないらしい。
 久保田は時任の額に軽くキスすると、少しだけ抱きしめている腕に力を込めた。
 「…久保ちゃん」
 「眠るまでずっとこうしてるから…」
 「べ、べつにコワイとかじゃねぇからな…」
 「わかってるよ…」
 「久保ちゃんがさみしがってるかもって思って…、だから来てやったんだからありがたく思えっ」
 「うん…、ありがとね…」
 「なっ、なに笑ってんだよっ」
 あくまで恐くないと言い張る時任に、久保田は小さく笑いながら頬を時任の髪に押し付ける。すると時任の髪からは、久保田も使っている同じシャンプーの香りがした。
 その匂いをかぎながら久保田は少し視線を動かして辺りを見回したが、いつもそばにいたはずの志島の姿が見えない。しかし気配はしているので、成仏したという訳ではなさそうだった。
 時任も志島の姿が見えないことに気づいたのか、もぞもぞと動くと眠そうな小さな声で久保田の名を呼ぶ。久保田はそれに返事しながら、部屋の壁をじっと見つめていた。
 「あのさぁ…」
 「なに?」
 「志島って、幽霊でもやっぱ荒磯の生徒なんだよな…」
 「いつ頃の生徒かはわからないけどね?」
 「そっかぁ。けど、幽霊になるってどんなカンジだろ…」
 「さぁ…、なったことないからわからないけど?」
 「それは俺もだけどさ…。でも、あの資料室にずっと一人でいんのって…」
 「・・・・・・」

 「すっげぇ…、さみしいだろうな…」

 時任はそれだけ呟くと、久保田の腕の中で小さな寝息を立てて眠り始める。すぐに深い眠りに入ったのは、志島に取り憑かれているせいで少し疲れ気味なせいかもしれなかった。
 久保田は時任の背中を軽く撫でると、声には出さずにおやすみを言う。
 すると見つめていた壁の辺りから、すぅっと志島が部屋に入ってきた。
 昼間と違って身体が青く光っていて顔も陰鬱そうでかなり迫力があったが、久保田はじっと視線をそらさずに志島を見る。 その視線は、夜の闇すら凍りつかせるほどに冷たかった。
 なぜ取り憑いているのかはわからなかったが、この状況が長く続けば必ず時任に何か影響が出てくる。魂がくっついているためムリには引き剥がせないが、たとえ幽霊でも時任に害を及ぼすとわかっていてこのまま放っておく気はなかった。
 殺意にも似た久保田の凍りつくような視線に、志島は幽霊らしくおびえた様子はない。
 だが、幽霊を幽霊とも見ないような久保田の冷たい瞳は、確実に志島をこの場から動けなくしていた。
 「アンタがなんで幽霊になったかなんて、俺にはどうでもいいんだよね」
 「・・・・・・・・」
 「時任から離れてくれれば、誰に取り憑こうと呪い殺そうと後はどうでもいいし…」
 「・・・・お前を呪ってやる」
 「呪いたければご自由に…。けど、このまま時任の取り憑いてると、成仏じゃなくて消される羽目になるかもよ?」
 「脅しても無駄だ。幽霊を消せる訳がない…」
 「幽霊になる前、幽霊がこの世にいるって信じたことある? 幽霊になったアンタは可能性を否定できないっしょ?」
 「・・・・・・・・・」

 「幽霊ってホントにいるんだよねぇ…、知ってた?」

 幽霊の志島に向って久保田が冷ややかに微笑みながらそう言うと、志島は怒りに満ちた表情でまた壁の中に消える。これで時任から離れるとは思ってはいないが、久保田が志島に向って言ったのは本音だった。
 時任が助かるなら、後はどうなろうと構わない。
 そんな風に言ったら時任は怒るかもしれないが…、腕の中に抱きしめているぬくもりだけが大切で…、どうしても守りたいものだった。
 久保田は時任から伝わってくる暖かさを感じながら再び目を閉じると、守るように抱きしめたまま眠りにつく。けれどそれは志島のことがあるからではなく…、心の片隅に暗闇が潜んでいるからかもしれなかった。
 時任のことを想えば想うほど深くなる暗闇は、今も久保田の胸の内にあって…、考えたくもない嫌なことばかりを考えさせる。だから、もしかしたらこんな風にいつも抱きしめていたくなるのは、その暗闇を埋めるためでしかないのかもしれなかった。
 けれど抱きしめれば抱きしめるほど愛しくて恋しくなって、もっともっと抱きしめていたくなって…、
 埋まるはずの暗闇は、逆に大きくなってしまうのかもしれなかった。
 












 朝になって目が覚めたら夢だったなんてオチになることを期待しかったが、やはり次の日になっても時任に取り憑いた幽霊は消えなかった。しかも夜に出るという幽霊のイメージを裏切って、志島は朝も夜も昼も時任のすぐそばでふわふわと浮かんでいる。
 志島が見えるのは資料室に行った時任と相浦、そして久保田と霊感のやたら強い藤原の四人で、道を歩いていても騒ぎにならないのはありがたかったが…、
 だからといって、このまま幽霊をくっつけていたいとは思わない。
 今の所、志島は時任に危害を加えるつもりはないようだったが、それでも幽霊がいつも自分のそばにいるというのは当然ながらうれしくなかった。
 昨日よりも少しこの状況に馴れてきていたが、時任は幽霊の志島の方をチラリと見ると、ムスッとした表情で上に向って怒鳴る。しかし周囲の人間には志島の姿が見えていないので、時任が独り言を言っているようにしか見えなかった。
 「くっそぉっ、いい加減どっか行きやがれっ!」
 「・・・・・・・」
 「こっちが手ぇ出せねぇからって、いい気になりやがってっ!」
 「ドアを開けたお前が悪い…」

 「なにぃぃっ!!」
 
 通行人に不審な目で見られながら時任と志島が言い争っている横で、久保田が相変わらずのほほんとした様子で歩いていた。やはり久保田もこのままでいいとは思っていないようだったが、今はまだ志島を時任から引き離すために行動は起こしていない。
 二人はいつものように公務をするため生徒会室に向かったが、その途中で同じように会長としての仕事をするために生徒会本部に行こうとしていた松本に出会った。
 松本は軽く時任と久保田に挨拶したが、時任は昨日のことがあるので不機嫌そうに短く挨拶を返す。しかし、松本はそれを気にした様子はなかった。
 「昨日は悪かったな、誠人」
 「せっかくあやまってくれたとこ悪いけど、俺にはあやまられる心当たりないし」
 「なら、いいが…」
 「用はそれだけ?」
 「今はな」

 「今は…、ねぇ?」
 
 二人の交わした会話から、昨日、時任の知らない所で何かあったらしいことがわかる。
 時任は松本が話を終えて歩き去ると、さっきよりも更に不機嫌そうな表情で久保田の横顔をじっと見つめた。
 二人で公務をしながら並んで歩いていたり、マンションの部屋で一緒にいる時は感じないが…、こんな風に自分の知らない話を目の前でされると、久保田と出会ってからまだそんなに年月がたっていないことをあらためて思い知らされる。
 久保田と松本のつながりは中学の頃に10円借りたことがきっかけで、それがわかった今になっても、やっぱり松本が久保田のことを誠人と呼ぶのを聞くと一人だけ取り残されたような気分になった。
 相方だから…、一緒に暮らしてるからって思ってはいても…、
 過ぎてしまった昨日は引き戻せないし、どんなに頑張っても戻れない。
 時任の知らない久保田の過ごしてきた日々に、それを知っている松本に感じる胸の中がジリジリと乾いていく感じは、きっと嫉妬って呼ぶのかもしれないけれど…、
 一人でなんでもしようとする久保田を、何かあったのかって心配しているのも本当だった。
 時任は久保田の隣を歩きながら松本があやまったのはなぜかと聞いたが、やはり久保田は心当たりないからわからないと言う。
 そんな風に久保田が言うということは、やはりまた執行部とは関係なく裏で松本に何か頼まれたらしかった。

 「・・・・バーカ」

 隣を歩く久保田に聞こえない小さな声で時任がそう呟くと、そんな時任を上から志島がじっと黙って見ていた。
 志島がなぜ時任に取り憑いているのかはわからないが、何をするでもなくずっと上から時任を見続けているのは確かである。今は頭上に浮かんでいるが風呂とトイレの時は久保田に冷ややかな笑みを向けられていなくなっていたので、取り憑いたままでも半径五メートルくらいは移動できるらしかった。
 幽霊は恐くて不気味なイメージがあるが、昼間の志島は顔色は悪いが見た目は普通の高校生と変わりない。そして、だぼんやりと浮かんでいるだけの志島は誰かを恨んでいるようにも見えなかった。

 「いつまで僕は…、ここに…」

 そう呟いた志島の声に気づいて時任が少し斜め上を見ると、志島は時任ではなく廊下の窓の方に視線を向けている。その憂鬱そうな視線とポツリと呟かれた言葉に時任がわずかに首をかしげたが、その言葉の意味を尋ねる前に生徒会室に着いてしまっていた。
 久保田が生徒会室のドアを開けると、すでに執行部のメンバーのほとんどが生徒会室に集まっていて、時任と一緒に入ってきた志島を見た相浦がわずかに声をあげる。なぜか資料室にいた時任と相浦、そして久保田にしか志島は見えないようだったが、それは霊感の問題なのかもしれなかった。 姿は見えないが何かいるような気がすると言ったのは、同じ執行部の室田。それから平然としていた桂木も、やはり何も感じていないという訳ではないらしい。補欠部員の藤原は昨日は風邪を引いていて学校を休んでいたが、どうやら執行部員は霊感の強い者が多いようだった。
 別に執行部員は霊感が強くなければならないということはないが、霊感ではなくただのカンなら悪事を暴くためには鋭い方がいいに決まっている。
 霊感ではなくカンの鋭い桂木は志島のいる辺りを眺めてから、時任ではなく久保田に向かって肩をすくめて見せた。
 「まだ、いるみたいね?」
 「まぁね」
 「のほほんとしてるけど、このままにしとく気なの?」
 「さぁ?」
 「時任は幽霊に取り憑かれて、かなり嫌がってるみたいだけど?」
 「うーん、まぁ確かに一人になりたくないみたいだし、嫌がってるかもねぇ」
 「あまり考えたくないけど、一人になりたくないってまさか…」
 「風呂にも一人じゃ入れないし、トイレも……」
 「な、なんとなく想像つくから、それ以上は言わなくていいわ」
 「そう?」

 「ホント、簡単に想像できるなんてあたしもヤキが回ったわねっ」

 桂木はそう言ってため息をついたが、同じようにヤキが回ってしまっている相浦はあらぬ想像をして顔を赤くしていた。頭の中ではもやもやと白い湯煙の立ち込める風呂で、とても口に出しては言えないことをしている時任と久保田の姿が浮かんでいる。
 けれどその想像というより妄想にちかいそれは、やはり半分くらいは事実だった。
 風呂にもトイレにも一人で入れないということは、必然的に時任が入浴している時やトイレにいる時にも久保田がそばにいたことになる。
 しかしさすがにトイレだけは、久保田はドアの前で見張っていただけだった。
 風呂にもトイレにも一人で入れないことを暴露されてしまった時任は、真っ赤な顔をして久保田の頭をガツッと殴る。だが、いくら否定しても顔だけではなく、耳まで真っ赤になっているので逆効果だった。
 「そ、そんなの全部ウソに決まってんだろっ!!」
 「昨日、色々ときれいに洗ったげたのにねぇ?」
 「うぅっ…」
 「今日も洗ってあげよっか?」
 「洗わなくっていいっ!」
 「そう言わないでさ…」

 「く、久保ちゃん…」

 真っ赤になってうつむいた時任を、久保田が優しく微笑んで見つめている。
 『何を洗うつもりだっ!!』と突っ込みたくなったが、桂木はそれに耐えながら有害な空気の発生源を退治するために右手にハリセンを握りしめた。執行部は校則違反者を取りしまることが任務だが、有害な空気に校内が汚染されるのをふせぐのは桂木の使命だったのである。
 自分の使命を果たすために桂木はハリセンを勢い良く振り上げると、時任の頭めがけて振り下ろした。
 しかしすでに有害な空気は生徒会室に充満していて、二人の周囲にピンク色の湯煙の幻覚を見た相浦は激しく頭を左右に振っていた。
 同じように二人を見ていた松原は有害すぎる空気にも平然としていたが、室田の顔は相浦と同じように赤くなってしまっている。けれど、室田の視線の先にいるのは時任ではなく、大和魂と書かれた湯飲みでお茶をすすっている松原だった。
 けれど松原と一緒に風呂に入るのは、修学旅行くらいしかそういう機会がないだろう。
 そんな室田の哀愁を感じ取った相浦は、なぐさめるように室田の肩をポンッと叩いた。
 
 「きっと今に一緒に入れる時が来るさ。元気出せよ…」
 「相浦…」

 珍しく見つめ合っている相浦と室田はなんとなく妙な空気をかもしだしていたが、二人の背後に見えるのはピンク色の空気ではなく真っ赤な青春の夕日である。
 そんな今にも夕日に向って走り出しそうな二人の近くで、桂木のハリセンが見事に時任の頭に命中した。
 「な、なにすんだよっ、桂木っ!!」
 「あんた達があやしい話するからでしょっ!!」
 「あやしいってっ、洗濯の話のなにがあやしんだよっ!」
 「せ、洗濯?!」
 「俺が風呂に入ってる間、久保ちゃんが洗濯してたんだよな?」
 「そうそう、見張りしながらぼーっと突っ立ってるのもなんだしね?」

 「いちいちっ、まぎらわしすぎんのよっ、あんたたちはっ!!」

 桂木はそう叫ぶと再びハリセンを振り上げたが、叫び声をあげたのは叩かれた時任ではなく別の人物だった。




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