不協和音。
    
〜前 編〜



 昼下がりの午後、時任は一人でコンビニに来ていた。
 コンビニはマンションのすぐ近くにあるので、一人で来るのは別に珍しいことではない。
 時任は食べたいものを適当にカゴに入れて、その一番上に久保田に頼まれていたセブンスター、一カートンを置いた。
 「ったく、吸いすぎだってのっ」
 そんな風にブツブツ言いながらも、やはり頼まれたセッタをレジへと持っていってしまう。
 本当のことを言えば、前よりはタバコが嫌いではなくなっていた。
 いつも久保田のすぐそばにいるせいで、その煙に肺がおかされてしまったのかもしれない。
 セッタの匂いに馴れすぎて、段々鈍感になっていく鼻で自分の服を匂うと久保田と同じ匂いがした。
 その匂いは、きっと久保田に抱きしめられるたびに染みこんでいったのだろう。
 
 「ありがとうございました〜」

 コンビニで買い物をすませた時任は、自動ドアを開けて外に出ると、照り付けてくる太陽にうんざりとした顔をして、
 「なんでこんなに暑いんだよっ」
と小さくため息をついた。
 今週は天気がずっと良かったせいで、気温もずいぶん上がっている。
 買い物に出かけると言った時任に、久保田が買い物を頼んだ理由がわかった気がした。
 あまり考えていなかったが、実は今、昼間で一番暑い時間帯だったのである。
 「はぁ…、早く帰ろ」
 とにかく早く帰って、さっき買ったアイスを食いたい。
 そんな風に思いながら、時任が太陽の照りつけるアスファルトの上を歩き始めると、持っているビニール袋がカサカサ音を立てる。
 目の前にあるマンションに帰るだけだが、いつもより遠いような気がした。
 そう感じてしまうほど暑いということでもあるのかもしれないが、歩かないと帰れないので仕方なく額に汗を滲ませて歩く。
 一歩、二歩と歩みを進めていくうちに、自分の足音に重なるように聞こえてくる足音があることに気づいた。
 その足音はあきらかに時任の跡をつけている。
 時任は振り向こうか、それともこのままダッシュしてマンションに入ろうかと考えた。
 だが、聞こえてくる足音に混じってカチャリという音が聞こえたので、マンションに入ることをやめて立ち止まる。聞こえてきたのは、拳銃を構える音だった。
 「自分んちの真ん前で、冗談じゃねぇっつーのっ」
 素早く視線を走らせると、マンションの入り口辺りに二人、背後に一人、怪しげな人物いる。
 どこの誰の命令で動いているかわからないので、なんの目的で時任を狙っているのかわからなかった。
 殺害することが目的だとしたら、なにがなんでも逃れる方法を考えなくてはならない。
 自分のウチを目の前にして、死ぬのはゴメンだった。
 久保田のいない場所で死ぬのは嫌だった。
 見慣れたマンションを見上げると、自分の住んでいる部屋のベランダを見る。
 けれど、そこに久保田の姿はない。
 時任は大きくすぅっと息を吸い込むと、自分の部屋のベランダに向かって何か叫ぼうとしたが、そうしようとした瞬間、背中に何か硬いモノが当たった。
 「おとなしく一緒に来い。一緒にくれば撃たない」
 「誰だよっ、てめぇっ!」
 「自分の立場を考えろ。こんな所で死にたくないだろう?」
 「・・・・・・・クソッ」
 「手を上げろ」
 どうやら今すぐ殺す気はないようだが、安全ではないということだけは確かである。
 時任はおとなしく手を上げると、道の脇に止められていた車へと歩かされた。
 停められている黒塗りの車、そして男達の風体といい、やはりカタギの人間ではない。
 このまま連れていかれるのは、かなりマズイ。
 この状況を自力でなんとかしようと隙をついて時任が逃げ出そうとする。
 だが、そうするより早く首筋の辺りに強い衝撃が走った。
 「くぼ…ちゃ…」
 首筋を強打されて気を失う寸前、薄れていく意識と暗くなっていく視界の中で、時任は部屋のベランダの辺りに良く知った影を見たような気がした。
 ひょろっと背の高い、時任が一番良く知っている男の影。
 けれど、自分を殴りつけた男の襟をグイッと引っ張った後、ベランダに見えた影が本当に本物かどうか見極める前に時任は完全に気を失ってしまっていた。
 
 

 
 
 
 
 いつも吸っているセッタの残りは後一本しかなかった。
 時任がコンビニに行くというので買ってくるように頼んだのだが、最後の一本はすでに短くなって消えようとしている。二十四時間吸っているという訳ではなかったが、やはりないと落ち着かない。
 吸い始めたのが何歳だったのか正確なことはあまり覚えていないが、かなり年季が入っている。
 久保田は完全なニコチン中毒だった。
 「う〜ん、ついてけば良かったかなぁ」
 そんな風に思うのは、セッタがなくなってしまいそうだということだけが理由ではなく、なんとなく一人でコンビニに行っている時任のことが気にかかったからだった。
 すぐ目の前のコンビニに行くのに心配するなんてかなり過保護に違いないが、やはり心配なものは心配なので仕方ない。
 久保田は短くなったセッタを灰皿に押し付けると、座っていた椅子から立ち上がった。
 「夕方一緒に行こうって言えばよかったなぁ」
 外がかなり暑かったことを思い出した久保田は、玄関に向かおうとしながらそう呟く。
 時任は暑いのが苦手だが、実は久保田も暑いのは苦手なのである。
 涼しそうな顔をしてはいても、やはり暑いものは暑い。
 久保田は相当暑いことを覚悟して外に出ようとしたが、そうしようとした瞬間、なんとなく名前を呼ばれた気がして立ち止まった。
 だが、この部屋には今誰もいないので、誰かに呼ばれるはずなどない。
 聞こえたのは幻聴…。
 そう考えるのが普通だが、久保田はなくとなく落ち着かないざわざわとした感覚を感じて、なぜか外ではなくリビングへと向かい、リビングからベランダへと続く窓を開けた。
 そして、熱気がむっと身体を包むのを感じながら外へと出る。
 今日は晴天だというのに、いつもより湿度が高そうな空気がじっとりとして気持ち悪かった。
 「できれば当たってほしくなかったなぁ、嫌な予感…」
 ベランダから下を覗き込むなり久保田がそう言ったのは、今まさに時任がさらわれようとしている瞬間を見たからである。時任は不審な男に殴られて気絶していた。
 だが、ここから慌てて一階に下りても、絶対に間に合わない。
 久保田はじっと目をこらして、時任を連れ去ろうとしている黒塗りのベンツを見つめた。
 「・・・・・時任」
 ぐったりと気を失っている時任は、久保田の見ている前でベンツに乗せられ連れ去られる。
 久保田は吸い終わって空になったセッタをポケットから出してぐしゃっと握りしめると、ゆっくりと握っていた指を開く。するとそこから滑り落ちるように、セッタはベランダの外へと落ちた。
 「本当は閉じ込めてたかったんだけど…、やっぱ許してもらえないよね」
 そう言ったのは久保田の本音であり、一度は本気で考えたことでもある。
 関谷に軽く喉を切られるという事件があった後、喉にある傷を見る度に、時任をこの部屋に閉じ込めたくてたまらなかった。
 だが、時任は危険だからといって部屋の隅で怯えたりもしないし、おとなしく閉じ込められていてくれるはずなどない。
 どんなに閉じ込めたいと願っても、時任を閉じ込めることは不可能なことだった。
 
 プルルルル…、プルルル…。

 突然リビングの電話が鳴り始めたので、久保田がリビングに移動して受話器を取る。
 すると、そこから聞こえてきたのは久保田の叔父である葛西の声だった。
 「おう、誠人か?」
 「あー、ども…」
 「例のヤツで情報入ったから、電話したんだけどよ」
 「死体でたの?」
 「ああ、それでちょっと今から出て来ねぇか?」
 葛西からかかってきた電話の内容は、また獣化した遺体が出たのとそれについての情報だった。
 出てこないかと葛西が言ったのは、遺体の獣化の具合がいつもより酷いので、司法解剖に回る前に参考のために見に来ないかというものだったのである。
 だが、久保田は葛西の申し出を、
 「…せっかく言ってくれてるトコ悪いんだけど、今回パス」
と、断わった。
 久保田が断わると思っていなかったらしい葛西は、少し沈黙した後小さく息を吐く。
 さすが刑事と言うだけあって、何かを感じたらしかった。
 「時坊に何かあったのか?」
 そう聞いたのも、おそらく推測ではなく確信があって言ったことのなのだろう。
 だが久保田は、葛西のセリフを聞いても少しも表情も口調も変わらなかった。
 「別に何もありませんけど?」
 「ウソだろう?」
 「ホント」
 「…何かあったら連絡しろよ、誠人」
 「ほーい」
 そう返事をしたが、時任がさらわれたことを葛西に話す気はない。
 WAについての情報は刑事である葛西や情報屋である鵠に頼んでいるが、久保田は基本的に時任と自分との間に誰かを入らせたくないと思っていた。
 それは巻き込みたくないという理由なのではなく、ただ時任に自分以外を頼らせたくないから。
 そういう理由で、情報以外のことで葛西に頼ることはしないのである。
 久保田は受話器の通話ボタンを切ると、ケイタイをポケットに突っ込み、寝室に置いてある拳銃を服の中にかくすようにして持った。

 いつも自分のためだけに引いていた引き金を、愛しすぎて恋しすぎる人のために引くために…。

 部屋を出てマンションの1階に下りた久保田は、マンションのすぐ前で時任が持っていたと思われるコンビニの袋を見つけた。そしてその横には、誰かが落したものなのか小さなバッチが転がっている。
 そのバッチは偶然なのか、それても必然なのか久保田が知っている種類のものだった。
 久保田はゆっくりとそのバッチを拾い上げて少し眺めると、それをポケットに放り込んでから、コンビニ袋に入っているセッタを取り出す。
 このセッタは、時任が久保田のために買ったものだった。
 久保田はセッタの包装を破いて一つ取り出すと、その内の一本を手に取って火をつける。
 煙の味が苦いのはいつもだが、今日はいつもよりももっと苦い。
 その苦さを噛みしめるようにセッタを吸いながら、久保田は焼けるように熱いアスファルトの上を時任のいる場所に向かって歩き始めた。



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