ココロの在り処.3




 生徒会本部に見学に来ていたはずだったが、結局長谷川は執行部で面倒を見ることになった。
 それは生徒会長である松本の意見ではなく、長谷川本人が望んだことだったのである。
 その理由は執行部の公務に興味があるからだと言っていたが、誰の目から見ても時任目当てに希望したようにしか見えなかった。
 公務の時はもちろんだが、普段の休憩時間も長谷川は時任のそばにいる。
 そのため、いつもそばにいるはずの久保田は逆に時任のそばから離れていた。
 「あれって、いいの?」
 「なにが?」
 「あれじゃまるで、バカップルじゃない」
 「そおねぇ…」
 執行部に見学が決まったため、放課後の生徒会室には長谷川が通いつめている。
 だが、初日に他の部員と挨拶はしたものの、いつも長谷川は時任ばかりと話をしていた。
 時任の方も戸惑ったような表情をしてはいるものの、それなりに楽しそうに長谷川と話をしている。
 そんな時任を見ながら桂木はさっきから久保田に話しかけていたが、久保田は何も言わずに気の抜けたような返事をするだけだった。
 「長谷川の自己紹介って本当のことなの? 時任の幼馴染なんて言ってたけど?」
 「さあ、どうだろうね?」
 「一週間だけだけどなんとなく気になるわよね、やっぱり…」
 「一週間…、だけじゃないかもしれないし」
 「えっ?何か言った?」
 「別になんでも?」
 時任に長谷川がべったりくっついているにしても、久保田の様子はどこか妙だった。
 なんとなく違和感があるのを感じて桂木はしばらく首をかしげていたが、それが何なのか気づいた瞬間、あっと小さく声を出す。桂木が久保田に感じた違和感は、久保田がセッタを吸わずに新聞を読んでいることだった。
 さすがに教室では吸っていないが、生徒会室にいるのに吸っていないのは珍しい。
 そのせいか、どことなくいつもより落ち着かない印象だった。
 「もしかして、禁煙してるの?」
 「ん〜、ちょっと試してみようかと思って」
 「…らしくないわね」
 「そう?」
 タバコ無しでは一日も過ごせないくらいのヘビースモーカーである久保田が、なぜか禁煙をするという。
 学校でも平然と吸っていた久保田が理由も無く禁煙するなど、とても考えられるような話ではない。
 なのに禁煙するということは、何かあったということに違いなかった。
 「禁煙はいいことだけどね…」
 桂木はそう言うと、相変わらず二人で話している時任と長谷川を見てため息をつく。
 そんな桂木の前で、長谷川はすでに時任の親友気取りのような状態で時任をからかったりしていた。
 「なに?そんなことも知らねぇのかぁ?」
 「そ、そんなことねぇっつーのっ!」
 「顔に知らないって書いてあるぜっ」
 「うっせぇっ」
 長谷川は何気ない話をしながら、時任の肩を軽く叩いて笑っている。
 時任はそんな長谷川の手を振り払うこともなく、ふて腐れたような顔をしていた。
 久保田以外の人間と時任が話しているのが珍しいなんていうことはさすがにないが、これほど仲良さそうに話しているのは珍しいことである。
 なので、二人が幼馴染みだという長谷川の言葉も嘘のようには見えなかった。
 「公務ってそんな危険なのか?」
 「べつにそうでもねぇけど、ケガとかすることとかはある」
 「ふーん、じゃあ時任もケガしたことあるのか?」
 「俺様は強ぇから、そんなにしねぇよっ」
 「へぇ、時任が公務してるとこ見てみたい気がするなぁ」
 そんな風に長谷川と話しながらも、実はしきりに時任は久保田の方を気にしている。
 昨日から、久保田がなんとなくおかしいような気がしていたからだった。
 別に長谷川がいるからといって、久保田が時任から離れる必要はない。
 だが、まるで長谷川と入れ替わるように、久保田は時任の隣に立たなくなっている。
 けれど時任が話し掛ければちゃんといつものように返事するし、怒っているのとも少し違う感じだったので、時任はまだ何も言えないでいた。
 長谷川に協力してもらって、記憶を思い出そうとしていることも…。
 なんとなく後ろめたいような気持ちになりながら、時任は楽しそうに話しかけてくる長谷川に返事する。
 チクリと不安が胸を刺すのを感じながら、時任は久保田の気配だけを追っていた。

 「久保田、時任来てくれっ! バスケ部とバレー部がケンカだっ!!」

 そう言って男子生徒が飛び込んで来たのは、室田と松原の見回りが終って、もうそろそろ公務が終るという時間帯だった。
 だが、ケンカと言われて行かないわけにはいかない。
 ケンカを怪我人が出来ない内にやめさせるのも、執行部の仕事だった。
 「行くぞっ、久保ちゃんっ!」
 「はいはい」
 いつものように時任が声をかけると、久保田が新聞を置いて立ち上がる。
 そして今日の朝、登校してきた時以外で始めて時任の隣に並んだ。
 執行部の相方として…。
 時任がなんとなく確認するように隣にいる久保田の方を向くと、久保田も時任の方を見ていた。
 「久保ちゃん…」
 「ん?」
 名前を呼んで、あの夜と同じように何か言いたそうな視線を時任が久保田に向ける。
 するとその視線を受けた久保田は、じっと静かな瞳で時任の方を見ていた。
 二人が生徒会室で見つめ合っていることは日常茶飯事だったが、こんな風にどこか痛くなるような視線を向け合っていたことはない。そのため、室内が二人の微妙な雰囲気に飲まれてしまっていた。
 久保田は時任の真っ直ぐな瞳を見ても…、見つめてくる意味を知っていても何も言わない。
 それは、時任から何か言ってくるのを待っているのではなく、何も聞きたくないと拒絶してしまっていたからだった。
 「なんで、そんな目で俺のコト見んの?」
 「そんな目って?」
 「なんかさ…、知らないヒト見てるみたいな目してるじゃんか…」
 「そんなコトないけど?」
 「ウソだっ!」
 久保田の視線に違和感を感じた時任がそう言ったが、やはり久保田は静かな瞳のまま表情を変えない。そのことにショックを受けた時任は、思わず久保田の襟首をつかんでいた。
 ケンカが始まるのではないかと周囲は緊張していたが、時任は襟首をつかんだまま動きを止める。
 時任の手は襟を強く握りすぎていたため、少し震えてしまっていた。

 「…俺のことなんか、どうでも良くなった?」

 久保田にしか聞こえないくらい小さな声が時任の口から漏れて、それと同時に時任の手が襟からするりと外れる。けれど、今にも泣き出しそうな瞳が、まだしっかりと久保田を見つめていた。
 言葉にできない想いを伝えようとするかのように、じっと久保田だけを…。
 けれど時任のそんな想いは、久保田に伝わる前に横から断ち切られてしまった。

 「ケンカ止めなきゃいけないんだろ? だったら俺が時任と行くよ」

 そう言いながら、長谷川が強引に時任を久保田から引き離したからである。
 長谷川は時任の腕をつかんで自分の方へ引っ張ると、久保田の方へ手を伸ばそうとする時任を強引に連れてそのままドアから廊下へと出た。
 しかし、時任の視線はまだ久保田を追っている。
 時任は久保田のそばに戻りたがっていた。
 「離せっ、まだ久保ちゃんと話が…!」
 「執行部員なら、ケンカ止めるのが先じゃないのか?アイツとの話はいつだって出来るだろ?」
 「それは・・・」
 「公務を果たさないと、執行部員って言えないと思う。時任もそう思ってんじゃないのか?」
 「…そうだよな。行かなきゃダメ…、だよな」
 久保田のことを気にしながらも、長谷川の言葉に時任はうなづいた。
 ケンカを止める方が先だという長谷川の意見が、間違っていなかったからである。
 けれど時任は、長谷川と公務に行くことに抵抗を感じていた。
 久保田以外の誰かが隣に並んでいることに…。
 追いかけて来てくれたらと思っていたが、遠ざかっていくドアから久保田は出てこない。
 それがつらくてたまらなくて、時任はぎゅっと右手の拳をしめていた。
 生徒会室の閉じられたドアを見ていると、久保田にいらないと言われたような…、そんな信じられないようなことを言われたような気してならない。誰よりもそばにいたくて、好きだと思ってて、何よりもその想いが大切だったのに、久保田の静かな瞳がそれを打ち壊そうとしていた。

 「なんで…、なんでなんだよ、久保ちゃん」

 そんな風に呟きながら、時任は体育館への廊下をひた走る。
 追いかけてきてくれることを、いつもみたいに隣に並んでくてれることを願いながら…。
 けれど、やはり久保田は体育館に到着しても、公務が無事に終っても姿を見せることはなかった。






 沈みかけた夕日が、校舎を赤く照らしている。
 すべてをその色に染め上げてしまおうとしているかのように、太陽はまだ沈まずに留まっていた。
 だが、時間を止めることができないように、やはり夜になることを止めることもできない。
 もうしばらくすると、校舎は夕日ではなく暗闇に包まれていくに違いなかった。
 いつも賑やかな生徒会室が静かになって、室内には桂木が書きものをしている音だけが響いている。
 そんな静けさに包まれた生徒会室で、時任が一人で窓から夕焼けの空を眺めていた。
 いつも久保田が座っている椅子に座って…。
 まるで気が抜けたようにぼんやりとしている時任を見た桂木は、書く手を止めて書類を引き出しに収める。
 そして小さく息を吐きながら時任へ歩み寄ると、その肩を軽く叩いた。
 「いい加減、帰らないと鍵しめちゃうわよ」
 「…閉めたきゃ閉めろよ」
 「久保田君が先に帰ったのがショックなのかもしれないけど、たまには久保田君だって一人で帰りたい時くらいあるかもしれないでしょ?」
 「うるせぇっ」
 「せっかく人が心配してあげてんのにっ」
 「心配してくれなんて、頼んでねぇよっ」
 「ったく、相変わらず可愛くないわねっ。何があったのか知らないけど、時任らしくないわよ? …それはアンタだけじゃなくて久保田君も同じだけど」
 「・・・・・・」
 「ケンカしてんなら、早く帰りなさいよ。離れてちゃ話しもできないじゃない。仲直りできないわよ?」
 そう言われて時任は、夕日を見ていた瞳をゆっくりと閉じた。
 夕日を見ているとあまりに綺麗で、綺麗すぎて…、それを見ていると心が吸い込まれてしまいそうになる。
 だから、心が吸い込まれて消えてしまう前に久保田に会いたかった。
 けれど、またあの瞳で見られるかと思うと苦しくて…、哀しくて…、会いたいのに足が動かない。
 時任は夕日を見ながら、久保田を想ってズキズキと痛んでくる胸を抑えて途方に暮れていた。
 桂木の言うように、離れていたら話すこともできないのに…。
 歩き出すこともせずに、ただ久保田から離れた場所でうずくまっていた。
 
 久保ちゃん…。

 視線の先にある空が、静かに静かに暮れて夕焼けの赤が瞳に胸に染みていく。
 何度も何度も心の中で久保田を呼んでいる間にも夜は近づいてきて、すべてを覆い隠そうとしていた。
 「時任…」
 桂木は哀しそうに瞳を閉じている時任に何か言葉をかけようとしたが、夕日に照らされた時任の横顔を見た瞬間、何も言えなくなった。
 その横顔があまりに綺麗で…、哀しそうに見えて…。
 瞳に涙など浮かんでいなかったのに、久保田を想って泣いているように見えてしまったから…。
 だから、何も言えなかった。

 「あっ、やっぱりまだいた…。良かった間に合って」

 静かに暮れていく夕暮れの生徒会室で、時任と桂木が夕日を眺めていると、そこに帰ったはずの長谷川が入って来る。桂木は久保田かと思って振り返ったが、時任は足音で久保田ではないことがわかっていたらしく、外を向いたままだった。
 「桂木さん…だったよね? 悪いんだけど、ちょっと話しあるから席はずしてくれない?」
 「・・・・別に、いいけど」
 「なんだったら、鍵は俺がかけて職員室に戻しとくよ」
 桂木は長谷川にそう言われて不審そうな顔をしながらも、鍵を長谷川の手に渡した。
 言い方は柔らかかったが、暗に桂木に帰れと言っているように聞こえたからである。
 桂木は心配そうな視線を時任向けていたが、時任はやはり外を見ていて気づかなかった。
 ドアを開けて桂木が生徒会室を出ていくと、長谷川は時任の方へと歩いて行く。
 その手にはメモが握られていた。
 「実は、ちょっと聞いたんだけどさ…。お前って、あの久保田ってヤツと暮らしてるんだって?」
 そう長谷川が言ったが、それは隠していることではないので別に知られたからと言って驚くことはない。
 時任はなんとなく返事をしたいような気分ではないので、じっと黙っていた。
 長谷川に協力してもらって過去を思い出そうと決めていたはずなのに、今は過去ではなく久保田のことで頭が一杯になっている。
 今は胸に何かがつまっていて、長谷川の話を聞いている余裕などなかった。
 「時任?」
 「・・・・・・」
 いくら長谷川が呼んでも、時任はじっと外を見つめたまま動こうとしない。
 すると長谷川は、持っていたメモを時任の目の前に出して見せた。
 「てっきり親と一緒に暮らしてるもんだと思ってたよ」
 「…親?」
 「もしかしてだけどさ、親とぜんぜん連絡取ってねぇだろ?」
 「親なんか知らない…」
 「昔のお前の家の電話番号。電話かけてみたんだけど誰も出なかった」
 「・・・・・」
 「でも、同級生とかに色々当たって見たら、お前の親戚の家がわかったんだよ」
 「親戚って、俺の?」
 「親は行方不明らしいって話だったけど、親戚はちゃんといる。お前のこと話したら、会いたいって言ってきたんだ。もし、本当に本人なら一緒に暮らしたいって…」

 …自分に親や親戚がいる。

 その事実を長谷川に聞かされて、時任は信じられない気持ちで長谷川の持っている紙切れを見つめる。記憶を取り戻そうと思ってはいたものの、親や家族のことは考えたことがなかった。
 久保田の部屋で目覚めてから今まで、あの部屋以外に自分が帰れる場所があるなんて思ったことはない。それなのに、突然、目の前に本来自分がいるべき場所が電話番号ととも記されていた。
 「一緒にここに行かないか? そしたらなんか思い出せるかもしれないし、他人に世話になる必要もなくなるだろ? その方がお前のためだって、俺は思うんだ」
 「・・・・・・俺のため?」
 「どういう経緯かは知らないけど、他人に何もかも世話になるなんてやっぱりダメだろ? それにさ、親戚の人だってお前のこと心配してたんだ。…だから行ってやれよ」
 「けど、久保ちゃんが…」
 「きついこと言うようだけど、久保田だってお前一人の生活費見るなんて大変なんじゃないか? それ考えたら、これ以上迷惑かけない内に出てった方がいい」
 長谷川は久保田が迷惑していると言い切ったが、普段の時任なら、もしかしたらそんなことないと言い返せたのかもしれなかった。けれど今の時任は、久保田との距離が突然できてしまったことに戸惑って、どうしていいかわからず言い返すことなどできない。
 時任は渡された紙をぐしゃと両手で握りつぶすと、考え込むようにその上に自分の額を乗せた。
 この紙を破いてしまいたいと思うのに、久保田の心がわからなくてそうすることができない。
 時任が苦しそうな表情で悩んでいると、そんな時任の背中を押すように、
 「こういうことは、出来るだけ早い方がいい。明日はちょうど学校が休みだし、俺も一緒に行くから駅で待ち合わせようぜ」
と、長谷川が言った。
 あまりにも早すぎる申し出に時任は眉間の皺を更に深くしたが、しばらくするとゆっくりと首を縦に振る。
 ここに久保田が来ないことを、窓から見える夕闇に沈んだ校門を見て確認しながら…。
 そして時任は、ずっと眺めていた校門から目をそらすと、椅子から立ち上がって鞄を持った。
 「帰ろうぜ、長谷川」
 「ああ…」
 本当は日が暮れても、夜が来ても、久保田がここに来るまで動かないつもりだった。
 なのに長谷川に紙を渡された瞬間、なんとなく絶対に久保田が来ないような気がして、時任は思わず首を縦に振ってしまっていた。
 久保田が来ないと思った時、胸が苦しくて壊れそうになって…。
 その痛みに耐えられなくなりそうだったから…。
 そんな自分の弱さを嫌いだと思いながらも、久保田が恋しくてたまらなかった。
 言われた場所に行くとうなづいてしまっていても、あの部屋に、久保田のそばにいたかった。
 なのに時任は久保田の手を離して、見知らぬ場所へ行こうとしている。

 久保田への恋する気持ちと想いを、哀しみと一緒に胸に抱きしめたまま…。

 帰り道の途中で長谷川と別れて久保田が待っているはずのマンションに向かいながら、時任は握りしめた紙の感触をずっと手のひらに感じていた。
 こぼれ落ちそうになる涙を必死に耐えながら、暗闇に沈んでしまった空を見上げて…。
 


 
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