ココロの在り処.4




 夕闇に沈んだ校門を二つの影が帰っていく。
 ここからだと見えるのは後姿だけだが、それを眺めている久保田には誰なのかわかっていた。
 その様子を屋上から眺めながらポケットに手を伸ばしかけたが、そこに何も入っていないことを思い出して手を止める。禁煙しているため、セッタもライターもここ数日部屋に置いたままになっていた。

 「いい加減、少しくらい馴れてもいいと思うんだけどなぁ」

 そんな風に呟いてしまうのは、セッタを持っていないことがわかっていてもなぜか手がポケットの方へと伸びてしまうからだった。その動作はほとんど無意識で、どうしても自分で止めることができない。
 入っているのが当たり前だったから、身体がそれを記憶してしまっていた。
 ここ数日、持ってもなければ吸ってもいないのになぜかセッタの匂いがする。
 吸っている時には自分に染みついている匂いにすら気づかなかったのに、今はその匂いがとても鮮明だった。
 吸わなくなって始めて、セッタの匂いがわかったような気すらする。
 そんな自分を自嘲しながら、久保田はわずかに残っている夕日の残照を眺めていた。
 二人で住んでいるマンションに一人で帰っていく時任を追うこともせず、ただ静かに…。
 だがそんな静けさとは裏腹に、久保田は息のつまりそうなほどの痛みを胸に抱えていた。

 時任の過去と記憶…。

 それを時任が取り戻してしまったら、今のままではいられない。
 だから自分から時任の手を離そうとしているのに、まだ、どうしてもそれを受け入れることができなかった。
 時任が自分以外の誰かに笑いかけるのことが、誰かが時任に触れることがどうしても許せない。
 誰よりも大切なのにそう想っているのに、時任への想いを…、その気持ちを醜い独占欲が汚していく。
 初めからなかったことして何もかも忘れてしまえれば、汚れていく想いを抱えて苦しまなくてもすむのかもしれなかった。
 けれど、時任への想いが、セッタの匂いのように染みついていて消えない。
 離れようとすればするだけ、時任のことしか考えられなくなった。
 想いを消そうとすればするほど、時任が、時任だけが好きだった…。
 




 校内の戸締りのために見回りに来た教師に言われて校舎を出ると、日はすっかり暮れてしまっていた。
 普通なら時任と二人で部屋にいる時間帯だったが、久保田はまだ部屋に戻らないでいる。
 きっと時任はあの部屋で一人、久保田の帰りを待っているに違いのに…。
 久保田は校門を出て、なぜかマンションとは別の方向に向かって歩き始めた。
 時任が待っている部屋とは逆の方向へと。
 その方向にある久保田の行く場所と言えば、雀荘くらいしかなかった。
 始めはマンションに帰るつもりだったが、時任の顔を見た瞬間に何かが壊れてしまいそうな気がして、どうしても戻ることができなかった。時任に会いたくないと思ったことはないが、今は会えない。
 まだ時任に執着している内は、できるだけ離れていなくてはならなかった。
 自分の醜い独占欲で、時任を縛り付けてしまわないように…。
 自分自身の手で、自分の大切なものを壊さないようにするために…。
 好きだから、誰よりも愛しいと思っているから、そばにはいられなかった。
 
 ピロロロ…、ピロロロ…。

 雀荘に向かって歩いていると、ポケットに入れていた携帯電話が小さい音を立てて鳴った。
 久保田はポケットからそれを取り出すと、誰からの電話か確認して通話ボタンを押す。
 電話をかけてきた相手は、メモリーに入っていない相手だった。
 『もしもし、久保田君?』
 「桂木ちゃん?」
 久保田の携帯の番号を知っているのは、執行部員か会長の松本、そして荒磯の教師ぐらいしかいない。
 だから携帯に桂木からかかってきても不思議ではなかったが、かけてきたタイミングからすると、時任のことでかけてきたのに違いなかった。
 久保田は小さくため息をつくと、桂木の声を聞きつつ歩き始める。
 できるだけ話は早く切り上げるつもりだった。
 『今、どこにいるのよ? 家?』
 「…どこだと思う?」
 『もうっ、ふざけてないでマジメに答えなさいよっ』
 「答えなきゃいけない理由はないでしょ?」
 『…時任なんか落ち込んでたわ』
 「知ってる」
 『知ってるのに、なんでほっとくのよっ!』
 「・・・・・・・」
 『どういうつもりなのか知らないけど、ケンカしないでちゃんと話し合いなさいよっ』
 「はいはい」
 『もしかしなくても、いい加減に返事してるわね?』
 「あっ、バレバレ?」
 『久保田君と時任君の問題だから、あれこれ言うつもりはないけど、あたしは元気のない時任は見ていたくないからっ。だからなんとかしてよねっ』
 「・・・・・・・わかったって、返事できなくてゴメンね」
 『えっ、今なんて…?』
 受話器の向こうから、まだ桂木の声がしている。
 それをわかっていながら、久保田はボタンを押して通話を切った。
 時任が沈んでいたのを知っているから、これ以上時任のことを聞けば、抱きしめて、キスして離したくなくなってしまう。だから、これ以上は話ができなかった。

 何もできない自分をこれ以上思い知りたくなかったから…。

 もしかしたら桂木がまたかけてくるかも知れないので、携帯の電源を落とそうと久保田が親指をボタンに伸ばす。しかし、ボタンを押す前に携帯が再びピロロロ…という音を立てて鳴った。
 
 …時任。

 携帯の画面には、この二つの文字が浮かんでいる。
 それは久保田が唯一メモリーの中に入れている、離れていても声を聞きたいと思う人の名前だった。
 だが相手がわかっても久保田は通話ボタンを押さずに、じっとその名前の浮かんでいる画面を眺めている。
 それはただの活字にすぎなかったが、その名前は久保田にとって特別だった。
 その名前が出ているということは、時任が呼んでいるということで…。
 それを想うとさっきから痛んでいる胸が、更にズキズキと苦しく痛んでくる。
 その痛みに耐え切れなくなった久保田は、大きく息を吐いて歩みを止めると、近くにあった塀に寄りかかって通話ボタンを押した。

 『久保ちゃん?』

 いつもはすぐ用件言うのに、今日は不安そうな時任の声が久保田の名前を呼んだ。
 まるで受話器の向こうにいるのが、久保田かどうか確認するように…。
 その声を聞いた久保田は、目を細めてポケットへと手を伸ばす。
 けれどやはりそこには何も入っていなかった。
 『もしもし、久保ちゃん?』
 「…うん」
 『良かった、べつのヤツにかけちまったのかと思っちまった』
 「そんなワケないっしょ?」
 『だよな…。この番号しかかけねぇし、覚えてねぇもんな』
 「…だぁね」
 『久保ちゃん』
 「なに?」
 『今、どこ?』
 「さあ?」
 どこだと聞かれたのに、久保田は場所を答えなかった。
 それは、場所を言ったら時任が来ることを知っていたからである。
 時任は久保田が答えなかったことにショックを受けたらしく、何も言わずにしばらく黙っていた。
 「用がそれだけなら切るよ?」
 『あっ、切るなっ!』
 何も言わない時任に向かって久保田がそう言うと、受話器の向こうから時任が叫ぶ。
 するとその後、何かを決意した真剣な時任の声が久保田の鼓膜に響いてきた。
 『俺さ…、長谷川に協力してもらって、忘れちまった記憶を思い出そうとしてた』
 「…うん」
 『まだ何も思い出せてねぇけど。忘れてることがあるなら、思い出さなきゃって気がしてたから』
 「・・・・・・・」
 『今まで過去のこととか、あんま思い出そうとかしたことなくて…。だから考えたことなかったけど、俺にも親とか親戚とかそういうのがいるんだって長谷川が教えてくれたんだ…。親戚のヒトってのが、俺と一緒に暮らしたいって言ってて…、ソコに明日行くってことになって…、だから…』
 「行きなよ」
 『えっ?』
 「待ってくれてるヒトがいるなら行かなきゃ、でしょ? 一緒にいてくれるヒトがいるなら…、行った方がいいから…」
 『・・・・・ホンキで言ってんの?』
 「ホンキで言ってるよ?」
 『俺がいなくなっても…、久保ちゃんはヘーキ?』
 受話器の向こうから、久保田の耳に今にも泣き出しそうな時任の声が聞こえる。
 その声を聞いていると、愛しさが恋しさが胸を焼いていくような気がした。
 久保田は塀に寄りかかったまま空を見上げると、そのまま目を閉じる。
 すると暗闇の中で、時任の声が想いが痛く哀しく響いて来た。
 まるで雨が降り注いでくるように、泣いている想いが心が苦しみとともに久保田に降り注ぐ。
 けれど久保田は、拳を握りしめてそれに耐えようとしていた。
 「平気だから行きなよ」
 『・・・・・くぼちゃ…』
 「出会わなかったって思うから…、なかったことにするから…、全部」
 『どうしてそんなコト言うんだよっ。嫌いになったからそんなこと言ってんの?』
 「…さよなら、時任」
 別れを告げる言葉を久保田言うと、声を出すこともできずに泣いている時任の気配が伝わってくる。
 さよならしたくないと泣いている時任の声が聞こえてくるような気がして、久保田は携帯を持っている自分の腕に爪を立てた。
 『…あのさ』
 「・・・・・」
 『久保ちゃんがココに帰ってくるの一晩中待ってるから…、だから帰って来てくんない? 一度も会わないままサヨナラしたくねぇから…。』
 「時任」
 『ずっと起きて待ってる…。行く時間が来るまで、待ってるからさ…』
 「…帰ってあげられなくて、ゴメンね」

 『久保ちゃん…』

 久保田は待っているという時任の言葉をさえぎるように、強引に通話を切る。
 このまま時任の声を聞いていると、行くなと言ってしまいそうだった。
 待っている人が、ちゃんと家族になる人がいるのに、それを止めてしまいそうだった。
 本当は時任の幸せなんて願ったりしてなかったから、自分のエゴで抱きしめていたかったから…。
 だから泣いている声を聞いたら、時任のなにもかもを奪い去ってしまいそうになった。

 さよならと別れを告げたのに…。

 もう握っていた手を離してしまったから、キスすることも、抱きしめることもうできないとわかっている。
 けれどそれでもまだ、心が身体が時任を欲しがっていた。
 だから、すべてを打ち壊しても、時任だけを自分の腕の中に閉じ込めていたかった。
 その想いが醜くて汚れていても…。
 時任だけを想って恋してる、それがすべてだったから…。

 「…泣かせてゴメンね、時任」
 
 久保田はそう言って電源の切れた携帯をポケットに押し込むと、目を開けて暗い夜空を眺めた。
 だが、暗がりばかりが広がる空にはやはり星も月も見えない。
 ただ闇だけが空を覆いつくして、汚れた大気と街の明かりが何もかもを消し去っていた。
 
 
 
 
 


 切られた電話から出るツーツーという発信音が聞いてから、どれくらいの時間がたったのかわからない。
 けれどカーテンから漏れてくる光が、もう朝になってしまったことを知らせていた。
 かかってくるかもしれない電話と、押されるかもしれない呼び鈴を待っている内に、時計の針は一秒ずつ確実に時を刻んでいたのである。
 時任はテーブルの上に電話を置いていたが、朝になるまで一回も鳴らなかった。
 玄関の呼び鈴も…。
 本当はなんとなく帰ってこないとわかっていたが、それでも待っていたかった。
 久保田が帰ってくるまで、ずっとずっと待っていたかった。
 けれど朝がやってきて、時計の針がここにいられる残り時間を示している。
 時任がいる限り久保田がここに戻ってこないことがわかったから、もうここには居られない。
 この部屋が久保田の持ち物だからというのではなく、久保田のいない部屋にはいられなかったから、だから時任はここを出て行こうと決めたのだった。

 「もっかいだけ…、どしても会いたかったのに…」

 もう会えないとわかっても、やっぱりまだあきらめきれなくて、そんな言葉が口から出る。
 出ていくことを決めても、まだこの部屋の中に時任の何もかもが残っていた。
 今まで過ごしてきた思い出と時間が、久保田への恋する気持ちがこの部屋の中に詰まっていた。
 出会って、一緒に暮らすようになって…。
 お互いに恋して、抱きしめあって、キスするようになって、それから一緒に眠るようになった。
 そんな日々がすべてが優しい…、けれど激しい想いとともに過ぎていった時間の中にある。
 この部屋のどこにも二人が生活していた思い出と匂いが染みついていた。

 久保田を恋する想いと心とともに…。

 一緒に過ごした日々が、瞬きする間もないほどの一瞬までここに記憶されているから…。
 ここが、この場所が、この部屋が大切で特別だった。
 久保田が誰よりも何よりも好きで大好きでたまらないと想うその想いように…。
 けれどその想いは久保田に届かないまま、時間だけが過ぎていった。
 
 「もう、行かなきゃ…だな」

 時計の針が待ち合わせの時間に間に合うギリギリの時間をさすと、時任は座っていた椅子から立ち上がる。
 けれどテーブルの横には何も置かれていなかったし、何も準備はされていなかった。
 時任はこの部屋から何も持たずに、出ていこうとしている。
 久保田に運ばれてここに来た時と同じように…。
 けれど久保田を恋しい気持ちも、好きだという想いも置いてはいけなかった。
 さよならと言われても、それだけはさよならできなかった。
 時任は泣きはらした目で部屋を見渡すと、キッチンの棚の上に置かれていた物を掴んでポケットに入れて、玄関へと歩いて行く。
 そして、ドアを開けて外へ出る前に一度だけ玄関から中へと振り返った。

 「久保ちゃん…、ずっとずっと好きだから…、だから…」

 言葉の最後の辺りは再び涙が溢れてきて声にならなかった。
 久保田に伝えたかった想いが、涙になって頬を伝う。
 離れたくなくて、別れたくなくて…。

 久保田だけを…、ただ一人だけを想って、心が泣き叫んでいた。


 
                    戻  る              次   へ