ココロの在り処.2




 私立鷺ノ原高等学校、生徒会長、長谷川 翔。
 
 まるで昔からの知り合いのように時任の声をかけた人物は、荒磯高校のシステムを見学に来た他校の生徒会長だった。荒磯に来たのは昨日だったが、長身で見た目もかなり良かったため、すでに女子生徒達が騒いでいる。
 鷺ノ原高校はかなり荒れていると聞くが、長谷川ならなんとかできるだろうと荒磯の生徒会長である松本が言っていた。松本が認めたということは、それなりの人物ということなのだろう。
 見学は一日だけかと思われていたが、予定を変更して一週間滞在することになっていた。
 「まだいるんだな、アイツ」
 「一週間いるらしいよ?」
 「へぇ…」
 朝、二人で登校してきた時任と久保田は、女子生徒達に囲まれている長谷川を見て短くそんな会話をしていた。久保田はいつも通りの様子だったが、時任はやはり昨日のことが気になるらしく、じっと長谷川の横顔を見つめてる。
 だが、やはりいくら見つめても何も思い出せないようで、無意識の内に眉間に皺が寄っていた。
 「…時任」
 「えっ、なに?」
 「前向いて歩かないと、転ぶよ」
 「…あっ、うん」
 久保田はいつまでも長谷川を見つめている時任の肩に手を置くと、転ばないように注意してやりながら時任を連れて教室へと向かう。それはいつもと変わらない日常の光景のように見えたが、時任の肩をつかむ久保田の手には普段より少しだけ力がこもっていた。
 「そんなに気になるなら、話しに行ってみたら?」
 「気にしてねぇから、必要ないっ」
 「…なら、いいけどね」
 口では長谷川のことなど気にしていないと時任は言っていたが、やはり目の前にいるとなると状況は違ってくる。考えていないつもりでも、その姿を見かけるとやはり長谷川のことを考えてしまっていた。
 いつ、どこで、どんな風に出会ったのか…。
 長谷川と自分が、どんな会話をかわしていたのかが気になる。
 自分の知らない自分を長谷川が知っていると思うと、どうしても落ち着かなかった。
 久保田に連れられて教室に入ってからも、時任は自分の机に頬杖をついたまま、ぼぉっと何かを考え込んでいる。だが、いくら考えても、思い出そうとしても何も頭の中に浮かばなかった。
 「…なんで思い出せねぇんだろ」
 昨日、長谷川に会ってから何度目かの思い出せないという言葉が時任の口から無意識に出ると、久保田は小さく息を吐いて時任の机のそばから離れる。
 そして、これから授業が始まるというのに、教室から出て行こうとしていた。
 しかし思い出すことに意識を奪われている時任は、そのことに気づかない。
 それは長谷川のことを考えていたせいだった。
 「おはよう、久保田君」
 「おはよ」
 教室から出る途中で、久保田とすれちがった桂木が短く挨拶をかわす。
 だが、もうすでに教室を出るような時間ではなかった。
 「授業始まるわよっ!」
 なんとなく様子がおかしいと感じた桂木が、廊下を歩いて行く久保田に向かってそう叫んだが、久保田は振り返らずに片手を軽く上げてそれに答えて行ってしまう。
 思わずとっさに教室側の方を向いた桂木は、物思いに沈んでいる様子の時任を見て、結局、久保田が教室を出て行ったことを時任に言いそびれてしまった。
 「良くわからないけど、何かあったことだけは確かね…」
 そんな風に桂木が呟いている内に朝のホームルームが始まってしまったが、まだ時任は久保田がいなくなってしまったことに気づかない。時任が久保田がいなくなっても気づかないなんてことは、そうそうあることではないような気がした。
 桂木は不審そうにじっと時任を観察しながら、窓際の久保田の席を見る。
 久保田がどこに行ったかはわからないが、どうやら授業を受ける気分ではなかったらしい。
 何か嫌な予感がしていたが、桂木は時任が自分で気づくまで何も言わないことに決めていた。
 それはなんとなく、自分で気づいてほしいと思ってしまったからである。
 いつもそばにいる久保田がいないことを…。
 そうしていつ気づくかと桂木が見ていると、久保田の席を見て慌てて時任が席から立ち上がったのはちょうど一時間目が終る直前だった。






 「久保ちゃーんっ!」

 教室に久保田がいないことに気づいた時任は、授業終了のチャイムと同時に教室を飛び出して屋上へと来ていた。
 生徒会室にいるかとも思ったが、なんとなく屋上のような気がしたからである。
 しかし、屋上に来てみると人影が無かったので、時任は少し首をかしげた。
 「ぜってぇココだと思ったのに…」
 久保田がこんな風に何も言わずに消えるのは珍しい。
 いつもならこういう時はいつも時任を誘ってくるはずだったが、今日はなぜか一人でいなくなってしまっていた。特にケンカしたとか、そういう理由が思い当たらなかったので、そういう意味でも時任は首をかしげてしまっていたのである。
 朝からぼぉっと長谷川のことを考えていたのは無意識だったので、それを見ていた久保田が小さくため息をついていたのを時任は知らない。
 ただ、久保田が消えたので探すということだけしか考えていなかった。
 「しょうがねぇから、生徒会室に行くか」
 久保田の姿が見当たらないので時任が屋上から出ていこうとすると、ちょうど入り口の辺りに誰か立っているのが見える。
 その誰かは、久保田と同じくらい背が高かったが久保田ではなかった。
 時任は一瞬、それを知ってがっかりしたが別のことに気づいて少し驚いたように目を見張る。
 屋上の入り口立っていたのは、朝からずっと気になっていた長谷川だった。
 「お、お前…」
 「屋上に行くのが見えたから、なんとなく追いかけてきちまった」
 そう言って笑った長谷川は、とまどっている時任の前に歩いてくる。
 時任は無意識の内に隣に手を伸ばしかけたが、そこに誰もいなかったことに気づいて手を引っ込めた。
 「なんか俺に用でもあんのか?」
 「用っていうかさ、話しようって言っただろ?」
 「…そうだったっけ?」
 「そうそう、だからちょっと付き合えよ」
 長谷川は時任のそばまで来ると、強引な口調でそう言って時任の腕を引っ張る。
 普段ならそんな腕は振り払っているはずだったのに、やはり自分の過去ことが気になって長谷川に引きずられるようして時任は屋上の柵に寄りかかった。
 すると長谷川は、時任の隣に立って同じように柵に寄りかかる。
 そこはいつもは久保田がいるはずの場所だった。
 「改めてだけど久しぶりだな、時任」
 「…お、おう」
 「元気だったか?」
 「見りゃあわかるだろ?」
 「まあ、そりゃそうだなっ。まっ、元気そうで良かったよ」
 時任は記憶がないことを長谷川に悟られないように、なんとか適当に返事してやり過ごす気だった。
 しかし、挨拶程度なら問題はないが、それ以上のことはどうにもできない。
 その内、ろくに返事ができなくなってきたため、時任の額に汗が浮かんできていた。
 「あー、あの先生、なんて言ったっけ? 小学校六年ん時の担任…。えーっと市原っていう女の先生、俺もお前も結構怒られたりしてたから覚えてるだろ?」
 「あぁ…、覚えてる」
 「同じガッコの先生と結婚したんだよなぁ」
 「そうだったよな…」
 そんな風に答えながらも、時任はそんな先生のことは知らない。
 それどころか、自分が小学校に行った記憶すらなかった。
 だが、それを悟られないように必死に返事をしようとするが、うかつに答えられない。
 時任が何か言おうと考えていると、なぜか長谷川の口から大きなため息が聞こえた。
 「時任」
 「な、なんだよっ」
 「お前、ホントは俺の言ってること何もわかってないだろ?」
 「わかってないって、何が?」
 「さっきの話…。担任は柳っていうで男だし、結婚なんかしてねぇよ」
 「・・・・・・っ!!」
 たどたどしい当り障りのない返事ばかりを時任がしていたので、さすがに長谷川は何かおかしいと気づいたようだった。わざと嘘を言ったのは、本当に時任が覚えているかどうか確認するためだったのである。
 長谷川の嘘にまんまと引っかかってしまった時任は、何も言わずにうつむいて唇を噛む。
 何も覚えていない以上、もう誤魔化すことはできなかった。
 「時任…、お前…」
 「・・・・・・」
 「わざと忘れたフリしてんじゃないよな? そんなヤツじゃないってちゃんと知ってるし…」
 「…俺さ、信じられねぇかもしんねぇけど、昔の記憶なくしちまってんの。だから、何言ってもムダ」
 「全然、何も覚えてないのか?」
 「ぜんっぜん、何にも…」
 「そうかぁ…、なんかおかしいって初めから思ってたけどさ。そうだったんだな」
 「だから、昔話なんかできねぇんだよっ」
 そう事実を長谷川に告白しながら、時任は自分が久保田に拾われた日のことを思い出していた。
 だが、正確には拾われた日ではなく、久保田の部屋で目覚めた日。
 時任自身は覚えていないが、薄汚い裏路地で衰弱して倒れていたらしい。
 それを見つけた久保田が、自分の部屋に連れ帰って助けてくれたのである。
 助けてもらって一緒に暮らすようになって、それから時任と久保田は二人で荒磯高校に一緒に通うようになった。だから、それ以上前のことは何も覚えていないのである。
 今の時任にとっての始まりは、久保田と暮らしているあの部屋だった。
 それより前のことは、時任の中で何も存在していない。
 久保田に拾われたことは言わず、記憶をなくしていることだけを簡単に説明すると、長谷川は少し考え込むような表情をした後、ポンッと軽く時任の肩を叩いた。
 「記憶喪失ってやつなんだろ? だったらさ、あきらめないで昔のこと思い出してみないか?」
 「…思い出せるモンなら、とっくに思い出してるって」
 「今まではきっかけがなかったのかもしれないだろ?」
 「きっかけ?」
 「俺なら昔のお前のこと知ってるし、協力できると思うぜ」
 「けどさ…、思い出すっつっても…」
 「一緒にがんばろうっ、時任」
 戸惑いつつ時任が長谷川の顔を見上げると、長谷川は優しい目で時任のことを見ていた。
 その目を見ると、本当に時任のことを考えて心配してくれていることがわかる。
 そんな長谷川を前にして、時任はその申し出を断ることはできなかった。
 けれど、もしかしたらそんなのはただの言い訳で、時任は心のどこかで思い出したいと思ってしまったのかもしれない。自分の知らない自分のことを…。
 返事をしない長谷川が心配そうな顔をしたが、時任はゆっくりと首を縦に振った。
 「…わぁった。やってみる」
 「そうこなくっちゃなっ」
 こうして時任は、長谷川が荒磯に滞在している一週間、記憶を取り戻す努力をすることを約束したのだったが、そんな二人の様子を見ていた人物が一人いる。
 それは屋上ではなく、それより高い場所、長谷川の入ってきた入り口の上でセッタを吹かしていた久保田だった。久保田は時任が探しに来ているにも関わらず、そこで寝転がっていたのである。
 けれどその視線は、話をしている時任と長谷川ではなく空に向けられていた。

 まるでそんな二人の姿から目を背けるように…。

 久保田は仲良く話しながら校舎の中に二人が消えていくと、まだ十分に吸える長さのセッタを右手でコンクリートに押し付けて消す。
 するとそこには、同じように押し付けられたセッタが何本も落ちていた。
 火を消す目的以上の力を込められて消された吸殻が、何本も、何本も…。
 もう一本取り出そうと久保田がポケットに手を伸ばすと、そこにはもうセッタは残っていなかった。
 「タバコ…、切れちゃったなぁ…」
 久保田はそう言うと、目の前に広がる青空とまぶしい太陽を顔の上に両手をかざして隠した。
 そして太陽の熱で両手が熱くなるのを感じながら、その光に少しだけ透けた感じの自分の指を見つめるとその指先が少し黄色くなっているのがわかる。
 それを見ながら、ゆっくりと何かを思い出そうとするかのように久保田は目を細めた。
 「中毒ってなかなか治らないんだよね…」
 そんな風に呟きながら、久保田は自分の手の甲を目の上に押し付けた。
 
 まるで、上から降り注いでくる何かに耐えるように…。
 
 結局、時任の前に久保田が姿をあらわしたのは、授業が終って放課後になってしまってからだった。






 放課後一件ケンカを止めて無事に公務を終了した久保田と時任は、お互いに今日あった事を何も話さないままマンションに戻った。長谷川との約束を時任はまだ何も久保田に話さないままだったし、久保田の方もいなくなった訳を時任に話していない。
 そのせいか、二人とも自然にいつもより口数が自然に減っていた。
 夕食を食べた後、久保田は新しく買ってきたセッタを吹かして本を読んでいたが、時任はどうしても落ち着かないらしく、何もせずに床の上をゴロゴロと転がっている。
 久保田は何も話すつもりはない様子だったが、時任は久保田に何も言わずに長谷川と約束してしまったことが、どうしても心に引っかかってしまっていた。
 思ったことをすぐ顔に出してしまうせいか、時任はいつも久保田に隠し事ができないでいる。
 本当は部屋に戻ったらすぐに久保田に長谷川とのことを話す気でいたが、なぜか自分が過去を思い出そうとしていることを知られたくないような気がして、らしくなく口を重く閉ざしていた。
 言ってしまえば楽になるとわかっているのに…。
 けれど、そうやって隠そうとすればするほどなんとなく寂しくなってくる気がして、時任はソファーにあったクッションをぎゅっと抱きしめて、無意識に何か言たいと訴えている瞳を久保田に向けた。
 「なぁ、久保ちゃん」
 「ん〜、なに?」
 「…やっぱ、なんでもない」
 「そう」
 「久保ちゃん」
 「ん?」
 「呼んでみただけ」
 「・・・・・・どしたの?」
 「べつに…」
 何度も何度も久保田の名前を呼んで、返事をするとなんでもないと言う。
 そんなことを時任が繰り返していると、返事するのが面倒になったのか、久保田が本を置いて時任のそばまで歩いて来る。時任は久保田がそばに来たのを確認すると、その足に寝転がったままじゃれるようにしがみ付いた。
 「なにやってんの?」
 「猫のマネ」
 時任がそう言うと、久保田は小さく笑って時任の頭をくしゃくしゃっと撫でる。時任は頭を撫でられて気持ち良さそうに目を細めながら、ますます久保田の足にしがみ付いた。
 「…あのさ」
 「うん」
 「久保ちゃんは、忘れたくねぇコトとかってある?」
 「あるけど?」
 「もしもだけど、それ忘れちまったりしたら? そしたら、久保ちゃんはどうすんの?」
 時任がそう聞いてきたのは、たぶん自分のことを聞いてきたのだと久保田にはわかっていた。
 忘れたくないことを忘れたらどうするのかと、時任は久保田に聞いているのである。
 久保田はしばらくの間じっと時任を見つめていたが、手を伸ばして足にしがみついている時任の腕を外させると、両手首をつかんで床へと押さえ込んだ。
 押さえ込まれた時任は、ちょうど上から覗き込むように自分を見ている久保田を真っ直ぐに見返す。
 けれどその瞳は、真っ直ぐ向けられてはいたものの、どこか迷いの色を浮かべていた。
 まるで何かを怖がっているかのように…。
 久保田はそんな時任の瞳を見つめてから、まぶたの上にそっとキスを落とした。
 「忘れたくないコト忘れた時は、きっと…」
 「きっと?」
 「忘れたくないって思ってたコトも、大切だって思ってたコトも忘れてるから…」

 ・・・・・・だから思い出せないかもね。
 
 久保田の返事を聞いた時任の瞳が、少しだけ悲しそうに揺れる。
 そんな瞳をさせてしまうことを知っていながら、久保田はその言葉を口にしていた。
 時任の手を離したくないと思っているはずなのに、そんな想いを打ち壊すように言葉が嘘をつく。
 こう言えば時任が思い出そうとすることを知っていながら、久保田はまるでそうなるように仕向けるかのようにそう言っていた。
 
 大切だと思っていたことすら忘れていると言うなら…。
 その想いとともに思い出したい、取り戻したいと願うに違いないのに…。
 
 もしも思い出して、暖かい記憶が、戻れる場所があったら、時任がココからいなくなってしまうかもしれなかった。久保田の腕の中からどこか遠くへ、手の届かない場所へと…。
 そうなるかもしれない可能性を思いながら、わざとそうなるように仕向けてはしても、久保田は少しも時任から離れる覚悟も準備もしていなかった。
 時任がいなくなることを想像することすらできなくて、冷えていく指先を見つめていることしかできない。
 それなのに、そんな自分を知りながらも止めることができなかった。
 君の幸せだけを願ってるなんて、そんな臭いセリフを言うつもりなど少しもないのに…。
 時任が好きだから、強く想いすぎているから、その痛みに耐え切れずに心がその想いを突き離す。
 何よりも誰よりも大切だったから、ここに…、そばにいて欲しかった。
 けれど、だからこそ閉じ込められなかった。

 こんなに狂おしいほど恋していても、永遠も幸福も何も誓えなかったから…。

 「なくなるなら…、いらない…」
 「…えっ?」
 「…最初から、なかったら良かったのにね」
 「久保ちゃん?」
 時任が不安そうに久保田の名を呼んでいたが、久保田はそれには答えずに包み込むように腕を伸ばして時任を抱きしめると眠るようにそっと目を閉じる。
 まるで二人の中で揺れている不安が満ちてしまったようなこの部屋で、やがてそのまま久保田と同じように時任も眠りに落ちた。




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