同居人.8




 「なんで、こんなにイライラしなきゃならないんだっ。時任先輩が殴られてボコボコにされたって、痛くもかゆくもないはずなのにっ」

 時任に渡された久保田の制服を持って、さっきから藤原はそんなことばかりをぶつぶつ言いながら廊下を歩いている。それはせっかく久保田と話す口実ができたというのに、どうしてもさっき見てしまった手紙のことが頭から離れないせいだった。
 別に時任からは久保田に制服を渡せと頼まれただけで何も言われていないし、何も聞かされていない。だから手紙を見なかったフリをすればそれで済むことだし、もしも時任に何かあったとしても知らなかったと言えばいい。
 だが、そう思おうとすればするほど、時任の事が気になって仕方が無かった。
 時任がそばにいない時に久保田と話す口実があるなんて、そんな機会はめったいにないのというのに、いつもみたいに妄想の世界に旅立つこともできなくて藤原はムッとした顔をしている。久保田の制服からはセッタの匂いがしていて、それを抱きしめているとうっとりとしたいい気分になるけれど…、

 自分に制服を渡した時任の方に…、後ろ髪を引かれてしまっていた。

 このまま制服を渡せば、いつものようにおざなりな感じではなく少しは久保田と話すことができるかもしれない。けれど、そんな風に思いながらも…、ふと久保田よりも時任の方と良く話をしている自分に気付いてしまったりして…、
 それがどうしたと心の中で呟きながらも、ちょっとだけ複雑な気分になる。藤原にとって時任は久保田をめぐってのライバルでそれ以上でも以下でもなかったが、もしもそれが時任ではなく別の誰ならもっと楽だったかもしれないと思うことがあった。
 久保田の視線を追うといつもそこには時任がいて…、その視線の先にいる時任をずっと見ていると好きになった理由が少しずつわかってくる…。
 それを感じながら…、くやしいっ、嫌いだ大嫌いだと連呼して…、
 
 けれどそれでも、何かあった時に自分を助けてくれそうな相手は時任だけだった。

 いつもバカだとかアホだとか変態だとか言われてて、そう言われてすごくムカツクいてるのに、なぜそんな風に思えるのか不思議でたまらない。けれど、いつだったか不良に襲われた時、保健室のベッドで目覚めた瞬間に見たのは心配してる時任の顔だったから…、その時のことが心のどこかに残っているのかもしれなかった。
 自分のことを時任が心配するなんて意外すぎるし、どうせ心配されるなら当たり前に時任より久保田にされたい。でもそう思いながらもいつもケンカしてても心配したりする…、そういう所が時任らしい気がする。
 けれど、藤原はいつものように今も時任の悪口ばかりを言っていた。

 「すぐ怒鳴るし殴るしうるさいしっ、野蛮でガサツで乱暴だしっ…」

 藤原が何かを打ち消そうとするかのように時任の悪口をブツブツ呟いていると、その目の前を同じ執行部員である桂木が通りかかる。おそらく、桂木はこれから公務のために生徒会本部に行くつもりに違いなかった。
 同じクラスの桂木に聞けば久保田の居場所がわかるかもしれなかったが…、藤原は駆け寄るとなぜか久保田の制服を桂木に押し付ける。そして、いつになく真剣な顔で桂木に制服を久保田に渡すように頼んだ。
 「すいませんけど、コレを久保田先輩に渡してください…」
 「…って、どうしてアンタが久保田君の上着持ってんのよ?」
 「どうしてって、そんなのは僕の方が聞きたいですっ!」
 「はぁ?」
 「とにかくっ、ちゃんとそれをを久保田先輩に渡してくださいっ」
 「ちょ、ちよっと待ちなさいよっ! これからアンタも公務でしょっ!!」
 「今日は用事があるんですっ!!!」
 「用事って何の用事よっ! サボリは許さないわよっ!!」
 「サボリじゃありませんってばっ!!!」

 「待ちなさいっ!!藤原っ!!!」

 後ろから呼び止める声が聞えたが、藤原は立ち止まらない。それはハリセンの餌食になりたくなかったから立ち止まれなかったというのもあるが、ここであの手紙のことを桂木に知られたくなかったことが理由だった。
 もしも時任が手紙で呼び出されたことを知れば、確実にこのことは久保田に伝わる。そうしたら、久保田は間違いなく時任の所に行くだろう。
 いつものように当たり前に…、わき目も振らずに…。
 そんな場面を今までも何度か見た事があったけれど、まるで時任だけしか目に入らないかのように真っ直ぐに走っていく久保田の背中を見たくない。だから、藤原は誰にも言わずに手紙に書かれている現場に行って、時任がいつものように相手を倒した所を確認するだけにしようとしていた。
 きっと…、いつもみたいに時任は圧倒的な強さで勝つに違いない。時任の強さを一番良く知っているのはいつも蹴りを入れられている不良達かもしれないが…、その様子を何度も見ている藤原も良く知っていた。

 「今回だっていつもみたいに大丈夫に決まってるっ、絶対に…」
 
 そう言いながらも、なぜ手紙に書かれている現場に行こうとしているのか自分でもわからない。けれど藤原はあわてて靴を履き変えると、彼女を助けに行った時任の後を追うように外へと走り出した。
 そんな藤原の後ろ姿と久保田の制服の上着を交互に見ていた桂木は、不審な顔をして首をかしげる。あわてていた様子から本当に用事がありそうだということはわかったが、なぜ久保田の制服を持っていたのかという所が謎のままだった。
 本人から預かってくれと頼まれたのか、それとも置き忘れていたのを見つけたのか…、直接、久保田に聞けば何か事情がわかるかもしれないがこれを藤原が持っていたことが不思議でならない。そしてそれ以上に不思議なのは…、やはり藤原が自分で制服を久保田に渡そうとしなかったという点だった。
 
 「いつもなら、よろこんで自分で久保田君に渡しに行きそうよね…」

 桂木は眉間に人差し指を当てると、同じように公務のために生徒会室に行こうとしていた相浦を呼び止める。そして藤原がしたのと同じように、持っていた久保田の制服を相浦に押し付けた。
 「これを久保田君に渡しておいてくれる?」
 「これって久保田の制服??」
 「たぶんね」
 「たぶんって…」
 「藤原から渡されたから、くわしいことは知らないわ。そんなことより、ちょっとこれから外出してくるから今日の公務はお願いね」
 「お、お願いって、一体どこに行くつもりだよ?」
 「ちょっとだけ、気がかりなことがあるの…」
 「おいっ、桂木っ!!!」

 「それじゃ、まかせたわよっ」

 相浦は久保田の制服を握りしめて呼び止めようとしていたが、桂木も藤原と同じように急いで靴を履き変えて振り返らずに玄関を出る。すると、前方に走っていく藤原の姿が見えた。
 ここで藤原を見失ってしまったら、公務を相浦に任せて出てきた意味がない。桂木はキリリと表情を引きしめると、本格的に藤原を追いかけて尾行し始めた。
 それは藤原には色々と前科があるからということもあったが、それよりも何よりも久保田の制服は時任が持っていた方が自然に思えたからである。未だに時任は授業にも出ず姿を消したまま、どこにいるのかわからず姿が見えなかった。
 あわてていた藤原と関係があるかどうかはわからないが、嫌な予感はする。
 けれど、まだ確証がないので自分の目で確かめるまでは、他の部員に藤原を疑わせるような発言はしたくなかった。

 「悪いヤツじゃないってちゃんと知ってるけど、執行部員としてアンタを追わないワケにはいかないのよ…」

 たとえ相手が友達だろうとなんだろうと、公務に私情は挟まない。目の前で悪事が行われていたら、それを取り締まるのが執行部員の役目で桂木の任務だった。
 久保田と時任に半ば強引に腕章を渡されたが、それを腕に付けたのは自分の意思で半端な気持ちでつけた覚えはない。執行部員になってから持つようになったハリセンは、自分が女であることに甘えず自分の力で戦おうとする桂木の心息だった。
 腕力では負けるけれど、気合いでは誰にも負けない。校内の治安を守る正義の鉄拳は、執行部のおちゃらけコンビだけの専売特許ではなかった。
 桂木は慎重に藤原を尾行しながら、接触してくる者がいないか周囲にも気を配る。すると電柱の影にいた人相の悪い高校生二人組が、走っていく藤原を見て携帯からどこかに連絡しているのが見えた。
 
 「やっぱり…、これは間違いなく何かあるわね…」

 そう呟くと桂木は二人組にも注意しながら、藤原の尾行を続ける。二人組のまったく気付いていない藤原は、二丁目にあるゲーセンの前にたどり着くと少し立ち止まってからその横にある裏路地に入っていった。
 桂木は二人組が話している隙に、藤原と同じように裏路地に入り込む。すると、藤原は少し奥にある廃ビルの中に姿を消した。
 そのいかにもあやしそうな廃ビルの周囲は、表通りとは違い人通りもなく静まり返っている。けれど、一見誰もいないかに見える廃ビルの窓に人影が動いたのを桂木は見逃さなかった。
 窓から姿を見られないように気を配りながら廃ビルに近づくと正面の出入り口ではなく、横の細い道を進んだ場所にある裏口のドアをゆっくりと開ける。そしてビルの中に進入すると、一階の廊下をいかにも不良といった感じの荒磯の生徒と…、なぜか他校の生徒が歩いていた。

 「おい、聞いたか? さっき二人目が来たらしいぜ?」
 「へぇ、結構早ぇじゃねぇかっ。もしかして久保田の野郎か?」
 「いや、ザコの補欠っ」
 「なーんだザコかよっ、つっまんねぇのっ」
 「けど、予定より早いかもよ?」
 「あーあっ、久保田が早く来ねぇと時任のヤツをボコれねぇじゃんかっ」
 「もしかして、お前の目的って時任? 俺は剣道バカの松原だけどさ」
 「お前、松原なんかにやられたのかよっ、だっせぇっ」
 「そういうてめぇこそ、時任にやられたクセに言ってんじゃねぇよっ、ボケっ」
 「うっせぇっ」

 二人の会話の調子は友達同士の雑談のようだったが、その内容は穏やかではない。それにそんな物騒な会話をしているのが、荒磯の生徒と他校の生徒というところが尋常ではなかった。
 ここに時任が捕まっているらしいということはわかったが、どうやら目的は時任だけではなく執行部全体らしい。誰がこんなことを企んだのかはわからないが、執行部の一人を人質に取って他の部員もここへとおびき出すつもりのようだった。
 見つからないように用心しながら一階を探っただけでも、相当の人数が潜んでいる。それだけ執行部に恨みを持つ人間が多いということなのだが、さすがにこれほどの人数を桂木一人ではどうにも出来ないし、時任を救い出すことも不可能に違いなかった。
 
 「こういう場合は…、やっぱりやむを得ないないわね…」

 桂木は眉間に皺を寄せながらそう呟くと、ポケットに入れていた携帯電話を取り出してメモリーに入っている本部に電話をかける。電話した本部というのはあやしい団体とかそういうのではなく、もちろん生徒会本部だった。
 少しだけいつもより遠い感じのする着信音を聞いていると、やがて聞きなれた声が受話器の部分から聞えてくる。電話に出た相手は丁寧な口調で、生徒会本部の橘ですと自分の名前を名乗った。
 「もしもし…、執行部の桂木だけど、松本会長はいるかしら?」
 『せっかく電話してくださったのにすいませんが、会長は急用で席空け中ですよ』
 「・・・・そう、なら会長に伝えて欲しいことがあるわ」
 『会長にお伝えするのはかまいませんが…、内容によります』
 「でしょうね。けど、伝えてくれなくても状況は変わらないわよ?」
 『それはどういう意味です?』
 
 「これから、緊急事態で執行部全員で出動するから学校を留守にするって…、そういう許可を取るために電話したんじゃなくて、それをただ言いたかったから電話しただけよっ」

 そういい切ると、桂木はそのまま通話を切らずに橘の反応を待つ。許可してもされなくてもこれらか全員でこの廃ビルに出動することは変わらなかったが、その間に学校で何か問題が起こったら、代わりに本部に出動してもらわなくてはならなかった。
 そうそう毎日何かが起こるとは限らないが、やはり何かあった時のために連絡は必要である。そのために本部には、緊急連絡用の電話が設置されていた。
 桂木は何の反応も返ってこないのであきらめて通話を切ろうとしたが、その瞬間に橘の声が再び受話器から聞えてくる。けれど、あまりにもあっさりとした返事だったので、桂木は不審そうに眉をひそめた。
 『執行部不在の件は了解しました、会長には僕からうまく伝えておきますから…』
 「・・・・・・・・」
 『どうかしましたか? 桂木さん?』
 「不在になる理由を何も聞かずに、ずいぶんあっさりと了解するわね? 副会長」
 『それは貴方が言うつもりがなさそうだったので、返事したまでですよ』
 「・・・・それは、執行部を信用してくれてるってことで解釈していいのかしら?」
 『もちろんです。本部と執行部は役目は違っても同じ生徒会ですから、信用し合うのが当然でしょう?』
 「そのわりには、いつも隠しごとが多い気がするのは気のせいかしらね?」
 『それは、貴方の気のせいですよ』
 「・・・・・・・なら、不在の件は任せたわ」

 『執行部の留守中、校内の治安は本部が守ります。それは僕が副会長として保障しますよ、桂木さん』

 最後の言葉に何かひっかかりを感じたが、それはやはり考えすぎで気のせいなのかもしれない。久保田がいつも呼び出されて裏で動いていることがあることを知っているため、本部が執行部を利用しているというイメージが桂木にはあった。
 けれど、今はそんなことを考えるよりも他にしなくてはならないことがある。

 それは捕まっている時任を、執行部全員で救出することだった。

 桂木は再び携帯で相浦に電話をかけると、簡単に状況を説明して松原と室田にここに来るように伝えるよう連絡する。これだけの人数相手では全員で戦うことになってしまうが、やはり執行部の主力は時任と久保田のおちゃらけコンビと松原と室田の青春熱血コンビだった。
 最近、おちゃらけコンビの方は離れがちだが、青春熱血コンビの方は相変わらず一緒にいつも修行で汗を流している。しかし、どうやら青春熱血コンビの方もほのかに恋愛感情が芽生えているらしかった。
 そんな話とは未だ無縁の桂木は、ぎこちなくなっている時任と久保田のことを思い出して小さく息を吐く。そしてすうっと息を吸い込むと、受話器の向こうにいる相浦に松原と室田とは別の任務を言い渡した。
 「状況は携帯でちゃんと連絡するから、アンタは久保田君を探し出して、それから一緒にここまで来ることっ」
 「えっ、でも、早く時任を助けに行かないととヤバイし、久保田なら生徒会室に伝言残して置けばすぐに気付いて来るだろ?」
 「そんなこと言ってて見なかったら、どうすんのっ」
 「そ、それは…」
 「いいっ、探し出すまでココに来るんじゃないわよっ。たぶん時任は、あたし達じゃなくて久保田君が来るのを待ってんだから…」

 「・・・・・・桂木」

 相浦にそれだけ言うと、桂木は通話を切って鳴らないように電源も切る。こちらから連絡する時には携帯は必要だったが、たとえ着信音を消して振動だけにしていてもそれが命取りになることもあるので切っておく方が無難だった。
 桂木は通常使う階段ではなくビルの奥にある非常階段を見つけると、そこを使って時任の居場所を探るために上の階へと登り始める。運のいいことに非常階段には見張りがいないので、握りしめたハリセンを使うことも無くドアに耳を当てて会話を聞いて情報を収集することができた。
 その情報からすると、どうやら時任は一番上の階にいるらしい…。
 桂木はそれを携帯で相浦と松原に伝えると、非常階段を時任のいる階まで駆け上がってドアの向こう側の気配を探る。しかし一人なので行動を起こさず、周囲の様子をうかがいながら松原達が到着するのを待つ方が無難だった。
 だが…、まるで時をはかったようにドアにいる見張りが藤原が下の階で捕まったとの連絡を受けて持ち場を離れる。桂木は少し迷ったが、その隙をついてドアから廊下へと出るとすぐ近くにある部屋に素早く侵入した。
 「今、見つかったら完全にアウトだわ」
 そう言いながらも、桂木の口元には笑みが浮んでいる。実はドアの向こうで松原達が到着するのを待つ方が正しいとわかってはいたが、こうしている間に時任に何かあったらと考えるとじっとしてはいられなかった。
 そんな風に考えると…、もしかしたらここに来て捕まった藤原も同じだったのかもしれない気がする。何か企んでいるかもしれないと後を追ってきたけれど、どうやら捕まった所を見ると今回は完全にシロのようだった。

 「もしも無事に帰れたら、腕章に書いてある補欠は消さなきゃね…」

 そう呟くと桂木は、壁に耳をつけて隣りの部屋の音を聞く。
 すると壁の向こうから、かすかに人の気配と話し声がした。
 桂木は隣りに誰かいることを知るとそこに時任がいるかどうかを確認するために、部屋の窓からベランダへと出る。そして隣り窓にカーテンがかかっているのことがわかると、ベランダを囲んでいる塀をよじ登って下からの風を受けながらその上に立った。

 「高さは高いけど、飛ぶ幅は一メートルもないから飛んだら届くはず…。背中に羽はついてないけど、これくらいあたしにだって飛べるわ」

 少しだけ手が震えていたが、下からの風を受けながらも足は震えることなくしっかりと立っていた。
 桂木は下を見ずに真っ直ぐ前を向くと、向かいのベランダに向かって勢い良くジャンプする。すると、スカートが灰色のビルの隙間を吹き抜ける風を孕んではためきながら、見事にジャンプした桂木の身体と一緒に宙を舞った。
 一瞬、着地しようとした足がコンクリートの上をすべって桂木の額に冷汗が浮んだが、恐れることなく思い切り飛んだおかげで無事にベランダに着地する。そして着地を終えた桂木がふーっと息を吐くと、カーテンの隙間から縛られている時任が見えた。
 
 「時任君…」

 時任の無事だったことに安心して胸を撫で下ろしたが、時任を呼んだ聞き覚えのある声にハッとして身をひそめながら、桂木はカーテンの隙間から中の様子をうかがう。すると縛られて床に転がっている時任とは反対に、縛られていた縄をゆっくりと解かれていく桜井の姿が見えた。
 どうやら時任は、自分の彼女である桜井を人質にされて呼び出されて捕まったらしい。桂木は相手のやり口に表情を険しくすると、なんとかして二人を助ける方法はないかと考え始めた。
 しかし、まだ松原達が到着するまでには時間がある…。
 だが、じっと時任を見ていると手が影でごそごそと動いているのが見えた。もしかしたらと思っていると桜井の縄が解けると同時に、足を縛っていた縄がするりと抜けて解ける。桂木が時任の足の辺りを見ると、そこには四角く折りたたんである新聞紙が見えた。
 どうやら時任は縛られることを予測して、自分の足首に新聞紙を巻いていたらしい。足首に新聞紙を巻いて靴下を履くと縄が皮膚に食い込むのを防げるだけではなく、縛られても新聞紙を抜くことで、その厚みの分だけ縄が緩んで簡単に解くことができる。
 この方法は自分で足を縛ったりしない限りは新聞紙だと巻く時にばれる可能性が高いが、なぜか奇跡的にバレずに済んだらしかった。

 「これっくらいで俺様を縛れると思うなよっ!!!」

 時任は立ち上がってそう叫ぶと、桜井の横にいる男に向かって蹴りを繰り出す。すると時任の足は隙をついて、見事に男の持っていたナイフを蹴りあげた。
 そして未だ後ろ手で縛られたままの手のひらでうまくキャッチすると、襲いかかってくる男の顎に蹴りをお見舞いしてから、桜井の手にナイフを渡す。それから後ろを向くと、縛られている手を差し出した。
 「桜井っ、急いで縄を切ってくれっ!!」
 「は、はいっっ」
 ナイフで縄が切れると、時任は桜井の腕をつかんで自分の方に引き寄せてから背後にかばう。そしてすうっと身を屈めて戦闘体勢を取ると、立ちふさがっている男達を鋭い瞳で睨みつけた。

 「殴られてぇヤツから、さっさとかかって来いよ。ホンモノの正義の鉄拳ってヤツを、とことん味合わせてやるぜっ」

 状況も数も圧倒的に不利にも関わらず、時任にはおびえも焦りも感じられない。逆に時任に睨まれた男の方の額に汗が滲んでいた。
 まるで時任の意思の強さに飲み込まれるように一番先頭にいた男が一歩下がると、周囲にいた男達も連鎖反応を起こして一歩下がる。さっきまでただの囚われの身だったはずなのに、今はこの部屋にいる全員が時任のペースに乗せられてしまっていた。

 これなら、松原達の到着を待つこともないかもしれない…。

 桂木はそう思いかけたが、実は時任のペースに乗せらていない人物が一人いた。
 時任と桜井を眺めながていた主犯格らしき男は、段々とこの部屋に近づいてくる情けない叫び声を聞いて口元に笑みを浮かべる。その笑みを見た桂木は、男が笑った意味を理解してこめかみを押さえて眉間に皺を寄せた。
 「あんのバカ…っ」
 桂木が小声でそう言うと、それと同時にドアが開いて縛られた藤原が部屋の中に蹴り込まれる。時任と桜井のことを考えていて忘れていたが、実はここで捕まっているのはこの二人だけではなかったのだった。
 「ううっ、痛いじゃないですか…って、あれ?時任先輩?」
 「…って、なんでてめぇがココにいんだよ?!」
 「そ、そんなのっ、アンタに関係ないでしょうっ!!!!」
 「・・・・・だったら、ココで勝手に一人で死んでろっ」
 「なーんて、ウソに決まってるじゃないですかっ。嫌だなぁ〜、関係なんて聞くまでもないくらいの僕と時任先輩の仲じゃないですかぁ〜」
 「気色悪りぃから、じりじりと寄ってくんなっ!!」
 「時任せんぱぁ〜い」
 「・・・・・・・・・そういえば、久保ちゃんに上着はちゃんと渡したのかよ?」
 「うっ…」
 「やっぱ死ねっ」

 「うぎゃあぁ〜〜〜っ!!!!」

 執行部を狙っている奴らではなく、時任にげしげしと蹴られながら藤原が床をのた打ち回っている。だが蹴りを入れながらも時任は、縛られている藤原を置いて逃げ出そうとはしなかった。
 もしも藤原の縄を解いて逃げたとしても、二人を守りながら一階まで逃げることはかなり難しい。それに背後から忍び寄った男がナイフを奪い返して、桜井の喉元に鋭い刃を付き付けていた。
 ここに来るまでに何人か倒したが、おそらくそれが全員ではない。
 それを時任は、戦いながら周囲の気配から感じ取っていた。
 それでも暴れるだけ暴れてここに来たのは、近づくと危険だと思わせて自分で自分に縄をかけるよう言わせるためだったのである。それはある種の賭けだったが、その賭けは運良く成功してこのままなんとか桜井を連れて外まで逃げ出すつもりだった。
 階段を登った時のように、自分の力で道を切り開きながら階段を駆け下りて…。
 けれど…、それは藤原のために無駄な努力になってしまった。
 「・・・・・・・どうして、僕を置いて逃げないんですか?」
 「うるっせぇから黙ってろっ!」
 「僕を置いていけば、時任先輩なら逃げられますよね?」
 「だからっ、黙れっつってんだろっ!バカっ!」

 「邪魔だったらっ、さっさと置いて逃げればいいじゃないですかっ!」

 再び逃げ場がなくなって、さっきよりも厳重に両手足を縛られる時任を見ながら藤原がそう叫ぶ。藤原の目の前できつく縛り上げられた時任の手首は、縄が食い込んで赤くなっていた。
 けれど、時任は痛がりもせずにじっと何かを考えている。そして縛られて藤原と同じように床に転がされると、もう一度いつもの調子でバカと言った。
 「役立たずで足手まといでも、助けに来てくれたヤツを置いてけるワケねぇだろっ」
 「・・・・や、役立たずで足手まといだけ余計ですよっ!! それに…、僕はアンタなんか助けに来たワケじゃ…」
 「来てくれてサンキューな、藤原」
 いつもの時任らしくなく素直に礼を言われて、藤原は胸に痛みを感じて顔をしかめた。手紙のことが気になって廃ビルの中をのぞいたら人の姿が見えなかったので、なんとなく中に入ってしまって捕まったのは本当だが…、
 それは、別に時任を助けようとかそんな風に思っていたわけじゃない。
 もしも本当に危ないと思ったら、何もせずに逃げ出していたに違いなかった。
 藤原は縛られている手首に力を入れながら手のひらをぎゅっと握りしめると、まだここから脱出することをあきらめていない様子の時任から視線をそらせる。
 そして時任ではなく…、何もない白い壁を睨みつけた。

 「ちくしょうっ…、やっぱりアンタなんか大っ嫌いだぁぁぁっ!!!!!!」

 その叫び声をベランダで聞いていた桂木は、やっぱり藤原を補欠のままにすることを決めながらため息をつく。そしてポケットから取り出した携帯で人質が増えたことを松原と相浦にメールしながら、こんな状況なのに小さく笑った。

 「…ったく、どいつもこいつもバカなんだから…」

 松原と室田はまだ廃ビルに到着していないし、相浦は久保田を発見できていない。相手は執行部を全員捕らえるまで人質に危害を加えるつもりはないらしいが、それも時間が経つと状況が変化してくる可能性があった。
 桂木は少し焦りを感じながらも、じっと耐えながらベランダで様子を見守っている。
 
 けれど、廃ビルに入る前からそんな自分の様子を見ていた視線があったことに、桂木は気付いていなかった。




                   戻   る          次   へ