同居人.5



 
 長く続く一階の廊下を歩いていると、その向こうから喧騒が聞えてくる。
 その中には時任の声も混じっていて、それはいつものようにやる気で強気だった。
 本当は時任が公務をしている現場に行くつもりはなかったけれど、桂木の言葉に押されるように…、素手でガラスを叩き割ったあの日のように窓からその様子を眺める。だが、今日の相手はたった三人の上に動きも鈍くて、見るからに時任の敵ではなかった。
 この程度の相手なら、誰の助けも借りずに一人で余裕でやれる。
 けれど久保田は立ち去らずに、そのまま窓から時任を見つめていた。

 「何が公務だっ!!いちいち執行部だからって、威張りくさってんじゃねぇっ!!」
 「はぁ? なに言ってんだ。俺は執行部だからって威張ったりした覚えはねぇぜ」
 「ざけんなよっ、たった今、腕章つけて威張ってんだろっ!」
 「だーかーらっ、それは執行部とは関係ねぇし、べっつに腕章はあってもなくてもどっちでも一緒だっつーのっ」
 「はぁ?! てめぇの方こそ何言ってやがんだっ、一緒なワケねぇだろっ!」
 「いんや、マジで一緒だぜ? 腕章があってもなくても、俺様は無敵で最強の正義の味方ってヤツだからな」
 「てめぇ…」

 「悪役らしくやられる覚悟があんなら、とっととかかってきやがれっ!!」

 そう言いながら強気な瞳で時任が相手を見ると、ここで一年の女子にからんでいたらしい不良三人は、カッとなって一緒にいる相浦を無視して時任に飛びかかった。けれど、それを見た時任は恐れることもなく余裕の表情でニッと笑う。
 そんな時任の横顔を窓から愛しそうに見つめていた久保田は…、始まった公務の加勢には行かず、ゆっくりと口元に笑み浮かべた。
 すでに拳を交える前から時任の勝利は決定している。
 それは持っている力の差だけではなく、拳を交える前に相手をあおるのが上手いということも理由の一つだった。
 これは計算とか打算とかそんなものを考えずに時任がいつもやっていることだが、あおることによって相手はカッとなって冷静さを欠いているので戦いやすくなる。そういう相手との駆け引きの呼吸を、時任は自然に身に付けていた。
 それだけ場数を踏んできたというのもあるかもしれないが、だからと言って誰もが拳を交えることが上手くなるワケではない。時任が一見不器用に見えてこういう駆け引きが上手いのは、たぶん野生のカンのような天性のものに違いなかった。
 時任はかかって来ようとしている相手よりも早く走り出すと、素早く蹴りを繰り出して一人目を蹴り倒し、そしてすぐにかかってきた二人目に拳を繰り出す。ケタ外れに強いのは相変わらずだが、この戦い方は久保田がいる時の戦い方とは違っていた。
 いくら強くても一人で自分より人数が多い相手と戦うのには限界がある。
 そのため、一度にかかって来られて動きを封じられるのを防ぐために、いつものように相手が来るのを待っていることはできなかった。
 戦ってるのは相浦もいて一人ではないが、時任は相浦に背中を守らせない。意識しているのかいないのかは本人にしかわからないが、時任の戦い方は一人で戦う時の戦い方だった。

 「相変わらず強いですね…、時任君は」

 そう言ったのはもちろん久保田ではなく、廊下を通りかかった橘である。いつも一緒にいる松本が横にいない所を見ると、もしかしたら久保田のいる場所を通りかかったのは偶然ではないかもしれなかった。
 文化祭で時任に桜井と付き合うように進めたのは橘だったが、その後は何も仕掛けてはこない。しかし何の裏も理由もなく、ただの親切心で橘があんなことを言い出すとは考えられなかった。
 橘は最後の一人に蹴りを入れている時任の方を見て、それから久保田の方を見るといつもの優美な微笑みを浮かべる。だが、再び時任に向けられた瞳がその微笑みを裏切っていた。
 「時任君と貴方がコンビを組むようになって、どれくらいになりますか?」
 「さぁ?」
 「長いような気がしますが、実際は短いでしょう?」
 「それがなに?」

 「貴方は時任君より、会長とコンビを組んでいた期間の方が長いはずです」

 唐突にそんな話を始めた橘は、そこで言葉を切ると目の前にある窓を開ける。すると、そこから冷たい風が吹き込んできて、窓辺に立つ二人の間を吹き抜けた。
 けれど、二人ともその冷たさに身を震わせることもなく、その場に立っている。
 そして…、その二人視線の先には無事に公務を終えた時任がいた。
 時任は公務を終えると大きく伸びをして、参戦することもできずにぼんやりと様子を眺めていた相浦の方に向かって笑かける。すると相浦は苦笑しながら時任に近寄って、同級生らしくふざけ合うように肩を軽くポンっと叩いた。
 だが、時任は肩を叩いた相浦の方は向かずに、何かに気付いたようにゆっくりと視線を久保田と橘の立つ窓辺の方へと向けようする。
 けれど…、その瞬間に別の方向から時任を呼ぶ声がした。
 「時任くんっ、大丈夫?! ケガとかしてない?」
 「バーカっ、これくらいで無敵の俺様がケガなんかするかよっ」
 「うん、そうだよね…、時任君は無敵の執行部員だものね。でも、本当に良かったケガしてなくて…」
 「桜井・・・・」
 「・・・・・・」
 公務をしている様子を見ていたらしい桜井は真っ直ぐに時任のそばに駆け寄ると、心配そうな顔をして時任の顔を見上げる。執行部員ならこの程度は日常茶飯事なので馴れてしまっているが、桜井にはやはり危険に見えてしまうのかもしれなかった。
 時任はそんな桜井の頭を、ちょっと照れくさそうにしながら軽く叩く。そして笑かけると、そのまま教室に向かって歩き出した。
 「心配いらねぇつってんだから、そんなカオすんなっ」
 「・・・・・・うん」

 「けど…、サンキューな」 
 
 時任が桜井がいて、それは彼氏と彼女で…、そして目の前の光景は未来でも過去でもなく現実だった。
 初めは不自然に感じていたことでも、それが続くと当たり前になってくる。それは初め久保田が時任の隣りに並ぶようになった頃、何があったのかと不思議に思った生徒達が噂していた時と同じだった。
 本当は当たり前のことなんて、何一つなくて…、
 ただ同じ事が少し長く続いたせいで、それが当たり前だと錯覚しているだけで…、
 だから、こんな風にいずれ久保田ではなく、桜井が時任の隣りにいることが当たり前になっていくのかもしれない
 
 あまりにも簡単に…、時の流れのまま自然に…。

 いずれはやってくる現実から目をそらすように立ち去る時任の背中から視線を外すと、久保田は時任達が向かった教室とは別の方向に歩いて行こうとする。けれど、それを同じように時任の背中を見つめていた橘が呼び止めた。
 「せっかく公務も時任君が一人で片づけてくださったことですし、もう少しだけ話に付き合ってくださいませんか?」
 「うーん、公務がなくても無駄話に付き合うほどヒマってワケじゃないんで、できれば遠慮したいんですけど?」
 「やはり会長でなければ話は聞けませんか?」

 「べつに…」

 何か別の意味が込められているような言葉に簡単に答えると、久保田はポケットからまだ封を切っていないセッタから一本取り出して口にくわえる。その仕草は松本と中学で執行部でコンビを組む前から吸っていたせいで、かなり手馴れていて様になっていた。
 久保田は昨日使っていた使いかけのライターではなく、学校に来る途中で新しく買ったライターで火をつけて煙を深く吸い込むとふーっと息を吐き出す。
 それを見ていた橘は、そんな久保田の様子に軽く肩をすくめて話を続けた。
 「そうですね…、貴方の方は会長をなんとも思っていないのかもしれません。ですが、会長の方は違います。会長は貴方と二人で生徒会本部に入るつもりだった…」
 「そう」
 「本当は副会長として会長の隣りに立っているはずだったのは、僕ではなく貴方だったはずです。なのに、貴方は会長の誘いを断って執行部に入った」
 「だから?」

 「僕は貴方が座るはずだった副会長の椅子に座って、貴方の代わりに会長の隣りに立っているんですよ…」

 そう言った橘は久保田に向かって、いつもより更に妖艶に艶やかに微笑む。だが、その瞳に写っているのは、松本が右腕に選んだ男に対する嫉妬心だった。
 現在は松本の隣りには橘が立っているが、その前は久保田がその隣りにいたのは事実で…、そして橘が言っているように松本が副会長にならないかと久保田を誘ったのも事実である。もしも久保田が誘いを断らなかったら…、その原因になる時任の存在がなかったら…、松本と生徒会本部にいたのかもしれなかった。
 たとえ久保田と松本の関係が暖かいものではなかったとしても…、コンビを組んでいたことも、これからも一緒にと言われていたことも事実である。
 橘は微笑みを浮かべたままでゆっくりと手を伸ばすと、久保田のくわえているタバコを奪って、そのタバコの火を壁へと押し付けた。

 「僕は貴方に会長の元に戻って欲しいんです…、久保田君」

 時任の元を離れて…、松本のそばに…。
 その言葉の本当の意味は、口からではなく強く冷たい視線が伝えている。
 松本とにとって自分が二番目だということを知っているからこそ、本当は副会長になることは橘のプライドをひどく傷つけていた。けれど、松本の申し出を断れなかったのは、それでも少しでも近くにいたかったからで…、
 だから、どんなにプライドが傷ついても首を横に振ることができなかった。
 この機会を逃してしまったら、今度はまた別の誰かが副会長のイスに座ることになる。それだけはどうしても避けなくてはならなかった。
 けれど副会長になってからも、松本は相変わらず何かが起こると橘ではなく久保田を呼ぶ…。それは表立って本部が動けないせいだと言うことは十分に承知してはいたが、やはり割り切れないものがあった。
 二人の間に利害関係しかなかったとしても、松本が久保田のことを誠人と呼ぶたびに…、らしくなく衝動的に何かを壊したくなる。
 プライドと松本を想う気持ちがせめぎ合って、心を揺り動かしていた。

 もしも…、副会長が自分ではなく久保田だったら…。

 そんなことは仮定するだけ無駄でなんにもならないとわかってはいても、どうしてもその先が知りたくてたまらない。
 久保田が副会長だったとしても、松本が自分を選んだのかどうかを…。
 だから、自分自身を冷ややかな瞳で見つめ自嘲しながら…、まるで静かな水面に水滴を落とすように…、桜井に告白された時任に向かって話しかけた。
 お互いを誰よりも見つめながらもいつまでも相方で同居人のままでいる、久保田と時任を別れさせるために…。
 けれど、まるで答える必要は無いとでも言うように、久保田は何も言わずに再び歩き始める。だが、その背中に向かって橘は言葉で切り付けた。
 「時任君は、本当は誰の助けも必要としていないはずです…。さっきの公務の時のように一人でも戦えるすべを知っていますから…。そしてそれは貴方も知っているはずでしょう?」
 「さぁ?」
 「貴方がいなくても、時任君は大丈夫です…。これからは桜井さんもいるので、彼女が恋人として時任君を支えてくれるはずしね。それにきっと時任君がいないことにも、貴方ならすぐに馴れますよ」
 「・・・・・・・・・」

 「貴方と手を繋いだ手で可愛い彼女と手を繋いでいる…、時任君と同じように…」

 そんなセリフを言いながら橘が感じた痛みはあまりにも鈍くて重くて…、それを感じていると心がマヒしていくような気がする。遠くなっていく久保田の背中を見ながら、マヒしていく心を止めようとしているかのように…、橘は手に久保田から奪い取った煙草をきつく握りしめた。
 すると、まだ消し残ったわずかな火が皮膚を刺すように焼いたが、握りしめられた手のひらは開かないままで…、

 その中で煙草が未だ消えずに、かすかに煙を出しながらくすぶり続けていた…。














 「久保ちゃん…、俺らは相方じゃなかったのかよ…」

 一緒に教室に戻る途中で友達に呼ばれた桜井と別れて、時任は一人で教室ではなく屋上に来ていたが、そう呟くと金網に寄りかかって冷たいコンクリートにしゃがみ込む。すると、授業開始のチャイムが鳴ったが教室には戻らなかった。
 そんな風に校舎に鳴り響くチャイムを聞きながら考えるのは、やっぱり今は一緒にいない久保田の事で…、
 けれど、いくら考えても胸の奥の痛みも罪悪感も取れない…。
 時任は小さく息を吐くと、こっそりとマンションから持ってきた久保田の使っていた使いかけのライターをポケットから取り出して火をつけた。
 そのオレンジ色の火を眺めながら…、朝、久保田が消毒して貼ってくれた頬にあるガーゼを軽く撫でる。すると、そこから感じる痛みは昨日よりも小さくなっていたけれど、胸の奥の痛みは昨日よりも強くなってしまっていた。

 「タバコ吸ってたらガンになるって、いっつも言ってんのに…。ぜんっぜん聞いてくんねぇんだもんな…」
 
 時任はそう言うと、ライターと一緒にくすねてきたセッタをくわえて火をつけた。
 すると、吸いなれていないせいですぐに咳き込んでしまいそうになる。けれど、それでも赤く小さく燃える火を消さずに…、ずっと痛み続けている胸の中に煙を吸い込んだ。
 ベランダで吸うことに決めた久保田は、本当にリビングでも寝室でもセッタを吸わない。だから、その分だけ部屋の空気は綺麗になったけれど…、
 灰色の煙は時任ではなく、久保田の肺だけを犯し続けていた。
 それは久保田が望んでしていることだから、仕方ないのかもしれない。でも、久保田だけの肺を犯していく灰色の煙が立ち昇っていくのをベランダの窓越しに見た時…、リビングの空気は綺麗になったはずなのにどうしようもなく息が苦しくなった。
 
 『これ以上、お前の肺を汚すワケにはいかないから…』

 窓を閉める前に言った久保田の言葉が…、まるで別れの言葉のように聞えて…、
 その言葉を思い出すたびに、こんな風に久保田の肺だけが汚れていくのを見るくらいなら…、何も言わずに一緒に汚れれば良かった気がして…、
 そう思ったら手が自然に、リビングに置いてあった久保田のセッタとライターをつかんでいた。
 時任の吸っているセッタの煙はゆるゆると空に昇って…、途中で消える…。
 その様子を見ているとタバコは苦くてけむたくて嫌いだったが、少しだけ久保田がタバコを吸うわけがわかった気がした。
 でも…、それが少しわかっても開いてしまった久保田との距離が埋るわけじゃない。
 今日の公務は相浦と出動したけれど…、本当は久保田が見ていた事に気付いていた。だから公務が終わった瞬間にそちらの方に振り返ろうとしたけれど…、桜井の呼ぶ声がしたから振り返ることができなくて…、
 見つめてくる視線に、いつものように笑いかけたかったのにできなかった。
 彼女ができても部屋に戻れば二人きりで、公務も相方だから二人で行くのが当たり前だったはずで…、けれどいつの間にか部屋の空気は重くなり、公務も見回りの時以外は二人で出動することが少なくなっている。

 それは桜井がいる時は、久保田が絶対に時任に近づかないせいだった。

 何があっても壊れない…、何があっても揺るがない…。
 そう信じていたのに、久保田の存在が日を追うごとに遠く遠くなっていく…。
 いつもは久保田といた時間、彼女の桜井と話して笑って過ごして…、それが楽しくないわけではなかったけれど…、
 ふと、窓に写った笑みを浮かべているはずの自分の顔が、中途半端に笑いそこねて引きつっているように見えた瞬間…、
 破裂しそうなくらい、心臓の鼓動が大きく一つだけ跳ねた。

 「なんで…、なんでなんだよ…、久保ちゃん」

 時任は手を金網に伸ばして、それをきつく握りしめながらそう言ったが、屋上のドアが開く様子はない。いつもはここにいると久保田が見つけてくれるけれど…、今日は授業終了のチャイムが鳴っても…、屋上のドアは開かずに誰も来なかった。




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