同居人.4
「・・・・・ただいま」
「おかえり」
学校で一緒にいる時間が減っても、それ以外の時間が減ったわけではない。
けれど、今はその時間が遠くなった距離の分だけ重く重くなってきていた。
久保田はいつものようにただいまを言った時任に返事を返すと、吸っていたセッタの長くなった灰を吸殻が多量に入った灰皿の上に落とす。それを見た時任は珍しく何も言わなかったが、セッタの煙の充満した部屋の中は空気と視界が悪くなっていた。
なにもかも見えてはいるけれど、煙のせいで見えていてもすっきりとしない。
だが久保田はそんな煙の中から、窓の方へと歩いていく時任の横顔を見た…。
自称美少年というだけあって顔立ちは整っているし、少しやせすぎだが手も足も長くて身体のバランスもいい。けれどその中でも特に印象的で目を引くのは、いつも真っ直ぐ見つめてくる…、強い意思を感じさせる瞳だった。
その瞳が自分の方を向いた瞬間に、久保田が吸っていたセッタを灰皿に押し付けてまた新しくポケットから出してくわえようとする。するとそれを見た時任の眉間に皺が寄ったが、もしかしたらそんな表情をさせたくてそうしたのかもしれなかった。
「いい加減…、タバコ吸うのやめろよ、久保ちゃん」
「やっぱケムイ? ケムイならベランダで吸うから…」
「…って、そうじゃなくてっ」
「なに?」
久保田が灰皿を持ってベランダに移動しようとすると、その前に立ちはだかって時任がそれを止める。いつもはやめろとは言ってもあきらめ半分なところがあったが、今日は本気で吸わせないとそう真剣に見つめてくる瞳が言っていた。
何かを伝えようとするかのように、じっと久保田だけを見つめて…。
けれどそんな時任の瞳を見返しながらも、久保田はすぐに視線をはずして横を素通りしようとする。だが、時任が腕をぐいっとつかんでその足を止めさせた。
「ケムイのもあるけど…、カラダに悪いだろっ」
「うん、だからベランダで吸うって言ってるんだけど?」
「・・・・・・・」
「腕、放してくんない?」
「違う…」
「なにが?」
「悪いのは俺じゃなくて久保ちゃんの…!」
「だったら、それが理由ならやめる必要ないっしょ? 悪いのわかってて、好きで吸ってんだし」
「俺が…、俺がやめろっつっても?」
「やめないよ」
久保田の返事に迷いはなかった…、ほんの少しも…。
無意識にポケットに伸ばしてしまう手が煙を吸ってうまいと感じることが、それが全部単なる中毒症状でしかなくても、今更やめようという気分にはなれなかった。
服にも髪にも身体中にセッタの匂いが染み付いていて、その匂いはもうマヒしてしまっていて自分ではあまりわからない。だから、それを知ったのはベッドに寝転がった時任が、部屋だけじゃなくてシーツまでタバコ臭いと言ってからだった。
いつもはどちらかがソファーで寝ることになっているが、同じ時間に眠くなった時は一緒にベッドにもぐり込むこともある。その時にベッドが狭くて自然に時任を抱きしめる形になったりしても、時任はそれを嫌がったりはしなかった。
腕の中にある時任の身体のあたたかさを感じることは気持ち良くて、ずっと抱きしめていてたくなるけれど…、それを感じ続けているとそのあたたかさが苦しみに変わる。
二人の間にある境界線を越えるくらい衝動的に…、確実に…。
境界線を越えて抱きしめたいが抱きたいに変わる瞬間…、それはなぜか肺の中が、胸の奥にある想いが…、
有害な煙に犯されていくような感じに似ていた。
久保田は煙の苦さを噛みしめながら、腕をつかんでいる時任の手を無視してそのままベランダへと続く窓へと近づく。すると、時任の身体もベランダの方へと引きずられてしまっていたが、やはり強く足に力を入れてそれを止めようとしていた。
そんな時任の行動に細く長く息を吐くと、久保田は自分の腕をつかんでいる手の上にガラスで切れて傷ついている方の手を重ねる。すると、はっとしたように時任の手からゆっくりと力が抜けていった。
「手に巻いてた包帯はどうしたんだよ?」
「はずれた」
「はずれたって…、ちゃんと巻いてねぇとバイ菌とか入るじゃんかっ!」
「だぁね」
「…って、ちょっとそこで待ってろっ!!」
命令口調でそう言うと、時任はあわててクローゼットの中に置いてある救急箱を取りに走る。けれど、そんな時任の頬にもまだガーゼが貼られていた。
久保田は時任がリビングから出ていくのを見送ってから、ベランダへと続く窓に手を伸ばしたが痛みを感じて手を止める。だがその痛みが傷からなのか、それとも別の所から来ているのかはわからなかった。
「どんなに強く握りしめてくれてもこんな手じゃ…、もう握り返せないかも、ね…」
そんな呟きが久保田の口から漏れたが、その声は時任には届かない。
少しして救急箱を片手に戻ってきた時任は消毒液を脱脂綿に染み込ませて、まだ傷口のふさがっていない久保田の傷を消毒しはじめた。
いつも騒がしくてガサツに見える時任だが、その手は思うよりも傷の手当てはていねいで優しい。その傷を手当てする手付きはなんとなく、公務中になにかとケガの多い時任を手当てする時の久保田の手付きに似ていた。
不器用ながらもきちんとガーゼを貼り付けて、ゆっくりと包帯を巻いて…、最後にきつくならないように気を付けながら結ぶ。時任は今日の朝よりも上手く結べた結び目を見て、満足そうな顔をした。
その顔を見た久保田は包帯を結び終わった手を伸ばして…、時任の頭をぐしゃぐちゃっと乱暴に撫でる。すると撫でられた時任は、いつもなら子供あつかいするなと怒鳴るのに今日はうれしそうに目を細めて、気持ち良さそうにおとなしく撫でられていた。
ひとしきり撫で終わって久保田が手を降ろすと、時任は澄んだ綺麗な瞳でじっと久保田の瞳を覗き込んでくる。
真っ直ぐにただひたすら真っ直ぐに見つめてくる時任の瞳の中には、同じように真っ直ぐ時任を見つめている久保田が写っていた。
「・・・・・あのさ」
「ん?」
「俺の相方は久保ちゃんしかいねぇから絶対に、だからこれからも…、ずっと…」
「・・・・・・・・・・・・お前が、そう望むなら」
「え?」
「べつになんでもないよ…。そうだねって言っただけ…」
「そんなのウソだっ! この前から学校でもいつも別々で、俺のコト避けてるみたいだし…」
「それはカノジョがいるからでしょ? いくら告白された側でも、大事にしないとふられちゃうよ?」
「・・・・・・・・・・けど」
一緒にいることが少なくなったのは彼女ができたからで…、避けている訳じゃない。そう時任には言ったがそれはウソで、久保田はゆっくりとゆっくりと距離を作って離れる準備をしていた。
胸の奥の想いも…、沸き起こる衝動もなにもかもを押し隠したまま…、
消えないなくならない痛みを…、包帯の巻かれた手のひらの中に握りしめて…。
久保田は同じ日に傷のついた時任の頬に軽く手を当てると、じっと見つめてくる瞳に安心させるようにいつもと同じように優しく微笑みかける。そしてそれから、セッタを吸うためにベランダへと続く窓を開けた。
「久保ちゃん…、どうしても吸うんだったらリビングで吸えよっ」
「ん〜、せっかく許可してくれたのに悪いけど、やっぱやめとくわ」
「なんで?」
「これ以上、お前の肺を汚すワケにはいかないから…」
そう言いながら窓を閉めると、ガラス越しにリビングに立ち尽くしている時任の姿が見える。二人の間にあるのはたった一枚のガラスだったが、そのたった一枚が二人の世界を分けてしまったかのように見えた。
静けさだけが二人の間に落ちて…、久保田は時任に背を向ける。そしてセッタをくゆらせながらベランダに立つと、夕闇に沈んでいく冷たい灰色の空が広がっていた。
まるで、立ち上っていくセッタの煙に汚されてしまったような空は…、
それを見上げている久保田の心のように冷たく凍りついて灰色のまま…、今日も明日も晴れそうになかった。
私立荒磯高等学校、執行部…。
校内の治安を守るのが執行部の仕事で公務だったが、その公務を行うのはいつからいつまでと時間が限定されている訳ではない。治安を乱す何かが起これば、授業中だろうとなんだろうと執行部員として公務を果たさなくてはならなかった。
けれど、公務は内容が内容だけに危険をともなうので、基本的に公務のための出動は二人ということになっている。
松原と室田…、そして久保田と時任…。
主にこの二つが出動するが、そろっていない場合は臨時として相浦が一緒に出動していた。
だが、ここの所いつも一緒にいるはずの久保田と時任が一緒にいないため、相浦が出動が増えている。今日も教室に他のクラスからケンカが始まったから止めてくれという生徒が飛び込んできたが、その時、久保田は不在で時任しかいなかった。
桂木は小さく息を吐くと、すでに走り出している時任と近くにいた相浦に声をかける。けれど、その声はいつもより少し切れが悪かった。
「時任と…、それから相浦も一緒に出動よっ!」
「りょーかいっ」
「これっくらいっ、俺様一人でもヘーキだっつーのっ!」
「とにかくっ、不用意に暴れて備品を壊すんじゃないわよっ!!」
そこら辺の不良など足元にも及ばないほど、時任が強いのは桂木も良く知っている。だが、久保田がそばにいないと無理をしそうで危なっかしくて仕方がなかった。
今の所は何事もなくすんでいるが、時任の頬に貼られたガーゼを見るとその時のことが脳裏をよぎる。そばにいた訳でなかったが、遠くの窓から時任が乱闘に巻き込まれていく様子を桂木も見ていた。
五階の窓から見ていた…、久保田と同じように…。
けれど、桂木は時任の頬に傷がつけられるのを見ても何もできなかった。
「わがままでめちゃくちゃで…、けど誰よりも正義の味方で…。そんなヤツの相方は久保田君しかできないのに…」
そう呟きながら桂木が時任と相浦の出て行ったドアの方を見ると、開いたドアの向こうに桜井が走っていくのが見えた。おそらく、時任が公務に向かったと聞いて追いかけて行くつもりなのかもしれないが…、いくら走っても桜井は時任の相方にはなれない。
彼氏と彼女…。
時任と桜井がそういう関係だということが、全校生徒の前でカップルになったということもあって誰もが知っていたが…、どうしても桂木の目には二人が並んでいる姿は不自然に見える。それが気のせいだと思えないのは、やはり時任の顔から笑顔が減っていたせいだった。
そしてそれ以上に…、久保田を包んでいる空気が冷たく凍り付き始めている。いつもと同じように微笑みを浮かべてはいるが、時には桂木ですら話しかけるのをとまどう時があった。
このままでは…、二人の間にある何かが壊れてしまう…。
桂木がそう思いながら軽く唇を噛むと、どこかへ雲がくれてしていた久保田が教室に戻ってきた。
「一体っ、今までどこに行ってたのっ!! さっき公務が入ってっ、時任と相浦が出動したわよっ!」
「そう…」
「そうって…、もしかして今日も行かないつもり?!」
「時任と相浦が行ってるなら、俺の出番はないっしょ?」
「けど、そんなの行ってみなきゃわからないじゃないっ!いいからっ、とにかくアンタも行きなさいよっ!!」
「・・・・・・・・・」
「久保田君っ!」
「・・・・・もしかして、それって命令だったりする?」
桂木はいつものように、いつもと変わりなく言ったつもりだった。
けれど、久保田の口から淡々と返ってきた返事には温度というものがない。あたたかくも冷たくもないその言葉は、これ以上、自分と時任との間に入るなと警告していた。
だが桂木はきつく拳を握りしめると、その拳で強く自分の机を叩く。
すると、その音が響いた瞬間に教室内がシーンと静まり返った。
「あたしは命令もお願いもしないわっ。けどその代わり…、いらないおせっかいだけは性分だから焼くけどね、今みたいに…」
そう言って桂木が久保田をにらみつけると、久保田は何も言わずに黙って教室を出て行った。しかし、これで久保田が公務の現場に向かったとしても、何もかもが解決するとは思えない。
桂木は少し赤くなった拳を見つめると、今度は深くため息をついた。
「でも、もしかしたら…、いずれはこんな事になってたのかもしれないけど…」
久保田が時任を想っていることは、執行部の誰もが知っている…。
想われている本人をのぞいて…、ほぼ全員が…。
けれど、鈍感だから今まで一緒にいられたのかもしれないと想うと、相方として隣りに立ち続けた久保田の気持ちが想いが痛くてたまらない…。
これからどうなってしまうのか…、どうなることを望んでいるのか…、
それはやはりいくら考えてみても…、本人達にしかわからないことだった。
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