同居人.18
ピッ・・・・・。
携帯電話を切る音が静かな室内に響くと、桂木は時任が何者かにさらわれてしまったことにあせりを感じながらも執行部の日誌に視線を落とす。けれど、その日誌は現在の執行部員である桂木達が記録しているものではなく、もっと古いものだった。
そこに書かれている執行部に起こった出来事を指先で追いながら、桂木は眉間に皺を寄せる。実は桂木の読んでいる日誌を書いたのは、四期前の執行部員だった。
この古い日誌を桂木が埃にまみれた倉庫から出してきたのは、松本の家にいた久保田から何か聞かされたわけではなく別の理由があったからである。読んでいる日誌の上部には、書いた人物の名前がハッキリと書かれていた。
私立荒磯高等学校執行部、桜井 周二。
時任の彼女である桜井の様子に何かひっかかりを感じた桂木が桜井の友達に聞いたり、ちょうど職員室にいた五十嵐から借りてきた生徒名簿を調べてみると…、
桜井に兄がいて、その兄が在学中に執行部にいたことがわかった。
けれど、だからといって今回の事件とつながりがあるとは思えない。執行部員の彼女の兄が執行部員だったとしても、別に関係のない話である。
しかし、桂木の見ていた名簿を覗き込んだ五十嵐が妙なことを口走った。
「あぁ…、この子はあの桜井の妹だったのね…」
「えっ?」
「この桜井の家族の欄にある周二っていうのは、アンタ達の先輩なのよ」
「先輩って…、もしかして執行部員だったってこと?」
「そうよ。ついでに説明すると、コイツが第五条を作ったから今の執行部があると言っても過言じゃないわ」
「今まで考えたことなかったけど、確かに執行部ができるより前に五条が作られるより、できた後の方が自然だし…」
「執行部をやってる内に必要になったからから作った…、が正解ね」
五十嵐はそれだけ言うと口をつぐんでしまったが、校則第五条が作られることになった背景に何か事件があったことを知っているらしい。もしかしたらすでに処分されているかもしれなかったが、なんとなく気になった桂木が倉庫で当時の資料を探してみると…、
そこには当時の日誌がちゃんと残っていた。
桜井の兄である周二という執行部員の書いた日誌を読むと、今と変わらないかそれ以上に不良達が校内で悪事を働いていたことがわかる。だが、読み進めていく内に桂木の視線は少し乱れた筆跡で書かれているページで止まった…。
そこのページには執行部で起こった事件が書かれていたが…、その内容を読んでいると他人事のような気がしない…。
桜井が書いていた事件は、廃ビルで起こった事件とまるっきり内容が同じだった。
執行部員の彼女が人質に取られて…、全員で現場へ…、
そして、あっさりと不良達は執行部員に公務を執行され…、そこに警察がやってくる。ここから先の展開が黒く塗りつぶされて消されてしまっていたが、二つの事件はあまりにも似すぎていた。
「これは一体…、どういうことなの…」
桂木はそう呟いたが、やはり偶然に二つの事件が似ていたとはどうしても思えない。けれど、同じ事件を起こすことができるのは、昔のことを知っている人間だけだった。
当然、当時いた生徒達も生徒会メンバーも荒磯を卒業してしまっているし、その頃からこの学校で教師をしている三文字も詳しくは何も知らないようである。そのため起こった事件のことを詳しく知るためには、どうしてもこの日誌を書いた桜井周二に会わなくてはならなかった。
桂木は桜井の自宅の住所を借りた名簿を見てメモすると、時任のことは久保田に任せて、事件のことを探るために生徒会室を出ようとする。だが、そうしようとした瞬間に携帯の着信音が勢い良く鳴った。
「…もしもし?」
「あっ!か、桂木先輩っ!!」
「あわててるみたいだけど、もしかして時任に何かあったの?」
「それが実はあの…、その…」
「なによっ、言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよっ!」
「だ、だって、ハッキリ言うとぜったいに怒るに決まってるし…」
「怒らないからっ、さっさと言いなさいっ」
「・・・・・・・・わかりましたよ。なら、ハッキリ言いますけど、僕の乗ったタクシーが信号機に引っかかって時任先輩が乗ってる車を見失っちゃったんですぅぅっ」
「なぁんですってぇ〜っ!!!」
「怒らないって言ったのに、怒鳴らないでくださいよっっ」
「それで…、時任が乗った車はどっち方面に行ったの?」
「よくわからないですけど…、晴海方面ような気が…」
「とにかくっ、あたしが行くまでそこにいることっ! いいわねっ!!もしもそこから動いたら、腕章に補欠じゃなくてオマケって書いてやるから覚悟しなさいっ!!」
「えぇぇぇっ!!そんなぁ〜〜〜っ!!!」
現在、さらわれた時任を追跡していたのは藤原だけだったのに、どうやら本当に車を見失ってしまったらしい。時任がさらわれたと連絡を受けた時にこうなることを予測していなかった訳ではないが、やはり現場にいた藤原にまかせるしかなかった。
藤原の情けない叫び声が桂木の耳に聞こえてきたが、それにかまわず通話ボタンを切って、即座に時任を探している久保田の携帯に連絡を入れる。そして桂木は気持ちを落ち着かせるために大きく深呼吸すると桜井の住所を握りしめて、携帯を耳に当てたまま五十嵐と一緒に生徒会室を出ようとしたが、その時、さっきまで読んでいた日誌が机から滑り落ちた。
日誌の落ちる音に気づいた桂木が床を見ると、床に落ちた日誌の間から何か紙切れのような物がのぞいている。早く藤原のいる現場までたどりつかなくてはならなかったが、紙切れが何なのか気になった桂木は、もう一度日誌を手に取った。
そして挟まっている紙のようなものをすぅっと日誌から抜くと、それは紙切れではなく一枚の写真で…、
そこには、桂木達より前の執行部メンバーと思われる人物が数名写っていた。
「こ、この写真って…」
「四期前の執行部の写真ね…、間違いないわ」
「・・・・・・・・だったら、これが誰だか知ってますか?」
「もちろんよ。これが、さっき話してた桜井なんだから」
「ホントに?」
「ホントよ」
「・・・・・・」
「桂木さん?」
「早く…、早く時任を助けなきゃ…」
桂木はそう呟きながら写真をポケットの中にしまい込むと、五十嵐の車の止めてある駐車場に向かう。すると、運転手として桂木と一緒に現場に向かう五十嵐は、そんな桂木の後ろ姿をじっと見つめていたが何も聞いたりはしなかった。
一見、今回の件のすべては執行部に恨みのある不良達による犯行のように見えるが、その背後にいるのはそんな不良達の中の一人ではない。公務を執行されたからという単純な恨みや復讐ではない何かが、桂木の知らない場所で動いているようだった。
日誌に挟まっていた写真の中の桜井周二は、他の執行部のメンバーに囲まれて楽しそうに笑っている。だが、桂木が周二の顔を見たのはこの写真が初めてではなかった。
廃ビルに、執行部に恨みを持つ不良達を集めた思われる主犯格の男…。
桂木の記憶に残るその男の顔と、桜井周二の顔は同じだったのである。元、荒磯の生徒なら何か恨みがあるのかもしれないと思たったりもするが、執行部員であった桜井が執行部にこんな真似をする意味が桂木にはわからなかった。
「アタシの知ってる桜井君はいい子だったわよ…、ホントにね」
五十嵐の運転する車の助手席で桂木が考え込むようにじっと前ばかりを見つめていると、五十嵐は少し沈んだ表情をでそう言う。その言葉を聞いた桂木が、もう一度持っている写真をポケットから取り出して眺めると、そこで笑っている周二は不良達を集めて桂木達を襲わせたりするような人物には見えなかった。
だから、周二のことを知っている五十嵐から、何か聞き出そうとして桂木は写真を見つめたままで口を開く。けれど、その内容は事件とは関係のないものだった。
「五十嵐先生…」
「なぁに?」
「この桜井周二という人って…、なんで執行部に入ってたんですか?」
「なんでって、それはアタシにはわからないけど、そういうのってたぶん一緒なんじゃない?」
「あたし達と一緒…」
「だからきっと、桜井君も執行部員だったんじゃないかしら?」
前を向いたままでそう言うと、五十嵐は信号が黄色に変わった交差点を止まらずに突っ切る。うまく車線変更を繰り返しながら車を追い越して、五十嵐の車は見事なハンドルさばきで藤原の待つ場所へと近づきつつあった。
いつも久保田をめぐってケンカや言い争いをしてはいたが、五十嵐の真剣な横顔を見ていると時任のことをとても心配していることがわかる。それはきっと藤原も同じで、ぶつぶつ言いながらも時任を助けようとしていた。
だからきっと似た事件が起きた時、当時執行部にいた周二も同じように腕に執行部の腕章をつけて…、迷わず現場に向かったのに違いない。なのに、その周二が同じことを執行部に仕掛けてくる理由がわからなかった。
「もう一つだけ、先生に聞いてみたいことがあるんですけど…、いいですか?」
「いいわよ」
「確かに事件のことは現場にいなきゃわからないことかもしれないけど…、事件後のことで何か覚えてることはありませんか?」
「・・・・・・・・」
「五十嵐先生?」
「アタシが知ってるのは、事件が起こった後に学校を退学することになったのが不良達の方じゃなかったっていうことだけ…」
「不良じゃなかったって、だったら誰が退学に?」
「逆に執行部員の方が犯人あつかいされて、退学に追い込まれたのよ」
信じられない言葉に桂木が思わず五十嵐の方を向くと、五十嵐の横にあるウィンドウの向こうに一人の女子高生が歩いているのが見えた。桂木はその女子高生の姿を見た瞬間、とっさに五十嵐に車を止めるように言う。すると、五十嵐は桂木の言葉に従ってすぐに車を路肩に停車した。
車を降りた桂木が女子高生を呼び止めると、ぼんやりと一人で歩いていた女子高生はビクッと体を揺らせてから足を止める。そして自分を呼び止めたのが執行部の桂木だと知ると、すぐに背を向けて逃げるように走り出そうとした。
「ちょっとっ!待ちなさいよっ!!」
「わ、私…、今から用事があって急いでるから…」
「でも、少し話をするくらいの時間はあるでしょう?」
「けど…、本当に急いでるし…」
「もしも時任のことで話があるって言っても、立ち止まってくれないの? 桜井さん」
「・・・・・・・」
「時任が何者かにさらわれたわ…」
桂木がそう言うと、桜井は表情を硬くしたまま桂木の方を見る。そんな桜井の様子を見ていると、なんとなく桂木が話さなくても時任がさらわれたことを知っている気がしてならなかった。
もしかしたらマンションの住所を調べると言っていたので、桜井は時任がさらわれる現場を目撃してしまったのかもしれない。けれど、人質として廃ビルの現場にいた桜井は、自分の兄である周二が不良達の背後にいたことを初めから知っていた…。
なのに…、桜井はそのことを桂木にも時任にも話そうとしなかったのである。
けれど、時任のことを心配していた桜井の様子を思い出すと、それがすべて演技で嘘だったとはどうしても想えなかった。
「やっぱり、時任に何かあったのか知ってたのね」
「いいえっ、私は何も知らないわっ」
「廃ビルの時も今も…、貴方のお兄さんが犯人なのに?」
「・・・・・・」
「お願いだから、時任の居場所を知っていたら教えて…。貴方だって、時任のことを助けたいはずでしょう?」
付き合うことになったきっかけがなんだったとしても、時任と桜井が付き合っているのは紛れもない事実である。そしてそれは、時任が自分で決めたことで、桜井が望んだことだった。
なのに、今の桜井は時任の名前を出してもつらい顔しかしない。その理由は周二が関わっているのかと桂木は尋ねようとしたが、そうする前に桜井の震えた小さな声が桂木の耳まで届いた。
「私は助けたいなんて…、そんなこと思ってない…」
「桜井さん」
「だって…、だって私はもう時任君の彼女なくなったのよっ。もう…、どんなにそばにいたいって思ったって…、そばになんていられないのに…」
「だから、もうどうでもいいって言うつもり?」
「・・・・・・・」
「そばにいられないからもういいって…、そばにいたいのは好きだからじゃなかったの?」
「そうよ…、私は時任君が好きだったから…」
「でも、私だったらそばにいられなくなったとしても、好きな人を助けたいって思うわ…」
じっと静かな瞳で桜井を見つめながら桂木がそう言うと、桜井はぎゅっと何かに耐えるように拳を握りしめて黙り込む。すると、桂木はその視線を車で待っている五十嵐の方に向けると、自分を置いて先に行くように手で合図した。
そして五十嵐の車が走り去っていくのを見送ると、桜井の方に向き直る。
けれど桜井は声をかけても、桂木の方を見ようとはしなかった。
「そばにいたいって好きだって思ってるのは…、やっぱり時任じゃなかったのね…。貴方にとって意味があったのは、時任と付き合うことじゃなくて一緒にいることだけだった。そうしたら、時任と一緒にいる久保田君とも一緒にいられるから…」
「・・・・・・・・・」
「でも、フラれてもあきらめられなかったからって好きじゃない人と付き合って…、それでいいの?」
時任が桜井と別れた理由は事実に気づいたからなのか、それとも他の事情があったのかはかわらない。けれど、今の桜井を見ていると、時任だけではなく桜井のためにも別れた方が良かったのかもしれないと言う気がした。
桜井は桂木の言葉を否定しようとするかのように、何度も何度も首を横に振っていたが…、しばらくするとうつむいていた視線をゆっくりと上げる。そして、近くを通りかかった仲の良さそうなカップルを今にも泣き出しそうな瞳で見つめた。
「私は久保田君にフラれたりしてないわ…。放課後に待ってるから、中庭に来てくださいって手紙は書いたけど…」
「もしかして、それは久保田君は中庭には来なかったから?」
「いいえ、久保田君はちゃんと放課後に中庭に着たわ」
「だったら、どうして?」
「久保田君は中庭に来たけど…、私のことなんて見てなかったのよ…」
朝、久保田の下駄箱に手紙を入れた桜井は、放課後になると中庭で久保田が来るのを待っていた。けれど、久保田は手紙を書いても読んでもらえないと噂があったから、半分くらいは初めからあきらめてて…、それでも中庭で待っていたのは、久保田が来るかもしれないと思っただけでドキドキしてそれが止まらないせいだったのである。
すると、それからしばらくて信じられないことに桜井の目の前に久保田が現れて、こちらに向かって歩いて来るのが見えた。これからフラれてしまうのかもしれないけれど、来てくれただけで、それだけでうれしい気持ちになる…。
ドキドキしながら近づいてくる久保田を見つめて、桜井はぎゅっと胸のあたりで拳を握りしめた…。
けれど、桜井が告白するために声をかけようとすると…、久保田はそのまま桜井の方を一度も見もせずに横を素通りする。あまりのことに声をかけることすらできずに桜井が呆然としていると、後ろから久保田を呼ぶ元気な声が聞こえた…。
『久保ちゃんっ』
その声に桜井が振り返ると、そこには優しそうに微笑みながら時任を見つめている久保田がいる。一度も桜井を見てくれなかった瞳は、時任だけをうつしていた。
だから、一度だけでもいいから自分の方を見て欲しかったのに…、好きだってそう自分の口から伝えたかったのに…、
時任に向かって微笑みかけている久保田の背中を追うことはできなかったである。
そして、その日からどうしてあんなに優しそうな瞳でいつも時任を見つめるのかということが気になって…、桜井は久保田と同じように時任を見つめるようになった。
「久保田君が見つめてるみたいに、時任君をずっと見つめて来たわ…。いつも何をするのも一生懸命ですごく照れ屋で素直で…、そして笑顔がすごく無邪気で可愛いところとか…、他にもたくさん…」
「・・・・・・」
「そうしてずっと見つめてる内に、時任君を好きになったのよ。だから、時任君に告白したんだわ」
「だったら、久保田君のことは?」
「時任君のことを好きになったから、忘れたつもりだった…。なのに、今度は時任君が久保田君のことばかり見つめるから、どうしても気になって仕方がなくて…」
「桜井さん…」
「ヘンよね…。私は時任君のことが好きなのに…」
時任のことが好きになって、やっと付き合えることになって…、
なのに、前よりももっと久保田の視線が気になって仕方がなかった。
周二に協力して人質になったりしたのは、久保田のことばかりを気にする時任に自分の方を向いて欲しかったからだけど…、
時任を助けに来た久保田を見た瞬間、切なくて胸が痛くなった。
「今も時任君のことが好きよ…、好きだから胸が痛いから別れたくないの…」
「確かにずっと時任のことを見つめてきたのかもしれないけど、たぶんそれは違うわ…、胸が痛いのはきっとそうじゃない…。たぶんだけど、貴方は時任が好きなんじゃなくて、時任になりたかったのよ…」
「・・・・・・私が時任君に?」
「そう…、時任みたいに久保田君のそばにいて優しく見つめられたかったんだわ…」
久保田はどんな時でも、時任しか見つめない…。
だからもしかしたら…、そんな久保田の視線の意味を知っているから、桜井は久保田の視線の先にいる時任を見つめるばかりで、告白することすらできなくなってしまったのかもしれなかった…。
胸の奥にある想いはぐちゃぐちゃになって、悲しみや寂しさや切なさしか残らなくて…、それがやがて憎しみに変わっていく…。けれど、桂木の言ったことが事実だったとしても、時任のことを好きだと想った自分の想いは本当だったと信じたかった…。
桜井は唇をかみしめると声には出さずに唇だけで時任の名前を呼んで、初めて視線をあげて真っ直ぐに見る。そして自分の兄がいる場所を…、時任が捕らえられている場所を桂木に告げた。
「たぶん聞いた話が間違ってなければ、時任君は晴海の第三埠頭にある倉庫に捕まってるわ…。だからお願い…、時任君を助けて…」
桜井のその言葉を聞いた桂木は微笑みながらうなづいて、時任の居場所を伝えるために携帯をポケットから取り出す。そして、そこに登録されている番号にかけたが、それは先に藤原と合流しているはずの五十嵐ではなく久保田だった。
晴海方面に時任がいるらしいことはすでに連絡してあるが、車で移動している五十嵐の方が、現場に到着するのは早いかもしれない。けれど、今は離れてしまっている二人が、また一緒にいてくれるようになることを祈りながら…、
桂木は携帯に出た久保田に時任の居場所を伝えた。
『そう…』
久保田はそれだけ答えると何も言わずに携帯を切ってしまったが、すぐに桂木の連絡した場所に向かうに違いない。それから五十嵐の方にも連絡を終えると、桂木は通りかかったタクシーに手を上げて止めた。
それはやはり久保田や五十嵐のように時任のいる場所に向かうためだったが、一人で乗り込まずに桜井の腕をぐいっと引っ張る。そして、強引にタクシーに押し込めると運転手に早く発車するように言った。
「もしかして…、私に兄を止めさせる気?」
「ふふっ、そうしてくれるとありがたいけど違うわ」
「だったら、どうして私を連れていくの?」
「どうしてって、そんなの決まってるじゃない」
「え?」
「タクシー代が足りないからよっ」
桂木がそう言って明るく笑うと、瞳ににじんだ涙を拭いながら桜井もそれにつられて笑う。そして、心の中にある焦りを押し隠しながら笑った二人は、同時に運転手に行き先を…、
・・・・・時任のいる場所を告げた。
「う…っ、うう…」
頭痛と吐き気を感じながら時任が目を覚ますと、辺りは薄闇に包まれていた。けれど、それは夜になったからではなく、時任が明かりのほとんどない室内にいるせいである。
時任は自分の足と手が縄でしばられていることとを確認すると、ゆっくりと視線を動かして室内を見回した。すると時任のいる場所は部屋ではなく倉庫か何かのようで、大きな荷物が辺りにたくさん積み重ねられて置かれていた。
見上げると天井は高く、辺りには縄を切るのに使えそうなものは何もない。こんな広い倉庫で助けを呼んでも無駄だとわかっているせいか、時任の口はタオルでふさがれたりはしていなかった。
「とにかく…、早く抜け出さなきゃだな…」
時任はそう呟くと、縄を解くために手をごそごそと動かし始める。けれど縄はきつく縛られていて、ゆるめようとしても上手くはいかなかった。
もしかしたら、誰かが時任がさらわれる所を目撃してくれているかもしれないが、やはりあまり助けは期待できない。いつまでたっても家に帰らなければ、いつもなら久保田が心配して探してくれるに違いなかったが…、今はマンションを出て行ってしまっているので、時任がいなくなったことに気づかないかもしれなかった。
同居人でも相方でもなくなって、それでも会いたくてたまらなくてだから会いに行きたかったのに…、どこかもわからない場所へと連れ去られて…、
一人きりで冷たい床に転がされていた…。
なぜこんなことになってしまったのかはわからないが、もしかしたら廃ビルでのことと何か関わり合いがあるかもしれない…。廃ビルで失敗した不良達が、再び復讐するために時任をこんな場所に閉じ込めているのかもしれなかった。
そう考えるとまた時任を人質にして、不良達が執行部に何かする可能性がある。
だから、そうならないためにも早くここから抜け出さなくてはならなかった。
「松原の犬…、借りとけば良かったかも…」
そんなことを言いながら近くのコンテナのそばまで這って行くと、時任はぐぐっと皮膚が縄ですれて血が滲んでくるのも構わずに腕に力を入れて、縄をコンテナに何度もすりつける。すると少しずつ縄が細くなってきたが、誰もいないかと思われていた室内に何者かの足音が響き始めた。
コツコツというその足音は次第に時任に近づいてきたが、それは廃ビルの時のように大勢ではなくたった一人である。腕の縄を切ろうとしていた時任はとっさにどこかに身を隠そうとしたが、やはり縛られているせいで移動することができなかった。
近づいてくる足音が時任の近くで止まると、次に聞き覚えのある声が聞こえてくる。けれど、その声は聞きたいと思うような声ではなかった。
「やっと目が覚めたようだな…」
そう言いながら笑っている男は、縛られて床に転がっている時任を眺めながらわずかに目を細ている。すると男の顔を見た時任は、驚いた様子もなく自分を見つめている男を鋭い瞳で睨み返しただけだった。
男は時任が予想していた通り、あの廃ビルにいた男で…、
そして時任の首をしめながら、久保田に他の部員と桜井をやらせようとした人物。
廃ビルに不良達を集めて執行部を襲わせた首謀者の男だった。
「てめぇだけはぜったいに許さねぇ…っ」
自分に向かって拳を振り上げた久保田のことを思い出しながら、時任がいつもよりも低い声でそう言う。けれど、そんな風に言いながらも廃ビルでのケリをつけることより…、早くこの縄を切って久保田に…、
好きな人に会いに行きたかった…。
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