同居人.16




 あんなにもたくさん一緒にいたことも、笑い合った日々も…、
 なぜか今がなくなった瞬間にすべてが想い出という幻になって…、つないでいたはずの手のぬくもりは、思い出そうとして強く握りしめるたびに痛みになる。けれどその痛みを感じながら頬についた傷跡を指でなぞると…、あの日、ガラスの割れる音がした瞬間のことが鮮明によみがえってきた。
 きらきらと光るガラスの破片と…、自分を呼ぶ久保田の気配…。
 そして…、同じように久保田を呼ぶ自分の声…。
 その時は確かに何かが通じ合っていたのに、何かが繋がり合っていたはずなのに…、今は自分のことも久保田のことも何もかもがわからなくなってしまっていた。まるで迷路の中に迷い込んでしまったかのように、自分の心も久保田の心も見えない。
 けれど一緒にいたくてずっとそばにいたくて…、それだけはわかっているのに…、
 今、時任のそばにいるのは久保田ではなく、そして彼女である桜井でもなく…、

 ・・・・・・生徒会副会長の橘だった。

 橘は廃ビルの騒ぎもパトカーの音も聞こえなくなった人通りのない裏路地を、ぼんやりと雨に濡れながら歩いている時任の後ろをずっとついて来ている。すぐにいなくなるだろうと橘を思ってそのままにしていたが、いつまでも追いかけてくるので時任は仕方なく立ち止まった。
 「おいっ、いい加減どっか行けよっ」
 「貴方が一緒に来てくださるなら、ここからどこかへ行ってもかまいませんが?」
 「そういうイミで言ってんじゃねぇっ、俺の目の前から消えろって言ってんだっ!」
 「なるほど、おっしゃっているイミは良くわかりました…。ですが、僕は貴方のそばから離れるつもりはありません」
 「もしかして、またロクでもねぇこと企んでんじゃねぇだろうなっ」
 「ふふふ…、ご期待にそえなくて申し訳ありませんが違いますよ」
 「だったらっ、さっさと学校に…」
 「貴方が泣いてるからです」
 「え?」

 「泣いてる貴方を放ってどこかに行くなんて、僕にはできないんですよ」

 橘はそう言うと、立ち止まっている時任の前に回り込む。そしてゆっくりと涙の跡の残る頬に手を伸ばしたが、その手を時任はバシッと勢い良く払いのけた。
 傷の残る頬はまだ優しく撫でてくれた久保田の手のぬくもりと感触が残っていて…、他の誰かに触られると消えてしまう気がする。だからどんなに橘が優しい微笑みを浮かべていたとしても、どうしてもその手を受け入れることはできなかった。
 慰めも同情もいらないし…、優しくされたくもない…。
 本当は廃ビルでは不良達に囲まれていた所を橘に助けられたけれど、めちゃくちゃにやられてもぼこぼこにされても誰にも助けられたくなんかなかった。みっともなく床に這いずることになったとしても…、あの場所で戦い続けたかった…。

 久保田が来るまで…。

 けれど、何もわからないままに廃ビルでの事件は時任と久保田の間をつないでいた糸とともに、警察のサイレンと橘の言葉によって打ち切られ…、
 同居人だから相方だから…、一緒にいられると想っていたのに…、
 そう想っていたから、何度も繰り返し確認するように言ってきたのに…、
 久保田が執行部をやめることになった今は、同居人という言葉も相方という言葉も…、完全に意味がなくなってしまっていたことを知った…。
 だけど、胸の中からは痛みも久保田を想う気持ちもなくなってはくれない。
 さよならを告げられたことをわかってはいても、今も久保田のそばにいたかった。
 だが、そんな時任の気持ちを打ち消そうとするかのように、橘は抱きしめようとして強引に腕を伸ばしてくる。その腕を時任は押しのけようとしたが、橘の力が予想外に強くて近くにあるコンクリートの壁に身体を抑えつけられてしまった。
 「くそぉっ、離しやがれっ!!!」
 「貴方がおとなしく僕についてきてくれるなら、すぐに離してあげますよ」
 「行くワケねぇだろっ、バーカッ!!」
 「ですが、久保田君のマンションを出てどこか行くあてはあるんですか?」
 「・・・・・・・・・・そんなの、てめぇには関係ねぇだろ」

 「そんな口がきけないように…、すぐに関係くらい作ってあげますよ…」
 
 時任の顔をのぞき込んでそう言うと、橘は目を細めながら妖艶に微笑んでいる。けれど、その微笑みは綺麗すぎるせいかどこか冷たかった。
 近づいてくる橘の唇を避けようとして時任が横を向くと、時任の顎を橘の手が強くつかむ。そして無理やり自分の方を向かせると、正面からじっと瞳を覗き込んできた。
 「もう、久保田君は同居人でも相方でもないんです。だから、貴方の隣にはいません…。今だけではなくこれから先もずっと…」
 「・・・・・・・・・」
 「だから、僕が貴方の同居人と相方に立候補してるんですよ」
 「なっ、なに言ってやがんだっ、てめぇは生徒会の…」
 「確かに僕は生徒会の副会長ですが、久保田君と入れ違いにやめるつもりです」
 「久保ちゃんと入れ違いって、どういうイミだよっ」
 「これからは、僕ではなく久保田君が松本会長の隣に立つという意味です。松本会長の右腕として…、相方として…」
 「そんなコト、あるばす…」
 「ないと、そう言い切れるんですか? 元々コンビを組んでいたのは貴方ではなく、松本会長だったはずです」
 「・・・・・・・・・・」

 「それは、僕にも同じことが言えるかもしれませんけどね…」
 
 橘の口元は相変わらず微笑みを浮かべていたが、冷たい瞳がそれを裏切っている。その冷たさを感じながら、時任はじっと橘の瞳を見返した。
 すぐにでも顎をつかんでいる手を振り払いたかったが、なぜそうできないのかわからない。けれど、それは橘が言うように同じ立場にいるからではなく、久保田の隣に自分以外の誰かが立つ可能性があるという事実を、目の前に叩きつけられてしまったせいかもしれなかった。
 同居人じゃなくなることも、そして相方でいられなくなることも信じたくないし…、
 自分といつも一緒にいた時のように、久保田が松本と並んで歩くところなんて絶対に見たくない。
 けれど…、それは自分勝手なわがままでしかなかった。
 恋が一人だけの想いでは叶わないように、自分だけがそばにいたいだけでは一緒にはいられない。そして一緒に歩き出すためには、手を繋ぐにはお互いが手を伸ばさなくては届かない…。
 でも、それでも手を伸ばす先にいるのは…、いつでもどんな時でも…、

 久保田だけだった…。

 橘の冷たい瞳を真っ直ぐに見つめている間も、時任は久保田のことだけを考えている。いつも一緒にいた頃よりも、ずっとずっと久保田のことをたくさん想って考えていた。
 今、どこにいて何をしていて…、そして誰のそばにいるのか…、
 そんなことを考えて想っていると、久保田のことだけで頭も胸の中も何もかもがいっぱいになっていくようだった。

 「久保ちゃんは松本とコンビ組んでたのは事実だし、だから言う通りなのかもしんねぇけど…。でも…、俺は久保ちゃんじゃなきゃダメなんだ…」

 時任はそう言うと橘の胸を強く押して、この場から立ち去ろうとする。けれど橘はそれを許さずに、顎をつかんでいた右手で今度は肩を押さえつけてきた。
 得意の蹴りを食らわせようとしたが、逆にその足をもう片方の手で掴んでアスファルトの上に転ばされて動きを封じられて身動きが取れなくなる。簡単に攻撃をかわされたことにムッとしていると、橘は時任の耳元で小さく笑った。
 「こんなに隙だらけの相方を守るのは、あの久保田君でもさぞや大変だったでしょうね」
 「だ、誰が隙だらけだっ! ざけんなよっ!!」
 「ふふふ…、そのセリフは僕の腕の中にいる状態で言っても説得力はありませんよ。それに、泣き腫らした目で睨まれても少しも怖くありませんしね」
 「・・・・・それ以上、なんかしゃべったらブン殴る」
 「誤解のないように言っておきますが、僕はケンカをしたくて貴方と話してるわけではありません。貴方さえ首を縦に振ってくだされば、すぐに開放あげますよ」
 「ぜったいに振らねぇっ」
 「どうしても?」

 「自分でもわかんねぇけど、どうしても…、どうしてもなんだよっ!!」
 
 一緒にいられない…、一緒に暮らせない…。
 だから、こんな風に雨の中を一人でさまよい歩いていた…。
 けれど、どんなに歩いても歩いても帰り着く先は一つしかない。久保田の言った嫌いだという言葉が耳の奥に残って消えてくれなくて胸が痛くてたまらないけれど、久保田のいるあのマンションに帰りたかった…。
 でも、また涙が止まらなくなるから帰れなかった。
 だからどんなに歯をくいしばっても…、勝手にこぼれ落ちてくる自分の涙が大嫌いだった…。
 
 「・・・・・・久保ちゃん」

 時任が無意識に久保田の名前を呟くと、橘は微笑みを浮かべていた口元をわずかに歪める。けれど時任は久保田のことを考えていて、それに気づいていなかった。
 目の前にいるのは久保田ではなく橘だったが、今の時任は橘を見ていない。
 どこか遠くを見つめているような瞳は、橘ではなく久保田を見ていた…。
 「なぜ貴方はただの同居人で相方である久保田君に、そこまで執着するんです? ただの友達なら同居していなくても、執行部で相方じゃなくなっても、普通にこれからも友達として付き合えばいいでしょう」
 「俺と久保ちゃんは…、友達じゃないっ」
 「また、いつものように同居人で相方だと言うつもりですか?それとも…、噂通り恋人なんですか?」
 「なっ!!」
 「本当はキスくらい…、久保田君としたことあるんでしょう?」

 「・・・・・・・っ!!!!」

 恋人かと聞かれて違うと叫ぼうとした瞬間、橘に言葉と一緒に唇も奪われ…、殴りかかろうとした手は冷たいアスファルトに押し付けられる。噛み付いて拒絶しようとしたけれど、深く激しく口付けられて呼吸が苦しくてうまくいかなかった。
 唇のあたたかさを感じていると吐き気がしてきて、時任はぎゅっと瞳を閉じて顔をしかめる。けれど、長い長いキスを終えて唇を離した後、橘はそんな時任の表情を見て微笑みを浮かべていた。

 「キスはなれていないようですし、やはり噂は噂…」

 橘の言いかけた言葉は、時任が頬を殴りつけたので途中で途切れる。しかし、橘はやはりこうなることを予想していたらしく、殴られても動じた様子はなかった。
 やっと開放された時任は、そんな橘の顔を見もせずに走り出す。そうしながら何度も何度も袖で唇をぬぐったけれど、キスした時の感触が残っていて取れなかった。
 その感触が気持ち悪くて、吐き気がして止まらない…。
 雨の中を前も見ずにがむしゃらに走り続けている内に、いつの間にか帰らないはずのマンションの前にたどり着いたが…、
 マンションの四階を見上げると、そこには明かりはついていなかった。
 もしかしたら…、明かりがついていないということは久保田は帰っていないのかもしれない。そう思った時任はとにかく濡れた服を着替えるために、久保田と住んでいた401号室に向かった…。
 ポタポタと髪からしずくがしたたり落ちて、廊下に小さなシミを作る。けれど、時任はうつむいたまま…、髪から頬へと流れ落ちる雫をぬぐおうとはしなかった。

 「・・・・・・・・時任君」

 やがて部屋の前にたどりつくと、聞きなれた声が時任を呼ぶ。
 けれど…、その声は久保田ではなく桜井だった。
 桜井は雨に濡れた時任を見つけると、ポケットからハンカチを取り出して走り寄ってくる。心配してくれているのは表情からわかったが、時任は右手を上げてハンカチを持った桜井の手を拒んだ。
 「せっかく来てくれたのに悪りぃけど…、今は話しする気分じゃねぇんだ…」
 「は、話しなんてしなくていいから、そばにいさせて…」
 「・・・・・・・・・・」
 「寒そうだし風邪引きそうだし…、心配なの」
 「へーキだし、明日もちゃんと学校に行くから心配すんな」

 「でも…、でも私…」

 桜井は真剣な顔でそう言うと、時任の頬に触れようと優しく手を伸ばしてくる。けれど、その瞬間にさっきのキスを思い出して、時任は桜井の唇を見つめていた。
 男ではなく女の子の柔らかい唇が目の前にあって、それはキスできる距離にある。しかも、それは付き合っている彼女である桜井の唇だった。
 時任がそのまま動かないでいると、少し背伸びした桜井は瞳を閉じて顔をゆっくりと近づけてくる。もしも女の子と付き合っていたら…、こんな風にキスするものなのかもしれないと思いながら時任も瞳を閉じたが…、
 それはもしかしたら…、橘とキスした感触を忘れたかっただけなのかもしれない。明かりのついていない部屋の前で、時任は気づくとされるままに桜井とキスしていた。
 けれど桜井とキスしながら想うのはやっぱり久保田のことで…、どこかに穴が空いてしまったみたいに涙ばかりが胸の置くから零れ落ちていく…。

 久保田を想いながらする彼女とのキスは…、罪悪感と痛みで胸がきしんでいく感じがした。

 だが、罪悪感しか生まないキスの途中で何かの気配を感じて時任が瞳を開けると、なぜか部屋のドアが開いていて…、
 そこには…、良く知った黒いコートを着た人物が立っている。
 その姿を見た瞬間、時任の心臓が大きく音を立てて鳴って…、さっきまで閉じていた瞳は驚きのあまり大きく見開かれた。
 「忘れモノ取りに来ただけだから、気にしないで続けてくれる?」
 「・・・・・・っ!!!」
 「せっかくカノジョとお楽しみのところ、ジャマしてゴメンね」
 「ちょっと待っ!!」
 「じゃあね…」

 「久保ちゃんっ!!!!!!」

 久保田は微笑みを浮かべて別れを告げると、すっとと時任と桜井の横を通り過ぎる。それを止めようとして時任は久保田の袖をつかんだが、その手は冷たく振り払われた。
 冷たい久保田の背中を見つめながら、時任は何かを叫ぼうとしたが言葉が見つからない。あの廃ビルの屋上でさよならを告げていたけれど…、もう同居人でも相方でもなかったけれど…、久保田にだけはキスしてる所を見られたくなかった…。

 久保田にだけは…、絶対に見られたくなかった…。

 橘が言ったように友達だったら…、別に見られても関係ないのかもしれない。
 彼女ができても、友達として付き合っていけるかもしれない…。
 けれど、久保田とは友達になりたくなかったから、友達ではなく相方とか同居人と呼んでいた。それは久保田の特別でいたかったから、相方でいたくて…、
 誰よりもそばにいたかったから…、同居人でいたかった。
 久保田を想う時の気持ちは、いつも強すぎて胸にいっぱい過ぎて言葉になんかならなくて…、
 けれど、久保田のことを想いながらキスした時…、本当は久保田とキスしたいと想っている自分がいた…。

 「俺ももう…、相方で同居人じゃいられないのかもしれない・・・・・・・」

 久保田はすでにこの場から消えてしまっていて、時任の声は久保田まで届かない。
 そして、桜井がそんな時任の腕を、久保田が消えた方向をじっと睨みつけながらつかんでいた…。


 
 
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