同居人.14




 まるで涙のように降りしきる雨は、一向に止む気配がない。けれどその雨は地面に激しく叩きつけるように降っているのではなく、しとしととアスファルトを濡らしながら静かに降り注いでいた。
 桂木の話した説明で納得した警察官達はパトカーに乗って立ち去り…、不良達も雨に濡らされて熱が冷めたのか、一人二人と次々に雨に煙る街の中に姿を消していく。そんな今回の事件の幕切れを見守るかのように、相浦達は廃ビル近くの古びた電気店の軒先で雨宿りをしていた。
 飼い主と同じ軒先にいる犬のジュンは、何かを考えるようにアスファルトの上の水溜りを見つめている藤原の制服の裾を噛んで遊んでいる。けれど藤原は考えごとに没頭していて、それに気づいた様子はなかった。
 藤原は久保田が目の前にいるのにも関わらず、いつものように飛びつかない所か視線を向けようともしない。そんな藤原を見ていた相浦と室田は顔を見合わせたが、特にそれについて会話を交わすことはなかった。
 空から降り注ぐ雨に熱が奪われていくかのように辺りは静けさを取り戻し、不良達と戦いを繰り広げた執行部員達も落ち着きを取り戻していく。けれど、その静けさの中に暗闇が混じっているように感じられるのは、部員達の視線は屋根から落ちてくる雨だれを眺めながらも、意識が雨の中に立ち尽くしている久保田と桂木の方に向いているせいかもしれなかった。
 桂木の手には携帯電話が握られているが、すでに通話は切れている。
 携帯に電話がかかってきたのは、桂木が時任を探すために廃ビルに入ろうとした瞬間だったが、その相手はなぜか学校で執行部の代わりに校内の治安を守っているはずの橘だった。

 『時任君は、本部で無事に保護しましたから…』

 そんな風にまるで桂木の様子を見ていたかのように告げた橘は、次に信じられないことを桂木に告げる。桂木は思わず事実を確かめるために久保田に詰め寄ったが、久保田は首を横にも縦にも振らないし、何も言わなかった。
 けれどもしも橘の言ったことが本当だとしたら、廃ビルにいた時任を探しに行かなかったのも納得できる。だが、納得はしてもやはり信じたくはない。
 時任のそばから離れようとしていたのは、執行部の誰もが感じていたことだったけれど、こんなに唐突に久保田の手で終止符が打たれるとは誰も思っていなかった。
 桂木は信じられない気持ちで、久保田にそのことを問いかけてみる。
 けれど、やはり久保田は首を横には振らなかった。
 「いきなり執行部をやめるなんて何があったのよ? もしかして、やっぱり時任のせいなの?」
 「べつに…」
 「まさかまた、松本会長の手伝いとか…」
 「さぁ? 確かにココに来る前に、生徒会本部にはいたけどね」
 「だったら、本部がらみならやめてもすぐに戻ってくるんでしょう?」
 「・・・・・・・・」
 「それにいつの間にかどこかに消えてる、今回の犯人をそのままにしておくつもりなの?そんなのって…、久保田君らしくないじゃない?」
 「実は俺って正義の味方じゃなかったんだよねぇ。だから、今回の件をどうするかは、桂木ちゃんにまかせるから…」
 「えっ、ちょっと待ってよっ!」

 「悪ってのは、正義の味方に倒されるもんでしょ?」

 どうしても首を横に振って欲しかったが、哀しい色をした瞳で雨を見つめながらそう言うと…、久保田はポケットから取り出した携帯を桂木に渡す。けれど、とっさに受け取ってしまった桂木は、その携帯が久保田のものではないことだけしかわからなかった。
 誰のものかわからない携帯を桂木に渡すと、久保田は雨の中を歩き始める。だが桂木は冷たい背中に拒絶されてしまっていて、それを止めることができなかった。
 けれど、もし本気で久保田が執行部をやめようとしていたとしても、自分では止められないことを桂木は知っている。だから…、雨の中を歩き出した久保田の前に立ちはだかったりはしなかった。
 呼び止めたりせずにゆっくりと遠くなっていく久保田の背中を見ながら小さく息を吐くと、桂木は藤原の所にいるジュンを呼ぶ。そして、ジュンを自分の腕の中に抱き上げると、相浦達のいる雨宿りのできる屋根の下へと入った。
 「止めなくていいのか? 桂木」
 「じゃあ聞くけど、あたしが止めて止まると思う?」
 「確かに、それは思わないけど…」
 「でも、止めないのは止められないからじゃなくて、腕章って誰かに強要されてつけるんじゃ意味ないってそう思うからよ」

 「確かに…、そうかもしれないな…」

 そんな桂木と相浦の会話は雨音にかき消されて聞こえていなかったが、今も屋上で聞いた時任の声が久保田の耳の奥には残ってる。そして、震える声で別れの言葉を告げた時任の涙も…、胸の奥に深く突き刺さったままだった。
 もうこれで終わりだからと雨に煙る街を一人で歩きながら想って…、けれどそう想ってはいても少しも現実味が感じられない。それはもしかしたら、あのマンションで暮らす二人きりの日々がこれからもずっと続くと…、
 自分でも気づかない内に、信じてしまっていたせいかもしれなかった。
 一人で帰りついたマンションを見上げると、やはりそこには明かりはついていない。それはわかっていたはずのことなのに、そうなることを自分で望んだばすなのに…、なぜかまだ部屋のドアを開けるとそこに時任がいる気がした。
 四階まで上がって部屋の前に立って、いつものように呼び鈴に手を伸ばす。けれど、久保田はその手をゆっくりと下に降ろして、自分のポケットの中に入れていたカギを取り出した。
 カギは一人で帰ることが多くなった頃から持ち始めたもので、それまでは時任のポケットだけに入っていたものである。けれど、今は自分のポケットの中に入っているカギがなければ帰れなくなってしまっていた…。
 カギで開けるとガチャリと音を立ててドアが開き…、薄暗い玄関に足を踏み入れる。そしてそこからすぐにリビングへと向かったけれど、そこにあるのは寂しさに似た冷たい空気だけだった。
 けれど今はまだ…、テレビの前に投げ出したままになっているゲームとか食べかけのお菓子とか…、色んなものが二人でいた日々のあたたかさを残していて…、
 久保田はしばらくの間、それを見つめたままリビングの入り口で立ち尽くしていた。

 「ただいま…」

 ぽつりと小さく呟いた言葉に返事は返ってこない…。それはこれから当たり前になっていくことだけれど、今はまだわかってはいても信じられなかった。
 ゆっくりとキッチンまで歩いて…、水道をひねって水を出してコップに入れる。そして冷たい水を飲むと、そこに置かれているマグカップが目に入った。
 その青いマグカップは本当は一つだけ買う予定だったのに、時任がどうせ買うなら二つがいいと言ったので…、おそろいで買ったものである。そしてそれは、まだ一緒に暮らし始めて一週間くらいしかたっていない頃のことだった。
 久保田は静かにマグカップを一つ手に取ると、近くにあるゴミ箱の前に立つ。そしてマグカップを持った手をゴミ箱の真上に置いた。
 けれど…、その手はそこで止まったまま動かない。
 そしてしばらくすると、マグカップは二つ並んで置かれていた場所へと戻された。
 
 「今がないなら、想い出なんていらないのにね…」

 この部屋の中にあるものが捨てられないものばかりしかないように、一緒にいる時にも大切なものはたくさんあって…、
 けれど、それがどんなに大切かってことも…、どんなに必要だったかってことも…、なくなってから初めて気づいたのかもしれない。そばにいるからって、いつも一緒にいるからって安心していたつもりはないのに、残ったのは手のひらの傷だけで…、こんな風に一人きりの部屋でその傷を握りしめていることしかできなかった。
 誰よりも大切だったから、誰よりも想っていたから…、だから胸の奥の強すぎる想いがすべてを壊してしまう前にさよならを告げたけど…、
 手のひらには、大きな瞳から流れ落ちた涙の濡れた感触だけが残っている。
 強気で勝気で何があってもいつも平気だって笑ってて…、だからきっとさよならを言っても拳を振り上げても、なんでだって怒るだろうと想っていたのに時任は泣いていた…。
 始めて見る時任の涙は…、手で触れると暖かかくて…、
 涙を止めたくて手を伸ばし続けていたけれど、本当は少しだけその涙を見つめていたいと想っていた。だから、もしかしたら時任にとって二人で過ごした時間とか一緒にいた日々とか…、そんなものがどれくらいの重さなのか知りたくて自己満足のためだけに手を離しただけなのかもしれない。
 最低で最悪だとわかっていながらも、時任が自分以外の誰かといる光景を微笑みかけている姿を見ていると、その笑顔を壊してやりたくなったから…、
 エゴと独占欲で切りつけて…、たくさんたくさん傷つけてるのに…、
 好きだから大切だからって、自分で自分に言い訳をしてさよならを言った。
 自分だけを見つめて微笑んでくれないのなら、哀しみや憎しみに満ちた瞳で強く見つめられたかったから…、

 好きと同じ強さで…、嫌いだと言った…。

 久保田はまるで別れを惜しむようにゆっくりと部屋中を見渡すと…、リビングに背を向けて入ってきたドアから出る。そして寝室に向かうとそこにある二人分の服の入ったクローゼットから、自分の服だけを床へと並べ始めた。
 このマンションの部屋に何もかもを残して行ってもいいけれど、もう戻って来ないことを知らせるためには持って行った方がいい…。実はマンションの名義は久保田になっていたが、同居をやめてここから出て行こうとしているのは時任ではなく久保田の方だった。
 大きなボストンバックに詰められるだけ衣類を詰めると、時任が荷物を取りに来た時のために机の上に預金の入った時任名義で作った通帳と印鑑を置いて…、その上に自分のカギも置く。
 そして電話の横に置いていたメモ帳を一枚破いて…、手紙を書いた…。
 けれど時任に宛てた手紙を書き終わった久保田は、苦笑しながらそれをぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に向かって投げる。すると、投げられた手紙は軽い音を立ててゴミ箱の中へと消えた…。

 「何を書いてもゴメンしか浮かばないから…、ゴメンね…」
 
 しとしとと降り続く街を濡らす雨は、止まらない涙のように降り止まない。
 そんな雨音を聞きながら…、久保田はボストンバックを片手に玄関へと向かった…。
















 すでに放課後を過ぎてしまっている荒磯高校は、次第に生徒の数も減って静けさに包まれつつある。そんな学校の敷地内に戻ってきた桂木達は、全員がやはりほっとしたような表情をしていた。
 けれど、大勢の不良達に公務を執行したせいか、いつも元気な松原や室田にも疲れの色が見えている。特に一番後ろをとぼとぼとついてくる藤原は、沈んだ表情で自分の足元ばかりを見つめていた。
 室田の愛犬であるジュンは飼い主よりも懐いてしまっている桂木に抱かれて、尻尾をしきりに振っていたが…、生徒用の玄関に入るとジュンは桂木から相浦の手に渡される。すると寂しそうにクーンと鳴いたのでが、桂木はジュンの頭をよしよしと軽く撫でた。
 「アンタ達は先に執行部に戻ってて…、あたしは行く所があるから…」
 「…って、学校に戻った早々どこに行くつもりだよっ、桂木っ」
 「何言ってんのっ、こんな騒ぎがあった後で行く場所なんて、そんなの決まってるじゃない?」
 「それって…」

 「もちろん、あたし達の宿敵に会いに行くのよ」

 桂木はそう言って相浦達と別れると、ポケットに久保田からもらった携帯を入れたままで廊下をすたすたと歩き出す。けれど、向かった先は執行部から近い場所に会った。
 執行部の宿敵と言えば、不良の大塚達の名前が思い浮かぶかもしれないが…、ある意味これから向かう先にいる人物の方が宿敵という名にふさわしいかもしれない。
 表で動いている執行部の影で、いつも糸を引いている人物…。
 それは、中学時代に久保田に十円を貸したことのある人物だった。
 桂木が真っ先に生徒会本部に向かったのは久保田のことを聞くためだったが、なんとなく時任を保護したという副会長である橘の奇妙な動きも気になる。橘は心配になったので廃ビルまで様子を見るために来たのだと説明していたが、やはりあの場所にいるのは不自然のような気がしてならなかった。
 それに再び廃ビルに入った時任を保護するタイミングも、まるで久保田から離れるのを待っていたかのように思えなくもない。だが、わざわざ危険な廃ビルまで来て、時任を保護することが何か橘にとってメリットがあるとは思えなかった。
 もしも保護することで久保田に恩を売ろうとしたというのなら、この場合は逆に恩を売るどころか恨みを買ってしまったに違いない。それは久保田は公務だけではなく普段でも、自分以外の誰かが時任に関わるのを嫌っていたせいだった。
 けれど、桜井という彼女ができた今は…、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。
 橘と桂木が携帯で話をしていた時、久保田は何も言わずにただじっと雨に濡れながら冷たいアスファルトの上に立っていた。
 
 「このままじゃ何もかも終われない…、絶対に終わらせやしないわっ」

 桂木は事件についてそう言ったのか、それとも時任と久保田のことをそう言ったのか…、ぎゅっとポケットの中にある携帯を握りしめると…、
 表情を引きしめて背筋を正してから、生徒会本部のドアをノックした…。
 

 

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