同居人.13




 ・・・・・・・・バイバイ。

 そんな言葉を言いたくて、久保田を探していたわけじゃない…。
 嫌いだって言われてもさよならって言われても…、一緒にいたいってそう言いたかったから追いかけてきたはずなのに…、
 頭を頬を撫でてくれる手があまりにも優しすぎて、困ったように見つめてくる瞳が哀しすぎて…、涙が後から後からこぼれ落ちてきて止まらなくなったから言えなかった。絶対に泣きたくなんてないのに、涙はどうしても止まってくれない。
 久保田の手のひらのあたたかさを感じていると、どうしても涙が止まらないから…、
 止まらない涙を止めるために、震える声でさよならを告げて走り出した。

 雨音の響く薄暗い廊下を、一人きりで…。

 けれど、いくら走っても走っても…、降り始めた雨のように涙は止まらない。
 止まらない涙を止めたくて走り出したはずなのに、さよならを言ったはずなのに…、離れていくことがつらくてたまらなかった。
 涙の意味がわからなくても、胸の奥にある想いが言葉にならなかったとしても…、一緒にいたい気持ちだけはどんなことがあっても変わらない。なのに、離れいてくことしかできなくて、痛みだけが胸の中に残っていく…。
 あのマンションの部屋で一緒に暮らして、そして学校に行って…、楽しいこともうれしいこともたくさんはあったはずなのに、今はすべてが涙に濡れて滲んでいた。

 「ホントは…、一緒に帰ろうって言いたかったのにな…」

 涙にかすれた声でそう呟くと、まだ廃ビルに残っていた不良達が時任の前に立ちふさがる。時任は流れ落ちる涙を学ランの袖で拭うと、久保田に向かって伸ばすはずだった手のひらを硬く拳を握りしめて…、またさっきのように一人で戦い始めた。
 けれど、その拳はいつもと違って早さも切れもない。
 そのため、それほど強くない相手にも苦戦をしいられてしまっていた。
 それでも負けないのはさすがだったが、外に出るために下へと向かっているのに足が重くて…、何度も足が止まりそうになる。でも、いくら立ち止まっても振り返っても…、久保田の姿は見えなかった。
 
 「・・・・・・・久保ちゃん」

 小さくそう呟いたが、その声は久保田の元にもどこにも届かない。
 手を伸ばせばいつでも届くと想っていたのに、手を握りしめることができると想っていたのに…、今はどんなに手を伸ばしても届かなくなってしまっていた。
 あんなに一緒にいたのに…、こんなにも簡単にさよならが来て…、
 二人で並んで歩きながら、時には夕日を眺めながら帰ったマンションにももう戻れない。だからどんなに走っても走っても、行く先なんてわからなかった。
 けれど胸が痛くてたまらないのは、こんなにも涙が止まらないのは…、帰る場所がなくなったからじゃなくて…、
 ただひたすら、頭を頬を撫でてくれた手のぬくもりが恋しくて…、恋しすぎて…、
 恋しさが切なさになって、その想いが涙に変わる。
 いくらぬぐっても涙が止まってくれないのは、久保田を想い続ける気持ちが止まらないせいだった。
 でも…、今は泣いている暇はない。廃ビルに残っていた不良達は、時任が一人でいることを知って次から次へと容赦なく襲いかかってきた。
 
 「ちくしょうっっ、ざけんなよっ!!!」

 必死で涙をぬぐいながら戦い続けても、一向に人数が減らない。それは時任が一人でいるという情報を聞きつけて、不良達の人数が減るどころか逆に増えているせいだった。
 時任は後ろを振り向くことをやめてぎゅっときつく拳を握りしめると、廃ビルの出口への道を自分の力で切り開こうとする。けれど、いつもの調子が出ない今は、無事に出口までたどりつけるかどうかはわからなかった。
 こんな奴らなんか一人で大丈夫なのに…、横にいるはずの久保田がいないせいで身体がバランスを崩す。背中を肩を心を預けていた重さの分だけ、音を立てて何かが壊れていくような気がした。
 もしも壊れていくしかないのなら久保田のそばで壊れたかったのに…、こんな所で一人きりで壊れていく…。まるで壊れていく想いのように、辺りに響き始めたサイレンの音に気づいた時任は、ふと雨の降りしきる窓の方に視線を移した。
 すると、その隙をついて背後から時任に向かって鉄パイプが振り下ろされる。その鉄パイプは確実に時任の頭を狙っていた。
 「これで終わりだぁぁっっっ!!!」
 「ーーっ!!」

 「うっ!!」
 
 振り下ろされた鉄パイプは確実に時任に当たるはずだったのに、なぜか時任ではなく不良の方がうめき声をあげている。鉄パイプを持っていた手を何者かに捻り上げられて、不良はうめきながら顔を痛そうに歪めていた。
 それ見た時任がゆっくりと視線を不良の後ろへと向けると、そこにはここにはいないはずの人物が立っている。その人物は時任を見て優しく微笑んだが、時任はその柔らかい微笑みを見て眉間に皺を寄せた。
 するとそんな時任の表情を見て、微笑んでいる人物はさらに笑みを深くする。
 実は鉄パイプをふせいだのは、桂木や執行部の仲間達ではなく…、
 そして、今も屋上にいる久保田でもなく…、

 ・・・・・・・・生徒会副会長の橘だった。

 時任が周囲の不良達を警戒しながら睨み付けると、橘は捻り上げていた腕を離して…、時任の頬に残る涙の後に手を伸ばそうとする。けれど、その手は時任によって涙に触れる前に叩き落された。
 言葉に出ししては何も言わなかったが、瞳が橘に優しくされることを拒絶している。
 だが、橘は笑みを浮かべたままで叩かれて少し赤くなった手を見ると、今度はその手を時任の前にゆっくりと差し出した。
 「なんで、てめぇがここにいんだよっ!」
 「それは、桂木さんからの連絡で、少し心配になって見に来たからですよ。ですが、もうじきここに警察が着ますから、これ以上騒ぎがこれ以上大きくなる前に早く僕と一緒にここを出ましょう」
 「まさか…、お前がケーサツ呼んだのか?」
 「・・・・違います。もしかしたら、通報したのはここが騒がしいことに気づいた近所の人かもしれませんね。だから、騒ぎになる前に一緒に…」
 「でも…、久保ちゃんが屋上にまだ…」
 「久保田君なら、彼ならこれくらい一人で大丈夫です。それは、誰よりも貴方が一番良く知っているはずでしょう?」
 「・・・・・・・」
 「それにこれからは、貴方がそんな風に心配しなくてもいいはずですから…」
 「それって…、それってどういうイミだよっ」

 「久保田君は執行部をやめることになったんです。つまり…、久保田君はもう貴方の相方ではないんですよ、時任君」

 橘が言ったセリフなんて信じたくなかったし、信じられなかった。けれど、屋上で告げられた言葉がそれが本当だと教えてくれている。
 もう相方でも同居人でもないから…、一緒にはいられない…。
 橘の前でなんか泣きたくないのに再び流れ落ちてしまった涙は、ぽつりと降り始めた雨のように床の上に落ちた…。














 「なぁ、桂木」
 「なによ」
 「あのさ…、さっきから何か聞えてこないか?」
 「え?」
 「救急車のサイレンみたいな音…」
 「そういえば・・・・・・・」
 「なっ、聞えるだろ?」

 「…って、これって救急車じゃなくてパトカーの音じゃないっ!!」

 降り始めた雨と…、鳴り響くサイレンの音…。
 遠くから次第に近づいてくるその音に、始めに気付いたのは相浦だったが、すぐに廃ビルの中にいる不良達も騒ぎ始めた。
 桂木は裏口にいる松原に携帯電話で連絡を取ってみたが、やはり松原も一緒にいる室田も警察に連絡していない。執行部はあくまで公務として、生徒同士のこととして今回の件を処理するつもりだったが、どうやら警察がこちらの方に向かっているらしかった。
 無事に外に脱出したのに未だに廃ビルにいるのは、まだ中にいる久保田と時任が出てくるのを待っているということもあったが、できるだけ多くの不良達を捕まえるためでもある。違反者の名前は後で処分を決定するために本部に提出されるが、その名前は違反者の直筆でなくてはならなかった。
 つまり違反者に名前を書かせなければ、公務は完全には終了しないのである。書いた名前が直筆でなくてはならないのは処分を決定した時、違反者にそんなことはしていないとシラを切らせないためだった。
 桂木や松原達に降参した不良達は、冷汗を額に浮かべておびえている藤原の所で自分の名前を書いている。けれど、パトカーのサイレンが響き始めると、やはり名前を書いていた手が止まった。
 「くっそぉっ、人がせっかくおとなしくしてやってんのにサツなんか呼びやがってっっ!! 」
 「うわわわっ、ちょっと待ってくださいよっっ! 僕は警察を呼んでなんかっっ!!」
 「サツに捕まるくらいなら、執行部員は全員ヤってやるっ!!」
 「ぼ、ぼ、僕は部員じゃなくて、補欠なんでですぅぅぅっ!!」
 「補欠も部員も、そんなの俺が知るかっ!!!」

 「ぎゃあぁぁぁっ!! 助けてくださいぃぃっ、久保田せんぱーいっ!!」

 違反者に名前を書かせる役割をしていた藤原は、真っ先に目をつけられて叫びながら逃げ出そうとしたが石につまづいて見事にこける。けれど当たり前だが腰を抜かしてジタバタしている藤原を、久保田には助けに来なかった。
 しかし、それはこの場にいないからという訳ではなかったが、藤原はどうしても久保田に助けてもらいたいらしい。そんな藤原を見た桂木は小さくため息をついて、バシッと勢い良く頭をハリセンで叩いた。
 「…ったくっ、叫んでないでたまには自分の身くらい自分で守りなさいよっ」
 「そ、そんなの僕にできるわけないじゃないですかっ!!」
 「でも、やってみなきゃわからないでしょうっ」
 「やらなくったってわかりますっ!僕一人で戦ったって、ぜぇったいにやられて殴られてボロボロにされるに決まってるっ!!」
 「もうっ、ホントにあんたってあきれるくらいバカねぇっ。あたしは別に一人で戦えなんて言ってないわっ」
 「…って、えっ?」
 「あんたが戦うつもりなら、ちゃんと背中ぐらい守ってあげるわよ。あたし一人じゃなくて、執行部のみんなでね…」

 「・・・・・・・・桂木…、先輩」

 情けない顔をして腰を抜かしたままでいる藤原に、桂木は元気付けるようにもう軽くもう一発だけ頭を叩くと再び不良達の前に立つ。だが、パトカーの音が聞えたせいで、抵抗をあきらめておとなしく投降する雰囲気だった廃ビルに再び不穏な空気が流れ出していた。
 それは警察に突き出されるのと生徒会本部で処分を受けるのとではまったく意味が違うせいである。それを感じた相浦が額に汗をにじませながら桂木の方を見たが、桂木はぎゅっとハリセンを握りしめたまま、この場から逃げ出そうとはしなかった。
 桂木は松原達に合図して裏口から引かせると、殺気立っている不良達の前に立つ。そして、サイレンの音を聞きながらゆっくりと腕組みをした。

 「警察に捕まる方がいいのか執行部に公務を執行される方がいいのか、警察が来るまでによーく考えておくことね。執行部はアンタ達を警察に突き出すために公務してるんじゃないわ、校内の治安を守るためよ。そこんトコ、忘れないで欲しいわねっ」

 執行部が警察に通報したと思っていた不良達は、桂木のセリフを聞いてざわめき始める。そして藤原を殴ろうとしていた男が手帳に自分の名前を書くと、次々につられたように不良達が名前を書き始めた。
 そんな不良達の様子を見た相浦は、思わず桂木を姉御と呼んでしまってハリセンの餌食になってしまっている。けれど、そんなことをしている内に一台のパトカーが廃ビルにやってきて、パトカーの中から警官が二人降りた。
 警官は辺りを見回すと、いかにも素行の悪そうな高校生の集まりに怪訝そうな顔になる。けれどそんな不審感を吹き飛ばすかのように、桂木は警官達に向かってさわやかな笑顔を浮かべてみせた。
 「ここで高校生同士が殴り合いのケンカをしていると通報があって来たんだが…、君は?」
 「あたしは近くの高校に通ってる高校生なんです」
 「もしかして、あそこにいる高校生達は君の仲間なのかい?」
 「違います」
 「だったら、どうしてここに?」
 「それは、探してたからですっ」
 「探してたって何を?」

 「犬ですっ」

 桂木はそう言うと近くを歩いてた室田の愛犬ジュンを、警察官の前に差し出す。するとジュンはきょとんとした顔で、警察官を見つめていた。
 うれしそうにそんなジュンに向かって話しかけたりしている所を見ると、警官は二人とも犬好きらしい。けれど、やはりジュンの可愛さだけでは誤魔化されてくれなかった。
 タイミングの悪い事に警察官の近くで、手帳に名前を書いている生徒達もいる。それを見た警官の一人が、厳しい口調で桂木に何をしているのかと尋ねる。だが、桂木は余裕の表情で、不良達が自分の名前を書いている理由を言った。
 「私の飼ってる犬が、この廃ビルに逃げ込んで…。だから、どうしようって思ってたら親切な人達が手伝ってくれたんです」
 「なら、なぜ彼らは名前を書いてるのか知ってる?」
 「もちろん知ってます。あたしが書いてくれるように頼んだんですからっ」
 「それは、何のために?」

 「ふふふ…、後で手伝ってもらったお礼を、たっっぷりしたいからに決まってるでしょ?」

 この廃ビルで騒ぎなんて起こっていないと桂木は言ったが、なぜかお礼という言葉にわずかに力がこもっている。そんな桂木を見た相浦と室田は、背筋にゾクゾクッとした寒気を感じていた。
 桂木のお礼が公務のように執行されるのが、いつなのかはわからない。
 だが、それで警官達は納得してしまったようだった。
 桂木達が雨に濡れながら走り去っていくパトカーを見送っていると、廃ビルからやっと久保田が出てくる。けれど、なぜかその隣には時任はいなかった。
 何かを想うように…、そして何かを哀しむように廃ビルの前に立った久保田は、桂木達の方に視線を向けたがすぐにその視線はアスファルトの上に落ちる。アスファルトは雨にしっとりと濡れていて、それを見つめている久保田も同じように濡れていた。
 その様子があまりにも哀しく見えて、見つめ続けていると胸の奥から切なさがこみ上げてくるような気がして…、桂木は久保田に歩み寄る。そして、小さく息を吐きながらゆっくりとその正面に立った。
 「久保田君を探すためにビルの中に入ったんだけど、時任を見なかった?」
 「さぁ…」
 「さぁって…、もしかして会わなかったの?」
 「会ったよ」
 「だったら、時任はどこにいるのよ?」
 「・・・・・・・・」

 「久保田君っ!!」

 廃ビルから出てきた久保田は、同じように廃ビルの中にいる時任のことを何も言おうとしない。無事に会えたのになぜ一緒じゃないのか、なぜ時任を話せないのかもわからなかった。
 けれど、まだ廃ビルの中に時任がいるかもしれないのに、このまま放っておくわけにはいかない。桂木はもう一度時任のことをたずねながら、じっと何かを探るように久保田を見つめた。
 「もしも居場所を教えてくれないのなら、あたしはまた廃ビルに戻るわ。だから、時任がいそうな場所を知ってたら教えて…」
 「・・・・・・」
 「いつもわがままで俺様で、だけどやっぱり心配なのよ…。だからお願い…」
 「・・・・・確かに廃ビルの中で会ったけど、どこにいるのかはわからない。でも、一つだけわかってるコトならあるから…」
 「わかってること?」

 「たぶん今も…、時任が泣いてるかもしれないってコト…」

 アスファルトを見つめたままで呟いた久保田の言葉に、桂木は大きく目を見開く。
 何があってもどんなことがあっても、勝気で強気だから泣くことなんてないと想っていて…、だから時任が泣いてるなんてとても信じられなかったけれど…、
 アスファルトを見つめる久保田の背中が瞳が、切なくて哀しかったから…、

 なぜか久保田のために泣いてるような…、そんな気がしてならなかった。


 
 
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