ダブルキャスト.19



 

 「久保ちゃん・・・、時任・・・・・・っ」


 目の前で久保ちゃんと一緒に消えてしまった、時任を飲み込んだ空間の歪み…。
 消えてしまうとまるで夢みたいで…、
 けれど、それは俺が二人になっちまった時みたいに現実だった。
 正直なトコロ、こんなの現実じゃないってウソだって思う。だってさ…、俺が二人になったり空間が歪んで飲み込まれちまったり、こんなの信じられるワケねぇじゃん…っ。
 でも、そうやって目を閉じても何も始まらない。
 目の前にある現実を真っ直ぐに見なきゃ…、何もできない…。
 だから、わかんねぇって頭を抱えるんじゃなくて、どうしたらいいかって…、
 どうしたら、久保ちゃんも時任も助けられるかって考えて…、
 けど、今の俺の目の前にあるのは歪みが消えて…、二人のトコロに行くコトのできない閉ざされた現実だった。

 「どうすりゃいんだ…、どうすれば…っ」
 
 手を伸ばしても、歪んだ空間も手がかりも何も掴めない。
 でも、絶対にあきらめるワケにはいかない。
 絶対にあきらめるつもりなんかない…っ。
 そう思った俺が次に見たのは階段ではなく、なぜかココにいた同じガッコの生徒。
 突然、現れた歪みに気を取られていたせいか、気配をまったくカンジなかった。
 学年は同じ三年っぽいけど、顔に見覚えはない。
 けれど、歪みに飲み込まれた時に助けてくれたし、悪いヤツには見えなかった。
 「さっきは…、助けてくれてありがとな」
 俺がそう言うと、ソイツは何も言わずにうつむく…。
 名前を尋ねると少し考え込むような顔をした後で、自分の名前は斉藤だと名乗った。
 けど、それを聞きながら俺はある事に気づいて息を呑む…。
 それは…、斉藤はちゃんと目の前に立ってるのに、窓から漏れる月明かりに照らされた足元には影がなかったからだった。

 「い、いきなり現れたし気配もカンジなかったし…、まさか…っ」

 俺は斉藤に向かってそう言いかけたけど、近づいてい来る足音がそれを掻き消す。いつもはそんなに響かない足音も、夜の静かな廊下では不思議なくらい良く響いていた。
 こんな時間にココに来る可能性があるのは、宿直当番の先生か…、
 それともさっき公園にいた橘か…、それ以外か…、
 響いてくる足音を聞きながら、俺は警戒して身構える。けれど月明かりの廊下に現れたのは先生でも橘でもなく…、なぜか生徒会長の松本だった。
 現れた松本は俺を見て、そして斉藤の方を見ると月明かりの中に立ち止まる。
 そして、口を開くとココに来たワケを言うより早く…、すまないと俺にあやまった。
 「橘から話は聞いた…、橘が君に酷い事をしたと…」
 「だったら、なんで松本があやまんだよ? 正確には俺にじゃねぇけど…、何かしたのは松本じゃなくて橘だろ?」
 「いや、私だ…。私が橘に二人に分かれた時任を元に戻すために協力してくれと…、そのために自分の想いを自覚させて欲しいとそう頼んだんだ」
 「な…っ、なんでてめぇが俺が二人になったとか、そんなコト知ってんだよっ! まさかっ、久保ちゃんから…!?」
 「誠人からは何も聞いてはいない。だが、そこにいる司さんからすべてを聞いた…。だから、君を元に戻すために…」
 「ツカサ?」

 「昔、私の近所に住んでいた人で…、今はこの世の住人ではない人だ…」

 松本がそう言うと斉藤…、ツカサは顔を上げて俺の方を見る。だから俺も斉藤の方を見たけど、俺を見る斉藤の目は静かでどこか哀しそうだった…。
 影は無くてもちゃんと足もあるし、この世のヒトじゃないなんて思えない。
 でも俺がそう思いながら松本の方を見ると、松本は首を横に振った。
 「すべて本当の話だ。もう十年以上も前の話になるが、司さんはこの階段から落ちた…。そこから先は、言わなくてもわかるだろう?」
 「・・・・・じゃあ、それからずっとココに?」
 「あぁ、この学校に来るまで俺も知らなかったが…」
 「でも階段からは落ちたけど、俺が二人になったのは学校じゃなくてウチだし…っ。それに元にも戻すって、なんで橘にあんなコトされなきゃなんねぇんだよっ!」
 「確かに言う通りだし、そう思うのももっともだ」
 「だったら…っ!」
 
 「だが、私はウソを言ってはいない」
 
 まだ、詳しいコトは何も聞いてねぇし完全に信じたワケじゃねぇけど、そう言った松本の目は今まで見たコトがないほど真剣で疑う気にはなれない。
 それにココにいる三人の中でまともなのは…、松本だけだった。
 幽霊か亡霊らしい斉藤と二人に分かれてオンナな俺とどちらもあり得ねぇっていうか、そういう存在で…、
 けど、俺らはココに…、この場所に立っていた。
 斉藤は俺の足元を見て、それから次に自分の足元を見ると静かに微笑む。そして、歪んだ空間に飲み込まれそうになった時みたいに、俺の方に向かって手を伸ばした。
 「あの日、君が階段から落ちた日…、君はこんな風に僕に向かって手を伸ばした。だから、僕も君に手を伸ばして…、本当は引けないはずの手を引いた」
 「あれって、アンタだったのか」
 「あぁ、僕だ…。そして僕は手を引いたはずなのに、なぜか君の心だけを僕の側へと引いてしまっていた…」
 「俺のココロ?」

 「そう…、僕に似た君の心を…」

 あの時…、あの瞬間の俺のココロ。
 滲んだ視界の中に…、見えていたモノ…。
 あの時は視界が滲んでて掴めなかったけど、今なら掴める気がして…、
 斉藤の静かな声を聞きながら、伸ばされた手に向かって手を伸ばす。すると、手が触れた瞬間に見たコトがあるような…、けれど少し違う光景が目の前に広がった。
 少し古びた写真のような風景…、
 その中の廊下の曲がり角から、聞こえてくる声…。
 そして、俺はあの時みたいに曲がらずに立ち止まると、壁を背にして見つからないようにじっと身を潜める。けど、聞こえてきた声は知っているようで、知らない声だった。

 『おい、黙ってないで素直に白状しろよ〜』
 『白状ってなぁ…。なんで、俺がそんな事を答えなきゃならないんだ』
 『けどさ、やっぱ気になるだろっ。高校生のクセにオヤジくせぇお前が、あーんなに可愛い子と歩いてんの見ちゃったらさ』
 『オヤジくさいってのだけ、余計だ』
 『いいからっ、おーしーえーろーっ。お前って、マジであの子と付き合ってんの?』
 『・・・・・まぁな』
 『えーっ、マジかよっ!! でっ、いつ告白したんだよっ!?』
 『告白したんじゃない…、告白されたんだ』
 『ウソだろっ』
 『ホントだ』

 そんな会話が聞こえてきて、心臓の鼓動が早くなる。
 でも、やっぱり聞こえてくる二人の声は聞いたことがないし、
 だから、なぜこんな風に鼓動が早くなるのかわからなかった…。
 あの日、聞こえてきたのは久保ちゃんと知らないオンナの声だったけど、今聞こえてくるのは知らないオトコとその友達らしいオトコの声…。あの時よりも長く続く会話は、聞いていると心臓が破裂しそうになる…。
 この鼓動はたぶん…、俺の鼓動じゃない…。
 立ち止まったまま動かない足も…、違う…。
 けど、その感覚は違っているけど、俺のカンジた感覚と似ていた。

 『じゃあ、マジであの子と付き合ってんならアイツの事はどーすんだよっ。お前といっつも一緒にいるラブラブの斉藤っ』
 『おいっ、なんで俺と司がそうなる』
 『だって、ウワサになってるっていうか公認だし、実際マジでラブラブじゃんっ』
 『あのなぁ…』
 『なら、お前は斉藤の事をどう思ってんだよ?』
 『どうって言われても…』
 『ただの友達で、なんとも思ってないのかよ?』

 話の内容を聞いてるとなんとなく…、状況はわかる。
 でも…、まさか…、
 違う声で同じセリフを…、
 久保ちゃんが言ったのと同じ言葉を、聞くコトになるとは想わなかった。


 『別にどうとも?』


 俺と同じように、一瞬だけ止まりかける心臓…。
 そして、次の瞬間に止まった鼓動が胸が痛いくらいに鳴り始めて…、
 気づかれないようにそっと…、ゆっくりと後ろに下がって曲がり角に背を向けて歩き出す。そして歩いていく内に次第に早くなった足は、いつの間にかあの時の俺みたいに走り出して気づいたら階段から…、
 その光景は、やっぱりぼやけていて滲んでいて…。
 俺は俺じゃない視線で、けれど俺に似た想いで…、その光景を見て初めて…、
 それが俺が二人になったりしたみたいな不思議なコトでも、なんでもなく…、
 だだ…、久保ちゃんが大好きで…、
 だから、あの言葉が哀しくて…、哀しくてたまらなくて…、

 涙があふれてきて…、止まらなかっただけだと気づいた…。

 二人の間を繋いでいた糸を切るように斉藤が俺の手を離すと、窓から漏れる月明かりが目の前に広がる。その光は太陽みたいに明るくはなかったけど、穏やかで優しかった。
 そして、俺を見る斉藤の瞳も穏やかで優しいけれど…、哀しい…。
 近くにいた松本は、俺と同じようにそんな斉藤を何も言わずにじっと見つめてる。
 斉藤は窓から漏れる月明かりを眺めて細く長く息を吐くと、次の自分の手のひらを見た。
 「あの時、僕が手を握りしめた瞬間に君のココロが二つに分かれた。それがわかったのは叫び声が想いが…、二つ聞こえてきたから…」
 「・・・・・そん時、俺はなんて言ってた?」
 「好きだと…、ただ好きだとそれだけを叫んでいた。そして、もう一人は君と同じ想いを捨てたがっていた…」
 「・・・・・・・だから、俺らは二人に」
 「それはわからない…。けれど、こちら側に引こうとした僕の手を、さっきの僕みたいに離して拒んだのは、もう一人ではなく君だと言う事だけは間違いない」
 「アンタの側って、それってやっぱり…」
 「そうだよ…。僕はあの時、君を助けようとしたんじゃない…、道連れにしようとしていたんだ。そして君の半分を道連れにしようとしたばかりか、今度は自分の身代わりに…」
 「・・・・・・」

 「君の大好きなヒトも一緒に…、道連れにして…」

 そう言った斉藤の言葉に反応したのは俺じゃなく、何も知らない松本だった。
 松本は青い顔をして斉藤に詰め寄ると、さっきあった出来事を聞いて本当なのかと確認する。そして斉藤が本当だと答えると…、松本は斉藤の襟首を掴んで唇を噛みしめた。
 「なぜっ、そんな事に…っ!!」
 「おそらく、僕がここに長く居すぎたせいで空間が、僕という異物を排除しようとしたのかもしれない。僕はこの世に…、いるべき存在じゃない…」
 「それは…、あの世への道が開いたという事なのか?」
 「歪んだ空間の先にあるモノが…、そう呼ばれる場所なら…」
 「だったら、なぜ関係のない時任や誠人がっ!!」
 「もう一人の男は自分から飛び込んだ。けれど時任の方は心が、存在が半分になっていたせいかもしれない。こうなったのは僕のせいだ…、僕がここにいたせいなんだ」
 「・・・・・・・司さん」

 「ここに居たのは誰かを道連れにするためじゃない…。でも、僕は長くココにいる内になんのためにココにいたのか…、なぜココにいるのかわからなくなってしまっていたのかもしれない…」

 哀しい瞳のまま斉藤はそう言うと、窓ガラス越しに空に浮かぶ月を見る。
 そして、さっき空間が歪んだ辺りにゆっくりと手を伸ばした…。
 すると、斉藤の手に反応したのか空間がわずかに歪んで揺れる。
 でも、それ以上は何もしないで斉藤はすぐに歪みから手を離すと、次にいきなり俺の手を掴む。それから今度は自分の手じゃなくて、俺の手で同じ空間に触れると同じように空間がわずかに歪んで揺れた。
 「なっ、なにすんだよっ」
 「まだ、空間は完全に元に戻っていない。だから、完全に元に戻る前に逝くなら、その瞬間だけ歪みが再びできる可能性がある…」
 「それってつまり…、俺も時任や久保ちゃんのトコロに行けるってコトなのかっ!?」
 「空間は君の半分を飲み込んだからなのか、それとも僕と君を間違えているのか…、君の存在にも反応してる。だから、運が良ければ行けるかもしれないが…、あちら側がどうなっているのかは俺にもわからない」
 「だったらっ、それしか方法がないならやるしかねぇだろっ!」
 「こちら側へ戻れる可能性が低くても…?」
 「・・・・それでも行く」

 「あの歪みの向こう側には、もしかしたら誰もいない…。天国も地獄も何もない空間が広がっていたとしても…、君は行くのか?」

 斉藤にそう聞かれるまで、そんなコトは考えてもみなかった。
 あの世って呼ばれてる場所が…、どんなトコロかなんて…、
 こんな事になるまでは…、一度も…。
 けれど、どんなトコロだろうとそんな事はどうでもいい…。
 そんな事は関係ない…。
 久保ちゃんや時任がいるなら、そこがドコだろうといくだけだ。
 でも、逝くつもりも消えるつもりもない…っ。
 俺は自分の手を掴んでる手を振り払うと、じっと見つめてくる斉藤の目を真っ直ぐに見つめ返した。
 「それでも何がなんでも俺は行くっ、そして必ず戻ってくる…っ! 時任と久保ちゃんと一緒に…っ!」
 俺がそう言うと、斉藤は少し俺から目をそらして微笑む。
 そして、月明かりに照らされても影のできない自分の足元に視線を落とした。

 「君がどうして消えなかったのか、わかる気がするよ。今の君は確かに半分なんだろうけど、それでも君はとても強い…。そして、歪んだ空間に飛び込んだ男への想いも…」
 
 斉藤はそう呟いて視線を上げると、何かを探すように視線を廊下へと向ける。
 それから、なぜか松本の方を見て…、「大きくなったな」と懐かしそうに呟いた。
 斉藤はあの時のままでも…、周りの時間は止まらずに過ぎて…、
 たぶん、あの頃は小さかった松本も同じ高校の三年生になっていて…、
 それを見る斉藤のキモチは…、俺にはわからない…。
 でも、何かを決心したように握りしめられた斉藤の拳を見ていると、さっきみたいに手を繋いでないのに…、哀しいキモチに似た何かが伝わってくる気がした。
 斉藤は握りしめた拳を開くと、空間が歪む辺りに視線を向ける。
 そして、自分の考えと決心をハッキリとした口調で俺に告げた。
 「君が歪みに飛び込んでから時間を置いて、僕は逝く…。あちら側がどうなっているのかがわからなくても、僕が逝く瞬間に空間が繋がる事だけはたぶん間違いない。だから、君はそれまでに二人を見つけて…、戻るんだ」
 「けど、アンタには何か…っ、ずっとココに居たいワケがあったんじゃないのかっ」
 「もう、いいんだ…。本当はもうずっと前に、僕は逝くはずだったのだから…。それに、僕が逝かなければ君が戻れる可能性はほとんどなくなる」
 「・・・・・・・」
 「僕の心配なんてしてる場合じゃないだろう? 君はもう一人の君と、君の好きな人を助けなくてはならない…。それを一番に考えるんだ…、僕のためにも…」
 「アンタのため?」

 「償いたくても…、僕にできる事はこれくらいしかない…。それに君にとって僕は憎むべき存在で、そんな顔をして心配するような存在ではないよ…」

 ・・・・・ありがとう。

 そう最後に唇の動きだけで…、斉藤は俺に言った。
 でも俺は二人を助けなきゃらないのに、すぐにでも二人を追いかけて行きたいのに歪んだ空間のある場所に手を伸ばせないでいる…。
 このままでいいのか…、ホントに…、
 長い間、ココに居続けたのに、このまま逝っちまってもいいのか…っ、
 確かに、時任と久保ちゃんが歪んだ空間に飲み込まれた原因は斉藤にあるのかもしれない。でも…、それでも俺はこのままコイツを逝かせたくなかった。
 どうすればいい…、どうすれば…。
 俺がそう考えかけた時、廊下の曲がり角の辺りから足音が響いてくる。けれど、足音を聞いただけでわかったのか、松本が橘だと言ったので俺も斉藤もその場を動かなかった。
 「夜の廊下はずいぶん声が響きますね。角の辺りからでも、貴方がたの話し声が良く聞こえましたよ」
 「ずっと、盗み聞きしてやがったのか…」
 「会長が来られた後から…、ですが」
 「で、何の用だよ?」
 「もう一人の君と久保田君が歪んだ空間に飲み込まれた…、こうなった原因の一端は僕にあります。だから、僕がもう一人の貴方と久保田君を連れ戻します…、必ず…」
 「・・・・・・」

 「ですから、僕に行かせてくれませんか? あの世と呼ばれる場所へ…」

 橘はそう言ったけど…、こうなった原因がなんなのか俺にはわからない。
 今まであったコトを思い返すと、思い出してみると…、
 少しずつ色んな事が起きて、それが重なって今になった…。
 そんな気がしてきて…、俺は代わりにあの世に行くという橘に向かって首を横に振ると静かな廊下を走り出す。走り出して…、あの日は曲がらなかった角を曲がって走り抜けて校内にある宿直室に向かった…。
 斉藤に手を握りしめられた瞬間に見た光景…、その中で聞いた声…。
 あの声とは少し違うけど、似た声を聞いた覚えがある。
 でも似てるだけで違ってるかもしれないし、今日宿直当番してるとは限らない。
 けれど、俺は自分のカンを信じてたどりついた宿直室のドアを勢い良く開ける…。
 すると、そこにはカップメンを食ってる少しくたびれたカンジのオッサンがいた。
 「やったっ、大当たりっ!!!」
 「…って、何でお前がこんな時間に学校にいるんだ、時任」
 「それは後で説明すっからっ、とにかく一緒に来いっ!」
 「おいっ、そんなに引っ張るなっ!! ら、ラーメンが…っっ!!」
 「そんなの後で食えばいいだろっ!!」
 「そう言われても、伸びたらウマくないしなぁ…」
 「だったら、新しく作れっ!!!」
 なんかウダウダ言ってるオッサンを引っ張って、俺は歪んだ空間のある場所に戻る。けど、オッサンを連れてる俺を見た斉藤は、さっきよりも哀しそうな顔になった。
 哀しそうにうつむいて…、俺とオッサンから視線をそらす。
 すると、そのワケを斉藤じゃなくて橘が言った。
 「先生を連れて来てもムダです、時任君」
 「ムダってなんでだよ…っ」
 「それは見えないからです」
 「見えない?」
 「貴方や会長にはハッキリと見えるようですが、僕には輪郭がおぼろげに見えているだけです。その人に至っては輪郭すら見えません…、声も聞こえません…。だから、ムダだと言ってるんですよ」
 橘の言葉を聞いても何の事かわからないみたいで、俺の連れてきたオッサン…、三文字先生は一体、なんなんだとか呟きながらボケた顔してる。ちゃんと目の前に斉藤がいるのに、ホントに見えていないみたいだった…。
 斉藤には見えているのに…、三文字には見えない…。
 三文字もオカマ校医みたいに、このガッコの卒業生だってのは知ってたけど…、
 いつくらいから、斉藤はココで三文字を見つめてたんだろう。
 自分の存在に気づいてもくれない相手を…、いつから…、
 呼びかけるコトも…、何もせずに三文字を見つめる斉藤の瞳だけが、俺にその長さを教えてくれていた。

 「いいんだ…、もう…」

 斉藤はそう呟くと、歪んだ空間を指差す。
 そして…、早く行けと俺に言った…。
 後から必ず逝くからと、そう言って微笑んで…、
 それから次に三文字を見て…、さよならを言う…。
 なのに…、そのさよならさえも届かなくて…、
 そんな斉藤の姿を見てると、階段から落ちた時に見た光景が脳裏に浮かぶ。
 俺にはあの光景の先にも明日があったけど…、斉藤にはなかった…。
 あんなに似てても、こんなにも違う。
 けれど…、もしかしたら俺も同じだったかもしれない。
 もう…、久保ちゃんに会えなかったかもしれない…。
 そう想うと苦しくて、苦しくてたまらなくて…、
 俺は三文字の腕を掴んだまま、斉藤に向かって叫んだ。

 「何あきらめてんだよ…っ、なんであきらめんだよっ!!! こんなトコに一人きりでずっと居たのは…っ、消えないで居たのはあきらめるためじゃないだろっっ!!」

 俺の声を聞いた斉藤は、それでも何も言わない…。
 何も叫ばない…。
 けれど、なのにまるで奇跡みたいに俺の横から手が伸びて…、
 その手が斉藤のいる空間に触れる…。
 すると、斉藤の哀しい色を浮かべた瞳が驚いたように大きく見開かれた。
 
 「もしかして・・・・・、司なのか?」

 その問いかけは…、声がかすれてて小さかった。
 でも、その声は斉藤の耳にちゃんと届いていた…。
 けれど、伸ばされた手は斉藤をすりぬけていくだけで何も掴めない。なのに、何も見えないし触れるコトもできないのに、その手は頬を流れ落ちていく斉藤の涙をぬぐおうとしているように見えた。

 「・・・・・・・・司」

 三文字が斉藤を呼ぶ…。
 そして斉藤も三文字を呼んだけど、その声はやっぱり届かない。けれど、それでも斉藤は触れるコトのできない三文字の手に…、自分の手を重ねながら…、
 涙に濡れた瞳で…、うれしそうに微笑んでいた…。
 触れるコトも話すコトもできないのに…、幸せそうに微笑んで…、
 もう一度、歪んだ空間のある場所を指差した。

 「行ってくれ早く…っ。そして必ず助けてくれ…、君と君の大好きな人を…っ」

 僕もすぐに逝くから…、必ず…。
 そう言った斉藤の言葉に押されるように、俺は三文字の腕を放して歪んだ空間に触れる。すると、さっき時任を飲み込んだ時みたいに空間が歪んで…、俺は横から飛び込もうとした橘を押しのけた…。

 「久保ちゃんもアイツも、たぶん俺にしか連れ戻せない…っ。だから、アンタはソコで首を洗って待ってろっっ!!戻ってきたら、絶対にブン殴ってやっからなっっ!!」

 そう言って飛び込んだ瞬間に見たのは、止めるように橘の肩を掴んだ松本と…、
 らしくなく…、苦笑した橘のカオ…。
 橘は斉藤もあんま見えないって言ってたし、もしかしたらさすがにこんなコトになるなんて思ってなかったのかもしれない。だからって、ブン殴るのをやめるつもりはねぇけど、そう言えば今回の橘はなんかいつもより余裕なくて…、少しらしくなかった気がした。
 「ま、たぶん松本が関係してんだろうけど…」
 そう呟いて…、俺は飛び込んだ空間の中で辺りを見回す。
 でも、辺りは真っ暗で何も見えなかった。
 真っ暗で時任も久保ちゃんもいない。
 まさか…、斉藤が言ってたみたいに何もないのか…?
 けれど、真っ暗な世界でそう思いかけたけど、手を伸ばすとその手が何かに触れる。そのコトにほっとして息を吐くと、俺はカタチを大きさを確かめるように触れた何かを触りまくってみた。
 そしたら、俺の立ってる場所には両側に壁があって…、
 でも、後ろと前だけは何もないコトがわかる。
 上は手が届かなくてわからないけど、たぶんトンネルなカンジ。
 問題は前と後ろ…、実はどちらが前か後ろかなんてのもわかんねぇけど、
 その二つのウチ、どっちに進むかが問題だった。
 けど、悩んでる時間も余裕もない。
 だから、俺は自分が前だと思う方に向かって走り出した。
 
 後戻りはせずに…、ただ前へ前へと進むように…。

 途中で目眩がして、なぜか自分がなぜ走ってるのか忘れそうになったりして…、
 でも俺はただひたすら…、前へと走った…。
 すると、やがて俺が向かってる先に小さな光が見えて…、
 それが…、だんだん大きくなって…、
 そして、最後には赤くて大きな夕日になった。

 「もしかして…、ココってマンションのリビングなのか…?」

 長い暗いトンネルを抜けてたどりついた場所で、俺はそう呟くと眩しすぎる夕日に目を細めながら辺りを見回す。
 すると・・・・・、そこに俺が探していた二人の姿がいた…。
 けど、俺は時任にも久保ちゃんにも、すぐに声をかけるコトができなくて…、
 夕日の色に染まったリビングの片隅で、眠るように目を閉じた二人をじっと見つめる。
 じっと見つめて…、夕日に染まった部屋の空気を胸にいっぱい吸い込んだ。
 久保ちゃんは灰の長くなったセッタをくわえたまま…、時任を抱きしめていて…、
 時任もそんな久保ちゃんの背中に手を回して…、抱きしめながら眠ってる。
 ココはたぶん…、あの世って呼ばれる場所で…、
 けど、二人は抱きしめ会いながら微笑んで眠っていた…。

 赤い赤い…、夕日の色に染まりながら…。

 それはこんなコトがなかったら、俺が二人にならなかったら…、
 絶対に見るコトのなかった場所で…、光景で…、
 なぜか見てると胸が苦しくて…、そして熱くなる…。
 暗く長く続くトンネルは冷たくて寂しかったけど、そこを抜けた先にあったのはスゴク眩しくてスゴクあったかくて…、これから先に何があっても忘れたくない忘れられない…。
 ・・・・・・・そんな光景だった。
 幸せなんてあるかどうかなんてわかんねぇし知らなねぇし、何かって聞かれてもわかんねぇけど、もしも幸せってのにカタチがあるとしたら…、こんなカタチかもしれない。
 部屋の中に差し込んでくる夕日も、セッタの匂いのする空気も…、
 そして、抱きしめ合ってる二人の姿も何もかもが穏やかで優しくて暖かかった。

 「もうずっと前から…、俺は久保ちゃんのコトが好きだった…。ずっと、そばにいたいくらい…、こんな風にずっと抱きしめ合ってたいくらい大好き…、だった…」
 
 
 ・・・・・・・・そして今も。


 そう呟いた言葉は滲んだ涙に濡れて、震えて声にはならない。でも階段から落ちた時に見た光景とは違って…、涙で滲んだ夕日は少しも寂しくも哀しくなかった。
 俺は夕日の中で眠る二人に近づくと…、時任の右手に触れる。そして、まるで昇っていく朝日の中でおはようって言う時のように、時任に向かって一緒に帰ろうって言った。
 ・・・・・一緒に久保ちゃんと帰ろう…。
 すると、目を覚ました時任の右手が俺の手を握りしめて…、
 その瞬間に…、二人に分かれてた時の記憶が俺の中で混ざり合って交じり合って…、
 気づくと俺は久保ちゃんに…、抱きしめられてた…。

 「俺は時任で稔で…、あれ?」

 手のひらに誰かの手を握りしめた感触は残ってたけど、その手はもう無い。
 それは俺らが一つに…、元に戻ったってコトで…、
 でも元に戻れてうれしいコトなのになぜか…、少しさみしくて…、
 握りしめた感触の残る手を、じっと眺める…。
 けど、俺がそうしてるとそのさみしいカンジを埋めるように…、
 目を覚ました久保ちゃんの手が…、ぎゅっと俺の手を握りしめてきた…。

 「おかえり…、時任」
 「・・・・・ただいま」

 そう言ってから…、俺は…、
 初めてじゃないのに始めみたいなキスを…、久保ちゃんとした。
 好きな分だけ…、深くキスして…、
 それから今まで言えなかった分だけ言うみたいに、何度も好きだと言って…、
 同じように好きだって言ってくれる久保ちゃんの声を聞きながら、終っていくような世界の夕日の中で俺たちは抱きしめ合いながら、斉藤が空間を繋ぐのを歪みを作るのを待つ。
 すると、ちゃんと約束した通りに世界が歪んだ…。
 けど、一番歪んでいるのはベランダの下…、四階じゃなく一階の地面…。
 エレベーターを使って降りている時間はなさそうだった。
 「ん〜、コレは…」
 「やっぱ、飛ぶっきゃねぇだろっ」
 「もしかして、二人で飛び降り?」
 「…って、縁起でもねぇコト言うなよっ。飛び降りじゃなくて、ただ飛んで帰るだけだっつーのっ」
 「ココから飛んで、無事に帰れると思う?」
 「ぜっったい帰れるっ」
 「で、その根拠は?」
 「久保ちゃんは俺と一緒だから、俺は久保ちゃんと一緒だから…っ、それじゃダメかよ?」
 「ぜんっぜん」
 「だろ?」
 そう言って笑い合うと、俺たちはベランダの手すりに登る。そして空間の一番歪んでいる場所に向かって、夕日の色に赤く染まるマンションの四階から地面に向かって飛んだ。
 俺らの背中には羽なんてないけど、ココから落ちるんじゃなくて飛んで…、
 

 手をぎゅっと握りしめたまま…、二人でどこまでも飛ぶように…。


  


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