改善計画 .5
どんなに願っても…、
どんなに祈っても止まらない、絶望的な瞬間…。
その瞬間を迎えても、未だ久保田の姿は見えず橘からの連絡もない。そんな絶望的な中で、松本の目に時任へと振り下ろされていくナイフがスローモーションのように映る。
そして、おそらく次の瞬間には、そのナイフが時任を切り裂いて…、
辺りに赤い鮮血が飛び散って…、
その様子を脳裏に思い描いた松本は、思わず現実から逃げるように顔をそらし目を閉じた。
『・・・・・・時任っっ!!!』
心の中で時任の名を呼びながら、松本が目を閉じたと同時に激しい音が耳を打つ。会長になってから初めて感じる絶望は、松本を激しく打ちのめした。
麻薬の常習者が、一般生徒の中にいる可能性を最初から考えている。だから、捕らえた犯人から薬を売った相手の名前を聞き出そうとしていたし、麻薬の入手経路も聞き出そうとしていた。
だが、それを知った犯人と関わりのある人間が、自ら名前を明かすような馬鹿な真似をするとは予想していなかった。
『・・・・ネズミに噛まれなきゃいいけどねぇ』
麻薬の取引き現場を押さえて、その場にいた生徒の身柄を拘束した現場で、そう言ったのは久保田である。久保田は松本が「これを足がかりにして、全員挙げてやる」と呟いたのを聞くと、それだけ言い残して時任の待つマンションに帰るために現場を立ち去ったのだった。
その時は何の事を言っているのかわからなかったが、今になってその言葉の意味が良くわかる…。
力で抑えつければ、影消えずに闇に潜ると自分でも言っていたように…、
追い詰めすぎると、牙を剥いてくる場合もある。
窮鼠猫を噛む…だ。
だが、そんな簡単な事に今更気づいても遅い。
何もかも遅かった…、何もかもが間に合わない…。
これ以上、校内で薬を蔓延させないため、犯人を捕まえる事を優先事項にしたが、全員挙げるためには犯人を捕まえるのではなく泳がせるべきだった。
すまん…、誠人…。
己の未熟さを呪いながら、松本は俯いたまま唇を噛みしめる。
けれど、そんな絶望と言う名の暗闇の中に沈みかけた松本に向かって、まるで明るい世界へと引っぱり戻そうとするかのように、閉じた目を開けと何者かが呼びかけてきた。
「こんな時にナニ目ぇ閉じてんだよ、松本っ。 そんなんじゃ助かるモンも助からねぇし、ただ真っ暗なだけだろ」
聞こえてきた声に驚いて松本が目を開けると、信じられない事に時任が無事な姿で床に座っている。しかも、その前には襲いかかってきた男がダンボールを被って転がっていて、なぜかナイフは時任の手に握られていた。
それを松本が信じられない気持ちで眺めていると、時任は握ったナイフで足の縄をブツリと切る。そして、まるで驚いている松本を落ち着かせようとしているかのように、ニッと明るく笑った。
「助かりたいなら、負けたくねぇなら簡単にあきらめてんじゃねぇよっ。何事もあきらめちまったら、その時点で終りだろっ」
時任はそう言うと、素早くタオルで口を塞いでいる男を殴り飛ばして松本の手の縄を切ってナイフを渡す。そして同時に襲いかかってきた三人の拳やナイフをかわすと、起き上がりかけたダンボール男の腹を踏み台にして、三人の内の一人に見事な回し蹴りを食らわせた。
「ぐああぁぁぁぁっ!!!」
「3人だろうと10人だろうと、天才で無敵な俺様に勝てるワケねぇだろ。なんてったって、俺様は執行部で正義の味方だかんな」
そう言った瞬間、時任の繰り出した蹴りと拳が残りの二人の腹と顔面に打ち込まれる。誰に何を吹き込まれたかは知らないが、たとえ5人で同時に襲いかかったとしても、時任にとっては赤子の手をひねるようなものだった。
その証拠にあっという間に3人が気絶し、あとの一人も床でのたうち回っている。いつも言っている無敵で天才は自称だが、執行部で最強なのは誰もが認めている事実だった。
しかも、最強と呼ばれる理由は素早さや力だけではない。だからこそ、ナイフを持った男が襲いかかってきたにも関わらず、時任は今も無事でいる。
自分に向かってナイフが振り下ろされた瞬間、時任は転がっていたダンボールを蹴り上げて男の視界を塞ぎ…、次の瞬間、蹴り上げた足の踵を振り降ろして男の手からナイフを奪ったのだった。
実は松本は気づいていなかったが、時任がダンボールを蹴ったりしていたのは鬱憤を晴らすためではなく、上手く蹴り上げるために距離を測っていたのである。時任の戦闘センスは、相方である久保田と並んで執行部でも軍を抜いていた。
今の時任に勝てる可能性のある者は、校内広しと言えど一人くらいしか思い当たらない。だが、その人物は今ここにはいないし、時任の敵に回る事は絶対にあり得ない…。
時任は無意識に何もない空間へ右手を伸ばすと、何かを掴むように握りしめた。
「こんなヤツら、俺一人で十分に決まってんだろ。だから、おとなしく生徒会室で待ってろよ…」
そう呼びかけた相手は、近くにいる松本ではない。
時任は握りしめて右手を開くと、残りの二人を睨みつけた。
しかし、二人の内の一人、リーダー格の男は仲間が倒されても時任に睨みつけられても顔色一つ変えない。すると、そんな男を見て頼もしく思ったのか、時任に腹を踏まれて床でのた打ち回っていたナイフの男が、助けを求めるように男の袖を掴んだ。
「ま、真鍋さん…っ!!!」
常習者はリーダー男の名前を呼んで、すがるような目で見つめる。しかし真鍋と呼ばれたリーダー格の男はナイフの男の方は見ずに、どこで仕入れてきたのか、ポケットから拳銃を取り出し時任の動きを封じた。
「形勢逆転…、だな」
真鍋はそう言うと、時任に銃口を向けてニヤリと笑う。すると、ナイフの男はなぜか今になってポケットから拳銃を取り出した真鍋を見て、少しひきつった弱々しい笑みを浮かべた。
「その、拳銃はまさか…」
「あぁ、ホンモノだ」
「じゃ、じゃあソレでアイツら殺して逃げようぜ」
ナイフの男は真鍋の右手にある拳銃を見てそう言ったが、真鍋は口元に笑みを浮かべるだけで、その問いかけには答えない。だが、口元に笑みを浮かべたまま、鳴り始めた携帯を左手で取って自分の耳に押し付けて別の事を言った。
「そういや、お前が一番ヤクを始めて長かったよな?」
「アンタに誘われてからだから、た、たぶんそうだけど…、それが?」
「そろそろ潮時だし、ずらかるつもりだけどさ。もうちょっと、お前にはイッててもらわないと、シナリオ通りにならないんだよなぁ」
「えっ? ず、ずらかる?シナリオ?」
「何のために、わざわざ人質交換なんてしたのか考えて見ろよ。ついでになぁんでワザワザ学校なんかで、こんな事をしてるのかも一緒になぁ」
真鍋はそう言ってから、電話の相手に了解とだけ告げて携帯を切ってポケットに入れる。そして、その手に透明な液体の入った注射器を持った。
「アンタ…、確か人質を取った時…」
「そう、俺だけは参加してなかった。そして、俺だけは顔を見られていない」
「・・・・・・っ!」
「あとは余計な事を喋らない内に捕まっちまってるマヌケな野郎と、お前以外の全員を処分すればシナリオ通りだ」
「なん…で、俺だけ…」
「それはなぁ」
「そ、れ…は?」
「お前にはコイツらを皆殺しにした拳銃を、握っててもらわなきゃならねぇからさ」
そう言った真鍋は、震えるナイフの男を冷たい目で見下ろす。そして目を見開いたまま動かない男の肩に向かって、勢い良く注射器を振り下ろした…。
仲間は時任によって倒され、最後の望みの綱だった真鍋に裏切られ…、
もう、男には助かる術が無い。
けれど、振り下ろされた注射器は、なぜか男の方に刺さる寸前で音を立てて壊れた。
「やめろっ!」
壊れていく注射器の音と同時に、室内に響く時任の声…。
麻薬に犯された空ろな目で男は、自分を助けてくれた時任の方を見た。
真鍋の注射器を割ったのは、時任が松本の手から奪い取ったナイフで…、
投げられたナイフは、真鍋の後ろの壁に突き刺さっている。
唯一の武器を自分を殺そうとした男を助けるために使った時任を見て、真鍋はゆっくりと口の端を吊り上げた。
「俺が持ってる注射器は一本じゃないぜ? けど、てめぇが持ってるナイフは確か一本きりだったよなぁ?」
「・・・・・・それがどうかしたかよ?」
「こんなくっだらねぇヤツ助けて、せっかくの武器を捨てちまって、こんな時まで正義の味方きどりか? てめぇのそういう所がムカつくんだよっっ!!」
「ふーん…、じゃ、勝手に一人でムカついてろ」
「なにぃっ」
「くだらねぇとかくだらなくねぇとかそんなのは関係ねぇ、俺は助けたいから助けた。それを見てムカつくってんなら、ただ、てめぇ自身が無意識に自覚してるってだけだ」
「自覚…だと?」
「自分が弱いってコト、自覚してんだろ? なんか拳銃持っただけで強くなった気になってるみてぇだけど、そーいうトコがすっげぇ救いようのねぇくらい弱い証拠だっつーのっ」
お前は弱い…。
そう言った時任を鋭く睨みつけながら、真鍋の顔が醜く歪んでいく。すると、拳銃を持ち圧倒的に有利な体制にありながら、さっきまではあった余裕が真鍋から感じられなくなった。
拳銃を向け相手を追い詰めながら、なぜか追い詰められたような表情をしている。真鍋は顔を醜く歪ませたまま、自分の弱さを誤魔化すように短く笑った。
「そんな事を言ってられるのは、今の内だけだろうぜ。一発でも鉛玉を食らえば、後悔したくなる…、死ぬほどな」
真鍋はそう言うと、構えた拳銃の引き金に指をかける。だが、さっきナイフを投げてしまったので、真鍋の指が引き金を引くのを止められるような武器を時任は持っていなかった。
このままでは何もできないまま、何もしないままに銃弾の餌食になってしまう。それを見た松本は厳しい表情になったが、時任はいつもとあまり変わらない調子で松本に小声で話しかけた。
「・・・・・・動けっか?」
「あぁ、縄は切ったし俺は平気だ」
「なら…、大丈夫だな」
それだけ確認すると、時任は向けられた銃口に怯えることなく拳にぐっと力を入れて戦闘態勢を取る。それは…、自分が真鍋を引きつけている隙に逃げろという松本への合図だった。
だが、松本はズボンについた汚れを払って立ち上がると時任と同じように戦闘態勢を取る。そして、仲間に罪をすべて着せて逃走しようとしている真鍋を、会長らしい自信と誇りに満ちた強い視線で鋭く睨みつけた。
「・・・・・俺は誠人が動くのを、橘が来るのを待っていた。だが、待っているだけでは何も解決しない…。それは、ただ待っているだけで、俺自身が何もしようとはしていないからだ…、そうだろう?」
「・・・・松本」
「一人よりも二人の方が倒せる可能性が高い。どちらかが撃たれても、どちらかが攻撃できる。もしも、二人とも倒れた場合は、たどりつけた方が後ろにある窓から出ればいい」
「それで、アンタはいいのか?」
「あきらめるなと言ったのは、お前だろう? それに、俺はこんな所で死ぬわけにはいかない。まだ、やりたい事もやり残した事も山のようにあるからな」
「・・・・・・上等」
「では、やるか?」
「やらいでか…っ!!」
時任の顔にも、松本の顔にも笑みが浮かぶ。
そして、同時に走り出した。
背中を向けず逃げ出さず、拳銃を構えている真鍋に向かって…。
だが、その瞬間…、時任は視線を目の前にいる真鍋ではなく…、
真鍋の後ろにある窓ガラスに向けていた…。
それはただのカンだったのか、それとも何かの気配を感じていたのか…、
時任自身にもわからない…。
けれど、その何かを感じた瞬間、時任は銃弾が頬をかすめていくのを感じながら、松本を横抱きにするようにして右へと飛んだ。すると、その瞬間を待っていたかのように、窓ガラスが音を立てて砕け…、散って…、
欠片が外からの光を受けて、きらめいて落ちた。
キラキラときらめいて落ちる…、光の欠片…。
一瞬の静寂…。
その時、真鍋は突然に割れた窓の音に驚いて、注意を時任と松本ではなく窓の方に向けていた。
「これで終りだぁぁぁっ!!!!」
時任が吼え、繰り出された拳が拳銃を弾き飛ばし静寂は破られる。
怒りに燃えた真鍋が殴りかかってくると、それをすっと身体を少し横にずらしただけでかわした時任は、そのままの体勢から鋭い回し蹴りを食らわせた。
素早く鋭く描いた蹴りの軌跡は無駄がなく、それ故に美しく破壊力も強くなる。時任の蹴りをまともに食らった真鍋は吹っ飛び、身体を壁に打ち付けた。
すると、それを見た常習者が逃げ出そうとし、松本に取り押さえられる。
そして、ホッとしたように軽く息を吐いた。
「これで・・・・・・、終ったな」
だが、松本が息をついたのはつかの間の事で…、
時任に蹴られた部分を押さえ苦しい息を吐きながら、かろうじて意識を保っていた真鍋が、何かスイッチのようなものを懐から取り出す。そして、それを時任と松本に見せるように上に上げた。
「言った…、だろう? なんで、学校…、なんかでこんな事をしてるのかを…、なぁ…。くくく…、生徒全員が人質だ…。念のために仕掛けさせておいて…、よかったぜ…。騒ぎを大きくしたくなかったが…、てめぇらが悪い…、くくくく…」
痛みに苦しみながらも、真鍋は笑う。
結局、最後に勝つのは自分だと勝ち誇ったように…。
だが、そんな真鍋の笑い声を、張りのある勇ましい声が一喝して止めた。
「どうせ笑うなら、自分の愚かさを笑いなさい! アンタの悪事はすべてお見通しよっ!」
「・・て、てめぇは執行部の桂木…っっ!」
「アンタが仕掛けさせた爆弾は、すべて執行部で撤去させてもらったわ。ふふふ、生徒会室の真下でウロウロしてたのが運の尽きってヤツかしら? 何も知らないヤツらに大金掴ませて、自分では何もしないでいるから、そんな事になるのよ」
「・・・・・くっっ!!」
「観念なさい、アンタはもう終わりよ」
桂木が真鍋の敗北を宣言すると、桂木の後ろから走り出してきた一人の生徒が松本に走り寄る。そして、暗く深刻な表情で膝をつき頭を深く下げながら、松本に自分が見てきた事を報告した。
「申し訳ありません…、会長…」
「どうした、川内。お前は確か、今日は橘と一緒に…」
「橘副会長がさらわれました」
「・・・・・・・・・」
「自分がついていながら…、みすみす…っ!!」
「・・・・・・・・相手は?」
「わかりません…、けれど副会長を乗せた車は横浜港の方に…」
・・・・・横浜港。
そう本部の人間、橘の指揮している諜報部の川内が報告している、その横で…、時任が窓の外にいる人物をじっと睨みつけている。その人物は窓ガラスを割って真鍋に隙を作った人物だった…。
だが、礼を言わなくてはならないはずの人物を、時任は睨み続けている。まっすぐに見つめながら睨みながら、その人物がここにいる事を責めていた。
それは生徒会室で待っていろと命令したのに、この場所にいるから…、
まるで、松本の命令に従ったかのように、その期待に答えたかのように、この場所に立っているから…。
本当はいつものように走り出して、ありがとうを言いたかったのに…、
橘の居場所を聞いた松本が、久保田に話しかけるのを見ているともっと胸がムカムカして、そんな自分がとてつもなく嫌でたまらなくて…、
時任は桂木の静止を振り切って部室を飛び出すと、一人で横浜港に向かって走り出した。すると、久保田が後を追ってきて、時任でなはくバイク通学の生徒を捕まえる。
そして、後で返すと約束してバイクを借りると、時任に向かって手を伸ばした。
「・・・・・・俺は一人で行く。久保ちゃんも一人で行け」
「同じ場所に行くのに?」
「・・・・・・・・・」
「時任?」
「今はこんなコト、してる場合じゃねぇもんな…」
時任はいつもより少し低い声でそう言うとバイクに…、久保田の後ろに乗る。けれど、二人を乗せたバイクが走り出しても、頬を髪を気持ちよい風が撫でても…、時任の表情は沈んだまま晴れなかった。
「相方じゃなくなっても、同じ場所に行けんのかな…、俺ら…」
そう呟いた時任の声は、バイクのエンジン音に掻き消され…、
時任のぬくもりを背中に感じながら走る久保田の想いは、あの日、初めて触れた唇のように…、愛しさと切なさに震えていた。
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