改善計画.2




 「あのさ、今日の見回り俺の代わりに久保ちゃんと行ってくんねぇ?」
 
 時任が相浦に向かってそう言ったのは、8月24日の事だった。
 ただ見回りを代わって欲しいのではなく、自分の代わりに久保田と見回りに行って欲しいと時任が言うと、生徒会室にいた全員がいっせいに時任の方を見る。それは、久保田ならまだしも時任がそんな事を言い出すのが珍しかったからだった。
 時任が見回りに出ない時は、たいがい久保田も休む…。
 なのに、あえてそう言ったという事は、暗に自分は休むがお前は出ろと言っているも同じだった。
 しかし、相方である久保田も何も聞いてなかった様子で、わずかに首をかしげている。声に出しては何も言わなかったが、時任に向けられた目がなぜかと聞いていた。
 すると、そんな久保田の視線に気づいた時任は、何かを誤魔化すように「頼んだぜ」と相浦の背中をバシッと軽く叩く。だが、久保田はぼんやりとした表情で視線を時任から、同じ室内にいた松原と室田の方へと向けた。
 「悪いけど、今日の見回り代わってくんない?」
 「…って、なんで俺が相浦に頼んでんのに、そっちに頼むんだよっ!」
 「ん〜、それはね。今日は俺も見回りに行けないからだけど?」
 「まさか、俺と一緒じゃないと見回りしねぇとか…」
 「じゃなくて、ちょっち野暮用」
 時任の問いかけに久保田がそう答えると、時任はムスッとした顔になる。それは時任と同じように見回りに行けない理由を久保田は言わなかったが、こういう言い方をする場合は、いつも生徒会長である松本に呼び出された時だと知っていたせいだった。
 たかが十円…、されど十円…。
 なのかどうかは知らないが、久保田は松本に借りがある。
 しかも、二人は中学時代に同じ執行部にいた。
 それについて聞きたい事も言いたい事も山ほどあるが、時任はそっけなく「あっそ」と言うと机に置いていたカバンを手に持つ。そして、小さく息を吐いて気を取り直すと、これから野暮用の久保田に向かって早く帰って来るように言った。
 「ヤボ用だかなんだかしんねぇけど、さっさと終らせて早く帰って来いよ」
 「ほーい」
 「絶対だかんな」
 「はいはい」
 久保田がそう返事をすると、まだ少し不機嫌そうだった時任の表情が誰の目から見てもわかるほど、明るく楽しそうになる。その理由を言わないのは時任も久保田と同じように、これから野暮用だからなのに違いない…。
 時任は松原と室田に「悪りぃな」とあやまってから生徒会室を出た。
 「じゃ、また明日なっ」
 元気の良い時任の声が生徒会室に響くと、久保田を除いた全員が軽く手を上げたり返事をしたりして挨拶を返す。久保田だけが挨拶を返さなかったのは一緒に住んでいるからだが、その顔にはなぜか苦笑が浮かんでいた。
 今日は久保田も時任も見回りは、当番にも関わらず休み。
 そして、その理由は二人とも野暮用…。
 だから、お互い様と言えばそうなのだが、時任がどんな用事で一人で先に帰るのか気にならないと言えばウソになる。久保田は小さく「うーん…」と唸ると軽く人差し指でこめかみを掻いた。
 「どうしたもんだか…、ねぇ?」
 そんな久保田の呟きを聞いた桂木は、久保田と違った理由で人差し指を軽く額に当てる。実は桂木が見回り当番を休むと言う時任に何も言わなかったのは、聞かなくても休む理由がわかっていたせいだった。
 今日は8月24日…。
 なぜか、久保田よりも先に帰りたがっている時任。
 楽しそうな様子を見なくても、それだけで理由は十分わかるのだが…、
 どうやら、久保田にはわかっていないらしい。
 桂木が時任が帰った理由を教えた方がいいのか、それとも教えない方がいいのか…、どうしようかと悩んでいると絶妙なタイミングで色とりどりの悪趣味なバラの花びらを散らしながら、藤原が勢い良くドアを開けて生徒会室に入ってきた。

 「久保田せんぱーいっっ、お誕生日おめでとうございますぅぅぅ…っ!!」

 そう叫んだ藤原の頭には真っ赤なリボン。
 そして、真っ赤なリボンをつけた頭の中にはお花畑。
 うっとりとした表情で両腕を広げて久保田に突進していく藤原を見つめていると、思わず目の辺りを四角く黒く塗りつぶしたい衝動にかられる。
 人の妄想は目に見えないが…、
 なぜか、藤原の妄想だけは例外だった。

 『誕生日プレゼントに…、このケーキと僕の大切なモノを久保田先輩に…』
 『ホントにくれるの?』
 『もちろんです…。僕は久保田先輩にもらって欲しいんです…』
 『藤原…』
 『好きです…』
 『俺もだよ、藤原』
 『先輩…』
 『ケーキも藤原も、どちらもおいしそうだぁね…』
 『あ・・・・っっ、く、くぼたせんぱい…っっ!!』

 止まらない愛のヘンタイ妄想劇場。
 しかも、最悪な事に毎回ワンパターン…。
 こめかみをピクピクさせながらハリセンを握りしめた桂木は、それで久保田に抱きつこうとした藤原をハエのように叩き落した。
 「ヘンタイ駆除っっ!!!必殺ハリセンハエ落としーっ!!!!」
 「ぎゃあぁぁーーっっ!!僕の催淫剤入り手作りケーキがぁぁぁっ!!!」
 「ま、こんなヘンタイのワンパターンな妄想はどうでもいいけど…」
 「…って、誰がヘンタイで誰がワンパターンなんですかっっ!!!!」
 「これでなぜ時任が早く帰ったのか、理由がわかったでしょう?」
 「うぐあぁぁーーっ!!!」
 じたばた暴れる藤原の背中を踏んで怪しい薬入りケーキを取り上げると、頭をハリセンでピシピシ軽く叩きながら桂木がそう言う。すると、久保田はようやく気づいたように、部屋の壁にかけてあるカレンダーを見た。
 「そー言えば、そうだっけね」
 「だから、野暮用なんてさっさと終らせて、早く帰ってあげなさいよ。時任ってガサツで無神経なように見えて、意外に細かいし健気なトコもあるんだから…」
 「・・・・・・・」
 「久保田君?」

 「・・・・・うん、知ってるよ」
 
 桂木の問いかけにそれだけ答えると、久保田は「じゃ…」と短く挨拶して野暮用に向かう。けれど、その時、久保田が知ってるとは答えたが早く帰るとは言わなかった事に桂木は気づいていた。
 よほど重要な野暮用なのか、それとも他に何か理由があるのか…、
 桂木が重ねて早く帰れとは言わず、久保田の背中に向かって「お誕生日おめでとう、久保田君」と言うと久保田は返事するように軽く手を上げる。それを見た桂木は楽しそうに帰って行った時任の顔を思い出して、小さくため息をついた。












 久保田の野暮用は、生徒会本部から頼まれた用事…。
 そして、時任の野暮用は誰に頼まれた訳でもない…、個人的な用事…。
 何時間もじーっと眺めているテーブルには、冷めた料理とロウソクが立てられたケーキが乗っていた。時任が持っているケータイの今日の着信履歴には久保田の名前があったが、ここに久保田の姿はない。
 今日は遅くなるから、ごめんね…と、それだけ言って通話が切られた瞬間、時任は目の前にあったフォークをテーブルに置かれていたケーキにザクッと突き刺した。

 「なーにが野暮用だっ!! 十円の借りだかなんだか知らねぇけどっ、どーせ松本の野郎にまたなんか押し付けられただけだろっ!!!…っざけんなよっっ!!!!」

 ムカムカムカ…っ、イライライラ・・・・・っっ。
 どんなにイライラしてもムカムカしても、電源を切っているのか久保田のケータイに何度かけても通じない。時任はケーキに突き刺したフォークを抜くと、誕生日には不似合いな焼きそばをガツガツと食べ始めた。
 でも、待ちくたびれてお腹がすごく空いてたはずなのに、全部食べても少しも満足感がない。焼きそばの次に好物のモスチキンを齧ったが、冷めていたせいかおいしくなかった。
 「こうなったら久保ちゃんの分まで食ってやるっっ!!! 全部なくなっても野暮用なんかで帰って来なかった、久保ちゃんが悪りぃんだからなーっっ!!!」
 いくら叫んでも久保田には聞こえないのに、叫ばずにはいられない。
 見回りを休んで、買いものに行ってお祝いの準備をして…、
 それがすごく楽しかった分だけ、ムカムカしてイライラして…、
 チキンを噛みしめると…、なぜかちょっとだけ涙が出そうになる。
 こんな日に限って野暮用で帰って来ない久保田にムカついて…、けれど自分で作った料理を全て食べ終えるとすごく寂しくなった…。
 本当は楽しい日になるはずだったのに、なぜかすごく寂しくてたまらない。
 時任はフォークを突き立てた後の残るケーキをじーっと眺めると、座ってたイスから立ち上がって電話の横に置いてあったライターを手に取ると部屋の電気を消す。そして、丸いケーキの上に立てられたロウソクに火をつけた。
 ユラユラと揺れる小さな炎の数は、久保田の年の数だけ…、
 その数は、今の時任の年の数よりも一つだけ多い…。
 再びイスに座った時任はテーブルに頬杖を着いて、その小さな炎をじっと見つめながら、声には出さずに唇だけでおめでとうを言った。
 
 「久保ちゃんのバーカ…。誕生日は一年に一度しか来ねぇんだぞ…」

 そう呟いてロウソクにつけた炎を一つだけ、ふーっと息を吹きかけて消してみる。そして、次に全部を吹き消そうとして息を吸い込んだけれど、その息はなぜかゆっくりとした、ただのため息になって…、
 時任は吹き消したロウソクに、また火をつけた…。
 それから、バカとかアホとかたくさん久保田の悪口言って…、
 そうしている間に、いつの間にか眠ってしまったのか、次に気づいた時にはケーキの上のロウソクは全て溶けて消えてしまっていた。
 「ふぁあぁ〜…、今、何時だよ?」
 目を覚ました時任は、ねぼけ顔のままでそう言って突っ伏していた机から顔をあげる。だが、その時、自分以外の人間の気配が部屋にあるのに気づいて、時計に向けかけていた視線を止めた。
 そして、そこに立っている人物をじーっと見る…。
 すると、時任の目がいつもよりも更に釣りあがって眉間に皺が寄った。

 「・・・・・ただいま」

 その一言が耳に届いた瞬間、時任は発作的にテーブルに置いてあったケーキを思い切り投げる。すると、電気が付くと同時にケーキは立っている人物の肩に当たって潰れて、グチャリと床の上へと落ちた。
 潰れたケーキと帰ってきた久保田…。
 その両方を睨むように見つめたまま、時任は動かない。だが、それを気にした様子もなく、久保田はしゃがみ込むと床に落ちたケーキに手を伸ばして指先でクリームをすくってなめた。
 「潰れても味変わらないし、大丈夫だから…。ありがとね、時任」
 ケーキをぶつけられて睨みつけられて、それでも久保田は時任に向かって微笑みかける。だが、その顔を見てるとなぜか逆にムカムカしてきて、久保田の口からゴメンという言葉を聞きたくない気がして…、
 時任はツカツカと歩み寄ると、しゃがみ込んでいる久保田の頭を足で軽く踏んだ。
 「久保ちゃん…」
 「うん?」
 「・・・・・・・・今日は早く帰れって言わなかったっけ?」
 「言った」
 「なのに、なんで帰って来ねぇんだよ」
 「だから、電話で言った通り野暮用が長引いて…」
 「…ってっ、そのヤボ用はどうせ松本の野郎に頼まれたヤツなんだろっ!!言わなくったってわかってんだからなっ!」
 「・・・・・・・」
 「なんで、執行部の久保ちゃんが本部の仕事なんかしてんだよっ!!!しかも毎回っ、毎回っ、相方の俺抜きでっっ!!!」
 「それは執行部として受けたコトじゃないからでしょ。つまりコレは執行部じゃなくて、俺個人の問題」
 「だったら…、だったらなおさらっ、なんで松本の野郎の言いなりなんかになってんだっ!!十円の借りとかじゃなくて、何か弱みでも握られてんのかっ!?」
 「いんや…。それに、ベツに言いなりになんかなってないし…」

 「じゃあ…っ、なんでっっ!!!」

 言い事がたくさんあり過ぎて…、
 けれど、どれも上手く言葉にならなくて頭の中でグチャグチャになる。
 怒ってるはずなのに、なぜか泣きたくなる…。
 泣きたくなくて、むちゃくちゃに怒鳴って歯を食いしばって…、
 そうしながら気づいたのは、実は自分が久保田が早く帰って来なかった事に怒ってるのじゃなくて…、自分との約束よりも松本の用事を優先した事が…、
 よりにもよって、こんな日に自分じゃなくて松本を選んだ事が許せなかっただけだった…。
 でも、それを認めるのが嫌で…、でもすごく苦しくて…、
 屈み込んだまま動かないでいる久保田の頭から足を降ろすと、今度は手を伸ばして襟首を掴んでグイッと自分の方へと引いた。
 そして、息がかかるほど近くで久保田を睨みつける。それから、噛み付くようにグチャグチャになってる感情を久保田に向かってぶつけた。
 「なんで、松本の言う事なんか聞いてんだよっ、まるで本部の犬みたいに…っ!!久保ちゃんがそんなんだったら、相方してるイミねぇじゃんっ!!」
 「・・・・・・・」
 「なんか俺ばっかいつも何も知らなくてさっ、のけ者で一人でバカみてぇじゃんか…っ!!」
 「時任…」

 「あんなヤツの犬になるくらいなら…、どうせ犬になるならっ!! 俺の犬になりやがれっっ!!このバカ犬っっっ!!!!」

 一気にまくし立てるように喋って叫んで、時任が久保田の襟を掴んだまま荒い息を吐く。
 息を吐いて少し咳き込んで、目尻にちょっとだけ生理的な涙が溜まった。
 でも、これだけ叫んでも…、たぶんいつもみたいに曖昧な事を言われて、うやむやにされて終ってしまう…。少しずつ呼吸がゆっくりになって落ち着いてくると、早くなっていた鼓動も同じようにゆっくりになってきて…、
 時任は久保田の襟から手を離すと、今日、何度目かのため息をついた。
 こんなのはらしくねぇ…と、胸の中で呟くように思いながら…。
 でも、どうにもならなくてさっきのは忘れろとか…、そんな言葉を置いてリビングを出ようとした。だが、その瞬間、今度は久保田の手が伸びてきて時任を捕まえて立ち上がり、しかめ面をしている時任の背中をぎゅっと抱きしめた。
 「なっ、なにすんだよっっ!!」
 時任は抱きしめてくる腕から逃れようと暴れたが、久保田の力が強くて逃げられない。少しの間、逃げようとする時任と逃がすまいとする久保田の間で攻防戦が繰り広げられたが、やがて時任が疲れておとなしくなると、頭に久保田の頬が触れてきた…。
 「いいよ…」
 「いいよって…、何の話だよ?」
 「時任が犬になれって言うなら、なってもいいって話。犬になったら時任の命令には逆らわないし、時任の命令しか聞かない」
 「・・・・どーせ、ジョウダンで言ってんだろ」
 「違うよ。ホントでホンキ」
 「・・・・・」
 「でも、一つだけ条件があるんだけど」
 「条件?」
 ホントでホンキだと言ったように、思わず上を向いた時任の瞳に映った久保田の表情も瞳も真剣…。だが、久保田の口から出た犬になる条件は、とても本気とは思えなかった。

 「・・・・・・キスしていい?」

 その一言を聞いた瞬間、時任の中の時が止まる。思わず聞き違いかと自分の耳を疑ったが、そんな時任の様子を見ていた久保田は、さっきよりも少し大きな声で重ねてもう一度同じ事を言った。
 「犬になる代わりに、キスしていい?」
 「…って、犬とキスとなんの関係があんだよっ!??」
 「うーん…、関係はあるような、ないような…」
 「そ、それに男同士でキスとか…っっ、そんなのフツーじゃねぇだろっ!!」
 「そう?」
 「そうだよっ!!!!」
 時任がきっぱりハッキリそう言うと、久保田は少し考え込んだ後に腕を放して時任を解放する。そして、なぜか少し顔を赤くしてる時任に背を向けた。
 「じゃ、この話はなかったコトに…」
 「なっ!」
 「だって、雇用条件が合わないと、ねぇ?」
 「何が、ねぇっだよっ!だったらっ、キス以外の条件にすればいいだろっ!!」
 「・・・・・おやすみ」
 「お、おいっ!!!ちょっと待てよっ!!」
 おやすみを言って寝室に向かおうとしている久保田の背中を、時任は思わず追いかける。けれど、引き止めるために手を伸ばそうとしていた手を止めた。
 そうしたのは…、久保田の問題発言によって、いつの間にか話題がすり変えられている事に気づいたせいである。帰りが遅くなった事や本部の犬になってる事とか、そんな色々な事がこのままだといつものように誤魔化されて曖昧になってしまうに違いなかった。

 くそーっ!! ぜっってぇっ!!キスとか言えば俺が嫌がって犬にすんのをやめるとか思ってやがんなぁぁっ!!!

 そう思った時任は改めて久保田に向かって手を伸ばすと、肩をぐいっと引っ張って強引に自分の方を向かせる。そして、再び胸の奥からフツフツと沸き起こってくる怒りをぶつけるように噛み付くように怒鳴った。

 「キスくらいいくらでもしてやるっ!! だから、俺の犬になれっっ!!」

 キスくらい…、いくらでも…。
 怒りの感情にまかせて、時任はそう怒鳴る。けれど、本気で久保田を犬にしたいと思っていたわけではなく、ただ意地になっていただけだった。
 このまま曖昧にされたら、ケーキを買ってロウソクの火をつけて待っていた時間が…、あまりにもさみしくて…。でも、そう思っていても素直にさみしいと口に出して言えなくて、こんな風に怒ったり怒鳴ったりする事しかできない。
 望んでもいない事を久保田の前に突きつけて…、睨みつけて…、
 そうしていると…、胸の奥がズキズキと痛んだ。
 どうせジョウダンだと言われて…、お仕舞い…。
 だったら、自分から冗談だって言って…、終わりに…、
 時任はそう思いながら睨みつけていた視線を下に向けて、らしくなく小さく息を吐こうとした。けれど…、その息は吐き出される前に盗まれて…、時任は驚きのあまり目を見開く…。
 だが、あまりにも近づきすぎていて久保田の表情は見えなかった。

 「・・・・・っっ!!!!」
 
 初めて触れた唇は、熱かったのか冷たかったのか…、
 あまりにも驚きすぎて衝撃的で、それすらもわからない。やがて、ゆっくりと離れていく久保田の唇を見つめながら、時任は怒りも叫びもせずに呆然とその場に突っ立っていた。

 「じゃ、契約成立ってコトでヨロシク…、ご主人様」

 久保田はそれだけ言うと、呆然としている時任の背中を押して寝室に向かわせる。そして、パタンとリビングのドアを閉じた…。
 唇にわずかに残る触れた時の…、感触…。
 それを思い出すように、ゆっくりと自分の唇に手を伸ばして触れる。
 すると、途端に金縛りが溶けたように身体が自由に動けるようになった。
 だが、顔が焼けるように熱くて、なにしやがるとリビングに怒鳴り込みたいのにそうする事ができない。照れ臭いような恥ずかしいような…、そして少しだけ切ないような気持ちが胸の中で入り混じって…、
 それを忘れようとするかのように寝室に入ると、時任はドアを音を立てて閉じて毛布の中に潜り込んだ。
 けれど、やがて夜が朝が来ても状況は変わらず、時任が言ってしまった一言によって久保田は犬になり現在に至る。
 そして、あの日にしたキスの契約も継続中だった。
 キスしても良いと自分で言ってしまったので時任は拒否することもできず、マンションの部屋でいつもムスッとしたまま何も言わずにキスされている。キスされるたびにドキドキと激しくなる鼓動を感じながら、その鼓動に向かってうるさいっ、うるさい黙れと胸の中で叫びながら…、
 けれど、ドキドキする鼓動はキスが終ってからも鳴り止まなかった。
 
 「何なんだよ…、一体…っ」

 久しぶりに久保田から離れて…、たどり着いた学校の屋上…。
 時任はブツブツと色々な事を呟きながら、ふーっと上を向いて空に向かって息を吐く。久保田と一緒にいるのは当たり前で、それは犬になる前もなった後も変わらないが、今はなぜか少し息が詰まる時があった。
 キスするたびに、胸の鼓動はドキドキして止まらなくなるし…、
 そんな時任の事を知ってか知らずかキスは日を追うごとに長くなる。こんなのはもうやめにしないかと、そう言いかけてやめたのは一度だけじゃなかった。
 キスだけじゃなく、久保田に命令するのもやめたい…。
 キスしてドキドキする以上に、どんな無理でむちゃくちゃな命令をしても怒らず、絶対に逆らわない久保田を見ていると辛かった。
 「あんなジョウダンみたいな契約をマジでするなんて、絶対におかしいし…。もしかして、キスは嫌がらせで同居解消の口実ってヤツで、ホントは俺のコトが嫌いだったり…、なーんてな…」
 取り留めのない事を考えて、なんとなくそう呟いて落ち込む。
 すると、そんな時任の声に答えるように、すぐ近くから声がした。
 「なるほど、何か様子がおかしいとは思っていたが、キスで犬になる契約をしているのか…。なんとかは盲目というが…、かなり重症だな」
 「あー…、重症かもな・・・・・・ってっ! なんでっ、てめぇがこんなトコにいんだっ!!それにっ、ぼーっとしててうっかり答えちまったけど、なんとかは盲目ってどーいうイミだよっっ!!しかもっ、き、キスとか久保ちゃんと俺しか知らないコトを知ってんだっ!!まさかっ、久保ちゃんから…っっ!!」
 「いや、何も聞いてない。君が自分でブツブツひとり言を言っていたのを聞いていただけだ」
 「ま、マジで…っっ!?」
 「本当だ。いくらでもキスとか…、俺の犬とか…」
 「うわあぁぁっ、言うなっ!! もういいっ、聞きたくねぇっ!!」
 「そうか?」
 「じゃ、じゃあ、誰から聞いたのかはとりあえず置いといてっっ。なんとかは盲目ってのはナンだよ?」
 「それは私の口からは言えないな。直接、誠人に聞いた方がいい」
 「はぁ? なんで久保ちゃんに聞かなきゃなんねぇんだよっ!!!」
 「それにしても…、あの誠人がな…」
 「おいっ」
 「キスで犬に・・・。まだ成り行きでヤクザの方が、ある意味納得できるというかなんというか…」

 「俺を無視してナニ遠い目して、ヒトリゴト言ってんだよっっっ!!」

 時任がこめかみをピクピクさせながら怒鳴っている相手、それは時任よりも早く屋上に来ていた生徒会長の松本…。 松本は久保田に本部の仕事を手伝わせて時任を怒らせて、犬になる原因を作った人物だった。
 始めて会った時から気に入らなかったが、今は更にますます気に入らない。時任は松本を鋭い瞳で睨みつけると、まるで戦闘態勢を取るように少し身構えて拳を強く握りしめた。
 「・・・・・・・久保ちゃんはもう、てめぇの命令なんかきかない」
 「そうか…。だが、言われるまでもなく、今まで誠人に命令した事はない」
 「ウソついてんじゃねぇよっ!! 久保ちゃんの相方は俺なのにっ、てめぇがいつも久保ちゃんを…っ!!!!」
 そう叫ぶと時任は強く握りしめた拳を、松本の腹に向かって打ち込む。
 その拳は手加減はしていたが、速度も角度もかなり速かった。
 だから、いつも副会長兼恋人である橘に守られているだけの松本には、絶対に避けられるはずがない。しかし、繰り出した時任の拳は松本の腹ではなく、右手で止まった…。
 「・・・・・・・っっ!!!」
 前に橘に拳を止められた事があったが、生徒会本部の革張りの椅子に偉そうに座ってる姿しか知らない松本にまで拳を止められて、時任はショックのあまり目を見開いたまま口をパクパクさせる。すると、松本は時任の手首を握ってぐいっと引っ張ると、屋上の出口に向かって歩き出した。
 「君がそう言うなら、これからは君にも仕事を頼むとしよう」
 「だ、誰がてめぇの頼みなんかっ!!!」
 「相方である誠人の関わっている仕事は、君の仕事でもある。だから、今度から誠人に教えた情報は君にも教える…。それで文句はないだろう?」
 「それだったら文句はねぇけど、なんか上手く乗せられてる気が…」
 「気のせいだ。それに実は君に頼みたい事があってね。だから、ここで会えて丁度良かった」
 「ちょ、丁度良かったって何がだよ?」
 「行けばわかる」
 「行ってもわかんねぇよっ!!!つーかっ! さっさと手を離せっっ!!このヘンタイ会長っ!!!!」
 「仕事の現場に案内しているだけなのに、ヘンタイとは心外だな。それにヘンタイというなら、キスで君の犬をしている誠人の方がよっぽどヘンタイだと思うが…」
 松本にそう言われた時任は、犬している久保田を脳裏に思い浮かべる。
 すると、本当に頭に耳、尻に尻尾の幻覚が見えた気がして…、
 さっきの松本のように遠い目をしながら、時任はガックリと肩を落とした。

 「・・・・・・・・・・確かに」
 「だろう?」

 妙な所で意見が一致した二人は、時任が来る前、屋上で松本が読んでいた怪しい手紙に書かれていた場所に向かう。すると、ちょうどその頃、二人にヘンタイ扱いされてしまった久保田が生徒会室で盛大なクシャミをした。

 「ハックシュ…っ!!」
 「あら、風邪?」
 「うーん、誰かがウワサしてるのかも?」

 あれから、久保田はご主人様の命令を忠実に守ってずっと生徒会室にいる。だが、久しぶりに時任の傍から離れても別にする事もなく、ぼんやりと窓から外を眺めながらヒマを持て余していた。



 
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