改善計画 .18



 
 本当は久保田が帰ってくるまで、マンションで待つつもりだった。
 必ず帰ってくる久保田を…、待つつもりでいた…。
 けれど、橘からの電話に嫌な予感を感じて、時任は今こうして久保田の前に立っている。そして、そんな時任の前には拳銃を構えた見知らぬ男が立っていた。
 男は久保田の知り合いなのか、それとも今日の事件の関係者なのかはわからないが、そのどちらにしても久保田に銃口を向けている時点で友好的な相手ではない事が確定している。けれど、後ろから首に腕をまわしてきた久保田は、なぜか時任の背中に銃口を押し付けた。

 「ちゃんと戻るって言ったのに、どうして来たの?」

 マンションにいるはずの時任が、なぜここにいるのかと問いかけもせずに、久保田は時任に向かってそう尋ねる。
 まるで、ここに来た事を責めるように…、
 まるでここに来た事を咎めるように、いつもよりも低い声で…。
 けれど、時任はそんな久保田の声を聞いても怯まずに、首に回された腕にそっと右手で触れた。
 「ウチで待ってるつもりだったけど、忘れモノしてたから届けに来た…」
 「忘れモノ?」
 「ケータイ…、忘れてただろ?」
 時任はそう言うと、ポケットから久保田のケイタイを取り出す。
 そして、ケイタイを持った手を上に上げると、後ろにいる久保田に見せた。
 だが、久保田は時任の手からケイタイを受け取ろうとはしない。それは時任が予想していた通り…、忘れたのではなく置いてきたからだ…。
 すぐに戻るから必要がなかった言われれば、そうなのかもしれない。
 けれど、置き去りにされたケイタイを見た瞬間、まるで自分までケイタイと同じように置き去りにされた気がした。
 でも、そんなのは気のせいに決まっている。
 ・・・・・・絶対に違う。
 なのに、そう何度も心の中で繰り返し思っても、なぜか不安が去ってくれない。こんなに近くにいる今も、なぜか不安でたまらなかった。
 「あんなヤツ、さっさとやっつけて一緒に帰ろうぜ、久保ちゃん。そうしないとさ、今日中に戻れなくなるだろ?」
 ポケットに久保田のケイタイを収めながら、不安な気持ちを打ち消そうとするかのように、時任がいつもの明るい調子でそう言う。けれど、久保田から返って来たのは、素っ気無い冷たい返事だった…。
 「せっかく届けに来てくれたトコ悪いけど、今、取り込み中だから一人で帰ってくれる? 今日中には…、戻れたら戻るし」
 「・・・・・俺との約束破るつもりか?」
 「じゃあ、戻ったら針千本飲むから…」
 「そんなもん、飲まなくてもいいっ。飲まなくてもいいから、なんでこんなコトになってんのか教えろっ!」
 「・・・・・・・・」

 「いつも俺だけワケわかんなくてっ、そういうのはもうイヤなんだよ!」

 時任はそう叫んだが、久保田は黙ったまま答えない。
 答えず、ただ黙って時任の背中に銃口を押し付けていた。
 こんな時、顔を見る事ができれば、少しは何かわかるかもしれないのに…、首に腕を回されているせいで振り返る事ができず、久保田の表情を見る事ができない。久保田がどんな顔をして…、自分の背中に銃口を押し付けているのかもわからない…。
 「なんで、何も言わねぇんだ…っ」
 時任はそう言いながら久保田の腕に触れた右手に力を込めたが、その言葉に答えたのは久保田でなく見知らぬ男だった。
 男は持っていた拳銃を軽く左右に振ると、時任に向かって、これは俺とソイツの問題だと言う。その瞬間に男の視線が時任の頭の上を、久保田の方を見たのを…、そして、久保田も男の方を見たのを時任は気配で感じ取った。
 自分の頭上でぶつかる、久保田と男の視線…。
 それを感じながら、また同じだ…、と時任は心の中で呟く…。
 自分の知らない何かを知っていて共有している二人の間にいると、まるで自分が邪魔者のような気がしてきて…、胸が焼け付くように痛い。けれど、心の中で呟いたように、こんな痛みを感じるのは初めてではなかった。
 久保田の腕に藤原がしがみついている時、そして、そんな藤原の手を久保田が振り払おうとしない時…。それから、保健医の五十嵐が抱きついているのに、その腕を久保田が振り払おうとしない時、似た痛みを感じていた。
 でも、今の痛みに一番近いのは、たぶん久保田が自分の知らない所で松本と会っている時の痛みで…、時任はギリリと歯を噛みしめる。久保田と自分の間に他の誰かがいるなんて、それを久保田が認めているなんて許せなかった。
 許せなくて…、そんな想いを抱いている自分の事が嫌いでたまらなくて…、伝わらない思いがもどかしくて、久保田の腕の触れた右手が無意識にシャツの袖を握りしめる。そして、時任は振り返らずに反対の手で久保田の唇からセッタを奪うと、アスファルトの上に落として踏みつけた。
 
 「・・・・・・許さねぇ」

 やっと、それだけ言って睨みつけると…、藤堂は時任の方を見て何かを察したのか口元に笑みを浮かべる。自分に向けられた銃口も視線も、そして笑みも藤堂の何にもかもが気に入らなかった。
 けれど、藤堂を睨みつけ、邪魔だ消えろと叫ぼうとした瞬間…、
 なぜか8月24日の光景が、その時に感じた痛みと一緒に脳裏に蘇ってきて、時任は開きかけた口を閉じた。

 『あんなヤツの犬になるくらいなら…、どうせ犬になるならっ!! 俺の犬になりやがれっっ!!このバカ犬っっっ!!!!』

 自分の手で投げつけたケーキが床で潰れて、ダメになって…、
 同じように久保田に向かってケーキと一緒にぶつけた想いは、ダメになったケーキのようにぐしゃりと歪んでいた。本当はおかえりとおめでとうを言いたかっただけなのに…、松本に嫉妬して、それだけしか見えなくなって自分の事も久保田の事も見失った…。
 嫌がらせだと思って、キスの意味も考えようともしなかった。
 あんなにたくさんキスしたのに、何も考えようともせずに…、
 久保田の気持ちも、自分の気持ちも…、
 あの日に置き去りにしたまま、ずっと見失い続けてきた。
 401号室の玄関で、久保田の背中を抱きしめながら…、

 久保田と自分の鼓動を聞くまでは・・・・。

 久保田の胸も自分の胸も、本当の想いだけを鼓動と一緒に刻んでいた。
 そう感じた瞬間…、とてもうれしかった…。
 だから、背中に冷たい銃口が当たっていても、その鼓動を信じていたい。
 そして、どんなに胸が痛んでも、今はこの鼓動を伝えたい…。
 たとえ、それで今のままではいられなくなっても、変わっていく事を恐れて…、本当の気持ちを見失いたくなかった。
 床で潰れたケーキも哀しいキスも、二度と見たくないし二度としたくない。
 同じ事は…、もう繰り返したくない…。
 時任は言いかけた言葉を飲み込むと、8月24日から今までに起こった事を思い返しながら深呼吸する。そして、その時の自分の気持ちを…、自分の想いを確認するように、久保田のシャツを握りしめた手に力を込めた。

 「俺はただ、久保ちゃんと一緒にたかったんだ。今みたいに二人で、あのマンションで暮らして…、ずっと…。だから、俺らの関係も今のままで変わらないでいられたら、これからも一緒にいられるのかもって、心のどこかでそう信じてたのかもしんない…」

 時任はそう呟くとシャツを握りしめた手の力を緩めて、次に全身の力を抜く。そして、二人の住む横浜の街の風を感じ、その風に揺らされて鳴る風鈴の音を聞きながら、目の前に立つ藤堂を睨むのではなく、ただ真っ直ぐに見た。
 「ただのうるさいガキかと思ってたが…、いい目つきだ。だが、俺とそいつの問題に首を突っ込むのはやめておけ」
 「久保ちゃんの問題は、俺の問題だ。それにアンタがやろうとしてるとコトが、今日の事件の復讐とかだったら俺にも関係ある」
 「今日の事件?」
 「・・・・横浜港の倉庫の」
 「あぁ…、アレか。確かに俺は出雲会に所属してる。だが、これは報復じゃない。俺とそいつとどっちが銃の腕が上か、どっちが人殺しの才能があるかどうか…、それを俺は知りたいだけだ」
 「ヒトゴロシの…、才能?」
 「俺とソイツに銃の撃ち方を教えたのは、出雲会専属で殺しを請け負ってた人間だ。今は…、俺がその役を引き継いでる…。本当なら、そいつが引き継ぐはずだった役目をな」
 「そんな役目、久保ちゃんが引き継ぐはずねぇだろ」
 「さぁ、それはどうかな? 一度、人間に向かって引き金を引いた指は、二度とその感触を忘れる事はできない。もしかしたら、お前も見た事があるんじゃないか? そいつが、その銃で人を撃つ所を…」
 「・・・・・・・・・」

 「そいつとお前とは住む世界が違う。だから、そいつの言う通り一人でおとなしく帰んな、坊主」

 時任に向かって藤堂がそう言っている間も、久保田は何も言わず黙っている。けれど、今も久保田の腕は時任の首に回されたままだった…。
 口では帰れと言いながらも、時任が久保田のぬくもりを感じているように、久保田も時任のぬくもりを抱きしめて感じ続けている。藤堂の言葉を聞きながら、その事に気づいた時任はうれしそうに微笑んだ。
 「こうしてると熱いくらいあったかいのにさ、俺と久保ちゃんの住む世界が違うはずねぇだろ。それに勝負なんかしなくても、久保ちゃんにはそんな才能なんかねぇっつーの」
 「なぜ、そんな事がわかる?」
 「なぜでも、なんででもわかるモンはわかんだよっ」
 「そんな風に言えるのは、お前がそいつの事を何も知らないからだろう? 何も知らないから、背中に銃口を押し付けられていても笑っていられる」
 まるで時任の想いを壊そうとするかのように、藤堂がそんな事を言う。けれど、久保田のぬくもりを感じ続けている時任の顔から微笑みは消えなかった。
 「久保ちゃんを知らないのは俺じゃない、アンタの方だ」
 「今の状況がわかってるのか? 傍から見れば、俺がお前を助けようとしているように見える。そいつが俺に撃たれないために、自分を盾にしてるとは思わないのか?」
 「思わない…」
 「ヘタな強がりは…」
 「強がりなんかじゃない…。久保ちゃんは絶対に俺を盾にしたりしないし、撃ったりもしない。何があっても何が起こっても、絶対に俺に向かって引き金を引いたりしない」
 「そう信じてる…ってワケか」
 「信じてるし、知ってる…。拳銃を撃つ腕なんかより、カレーを作る腕の方が何倍もいいってコトとか、新製品が好きであるとすぐに買っちまうコトとか、実はファミレスのパフェが好きなコトとか…、他にもたくさん…」
 時任はそこまで言うと、わずかに目を見開いて言葉を切る。けれど、自分の意志で言葉を切ったのではなく、首に回された久保田の腕に喉をしめつけられて苦しくて…、それ以上、言う事ができなかったからだった。
 相変わらず時任の方からは、久保田の表情は見えない。
 そして、久保田の方からも時任の表情は見えない…。
 こんなに近くにいるのにお互いの表情が見えない状況は、まるで暗闇の中にいるようで…、また心に不安が押し寄せてくる。でも、それでも時任はすべてを久保田に預けるように全身の力を抜いたまま、静かに倉庫の前を吹き抜ける乾いた夜の風を感じていた。
 すると、耳元で自分を呼ぶ久保田の声がして…、さっきよりも強く背中に銃口が押し付けられる。そして、ゆっくりと首に回されていた腕が外され、今度は久保田の手が時任の両目を覆った。
 「もしも、今言った事が本当なら、今知っている事だけを覚えててくれる? これから先、別の道を歩く事になっても、それだけを信じて…」
 「・・・・イヤだ」
 「どうして? 俺はただ守りたいだけなのに…」
 「守りたいって…、何を?」
 「お前を」
 「何から?」
 時任がそう聞くと、久保田は時任の背中に押し付けていた銃口をゆっくりと…、ゆっくりと上に上げていく。そして、その銃口を時任にも藤堂にも向けず、自分のこめかみに向けた。
 「・・・・・・・・・俺から」
 「久保ちゃん…、から?」
 「これ以上、一緒にいても、そこには目を覆いたくなるような現実しかない。今は俺の手が目を覆ってるけど、いずれ自分の手で目を覆いたくなるような…、ね」
 「なんで、そんなコト…」
 「俺はお前の幸せなんて祈らない。だから、俺と一緒に歩いていく先には、そんな現実しかないって言ってるんだけど?」
 「・・・・・・」

 「幸せを祈らない明日には、一体、何があるんだろうね?」

 耳元で囁く久保田の声が、時任の耳に胸に響いてくる。
 まるで、未来を暗示するような…、そんな暗闇の中で…。
 けれど、時任は久保田の手が作り出した暗闇ではなく、指の隙間から見える景色を見ていた。幸せを祈らない明日ではなく、未来を暗示するような暗闇でもなく…、二人で居る今だけを見ていた。
 「目を覆いたくなるような現実も、幸せな明日も俺には想像つかねぇし、わかんねぇ…って、この前からわかんねぇコトばっかだよな…。知りたいコトはいっぱいあんのに、知りたいコトに限ってわかんなくてさ…」
 そう言った時任の声は、久保田と違って低くも冷たくもない。
 そして、明るく元気ないつもの声とも違っていた。
 静かで穏やかで…、優しい…。
 こんな時任の声を聞いたのは、久保田も始めてだったらしく…、少し驚いたような戸惑ったような空気と気配が後ろから伝わってくる。すると、時任は流れてきた空気と久保田の気配を捕まえるように、自分の目を覆った久保田の手を伸ばした右手で握りしめた。
 「だから、マンションからココに来るまで、ずっと考えてたんだ。何がホントで何がウソで、何がジョウダンで何がホンキなのか…。でも、俺の中でその答えが出ても、久保ちゃんの口から聞かなきゃ意味が無い…」
 「どうして?」
 「俺がそうだって信じてても、久保ちゃんが認めてくんなかったら…、信じてるだけでホントにはなんねぇから…。久保ちゃんが言ったみたいに、俺と久保ちゃんは別々の人間だから…、全部はわかんねぇし…」
 「・・・・・そうだね」
 「けど、だからって何も知らないワケじゃない、何もわからないとは思わねぇ。だって、そうだろ? 笑ってる時もそうじゃない時も、俺らはずっと一緒で…、それで何もわからないはずねぇじゃんか…」
 そう言った時任の声に、久保田への想いが切なさが滲み混じる。けれど、どんなに切なさが滲んでも、握りしめた久保田の手を離す気はなかった。
 久保田を想う…、この想いは一時的なものじゃない…。
 変わる事を恐れて気づかないフリをしてきただけで、本当はずっと胸の中にあった。ずっと…、この想いを抱き続けてきた…。
 だから、どうしても聞きたい…。
 どうしても…、知りたい事がある…。
 時任は久保田の手を握りしめたまま後ろを向くと、自分のこめかみに銃口を向けた久保田と向かい合った。
 向かい合って見つめ合って…、お互いの瞳にお互いの姿を映す…。すると、今度は背中に久保田ではなく、藤堂の銃口が向けられていたが、少しも気にならなかった。
 時任は久保田だけを見つめ瞳に写し、それから、すぅっと胸に息を吸い込む。そして、明日に未来にあるかもしれない暗闇を吹き飛ばすように…、目の前に立つ久保田の胸に届くように思い切り叫んだ。

 「俺は久保ちゃんが好きだ…、好きだ好きだっ!好きだーっ!!!!」

 そう身体中で…、胸の奥から叫んで…、
 ドキドキする自分の鼓動を感じながら、握りしめていた手を離し、両腕で久保田を抱きしめて肩口に顔を埋める。すると、あの時と同じように久保田の鼓動が伝わってきた。
 伝わってきて、笑ってるはずなのに、ほんの少しだけ涙が出そうになって…、
 だから、そのほんの少しの涙の分だけ、もっとぎゅっと久保田を抱きしめた。
 「俺もたぶん…、久保ちゃんと同じだ…」
 「・・・・・・お前と俺は違うよ、違う人間だから」
 「それでも、同じだ…。俺も…、もしも俺と離れる事が久保ちゃんの幸せだって言うなら、久保ちゃんの幸せを祈りたいけど、祈れないかもしれない」
 「・・・・・・・・」
 「だから、同じ理由で久保ちゃんが俺の幸せを祈らないって言うなら…、俺は…」
 「お前も俺も、男だけど?」
 「何言ってんだよ、今さら…。男同士だろうと何だろうと、好きなモンは好きに決まってんだろ。だから…、べつにキスも嫌じゃなかったし…」
 「・・・・・・」
 「今さらなのは、ホントは俺の方だってわかってる…。でも、気づいちまったんだから、しょうがねーだろっ」
 「じゃ、忘れたら?」
 「バーカ…、忘れられないくらい好きだから、告白してんだっ。そうじゃなかったら、誰がこんなハズい真似するかってのっ」
 一度、気づいてしまったら、もう後戻りはできない…。
 けれど、気づく前も気づいた後も、一番望んでいる事は変わらなかった。
 これからも、ずっと一緒に居たい…、居られればいいと…、
 久保田を強く抱きしめていると、いつも、それだけを強く願ってきたような気がする。そして、離れるてしまう事だけを、ずっと恐れていた気もする…。
 時任は自分自身に言うように、そして抱きしめている久保田に言うように、逃げんなよ…と、ハッキリとした強い口調で言った。
 「俺は絶対に、久保ちゃんからも自分からも逃げない。だから、久保ちゃんも逃げんなよ…、俺からも自分からも…」
 「・・・・・・痛いのは、キライだから」
 「それでも逃げるなよ、久保ちゃん…。俺から逃げたら、一生許さねぇ」
 「そんなコト言うと、後で死ぬほど後悔するよ?」
 「しねぇよ…、絶対…。これからもずっと一緒にいられんなら、これからもずっと一緒にいるなら…、後悔なんかするはずねぇじゃん…」
 「・・・・・時任」
 「だから、答えろよ」
 時任はそう言うと、少し身体を離して顔を上げる。
 そして、下から久保田の顔を覗き込んだ。



 「俺は好きだから、ずっと久保ちゃんと一緒に居たい…。久保ちゃんは?」


 
 そう言った時任の声が鼓動が…、耳に胸に響いてくる。その響きに反応するように、拳銃を握りしめた久保田の手がわずかに震えた。
 けれど、久保田の手は拳銃を握りしめたまま離さない。
 自分のこめかみに銃口を当てたまま、時任の瞳を見つめ返した。
 時任の瞳はいつもと同じように、真っ直ぐでとても綺麗に澄んでいる。そして、その綺麗な瞳に自分の姿が映り込んでいるのを見ると、時任の好きだという言葉を想いを嘘だと疑うつもりはないのに…、信じられなかった。
 これからも、ずっと一緒にいられるとは思えなかった。
 綺麗なものしか見えない、綺麗なことしか知らない…、
 そんな瞳に見つめ続けられながら、それでも一緒に居続けられるとは思えなかった。

 「俺は壊して穢したい…、お前を…」

 時任の言葉を否定するように、低く冷たく響く声…。
 でも、その声は自分で思っているよりも、無様で情けなく震えているような気がして…、それ以上は何も言う事ができなかった。
 世の中には手を伸ばしても、どんなに手を伸ばしても、手に入らないものがある。けれど、手に入らないはずのものが手に入るかもしれない…、そんな瞬間に感じたのは喜びよりも不安…。
 好きになればなるほど、時任を想えば想うほど、傷つけてしまうかもしれない。そんな予感と不安が、初めて人を好きだと想う、恋しいと想う…、そんな気持ちと一緒に胸の奥にあった。
 時任と出会わなければ抱くことかなかった…、そんな想いは…、
 今も久保田を苦しめ、苛み…、けれど手放せない…。
 すると、そんな久保田に向かって、時任が笑いかけた。
 「久保ちゃんはさ…。俺のコト壊たいとかって言ってても、一緒に居たくないとは言ってないし…、幸せは祈ってないけど、好きじゃないなんて一言も言ってないよな?」
 「・・・・・そう、だったっけ?」
 「それに離れたいって思うのは、俺を守りたいからなんだろ? 他の誰でもなくて、俺を壊したいって思ってる久保ちゃんから…」
 「・・・・・・・」
 「だったら、俺も同じだ。 俺よか松本の事を優先してる久保ちゃんを見てると、すっげぇムカムカするし、ブン殴ってやりたくなる。藤原とかオカマ校医とかも、マジでぶっ飛ばしたくなる時とかあるし…、だから…」
 「・・・・・・だから?」

 「俺は久保ちゃんを守るために、離れたりするんじゃなくて…、変わりたいんだ」

 時任はそこまで言うと、再び久保田の肩口に顔を埋める。すると、じっと様子を眺めていた藤堂が、前よりも身も心も近づき始めた二人の間に水を差すように口を挟んだ。
 「そいつを守りたいと思うなら、坊主が銃を握れ…、そいつの代わりに俺に銃口を向けろ。そうすれば、俺が二人まとめて片付けてやる」
 銃口を向けながら二人にその存在を忘れられ、さすがに怒りを感じたのか、そう言った藤堂の口元は引きつっている。すると、時任が肩口から顔を上げ、少しだけ振り返って藤堂の方を見た。
 ・・・・・・右手に拳銃を握りしめて。
 その拳銃は久保田が持っていた二丁の内、ズボンのベルトに挟んで隠し持っていた一丁である。左手で久保田を抱きしめながら、右手でベルトから拳銃を抜き取った時任は握りしめただけで、まだ銃口を藤堂の方へは向けていない。
 けれど、時任の鋭い視線は、真っ直ぐに藤堂を射抜いていた。

 「二人まとめて殺れるもんなら、殺ってみろ…。その代わり二人同時じゃなかったら、たった一秒でも俺から久保ちゃんを…、久保ちゃんから俺を引き離しやがったら、その一秒がてめぇを殺す…っ。俺らを引き離そうとするヤツは、俺から久保ちゃんを奪うヤツは絶対に許さねぇっっ!!」

 時任の叫び声が、鋭い視線と一緒に藤堂を射抜き…、
 同時に自分の欲望に想いに戸惑い揺れていた…、暗い街を一人で彷徨っていた久保田の心をさらい奪う。時任の言葉に久保田が目を見開いた瞬間、背中に回っていた手が伸びてきて…、こめかみに当てられていた久保田の銃口を下げた。
 「久保ちゃんの居ない今も明日も未来も…、そんなの俺にはねぇし考えたくもねぇ…。けど、久保ちゃんの居る今や明日や未来になら、したいコトもやりたいコトも山ほどある。出雲会とか東条組ってヤツらをやっつけるとか、正義の味方やるとか色々とすっげぇいっぱい…っ」
 時任はそう言うと下げた久保田の拳銃の銃身の背に、自分の握りしめた銃身の背を重ねる。そして、わずかに後ろに下がると、久保田に向かって反対側の手を差し出した。
 「久保ちゃんに俺は壊させない。久保ちゃんが俺を壊そうとしたら、俺が止めてやるっ。何がなんでも絶対に止めてやるっ。だから、久保ちゃんも俺が壊そうとしたら、絶対に何がなんでも止めろよ」
 「止めるって…、俺がお前を?」
 「久保ちゃんが俺を、俺が久保ちゃんを止める…。そしたらさ…」
 「そしたら?」

 「そしたら、おあいこだろ?」

 時任がそう言いながら、軽くウィンクする。
 そして、まるで哀しい事も辛い事も何もなかったような顔をして笑った。
 雨上がりの空のように…、晴れやかに…。
 そんな時任の笑顔が眩しくて目を細めると、やがてくる目を覆いたくなるような現実と不安が…、薄らいでいくのを感じる。消して消えた訳ではないけれど、まるで悪い夢から目覚めさせようとするかのように、時任から伝わってくる温かさが、抱きしめてくれている腕が、遠くなりかけていた日常を引き寄せてくれていた。
 「一緒に帰ろうぜ、久保ちゃん…。俺らのウチにさ…」
 「・・・・・時任」
 「でっかいケーキが二つも、俺らの帰りを待ってる…」
 マンションのテーブルの上の…、二つのケーキ…。
 目の前で笑う…、時任の笑顔…。
 握りしめた拳銃に凍りつかされていた心が、ゆっくりと溶けていくように染みてくるその温かさは、愛しさのようで恋しさのようで…、
 そして、すべてを伝えたくても伝え切れない切なさのようで…、
 その想いに突き動かされるように伸ばされた手を左手で握りしめると、久保田は今まで一度も言わなかった…、言えなかった言葉を想いを何度もキスした唇で刻んだ。

 「一度も好きだって言わずに、たくさんキスしてごめんね…」

 久保田はそう言うと次に好きだよ…と耳元で囁いてから、時任に唇が軽く触れるだけのキスをする。すると、なぜか今までたくさんキスをしてきたはずなのに、そのキスが始めてのキスだったような気がして…、赤くなった時任の頬を見て微笑んだ。
 8月24日から今までの事を振り返りながら…、
 時任の泣き顔を…、涙を思い出しながら…、

 好きだという想いを…、時任のいる世界を抱きしめながら…。

 こんなにも好きなのに、こんなにも好きだからこそ…、
 これからも強すぎる自分の想いを欲望を持て余して、そこから生まれた醜い感情で、時任を傷つける事があるかもしれない。好きだと告げてキスをしても…、そんな明日がないとは言い切れない…。
 誰よりも大切なのに守りたいのに…、なぜか言えない…。
 それは自分の手が、引き金を引く事を知っているせいなのか…、それとも時任が撃たれた瞬間に見た世界が、今も脳裏に焼きついているせいなのか…、
 時任の笑顔を見つめていると、感じる温かさの裏側で心に暗い影が落ちる。
 その事実が、今もただ一人を想う気持ちに黒い染みを作っていた。
 けれど、心の暗闇を恐れるよりも離れるよりも、変わっていけるのなら…、
 いつか、こんな事もあったと思い出しながら、笑える日が来るのかもしれない。拳銃を握りしめるのではなく、時任の手を握りしめて…、出会ってから変わり続けてきたように変わっていけるのかもしれなかった…。
 
 ずっと二人で…、一緒にいられるように…。
 
 なんで、こんな遠回りしてんだと言って時任が笑うと、そうだねと言って久保田も笑う。けれど、強く握りしめ合ってる手を見ていると、たまには遠回りもいいのかもしれないという気もしてくるから、不思議だった。
 それは時任も同じらしく、久保田が現金だなぁと呟いて苦笑すると時任も現金で悪いかと笑う。そして、二人で同時に銃口を上げると、藤堂に向かって高校生らしい…、天下無敵の執行部員らしい顔でニッと笑いかけた。
 「そーいうワケでさ、悪りぃけど…」
 「まだまだこれからってコトで、死ぬわけにはいかないんだよねぇ、俺ら」
 「俺は拳銃なんか握りたくねぇし、久保ちゃんにも握らせたくねぇけど、命がかかってんなら話はベツってコトで…」
 「悪いけど、死んでくれる?」
 二人がそう言うと、藤堂の額に汗が滲む。けれど、その汗が二つの銃口を向けられているせいではなく、どうやら告白からキスまで見せ付けられてしまった事が原因らしい…。
 それに実はすでに時任の叫び声を聞いた瞬間、鋭い視線に射抜かれた時から…、藤堂は戦意を喪失していた。
 「とか言いながら、撃つ気ないだろ…、お前ら」
 そう言いながら、藤堂が軽く肩をすくめると久保田も同じように肩をすくめる。すると、藤堂と久保田…、そして時任は笑いながら同時に銃口を下へと降ろした。
 「それはお互い様ってヤツだろ?」
 「だぁね」
 「まったくっ、俺は勝負しようとしてただけなのに、なんで高校生バカップルの告白の現場なんか見せつけられなきゃならないんだ。もしかして、今日は厄日か?」
 「ば、バカップルって…っ」
 「あんなに大声で告白しとして、今さら何照れてんの? 時任」

 「うあぁぁっっ、さっき見り聞いたりしたコトはすべて忘れろっ!!!!」

 時任がそう叫ぶと久保田がぼんやりとした顔で、藤堂が楽しそうな顔で…、
 「うーん、それは無理だぁね」
 「絶対に無理だな」
 と、しみじみと言う。すると、時任が更に真っ赤になって何か叫ぼうとしたが、急に辺りが不穏な空気に包まれ開きかけていた口を閉じた。
 その空気は北と南…、そして東からも流れてくる。
 藤堂はこの不穏な空気に心当たりがあるらしく、ちぃっと軽く舌打ちした。
 「行き場所なんか、言って来るんじゃなかったな。どうやら、俺を呼びに来たついでにお前の顔を見て…、近くの奴らに召集をかけやがったらしい」
 藤堂がそんな呟きを漏らすと、それに答えるように北からやってきた一人が持っていた鉄パイプでアスファルトを叩く。どうやら不穏な空気の正体は、横浜港の倉庫で久保田にやられて恨みを持つ出雲会の組員達のようだった。
 黒いスーツの男は、すべて東条組の仕業として処理すると言っていたが、やはりそれだけではどうも収まりがつかないらしい。倉庫前に集まってきた連中の中には、横浜港で見た顔もあった。
 「藤堂さーん…、一人でお礼参りに行くなんて、ズルいじゃないっすかぁ。そういうのは、皆で仲良くやらないとさぁ」
 「これはお礼参りじゃねぇよ。それに今回の件では許可なく動くなと、代行から命令が出てるはずだろ」
 「じゃあ、ただのケンカって事で見逃してくださいよ。ちょっと、そこのヤツらをしめるだけっすから…」
 「命令違反は重罪だぞ」
 藤堂はそう言ったが、横浜港での恨みが余程深いのか誰も止まらない。
 止まらずにじわじわと、久保田と時任に迫ってくる。しかし、迫り来る殺意と悪意に囲まれていても、二人の表情は少しも変わらなかった。
 横浜港では人目も少なく、民家も遠かったが、今居る場所は大通りに近いせいか…、それとも代行の目を気にして持ち出せなかったせいなのか拳銃を持つ者はいないように見える。だが、ナイフや鉄パイプといった武器は所持しているので丸腰という訳ではない。
 しかし、二人は表情を変えずに握りしめていた拳銃をベルトに差すと、これから出雲会とやり合う事になるにも関わらず丸腰になった。それは今の状態で弾が一発しか入っていない拳銃を持っていても相手を刺激し、今度こそ藤堂と対決する事になるだけだとわかっているせいもあるが…、これ以上、冷たい鉄の固まりを握りしめていたくない気持ちもある。
 これから先にお互いの命が関わる、そんな事態に陥った時は迷わず引き金を引くかもしれない…、けれど、まだその時じゃない…。それに、二人の想いが通じた今は、拳銃を握りしめていなくても負ける気がしなかった。
 「今日の恨みだがなんだか知らないけど、皆様ヤル気みたいだぁねぇ」
 「ヤル気なら、ブン殴ってブッ飛ばすまでだっ」
 「一応、武器持ってるけど?」
 「そんなモンで、無敵の俺様に勝てると・・・・・・・」
 面倒臭そうに迫り来る出雲会の連中を見ている久保田と違って、勝気でヤル気な時任はそう言いかける。だが、その瞬間にヒュンという鋭い音を立てて、何かが時任の額に向かって一直線に飛んできた。
 間一髪の所で飛んできた物体を両手で白羽鳥にしたが、間に合わなかったら額に突き刺さっていたかもしれない。けれど、その危険物はナイフでも鉄パイプでも、そして矢で鉄砲でもなかった。

 「無敵の割に、隙だらけじゃない」

 後ろから響いてくる、聞き覚えのある声。
 その声を聞くと、迫り来る出雲会を見ても変わらなかった時任の表情が変わる。かなり嫌な予感を感じながら、時任が引きつった顔でゆっくりとハリセンの飛んできた方向を見ると、そこには良く知っている人物…、執行部、紅一点の桂木が立っていた。
 「出雲会の襲撃を受けたりしてないか、久保田君を探し出して見張ってくれって頼まれて来てみれば、せっかく見つけたのに相浦は見失うし、アンタは見つけたのに連絡してこないし…」
 「う…っ、そ、それは…っ」
 「その上、アンタ達がイチャイチャしてるのを見学させられて…、ホント、今日は最悪な一日ね。まさか告白した上に路上でキスするとは、さすがのアタシも予想してなかったわ」
 「い、い、一体っ、いつから見てたんだよ!!??」
 「なーんて、ホントは今来たばかりだけど…。ホントに告白した上に路上でキスしたとは思わなかったわ」
 「カマかけやがったなっ!!!」
 「こんなのに、引っかかる方が悪いのよ。で、なんて告白したの? やっぱりストレートに好きだーっとか叫んじゃったりした?」
 「し、してねぇよ…っっ」
 時任は必死で否定したが、桂木はなぜか時任ではなく久保田の方を見る。その動きにつられて時任も久保田の方を見たが…、反射的に時任の代わりに桂木の質問にうなづいていた久保田を見た瞬間、目の前が真っ暗になった。

 「うわぁぁぁっっ、今日はマジで厄日だぁーーっ!!!」

 そう叫びながら頭を抱える時任の横で、久保田が軽く肩をすくめる。
 すると、桂木はアンタも同罪よと、少しあきれた顔で言った。
 けれど、そうしている間もお礼参りにやってきた出雲会の組員達が、時任と久保田、そして桂木の前に迫る。藤堂は止めても無駄だと思っているのか、その様子を黙って見ていた。
 「桂木ちゃん…」
 「なぁに、久保田君」
 「これは俺へのお礼参りらしいし、せっかく来てくれたトコ悪いけど、引いてくんない? 報告はちゃんと明日するから…」
 出雲会の組員達に取り囲まれても、引こうとしない桂木に向かって久保田がそう言う。すると、隣にいる時任が、俺らだけで十分だと時任らしいセリフを言って、白羽鳥にしたハリセンを桂木に返した。
 けれど、桂木はハリセンを受け取っても、その場を動かない。動かずにお礼参りに現れた組員達を眺めると、余裕の表情で微笑んだ。
 「それは晴れて正式にバカップルになったから、アタシ達はおジャマことかしら? ふふふ…、でも、そう簡単に二人きりにはさせないわよ」
 「もしかして、それって今日の仕返し?」
 「そうよ、時任を泣かせた上に、あたし達がいる事を忘れた罰よ。だから、謹んで受けなさい。何があっても何が起こっても、アンタが一人じゃないって事を思い知らせてあげるわ」
 桂木はそう言うと、後ろからやってきた三人の名を呼び、その後ろでビクビクと怯えている一人に向かって怒鳴る。すると、三人の内の一人、相浦が投げた木刀が弧を描いて飛び、久保田と時任の手の中に納まった。

 「やっと、全員揃ったわね」

 桂木のそんな言葉に久保田が口の端を上げてかすかに微笑み、三人のいる場所まで歩いてきた相浦と時任の手が、お互いの手を軽く叩き合いパシッと音を立てる。そして、そんな二人の肩を松原と室田が軽く叩いた。
 後ろで怯えて出てこない補欠の藤原を除いた、執行部員6人…。集まった人数は少ないが、運の良い事に全員が天下無敵の正義の味方だった。
 「準備はいい?」
 「おうっ」
 「うむ…」
 「はいっ」
 「いいに決まってんだろ」
 「だぁねぇ」
 全員の返事を確認すると、桂木はハリセンを強く握りしめる。それから、自分達に向かってくる組員達に向かって、そのハリセンを振り下ろした。

 「行くわよっ、みんなっっ!!!」

 桂木のハリセンを合図に、全員がいっせいに走り出す。
 決して背中は見せず、前に向かって…。
 すると、そんな執行部員達を眺めていた藤堂は、新しいタバコをくわえた。
 今日は厄日だ…と、短く笑って呟きながら…。
 けれど、藤堂だけではなく、他の誰にとっても最悪な事件が起こり厄日だったはずなのに、時任も久保田も…、そして桂木達も笑っていた。
 高校三年の…、二度と来ない9月8日を…、
 終る今日の日を惜しむように…、見送るように…。
 すると、同じ頃、警察署に出頭した大場は、これからの事を考えて気分が重くなりながらも、ほっとした表情で拘置所の天井を見上げ…、松本の自宅では橘がコーヒーカップを片手に、窓から外を眺める松本を背中を抱きしめる。
 それぞれの想いを胸に終っていく今日は、厄日だったのかもしれないけれど…、思い出すたびに、なぜか前に歩き出したくなる…、

 もしかしたら、そんな一日だったのかもしれなかった。
 


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