改善計画 .17




 「・・・・・・・長い一日だぁね」

 そう呟いた久保田の隣に、時任はいない…。
 けれど、時任を一人残してマンションを出てから、まだ一度も後ろを振り返ってはいなかった。ただ振り返らず…、ひたすら夜の街を歩き続けて、自分の背中を抱きしめていた腕のぬくもりと耳に残る甘く優しい声を忘れるために…、
 制服から私服に着替えた時、羽織ってきたジャケットの下に隠した拳銃の重さと冷たさだけを感じていた。
 そうしながら、無意識の内にぽつりぽつりと…誰かに話して聞かせるように、今日の事件の事を思い出しては、時任の泣き顔と涙が脳裏に浮かび…、忘れる事に失敗する。今までがずっとそうだったように、どこに居ようと何をしていようと時任を想わない時はなかった…。
 いつの間に…、こんな風になってしまったんだろうかと…、
 今さらのように考えて、自嘲しながら見上げた夜空に星はない。
 けれど、どこか寂しげな半月が夜の闇に浮かんでいた。

 「たとえ半分でも月は月…、か…」

 いつもと変わらない調子でそう言ったつもりなのに、なぜか吐き出した言葉はため息混じりで…、そんな自分に苦笑する。こんな風にため息が出るのは、たぶんマンションを出てから、やけに時間がゆっくりと流れている気がするせいかもしれなかった…。
 今日は9月8日で時任が生まれた日…。
 よりにもよって…、その日が長く長く感じられて…、
 時任には今日中に戻ると言ったクセに、まるで早く終ればいいと思ってるのかような自分の感覚に、ゴメンね…と、そんな言葉しか浮かんで来ない。
 誕生日を祝うためのケーキは、リビングに置き去り。
 時任の優しい腕を振り払って…、夜の街を一人歩き…。
 持ってきた二丁の拳銃は、ただ重く冷たいだけで何も与えてはくれない。
 けれど、何も望んでいないから、それで良かった。

 『・・・・・・・・好きだ、久保ちゃん』

 隠し持った拳銃の銃声よりも重く深く…、今も耳に残る時任の声…。
 暖かい優しい腕から逃げ出すようにマンションを出てから、その声が耳から離れない。忘れようとすればするほど、繰り返し聞こえてきて…、結局、こうして夜の街を歩いても、何も忘れる事ができないでいた…。
 泣き顔も甘い囁きも…、暖かな腕も、
 契約の報酬として何度も交わしたキスも…、
 
 そして胸の奥を熱く焦がすような…、時任への想いも…。

 忘れられたら、どんなに楽だろうと思いながら…、
 その想いを抱きしめるように、街の明かりにマンションの401号室の明かりを重ねて見る。そんな自分の行動に矛盾を感じて、くわえたセッタの吸い口を噛むと久保田は前から歩いてきた他校の男子生徒達とすれ違い…、その影に隠れるようにしながら、素早く大きな通りから右手にある薄暗い路地へと曲がった。
 けれど、別に路地には入りたくて入った訳じゃない。
 少し前から背中に張り付いている何者かの視線を振り払うために、足を前ではなく、右に向けただけだった。しかし、路地に入ってから背中への視線は感じられなくなったものの、今度は別の場所から視線を感じる。
 どうやら、相手は一人ではないらしかった。

 「今日はもしかしなくても、かなりな厄日かもね」

 そう呟いて視線を感じる方に顔を動かさずに目だけを動かして見ると、月に照らし出された影が走る。その影には、どこか見覚えがあった。
 けれど、一定の距離を保ったまま、今以上に近づいてくる様子はなく、ただ見張るように後をつけてくるだけ…。捕まえて理由を聞いてもいいが、別に知りたくないし興味もなかった。
 今、知りたい事があるとしたら、それはたぶん時任の事…。
 自分がマンションを出た後、どうしただろうか…、
 二人で買ったケーキは…、今もあのままなんだろうかと…、
 そんな事を思う資格などないのに、一人マンションにいる時任の姿を思い浮かべた瞬間、捨てられない想いに後ろ髪を引かれた気がした。

 『・・・しよう、久保ちゃん…』

 身体の奥に残る…、熱い衝動…。
 あの時、時任の言葉のままに抱けば…、二度とそんな気が起きないように酷く犯してやれば良かったのかもしれない。
 そうすれば、自動的に相方も同居も解消される。
 けれど、時任に抱きしめられて、そのぬくもりを感じたら…、
 瞳を閉じた時任の頬に流れる涙を見たら、どうしてもできなかった。

 「別れに涙はツキモノ…、なんだけどね」

 半分の月の下で小さく呟いた言葉は自分の足音に掻き消され、一人静かに恋しい人の事を想う時間すらも、後をつけてくる何者かによって邪魔されて…、久保田は苦笑しながら歩く方向を変えて足を速める。けれど、そうして向かう先は時任と暮らしているマンションではなかった…。
 
 バタバタバタ・・・・・っ!!

 久保田が歩く方向を変えると、驚いたように何者かが走り出す。だが、久保田は捕まえるつもりもないクセに、その後を追うように歩き続けた。
 どうやら、ずっと後をつけてくる何者かは、久保田に見つからないようにしろと命令されているらしい。後をつける立場から、つけられる立場になった何者かはかなり慌てていた。
 「このままサヨナラしてもいいけど、ちょっとは追われる気分ってのを味わってもらわないとねぇ?」
 久保田はそう言うとあくまで気づいていないフリをして後を追うように歩き続けながら、ポケットから出したセッタくわえる。そうしながら、横の道から入って同じ方向に向かって歩き始めたサラリーマンらしき男の足音を耳に捕らえた。
 前を走る騒がしい足音と、後ろを歩く規則的で落ち着いた足音。
 久保田は前者の足音を追うように、次第に後者の足音に合わせる様に速度を落としながら歩く。そして、やがて後者の足音が背中に迫り、ピッタリと重なった二つの足音が、まるで一つの足音のように辺りに響いた。
 
 コツ、コツ…、コツ・・・・・

 追いかけて来る足音が、ゆっくりになった事に気づいたのか、前を走っていた何者かが立ち止まる。けれど、近づいていく足音は止まらず、追う者と追われる者との距離が縮まっていく…。
 このまま近づいていけば、お互いの顔を見る事になるだろう。だが、久保田は近づいていく影を眺めながら、のほほんとセッタをくわえていた。
 道の端に立っている電柱から伸びる影と、月を背にして歩く人の影。
 二つの影がやがて近づき並び、二つの視線がぶつかった。
 「えぇぇぇっ!? アンタ誰!?」
 「は? そう言われても困るけど、俺に何か用?」
 「い、いやっ、すいませんっ。知り合いを追ってるはずだったんだけど、人違いだったんで気にせず行ってくださいっ」
 「はぁ…」

 「くそっ、マジであり得ないってっ! 一体、どこで入れ替わったんだよっ!!」

 辺りに響くそんな絶叫を背にして、久保田は別の道を歩き出す。
 実はぶつかったのは、ついてきていた何者かと久保田の視線ではなく、久保田の後ろを歩いていたセールスマン風の男の視線だった。
 久保田は歩調を合わせ歩幅を短くして、わざとセールスマン風の男に追い抜かれ、近くの路地に身を隠していたのである。追いかけて捕まえようとしているフリをしたのも、追いかける事で相手を慌てさせて、逆に姿が見えないくらい距離を引き離すためだった。
 間違えられた男には気の毒だったが、このまま誰にも見つからずにこの場を離れれば、もう後を追って来る者はいないだろう。ようやく静かな時間を取り戻した久保田は、また夜の街を彷徨い始めた。
 ただ一人…、時任の事だけを想いながら…。
 けれど、一人で行く事は許さないと、まるで引き止めるかのように…、また、別の何者かが久保田の前に現れた。

 「火…、いるなら貸すぜ?」

 どこか見覚えのある古い倉庫の壁を背に寄りかかりながら、見知らぬ男がそう言って久保田の方にライターを差し出す。だが、久保田は差し出されたライターを受け取らず、自分のポケットからライターを取り出して火をつけた。
 「せっかく言ってくれるトコ悪いけど、借りても返せそうにないんで…」
 空気ではなく灰色の煙で肺を満たしながら、久保田がそう言うと、男は口の端を上げて薄く笑う。そして、差し出したライターを手の中で転がして弄びながら、通り過ぎようとした久保田を言葉ではなく…、冷たい銃口で呼び止めた。
 「火くらい借りてけよ、冥土の土産だ」
 「そう言われても借りモノじゃ、土産にならないと思うけど?」
 「なら、代わりにタダで土産話でもしてやろうか?」
 「タダより怖いモノないって言うし、聞きたくないって言ったら?」
 「・・・・・・聞きたくなるようにするだけさ」

 どうやら…、本当に今日は厄日らしい…。

 男ではなく、男の後ろにある古い倉庫を眺めながら、久保田は握りしめた拳銃の冷たさを感じて目を細めた。
 久保田と男は、ほぼ同時に拳銃を構え…、相手に銃口を向けている。
 つまり今の所、二人は互角だった。
 「初戦は…、互角か」
 男がそう言いながら銃口を下げると、久保田も同じように下げる。
 だが、二人の間にある空気は張り詰めたままだった。
 「今日、代行から聞いた話によると…、横浜港に俺と似た撃ち方をするヤツが居たらしい。それで、ここになんとなく来ちまったんだが…、まさか本人に会えるとはな」
 男はそう言うと、吸っていたタバコの煙をふーっと吐き出す。そして、吐き出した煙の向こう側から、何かを探るような目で久保田を見た。
 「お前だろう? 倉庫で組の連中を全滅させたってのは」
 「さぁ? なんのコトを言ってるのか、俺にはわかりませんけど?」
 「そんなはずはないだろう?」
 「人違いとか?」
 「違わないさ…、俺の目に狂いはない」
 「証拠は?」
 「そんなモノはなくても、これから撃ち合えばわかる…、イヤというほどな」
 そう言った男と銃口を向け合い…、引き金に指をかける。だが、この男に会うために、こんな場所に来るために歩いていたわけじゃない。
 けれど、偶然なのか…、それとも運命なのか…、
 夜の街を一人歩き続けてたどり着いた場所は、久保田が始めて拳銃を握りしめた場所だった。
 まだ時任とも…、そして松本や他の誰とも知り合っていない頃、一ヶ月と少しだけ通った倉庫。その後、一度も行かず忘れてしまっていたが、改めて見ると倉庫の壁に赤いスプレーで書かれた落書きも、窓に吊るされた風鈴も当時のままで、確かにここだったと確認する事ができる…。
 男は久保田の視線を追うように倉庫を眺めながら、藤堂だと自分の名前を名乗った。
  「この倉庫の地下に射撃場があるのを…、お前も知ってるだろう? 俺もそこで拳銃の扱い方を習ったんだよ、同じセンセイにな」
 「昔話したいなら、他を当たってくれるとうれしいんだけど?」
 「俺はお前がいい」
 「もしかして、今日の復讐?」
 「確かに出雲会に所属してるし、そういうヤツは山ほどいるが俺は違う。俺はただ…、知りたいだけだ。お前と俺と、どちらの才能が上なのか…」
 「才能…、ねぇ」
 「俺よりもお前の方が才能がある。だから、お前に後を継がせるつもりだと、ある日、突然あの人にそう言われた。そして、もうここには来るな…と」
 「・・・・・・・・」

 「代行から話を聞くまで…、忘れてたんだがな」

 そう久保田に向かって言った藤堂の口元が、薄い笑みを浮かべたまま醜く歪む。だが、ただ拳銃や爆発物の扱い方を習っただけで、久保田は後を継ぐどころか男の職業も名前すらも聞かされていなかった…。
 拳銃の扱い方の他は何も知らないし、教わらなかった。
 そのせいか、この場所に特別な思い入れはない。
 けれど、藤堂の方は違うようだった。
 「俺と勝負しろ…、死にたくなければ俺を殺せ」
 「…って言われても、才能がどっちが上かなんて知りたくないし、興味もないし?」
 「興味がなくとも、それ以外にお前に生き残る道はない」
 「ココ、わりと大通りから近いんたけどなぁ」
 「問題ない…。一発でカタはつく」
 「そーいえば、この拳銃って一発しか弾入ってなかったっけ」
 「奇遇だな、俺もだ」
 そんな風に話す久保田の口元にも藤堂の口元にも、笑みが浮かんでいる。けれど、その笑みは二人が握りしめた拳銃のように冷たく…、古びて壊れそうな倉庫の前を吹く風のように乾いていた。
 時折、何かを嘆くように鳴る風鈴の音が耳を打ち…、
 久保田は藤堂と向かい合ったまま、何かを思い出そうとするかのように目を細める。けれど、そうして思い出した風景は、まるで古い写真のように遠く…、懐かしく感じられた。
 いつも傍にいる…、時任の笑顔さえも…。
 ほんの数時間前までは、通っている高校で時任や執行部の仲間達と一緒にいたが、こうして古びた倉庫の前で拳銃を握りしめていると初めて拳銃を握りしめた…、その日に戻ったような気がした。
 本当はあの日から、ほんの数日しかたっていない。
 何もかもが、ふと居眠りしている間に見た夢で…、
 松本に10円を借りる事もなく、執行部の皆と知り合う事もなく…、

 そして・・・・・、時任と出会うこともなく…。
 
 こんな風に、拳銃を握りしめている今だけがあるのかもしれない。
 そう思うと重いと感じていた拳銃が、なぜか少し軽くなった…。
 けれど、そう思いながらも久保田は、その夢を抱きしめている自分を…、
 時任のいる世界を、抱きしめ続けている自分を感じていた。
 マンションを見上げながら終わりにしようと決めた…、
 なのに、まだ終れない…、忘れられない…。
 忘れようとすればするほど、なぜか想いは募って…、
 こんな時に限って前よりも、もっと時任を好きだと想う。
 誰よりも好きだと想う。
 抱きしめたいと想う、キスしたいと想う…。

 ・・・・・・・唇に、そして涙に。

 けれど、だからこそ…、離れなくてはならない…。
 もう終わりにしなくてはならない…。
 この想いが、二人の間にある境界を越える前に…。
 だから、朝起きたら夢が覚めるように…、忘れて…、
 時任がいない世界を、自分が歩むはずだった道を歩いていけばいい。
 ただ、それだけの事だ。
 でも、一人で歩いていく道の、その先に一体何があるのか…。
 行き着く先は地獄か天国か…、それとも別の何かなのか…、
 闇の中で手探りで探すように、引き金にかけた指に意識を集中する。
 けれど、その瞬間、なぜか時任が撃たれた時に見た白い世界が脳裏に浮かんで…、久保田はわずかに目を見開いた…。
 銃声と血の赤と…、世界を白く凍らせる恐怖と喪失感…。
 時任を失うかもしれないと思った瞬間に見た、ただ白いだけの何もない世界。
 そんな世界に捕らわれた久保田の目の前で、藤堂の指がくわえていたタバコを取り空へと投げる。すると、小さな赤い火が綺麗な軌跡を描きながら宙を舞った。
 おそらく…、この赤い火が落ちた時、藤堂との勝負が決まる…。
 引き金を引かなければ、勝負に負けて殺されるだけだ。
 けれど、久保田の目には藤堂もタバコの赤い火も映っていない。久保田の目に映っているのは、時任のいない白く凍りついた世界だけだった…。
 
 「そう言えば、お前の居ない世界なんて…、いらなかったんだっけ…」

 久保田のそんな呟きと共に、落ちた赤い火がアスファルトの上で跳ね…、
 藤堂が素早い動作で銃口を久保田に向ける…。
 だが、久保田は赤い火がアスファルトで跳ねても拳銃を構えなかった。
 構えようとしていたはずなのに、なぜか拳銃を持つ手があがらない。
 撃たれる前に撃つつもりだったのに、引き金を引く事もできない。
 胸の奥から、押さえ込んでいた想いがあふれてきて…、
 このままでは殺されるだけだとわかっていても、指も身体も動かなかった。
 
 「銃を構えろっ、引き金を引けっ! こんな勝負で勝っても、猫の子を殺すみたいで胸クソ悪いだけだろうが…っ!!」

 動かない久保田に向かって、藤堂が叫ぶ。
 けれど…、何もかもがどこか遠い…。
 拳銃を握りしめた今が現実だと、そう思おうとしていたはずなのに、それさえも白い世界に掻き消されてしまった。
 時任から離れ…、遠くから時任の幸せを祈り…、
 時任の笑顔を思い浮かべながら、その笑顔がずっと続くことを願い…、
 そうする事を望んでいたはずなのに、なぜかとても苦しい…。
 まだ境界線を越えていないし、一歩手前で踏みとどまっているはずなのに、重く冷たい拳銃を握りしめているはずの手は、今も二人で過ごした暖かな日々を、時任のぬくもりを握りしめたまま放せないでいた。

 『・・・・・久保ちゃん』

 引き金を引けと目の前で叫んでいるのは藤堂のはずなのに、白い世界の向こう側から時任の声が聞こえる。けれど、久保田はその声に答えず目を閉じた。
 望んだものが、ほんの少しなら…、このままでいられた。
 すべてを求めなければ、今のままでいられた…。
 相方じゃなくなっても、同じような関係を続けていられたのかもしれない。
 けれど、時任の寝顔に欲望を感じ始めてから、今まで気にならなかった事が気になり始め、今まで許せていた事が許せなくなって…、
 挙句の果てに、松本の事で自分を束縛しようとする時任に何もくれないクセにと…、憎しみに似た感情まで抱いた…。

 そう…、だから本当は違う…。

 違うから、こんなにも苦しくてたまらないんだと心のどこかで気づいていた。本当は時任の幸せなんか、少しも祈っていない自分を知っていた。
 時任が他の女と結婚する所なんか、考えたくも想像したくもなかった。
 なのに、自分の中にある醜いエゴと独占欲を隠すために、幸せを祈るフリをして自分で自分を騙していた…。幸せな家庭を築いている時任を想像して、肩から力が抜けていくような気がしたのは…、これ以上、自分の中にある醜い感情を時任の前に晒さなくても済むと感じたからだ…。

 「銃を構えねぇのは、俺じゃ相手にならないと言いたいからか…。くそっ、ふざけやがって…っ!」

 そこまで考え想い…、そして、やっと白い世界の外から藤堂の声が耳に届き、自分に向けられた銃口がようやく開いた瞳に映る。けれど、久保田はマンションを見上げた時と同じ微笑みを浮かべた。
 そんな久保田を見た藤堂は、歪んだ笑みを浮かべる。
 そして、勝負を仕掛けてきた時にはなかった殺意を久保田に向けた。
 「これはもう勝負じゃない…、私怨だ。だから、相手が猫の子だろうと、犬の子だろうとなんだろうと殺す。殺してやる…、必ずお前を…」
 「勝負なんて言ってたけど、コレって最初から私怨でしょ?」
 「勝負だろうと私怨だろうと、お前が死ねばカタはつく」
 「だぁね」
 勝負の合図である赤い火は、今も二人の間にある。
 戦いの火蓋は、とっくに切られている。
 けれど、未だに拳銃を構えているのは藤堂だけ…。
 久保田は拳銃を握りしめたまま構えず、静かに穏やかに立っていた。
 勝負から私怨に変わった、二人の撃ち合いはまだ始まらない。久保田に殺意を向けながらも、藤堂は銃を構えていない相手を撃つ事ができないのか…、引き金にかけた指に力を込めながらも引かなかった。
 拳銃の扱い方を教えた男は、おそらく藤堂のこういう所を知っていて才能が無いと言ったんだろう。久保田と互角の腕を持ちながら、無抵抗な相手に引き金を引く事ができないようだった。
 だが、久保田が拳銃を構えた瞬間、藤堂は久保田を撃つだろう。
 自分の目的を果たすために…。
 それを知っていながら、わかっていながら、久保田はさっきは動かなかった腕をゆっくりと上げる。けれど、久保田が銃口を向けた先に藤堂はいなかった。

 「久保ちゃんは、俺が絶対に撃たせねぇ…」

 藤堂の銃口から久保田を守るように立つ、黒い背中…。
 拳銃を握りしめた二人の間に走りこんできた黒い影は、久保田の良く知る人の形をしている。いつも聞いているはずなのに耳に懐かしく響いてくる声は、聞いていると目の前にある背中を抱きしめたくてたまらなかった…。
 けれど、久保田は腕ではなく、構えた拳銃を持つ手を伸ばし…、
 夢ではなく現実である事を確かめるように、冷たい銃口を自分を守ろうとしている背中に強く押し当てる。そして、拳銃を握りしめていない方の腕をゆっくりと誰よりも大切な人の首に回した…。



 
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