改善計画 .14
「・・・・・終ったみたいですね」
ケータイを制服のポケットの中に仕舞いながら橘が言うと、時任は包帯が巻かれた部分を軽く撫でながら、終った…と短く返事をする。
そして、橘が座っている長椅子に少し距離を置いて座った。
他にも椅子はあるのに、自分の近くに座った時任を見た橘はクスっと笑う。すると、時任はムッとした顔をしたが、それでも離れた場所に座ろうとはしなかった。
完全に気を許した訳ではないけれど、いつものような警戒心は感じられない。そんな距離に時任は座っている。
橘は浮かべた笑みを消して古いが温か味のある木の床を見つめると、まるで松本のクセを真似るように両手を組んで顎に当てた。
「貴方が来たがっていた久保田君をその場に残して、僕の申し出を受けたのは…、久保田君から逃げたかったからですか？」
橘がそう言うと、時任の方は床ではなく天井を見上げる。
そして、染みでも数えようとしているかのようにじっと見つめた。
「そーいうアンタこそ、松本と一緒じゃなくていいのか？」
「いいんですよ、あの人には生徒会長としての仕事が残ってますから…。それに、僕としても仕事を放り出して来て頂いてもらっては困ります」
「・・・・・・・・・」
「どうかしましたか？」
そう尋ねられて顔を上に向けたまま、視線を動かして時任が橘を見る。その視線を受けた橘がいつものように微笑むと、時任は視線を再び天井へと戻した。
「逃げてきたのは俺じゃなくて、アンタの方だろ」
「なぜ、そう思うんです？ もしも倉庫での事を会長に知られたから…、という理由でおっしゃってるなら違いますよ。それにあの程度で傷つくような、柔な精神も持ち合わせてませんしね」
「だったら、なんでさっきから床ばっか見てんだよ」
「・・・・そういう貴方は、天井ばかりを見てますが？」
「俺はいんだよ、イロイロと考えてるだけだし…。けど、アンタはさっきから、ずっと耐えるために床ばかり見てる」
時任の言葉に…、橘の唇から微笑みが消える。
けれど、橘は自分が動揺している事に気づいていなかった。
気づかずに口を開いて話すために声を出しかけ苦笑して、握りしめた両手に力を込める。そして、珍しく喉を肩を震わせて声を立てて笑った。
「貴方は怖い人ですね…。あの久保田君よりも、本当はずっと…」
「コワイ？ カッコイイの間違いだろ？」
「確かに言い方を変えればそうかもしれません。僕自身さえ気づかなかった事を、こんな風に簡単に言い当ててしまう…」
「そうじゃねぇよ…。アンタは気づかなかったんじゃなくて、気づいた事を認めたくなかっただけだ」
「・・・・・・・・」
橘が床を見つめたまま黙り込んだが、時任はじっと天井を見つめているだけで慰めようとはしない。だが、俯いた橘が視線を上げるまで、立ち去らずにずっと傍に居た…。
考え事をしているのは本当なのかもしれないが、ずっと天井を見たままでいるのは…、もしかしたら自分を気遣っているせいかもしれない。そう思った橘は全身から力を抜いて細く長く息を吐くと、いつもの微笑みを浮かべずにひどく疲れた表情をした。
「実際、平気だったんですよ…。まぁ…、無抵抗にあそこまでやられたのは初めてですが、ああいう経験がまったくない訳ではありませんし、僕は男ですし…」
橘はそこで言葉を切ると、疲れた表情のまま自嘲的な笑みを浮かべる。
そして、倉庫で少しフレームの歪んでしまった眼鏡をはずした。
「けれど、あの人の顔を見た瞬間から平気じゃなくなったんです。柔な精神は持ち合わせてなかったはずなのに…、あの人の顔を見た瞬間に脆くも崩れ去ってしまった…」
最後に情け無い話なんですけどね…と、そう付け加えた橘は病院の受付に名前を呼ばれて、治療費を払い薬を受け取るために長椅子から立ち上がる。そして、用事を済ませてから戻ってくると真っ直ぐに橘を見つめながら、時任が違う…と橘の言葉をハッキリと否定した。
「柔な精神持ってるからじゃなくて、松本だから平気じゃなくなっただけだろ？ アンタにとって松本が、そういう存在だってだけじゃんか…」
「・・・・・・・ですが」
「アンタは柔じゃねぇし、弱くもねぇよ。だってさ、大場を助けたのは俺でも久保ちゃんでもない、そして松本でもない…。大場も大場のオヤジも見捨てなかったアンタだ」
「…僕は倉庫に、ただ罠にハマりに行っただけですよ」
「もしも、仮にそうだったとしても…、大場を自分の足で歩いて警察に行く気にさせたのはアンタだろ。それとも、大場が柔で弱いヤツに助けられた上に、説得されて警察に行ったって言うつもりか？ アイツは柔で弱いヤツに助けられて説得されちまうような、そんなヤツなのか？」
「時任君…」
「強いとか弱いとかそんなのは関係なくてさ…。誰にでもヘーキじゃないコトとか泣きたくなるコトくらいあんだろ…、生きてんだから…」
「生きてる…、から？」
「生きてるから泣きたくなるし辛くなるコトがあるけど、生きてるから笑いたくなるコトだって楽しいコトだってある…、そんな日がきっと…。だから、ヘーキじゃなくなったトコは松本に治してもらえ…」
「・・・・・・・」
「そのためにいつもアイツがアンタの傍にいて、アンタがアイツの傍にいんだろ？」
そう言った時任に答えようとして、橘が口を開く。
しかし、なぜか喋ろうとしているのに声が出なかった…。
何かが胸に詰まっているような感じがして、右手で左胸を押さえると大場と大場の父親を連れて倉庫から逃げ出して、それから後の事が脳裏に浮かぶ。港から離れ安全な場所に避難すると、大場は倉庫を出る時に拾った拳銃を、自分の立てた計画が何もかも失敗し、出雲会からも見放され東条組に追われる立場になって放心している父親の額に向けた。
『誰も殺さないなら…、俺が殺してやる…っ』
父親に拳銃を向けた大場の手は震えていた。
殺すと叫ぶように言いながら、いくら歯を食いしばっていても引き金にかけられた指が硬直したように動かない。そんな大場を見た松本が握りしめた拳銃に手を伸ばしかけたが、それを橘が止めた。
『大丈夫ですよ。止めなくても大場君は撃ったりしません…。ここで撃つくらいなら、麻薬入りのスポーツバックを学校に隠したりしなかったはずです』
『・・・・・・・』
『貴方は殺したかったのではなく、足を洗って欲しかっただけでしょう？ だから、本当はスポーツバックを警察に届けたかった…、でも出来なかった』
『違うっ、俺は…っ！』
『僕が言った事を貴方が違うと言うなら、それでも構いません。けれど、一つだけお願いがあります。この麻薬を持って警察に行ってください…。そうすれば、警察には捕まっても東条組や出雲会の手は届かなくなります』
『・・・・俺がしたいのは、コイツを殺すことだけだ』
『いいえ、貴方は絶対に撃ちません』
『俺はコイツを殺すっ！』
『貴方は絶対に殺しませんよ…』
『お前に俺の何がわかるっ！！！ 俺の気持ちなんて、少しもわかってないクセに…っ！！！』
『確かにそうですね、僕には貴方の気持ちなんてわかりません。けれど、僕は信じてますから…、知られれば父親が殺されるかもしれないと思い、すでに麻薬が無い事を言えなかった貴方の事を…』
『ど、どうしてそれを…っ！』
『喋りたくても喋れない。そんな顔をしている貴方を見ていたら、なんとなく…』
『・・・・・・・・』
『僕は貴方を信じています。だから、拳銃を握りしめた貴方の手を…、もう止めたりしません』
橘がそう言うと大場は肩を小さく震わせて、父親の額に向けていた拳銃を下ろす。そして、麻薬を受け取るために橘の方に向かって手を伸ばした。
橘が黒いスーツの男に麻薬を要求したのは、大場が口を閉ざしスポーツバックの在り処を喋らないのを見て、すでに麻薬は無くなってしまっているのではないかと気づいていたからである。そして、橘の予想通り大場は自分のした行為によって中毒患者が増えていくのを見て怖くなり、押収された物以外はトイレに流して捨てていた…。
すぐに目だって本部に目を付けられる事になったのは、もしかしたら心のどこかで捕まりたいと、そう思っていたせいかもしれない。橘から麻薬を受け取った大場は、放心してうずくまっている父親を冷ややかな目で見つめた。
『コイツの頭を撃ち抜いてやりたいのに、肝心な時にいつも昔の事ばかり頭に浮かんでくる…、なんでなんだろうな…』
そんな言葉を残して、大場は父親を引きずって警察に向かった。
正直に事情を話せば、父親と一緒に自分も逮捕される事を承知で…。
それは貴方が優しいからですよ…と、橘は立ち去る大場の背中に呟いたが、それを聞いていたのは近くにいた松本だけだった。
その時の事を思い出しながら、橘はやっと顔を上げて時任を見る。そして、ずっと久保田の事を考え続けている時任に向かって質問をした。
「もしも…、ただの仮定の話ですが、久保田君が誰かを殺したとしたら貴方は警察に突き出しますか？ それとも…、一緒に逃げますか？」
松本なら殺した理由がどんなものであっても間違いなく、警察に突き出すだろうと…、そう思いながらした質問だったが自分の答えは出ていない。松本が人を殺すなんて、あり得ない事を過程するなんてくだらないと心の中で呟きながらも、今回の事件を振り返ると考える事を止められなかった。
けれど、橘に問いかけられた時任の方は、迷ったり悩んだりしている様子はない。何かを見透かそうとするかのように迷う橘の瞳をじっと見つめながら、質問に即答した。
「どっちでもねぇよ。俺は久保ちゃんを警察に突き出したりしねぇし、一緒に逃げたりしねぇ」
「もしかして、心中でもするつもりですか？」
「はぁ？ なんで心中なんかしなきゃなんねぇんだよ？」
「では、どうするつもりです？」
橘がまるで自分自身に問いかけるように重ねて聞くと、時任は何かを思い出したように膝の上に置かれた手をきつく握りしめる。けれど、じっと真っ直ぐ見つめてくる時任の瞳に迷いの色はなかった。
「たとえ何があっても何が起こっても、俺がそんなコトはさせねぇ…。だから、警察に行く必要も逃げる必要もない」
「・・・一体、その自信はどこからくるんです？ 貴方のその手が、引き金を引こうとする久保田君の手に届くとは限ら…」
「絶対に届く…っ」
「・・・・・・・」
「俺は久保ちゃんの傍にいる。、これからもずっと久保ちゃんの傍にいる…。なのに、伸ばした手が届かないはずなんかねぇだろ？」
「時任君…」
「・・・・・・・こんなに傍にいるのに」
最後の言葉を口にした時だけ、迷いのない時任の瞳がわずかに揺れる。けれど、それは引き金を引く久保田の指を止められないかもしれないと不安に思っているからではなく、もしかしたら…、もっと別な想いが瞳に滲んでいるせいなのかもしれない…。
橘は時任の前に立ち、少し屈み込む。
そして、久保田への想いに揺れる時任の瞳を覗き込んだ。
「今日、倉庫での久保田君の様子が、いつもとは違っていたことは僕にもわかります。ですが、どこまでが演技でどこまでが本気だったのかまでは…」
「・・・・・・・わかんねぇか」
「けれど、久保田君があの男の遊びに付き合ってくださったおかげで、僕は情け無い姿をあの人に見られずに済んだ…。その事だけは、紛れも無い事実です」
「じゃあ…、久保ちゃんは…」
「でも、それは僕の考えた事で、事実は久保田君しか知りません。久保田君以外でそれがわかるとしたら、いつも久保田君の傍にいる貴方くらいでしょう？」
そう言うと橘は近づけた顔を、更に近づける。しかし、橘の言葉に気を取られ、自分の思考の中に沈み込んでしまった時任は気づかない…。
橘は微笑むと…、時任の唇に自分の唇を寄せた…。
だが、唇がかすかに触れた瞬間、反射的に時任の平手が橘の頬を打つ。
その音に近くにいた看護婦が二人の方に視線を向け、時任が橘を鋭い瞳で睨みつけた。
「なっ、なにしやがんだっ！！てめぇっ！！！」
「もしかして、僕とではイヤでしたか？」
「イヤに決まってんだろうっ！！」
「それは僕が男だからですか？」
「それもあるしっ、他にもありまくりだっつーのっっ！！！」
「だったら、なぜ久保田君を僕にしたように叩かなかったんです？ しかも、貴方は自分からも久保田君にキスをした…」
「・・・・・っ」
「僕に色んな事を教えてくれた貴方に、今度はお礼代わりに僕が教えて差し上げますよ。貴方と久保田君の間に何があったのか、何があるのか僕は何も知りませんが…、きっと答えはさっき言った事の中にあります…」
「答え？」
「キスもその他の行為も、そうされる事を貴方が望んでいないのなら…、ただの暴力でしかありません…。けれど、貴方はもうキスはするなと言いながらも、久保田君を拒んではいない」
「け、けど…、俺はっ」
「それ以上は貴方自身が考えなければ、答えを見つけなければ意味がありません…。ですから、大いに悩んで考えてください…」
「おいっ、ちょっと待てっ！」
「では、僕はこれで…」
「これが礼だっていうならっ、ちゃんと教えてけよっ！！！」
そう怒鳴る時任の声を聞いた橘が、珍しく声を立てて楽しそうに笑う。そして、ムッとした顔で長椅子から立ち上がった時任に背を向けると、受け取った薬袋を持って玄関に向かって歩き始めた。
「久保田君に借りは返したと…、そう伝えておいてください」
「はぁ？ なんだよソレっ！？」
「頼みましたよ、時任君」
「おいっ、待てっつってんだろっ！！」
「・・・・・・・・貴方にはとても感謝しています…、ありがとう」
少しだけ振り返って礼を言うと、時任のムッとした顔が目に映る。
それでも立ち止まらずに橘が玄関を出ると、後ろからスリッパを履いた時任の足音がパタパタと響いきた。
しかし、その音はすぐにパタリと止む。
タイミングが良いのか悪いのか、病院の受付から時任を呼ぶ声がしていた。
「時任さん…、時任稔さーん」
その声と自分を呼び止める時任の声を聞きながら病院を出ると、橘は学校には向かわず松本に家に向かい歩き始め…、
そうしながら、ポケットからケイタイを出し、いつもの妖しい微笑みを浮かべた生徒会副会長の顔で松本に電話をかけた。
「松本会長…。僕は諜報部の解散と生徒会本部の任務内容の改正を諜報部部長、生徒会副会長として要求します。そして、もしも大場君のしようとしている事を妨害する者があれば…、僕はそれを全力で止めるつもりです」
橘が宣言すると、松本はそうか…と呟く。
すると、橘もそうです…と呟いた。
執行部が校内の治安を守る任務を負っているように、生徒会本部も普段の職務の他に任務を負っている。それは執行部の守る…、生徒達が自治している校内に部外者の侵入を…、警察の介入を許さないこと…。
何があろうと何が起ころうとも、今まではそれが絶対だった。
けれど、それは学校側の事情だけではなく、お世辞にも素行が良いと言えない生徒達が濡れ衣を着せられてしまう事を防ぐため…。だが、校内で起こる犯罪が増え凶悪化していくに従って、いつの間にか守るのではなく何もかもを押し潰し消してしまう…、松本が生徒会長に就任する前から、生徒会本部はそんな存在に成り果ててしまっていた。
橘と松本は互いに、しばらく無言のままだったが…、
先に松本の方が動き、近くにいたらしい本部の人間に至急、警察に向かっている大場の周辺に居る諜報部の生徒に連絡を取るように命令を出した。
「橘副会長」
「はい…」
「私は今まで、与えられた任務を忠実に遂行することで、生徒会長としての任務を責務を果たしてきたつもりだった。だが…、本当はそうではないのかもしれない。そして、間違いに気づいたのなら、それを隠すのではなく正さなくてはならない…、たとえそれが代々続く生徒会会長の、本部の意志に背く事だとしても…、お前が私に示して見せてくれたように…」
「・・・・・・会長」
「私達と同じ荒磯に通う生徒達を疑うのではなく、利用するのでもなく…、信じる事から始めよう。潰すのでも消すのでもなく、そうする事が生徒会本部に身を置き、それと同時に荒磯の一生徒である私達の・・・・、本当の任務だ」
「はい」
「ありがとう…、橘…。お前が副会長で、俺を選んでくれて恋人でいてくれて本当に良かった…」
最後に愛していると告げた松本の声が耳に届くと、橘が空を見上げ微笑みを深くする。そして、大場は妨害や口封じをされるのではなく、追跡しながら見守る諜報部に護衛され無事に警察に到着し…、
橘よりも遅れて病院を出た時任が、一人でマンションへと向う。
そうしながら、無意識に触れた時任の唇には、わずかに触れた橘の唇ではなく、高鳴る鼓動と息苦しさと…、そして切なさを感じながら触れた久保田の唇の感触が残っていた。
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