改善計画 .10
「あまり虐めてはダメですよ…。彼を本気で大切だと想うのなら…」
時任の手から落ちた拳銃の音が響くと、橘が乱れた着衣を直しながらそう呟く。そして周囲の様子を伺いながら、コンクリートの床に縛られて倒れている人質の方を見た。
取られている人質は一人ではなく、二人…。
同じ荒磯の生徒で麻薬の件で取調べをしていた大場と、その父親らしき男である。松本から連絡を受けて大場と共に学校に向かおうとしていたが、その途中で黒塗りの車に乗ってきた不審な男達に取り囲まれた。
橘は大場を連れて逃げようとしたが、父親が捕らえられている事を知らされると大場は橘の手を振り払い、自分から男達の車に乗ったのである。学校に提出されている大場の身上書に父親は無職と書かれていたが…、どうやら身上書には書けない職業についていたようだった。
しかも大場の父親の仕事は、おそらく麻薬に関係している。本部でいくら調べてもわからなかったのは、常に本部ではなく警察を警戒しているせいだろう。
そう考えると、大場の持っていた麻薬の出所が気にかかった。
『これが、僕の持っているすべてです』
銃口を背中に突きつけられ大場と同じ車に乗り込むと、橘は持っていた麻薬をあっさりと差し出す。だが、助手席に座ってタバコをふかしていた黒いスーツの男は、橘が差し出した麻薬を振り返らずにバックミラー越しに見ると口から煙をフーッと吐き出した。
『残念ながら、その程度では三途の川の渡り賃にもならない』
『では、僕はこれで帰らせて頂きます…、彼と一緒に』
『そうはいかない』
『なぜです？』
『どうしても、君に思い出して欲しい事があるのでね』
『思い出して欲しい事？』
『宝物の在り処を…』
スーツの男がそう言うと、大場が表情を変える。
大場の顔には怯えではなく、焦りの色が浮かんでいた。
『こいつは何も知らないし関係ないんだ。だから、何をしても何も思い出したりしない…っ』
『きっと、忘れているだけだろう』
『・・・・こいつは解放しろ』
『今にきっと思い出したくなる…、自然にな』
男は大場ではなく橘を見ていたが、その言葉はおそらく大場に向けられた言葉だ。それはたぶん覚悟を決めておとなしく車に乗った大場を見て、直接、本人に聞くよりも橘に聞いた方が効果的だと判断したからに違いない…。
倉庫で男達に橘を陵辱させたのも、その様子を大場に見せ付けるためだ。
けれど、大場は俯いて唇を噛みしめたまま、何も喋ろうとはしなかった。
喋りたくても喋れない…、そんな様子だった。
橘の首筋にキスした時、久保田が宝物を松本が探していると言っていたが…、大場を見ていると嫌な予感がする。橘はポケットに手を伸ばしかけたが、ケータイは倉庫に連れて来られて、すぐに奪われて壊された事を思い出してやめた。
「念じただけで通じると、便利なんですけどね」
橘がそう呟いている間も、久保田は時任に向かって冷たく微笑んでいる。けれど、時任を見つめる久保田の瞳は…、その冷たさを裏切っていた。
ただの同居人だと口では言いながら、久保田の瞳は時任だけを映して動かない。そして、時任もそんな久保田に哀しい瞳を向けながらも決して離れようとはしなかった。
二人の間にある…、友情と愛情の狭間…。
そして、そこから沸き起こる憎しみに似た感情…。
お互いを想いながらも壊れていく二人の絆をじっと眺めていた黒いスーツの男は、口元に不気味な笑みを浮かべる。その場にいる全員が部屋の中央に立つ二人の張り詰めた空気に想いに引き寄せられて…、目が離せなくなっていた。
逃げるチャンスがあるとしたら、全員の注意が二人に向いている今しかない。だが、橘はその場から動かなかった…。
それは助けなければならない人質が二人もいる上に、陵辱されて身体が思うように動かないせいもあったが、実はそれだけじゃない。スーツの男の口車に乗ったと思わせて近づいてきた久保田に松本の事を聞いた時も、今と同じ事を想い考えていた…。
だから、喉元にキスしながら「どうする？」と囁いた久保田の問いかけに、微笑んで「待ちます」と答えた…。
こんな状況でも、まだ久保田と時任がいるなら希望はある。でも、久保田と時任に任せて一か八かの賭けに出るより、松本が来るのを待ちたかった。
人質の事を考えて、危険な賭けには出たくないという気持ちよりも…、
犯された身体の痛みが、そう思わせているのかもしれない。
身体に痛みを感じるたびに…、
あの人に助けに来て欲しいと…、心からそう想った。
けれど、そんな松本への想いが自分を久保田を時任を、そして大場親子を殺してしまうかもしれないとは考えない。松本は絶対に来ると…、それだけを信じ息を潜めて、縛られている大場の縄を切る瞬間だけを待っていた。
しかし、黒いスーツの男がタイムリミットを告げる。男は近くに居た部下を呼ぶと、持っている拳銃で久保田を狙うよう命じた。
「友情と愛情か…。どちらも人間らしい感情だが、それ故に実にくだらない。だから、このくだらない劇に私が幕を引いてやろう」
「先にどちらを撃ちますか？」
「君なら、どちらを撃つかね？」
「どちらと言われても…、俺には…」
「くくく…、何を悩み迷う必要がある？ 人として銃口を向けている相手を撃つに決まっているだろう」
「これは、つまり人助けってヤツですか？」
「いや、ただの人殺しだよ」
黒いスーツの男は時任を撃てば、久保田を助けると言った。
だが、そう言った口と同じ口で微笑みながら久保田を殺すと言う。
どうやら男はサディストなだけではなく、気まぐれでもあるようだった。
久保田の頭を撃ち抜き、時任を助けて恩でも売ろうというのか…、
それとも、ただの退屈しのぎなのか男の真意はわからない。
だが、それがわかった所で今の状況が変わるとも思えなかった。
黒いスーツの男の隣で拳銃が鈍く光り、時任はこめかみに当たる銃口の冷たさと切なさに瞳を揺らす。最初にコンクリートの冷たい床に倒れるのは久保田に撃たれた時任なのか、それとも黒いスーツの男に撃たれた久保田なのか…、橘の視線が人質の視線が、周囲の視線が二つの銃口に集中した。
「・・・・・・久保ちゃん」
時任が久保田を見つめながら名を呼ぶと、二つの銃口から放たれた銃弾が床に赤い血を撒き散らす瞬間を想像したかのように、黒いスーツの男が口の端を吊り上げて微笑む。けれど、神様に祈ることしかできない、そんな瞬間、時任は拳銃を握りしめている久保田に向かって手を振り上げ、勢い良く振り下ろした。
バシィイィィンっ！！！！！！！！
倉庫に響いたのは銃声ではなく、久保田の頬を時任の平手が打つ音。
予想外のその音に橘だけではなく、誰もが一瞬動きを止める。
しかし、久保田だけは表情を変えず動きも止めてはいなかった。
引き金にかけた指はそのままに、反対側の手で時任の喉を掴む。けれど、そんな久保田の唇に、時任は自分からキスをした。
まるで…、恋人のように…。
少し背伸びをして久保田にキスする時任の姿は、見つめていると甘く切なく…、胸をしめつけてくる。執行部の相方で同居人の時任に、そんなキスをされた久保田の瞳は…、時任以上に切なく哀しい色を浮かべているように見えた。
「お前の言葉も声も…、何もかもが俺には残酷すぎるよ、時任」
喉を掴んでいた手で軽く胸を押してキスを拒みながら、久保田がそう囁く。すると、時任は胸を押す手を捕まえて握りしめながら…、久保田の赤くなった頬を叩いた手と同じ手で優しく撫でた。
「今の久保ちゃんに何言われても、何されても…、さよなら言ってるようにしか聞こえねぇ…。ずっと、そんな予感はしてたけど、今はもっとそんな気がしてさ。キスしても何しても…、なんか胸が痛ぇばっかで…」
「・・・・・・・・」
「契約は取り消す…、だからもう俺にキスすんな…」
真っ直ぐに見つめてくる時任の瞳に言葉に、久保田はすぐには何も答えない。答えずに時任に手を捕らえられたまま、握りしめていた拳銃をさっきとは違う方向に構え直してから…、ゆっくりと口を開いた。
「もうしないよ…、何もしない…。お前がそう望むなら…」
時任と久保田の間で交わされていた契約は取り消された。
なのに…、久保田は時任の望みを叶えようとする…。
橘は二人の交わしていた契約の内容は知らないが、あんなに想い合いながらも二人の想いがすれ違っていくのを感じた。
違うようで似たような感情、似たようで違う感情…。
二人の間にある想いは、抱いた二人にしかわからない。けれど…、久保田が向けた銃口を見て微笑む男の顔を見ると、今度こそ本当にタイムリミットが来た事だけはわかった。
「どうやら、交渉は決裂のようだな」
黒いスーツの男がそう言うと、久保田が軽く肩をすくめる。
そして、時任をかばうように一歩だけ前に出た。
「なーんて言って、先に銃口を向けたのはオタクの方でしょ？」
「私は平和主義でね、本当はこんな事はしたなかったのだよ。だが、どうやら君達は思った以上に記憶力が悪いらしい。多少、君の演技力には期待していたが、これも期待はずれだったようだ」
「演技力には自信あったんだけど、もしかして退屈させちゃった？」
「始めは良かったが、中盤の展開は私好みじゃない」
「じゃ、後半を頑張ろっかな…、俺好みに…」
「私好みにはしてくれないのかね？」
「生憎と俺はサディストじゃないんで」
「では君の代わりに、君の猫に相手をしてもらうとしよう。私は犬派だが猫も嫌いではないのでね…」
スーツの男はそう言いながら目を細める。そして、大場の縄を切る瞬間を伺っている橘を見て、次に久保田の後ろに立つ時任の方を見た。
最初は時任の方にあまり興味はなさそうだったが、久保田が執着しているのを見て時任にも興味が湧いたらしい。時任を見つめる男の口元には、サディストらしい残忍な笑みが浮かんでいた。
「即死しない程度に、背の高い方の男を撃て…。そして、男ではなく猫の方を私の前に引きずってこい…、そっちのオンナと一緒に」
猫と呼ばれたのは時任、そしてオンナと呼ばれたのは橘…。
それを聞いた時任の眉間には深い皺が刻まれ、橘の微笑みが深くなる。
そして、倉庫内のすべての銃口が久保田を狙い…、
男が残忍な笑みを浮かべたまま、上げていた右手を振り降ろそうとする。
だが、次の瞬間に響いてきた銃声は、倉庫内からのものではなかった。
・・・・・・・・ウゥン…、ガウゥ…ンッっ！！！！
倉庫の外から、しかもかなり近い場所から響いてくる銃声…。
その原因は麻薬を探し出してから、こちらに向うと言っていた松本かと思われたが、たった一人を…、しかも素人の高校生を相手にしているにしては聞こえてくる銃声の数が多すぎる。
すると、予想外の出来事に倉庫内の男達がざわめき…、
ドアを開けて外にいたらしい部下の一人が、室内に飛び込んできた。
「い、今…っ、外に東条組のヤツらが…っ！！！！」
飛び込んできた部下が叫んだのは、松本の名前ではない。
生徒会本部でも執行部でもない。
そして倉庫を襲った人間の正体を知って、誰よりも顔を青くしていたのは…、
黒いスーツの男ではなく、大場の父親だった。
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