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■はじめに■
夏合宿のみならず、このワークショップにおいてもっぱら集中的に行われたのが、「フリー・エチュード」という稽古である。
「フリー・エチュード」についてはT付・フリー・エチュード基礎知識?Uで少し説明しましたが、要は「演劇的ゲーム」といったところでしょうか。劇団やっている人はこれらを基礎練習に取り入れると面白いし、きっと勉強にもなると思うよ。
ただし、いかなエチュードとは言え、ルールをきちんと把握して、そのエチュードがどういう意味を持つのかなどポイントを押さえてやらないと混乱するかもな〜と思うので、いくつかのフリー・エチュードのルールを紹介したのちに、エチュード風景として、実際にやってみて感じたことをつけくわえてみたいと思います。
1・家族いすとりゲーム
…いすが家族の一員とたとえられているエチュード。とにかく家族になれ!
●ルール●
・5人1チームで行う。
・最初に母・父・子供1・子供2の役を割り当て、「4人家族」を演じる。
・残った一人は新しい「家族」のきっかけを作って割り込んで、新しい「家族」を作ろうとする。(この時、役者に直接働きかけることはしない)
・割り込まれた古い「家族」の4人は、割り込んできた者と新しい「家族」を作ってもいいし、なんとかして排除しても良いので、「家族の一員」であろうとすること。
●エチュード風景●
これは今年の発表会でも行われた。その時はこんな感じ。
スタートした家族、食卓を囲んで食事を始める。すき焼きの具の優先権などで、なごやかに言い争ってる。「お父さんからお肉をどうぞ」とか、息子が「ずるいずるい、僕もお肉!」とか。
と、そこに「新家族」乱入。息子になって、「パパー、遊園地に連れてって〜」などとだだをこねる。(直接話しかけてはいけないので、あさっての方向に。)すると「旧家族」の方の息子、やおらスイッチを切るマイム。
「ごはんの時はテレビ見ちゃいけないんだよね〜」(うっ、やられた。という発想に大爆笑)
…つまり、「新家族」の息子をテレビの中のキャラクターにしちゃったわけである。
この時は「新家族」成立ならず、そのまますき焼きパーティが続く。次なる「新家族」の挑戦は、母親となって、絶叫!「うう、生まれる〜〜〜!!」と、臨月の母。「旧家族」、すき焼きネタに詰まっていたのでとって返して全員で一斉に「母さん、大丈夫か〜!?」状態。(これがみんな必死で、もう大笑い)
でも、「新家族」成立にあたって、一人脱落者が出なくてはならない。ので、「旧家族」の父親、唐突に「先生、妻が、妻が〜!」と話しかけ、無理矢理お医者さんに祭り上げて。(うーん、そういう展開だろうなあ。わかってるけど、笑える)と、いった感じで進んでいきます。見ている方はその破天荒な展開にお腹を抱えるて大笑い。
しかし、見るのとやるのでは大違いで、「新家族」はうまくタイミングを見計らって割り込まないと全然相手にされない。また、「旧家族」が続いても、そのうちテンションが下がってきて辛くなってくる。父、母、子供、子供それぞれ一人ずつとのルールがあるので、うまい具合に「新家族」に乗り変えるときに同じ役が二人以上いるなんて状態になったりすることもよくあって、そういうときは安田さんにつっこまれる。
ということは、すばやく周りがなんの役になったのか察知して、あいている役にならなくてはいけない。または、誰かを家族以外にでっち上げて、割り込みを阻止したり、家族以外のキャラクターに祭り上げて排除したりしないといけないわけ。
このエチュードでは、場の雰囲気を読む力、話に割り込むきっかけをつかむ力が必要、ということかな。このエチュードは「家族」というシチュエーションのため、見ていると参加者の考えている家族像がほの見えるのが面白いなあ。即興という条件下では、その場でさっと演じ始めなくてはならないから、大体わかりやすいホームドラマのような典型的家族。結構みんな似てくるよね。亭主関白、良妻賢母。とか。なかなか共稼ぎっぽいシチュエーションにはならないなあ。主婦廃止、とかいってる社会学者もいるけど、家族の根元はやっぱりここか、とか。あるいはあたしたちってけっこうメディアに毒されてるな、とか、捉え方は千差万別だろうけど。「家族」の「形」について、考えること請け合いです。
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2・メイクマシーン
…「なにかを作る機械」となって、みんなで「ライン工程」を作る。どんどん加工しよう!
●ルール●
・5人一組で行う。あらかじめ順番を決めておく。
・最初の人は、からだ全体を使って、とにかく「なにか」を作る(加工する)機械を演じる。
・「なにか」を作るとき、喜怒哀楽、なにかしらの感情表現と、それらしい効果音をつける。
・次の人は、前の人が作った(加工した)「なにか」を受け止め、さらに加工する。
・これを繰り返し、最終的に全員が「ライン工程」の一部となること。
・見えないはずの「なにか」がさもそこにあるかのようにチームの間を流れて見えれば○。
●エチュード風景●
これも、発表会でも取り上げられた。「恐怖のエチュード」である。
とにかく、辛い目に遭うこと請け合いである。
とにかく、どんな感じか、から始めよう。「からだ全体を使って」機械になるわけだが、安田さん曰く、別に「機械そのものになる」ことを求めているわけではない。とにかく、繰り返し「なにか」を作る、加工するように見えればそれで充分機械に見える、というのだ。
このエチュードを初めてやったとき、いまいちそこがわからなかった。機械という言葉に囚われて、どうしてもかくかくっとした直線的な動きになったり、現実の機械をイメージして見たり。けど、現実にある機械の加工方法なんかはけっこう限られていて、すぐに行き詰まったりして。
でも、山の手の役者さんや他の参加者がやっているのを見るうちに、なるほど、安田さんの言葉の意味が分かってきた。例えば、耳や鼻から何かを繰り返し取り出す動作をする。効果音は「オエ〜〜」「ブワワ〜〜」とか、普通に機械を想像すれば到底出てこないような。
しかし、「繰り返し同じ動作をする」と、そこに機械を感じることができるわけです。なるほど!ルーティンワーク、これが機械ということなのね。「繰り返しの動作」によって、人間的な動きでも機械であるかのように見えてくるわけ。また、複数の人が「加工」していく過程で、演じる人の想像力で突飛なものに変化していくのが面白い。最初の人は「球状のものを手で磨いて、口でふっと吹いて次へ送った」つもりだったのに、次の人は「空気が送られてきたので、それをビニール袋にかき集めて、封をした」とか。長かったはずのものが円盤状に変化したり。
そうした「人間機械」のライン工程が完成すると、見ていてそのあまりの滑稽さに耐えられないほど。みんなが加工している「なにか」が見えてくればなおのこと。なんだか抽象的でわかりづらいかも知れないけど、ここでは、「繰り返し同じ動作をすること」「他の参加者の動きをよく見て、流れに乗ること」「加工されてきた「なにか」を想像力を働かせて受け止めること」等々、いろいろな条件があるのでした。
「喜怒哀楽を表現して」と、安田さんが言ったのは、恐らく「機械そのものになるんじゃないよ」という条件をよりわかりやすくするため、と思うのですが、さて、どうなのかな。半年間のワークショップで「家族椅子とり」に次いで取り組んだエチュードだけど、やってみての感想はとにかく「見るは楽し、行うは難し」。テーマ自体が抽象的なので、ルールを把握するのにまず時間がかかるのと、それから「繰り返しの動作」「自由な発想で作るものを決めて動く」って、何回かやっていると自分の動きのくせとか、考えるパターンみたいなのがだんだんわかって来るんですよ。これが辛くて。
ああ、また手だけしか使わなかったなあとか、また円盤作っちゃった、とか。
己の限界を嫌でも見せられる。でも、気づかないよりはずいぶん進歩かな?<このページのトップへ>
3・討論(正式名称不明)
…テーマを決めて、1対1で相手を論破せよ!ただし、お調子者の応援団付きだ!
●ルール●
・1対1の「討論者」と、2〜3人の「お調子者応援団」を決めて行う。
・討論のテーマを決め、それぞれの立場をあらかじめ決めておく。(先生対生徒とか、そば対うどんとか。お堅いテーマより、好きなものの優劣を論じる方が盛り上がる)
・「お調子者応援団」とは、おのおのの主張が終わった後に、主張した側を無節操に応援する、というもの。とにかく主張者の援護をする。そして相手の反論が終わったら、こんどはそっちの援護に回る!
●エチュードの風景●
これは、夏合宿で一回やったもの。この時のエピソードが忘れられなくて、取り上げることにした。
第一回目のワークショップに、ただ一人の男子高校生がいたのでした。長岡市外からの参加、ということで、気合い入ってるなあと思っていた。はてさて、夏合宿。始まってみると、彼はどうも気後れしてしまっていた。無類の照れ屋さんのようであった。特に、発声練習とか人前で大声を上げる場面になるととたんに醒めた目つきで。安田さんにハッパをかけられても、なかなか声を出そうとしない。
このワークショップ、その半分は演劇経験者。みんなどっかしら俗世間を超越しちゃってる(むろんわたしも)から、声を出すことにも抵抗は全くなし。演劇が好きでワークショップに参加しているのだからそういうもんだが。
私を含め、彼が気後れしていることに気づきはすれども、彼が意欲を見せなければどうにもならないということはわかっていたのでとにかくスケジュールをこなすしかないのだ。
全員、参加者としてここにいるのだから、それは至極当然。しかし、彼には同世代が他にいないということも大きかったかな?結局、夏合宿を最後に、もう彼と顔を合わすことは、なかった。しかし、彼はがんばっていた。がんばって、自分のなかにあるフラストレーションを出そうとしていた。振り返って、そう感じるのが、私が彼と行った「討論」なのです。
私が「教師」、彼が「生徒」の立場で、エチュードが始まった。そう、私の仕事、教師なのでした。彼にも演劇を楽しんでもらいたい、と、私は考えていた。むろん、そう思っていたのは私だけではないと思う。このエチュードで、彼が反論してくること、それが楽しむことにつながるのかわからないけど、この場では自己主張すること、それがルールなのだ。ともあれ、エチュード。わたしなりに全力で主張するのだ、と、教師としての主張を始める。(エチュードなので職業を超えてかなり強引)
「ちゃんと話を聞け〜」応援団「そうだそうだ!!」、…しかし無言。
「大体、未成年だからなにやってもいいと思ってるだろ?」応援団「ンなわけないっちゅーの」、…無言のまま。反論が返ってこないので、向きになる私。同じく、エスカレートする応援団の野次。
彼、少し口が動いた。もっと挑発しないとか!?演劇好きの血が騒ぎ、さらにエスカレート。
「調子いいことばかり…」彼ぽつり。
やった、反論が返ってきそうだ!さらに挑発的な言葉を。
「先公は自分の都合のいいようにしか物をいわねえっつってんだよ!!!」
彼の口から、やっと出てきた言葉。この一言を口にするのに、これだけ挑発して、それでやっと飛び出した言葉。
彼の動向を見守っていた応援団、待ってましたと援護、援護。「そうだ、勝手すぎるんだよ教師!!」私の援護するときよりも迫力。私も待っていました彼の反論!「そうだ、勝手だああ!」と、続く反論を待った。
しかし、ひとこと口にした彼は、自分の言葉にはっとしたかのように、また、黙り込んでしまった。そして、もうなにもいわなかった。苦しそうだった。
ひとことの反論、それが彼の精一杯。そこで、安田さんは終わりの合図を出した。
そこで、はっと。彼、自分の言葉を口にすることに慣れていないんだ。そして、自分の中学・高校生時代を思い出す。そうだ、私も芝居をやるまで、人前で自分の考えをいう経験なんてほとんどなかったじゃないか。
絶対的経験値の少ない人にとって、あの一言、それは自分のなかから精一杯絞り出した一言なんだよなあ。この歳になると、そういう自分があったこと、すっかり忘れてしまっていた。
と、ノスタルジーに浸っている場合じゃなくて。
演劇なんかをやっているとついつい忘れがちなこと、それは、誰もが主張するということに慣れていないんだ、ということ。このエチュードは、上の通り、「いかに自分の考えを押し通せるか」、「相手の売り言葉に乗ることができるか」、ということなんだけど、果たして彼のように演劇に触れることさえない人は、自己矛盾を内に秘めたまま暮らしていく可能性もあるのかなあ。
されども、彼は特別ではないよなあ。だって自分もかつてああだった。いや、いまでも矛盾した自分を抱えてる。むむむ。
少なくても、彼はこの場で一言ながらも自分の気持ちを吐き出すことができたし、わたしは演劇を通してそういう矛盾と対峙することを知って、爆発する前に少しずつ取り出せるようになったけど。
今回のエチュード、そうした意味で、よく「自己開放セミナー」にも使われている手法だよなあ。
いや、このワークショップがそういう趣旨であったわけじゃないのよ。ただ、逆に、芝居に触れて気持ちを開放するのに慣れすぎてしまうといけないなあ。とか思うのだった。
なぜか。確かに自分の心の中を開放することはいいこと。でも、すべての人がそうではないし、実際の生活の中ではやっぱり誰もが気持ちを抑制している。抑制しているときの自分、芝居をやって感情を表現する自分。二つの自分があることを、きちっと抑えておかないと、などと考えたのだった。
そしてこれは、このワークショップの中でなんども安田さんに言われたことでもある。<このページのトップへ>
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