魔王じゃないもんっ!
「第5話 不幸じゃないもんっ!」


−8−

 開かれたドアの前に立つ、兄と姉。状況証拠としては十分すぎる。
「お兄ちゃん! 何やってんのっ!?」
 リビングに響く真央の声。
「お母さんもBBに会いたがってるし、BBもお母さんに会いたがってる。
 なら会わせるべきじゃないか」
 翔太は悪びれる様子もなく、平然と言ってのける。
 一方アスラは天駆が部屋から出る前に再びドアを閉めようと駆け出した。
 しかし見えない壁に阻まれて進めない。
「リリスかっ!?」
 アスラに魔族の名前で呼ばれ、ビクリと強ばり震え出す色香。見えない壁の正体は、色香の結界だった。
「……私……も、お兄様と同じ……」
 震えながらも必死で声を絞り出す。その声にアスラは一瞬だけ顔を歪めてから、見えない壁に手をかけて力をこめる。
 色香は結界魔法のスペシャリストだが、相手は魔王。その気になれば力で引き裂かれてしまうだろう。
 しかし、時間稼ぎとしては有効だった。
「二人とも何考えてるのっ!?
 お兄ちゃん!
 面白そうだからママと天ちゃんを会わせようとしてるんでしょっ!?
 死んじゃうかもしれないんだよっ!?
 いくらママが本当のママじゃないからってひどすぎる、最低だよっ!」
 思わぬ事態に、真央は普段なら口にしないようなことを大声で叫んでいた。
「真央……?」
 目に涙をいっぱいにためて放つその言葉に、翔太は目を見開くだけで何も言い返さない。
「お姉ちゃんもお姉ちゃんだよっ!
 お兄ちゃんの言うことならなんでも聞くのっ!? お兄ちゃんの以外の人ならどうなってもいいのっ!?
 そんなのどうかしてるっ! 理解できないよっ」
 次の怒りの矛先は色香だ。
「……真央ちゃん……」
 色香の悲痛な表情に一瞬だけ胸が苦しくなるが、真央は目をかたく閉じ、さらに声を荒げる。
「二人とも大嫌い! 許さないんだからっ!」

「いい加減になさいっ!!」

 それは真央の声を一瞬にして飲み込む大きな声だった。
 真央だけでなく、この部屋にいるすべての者が硬直している。

 桜花の声だった。

「真央、アスラさん。
 いい加減にして」
 続く声の音量は控えめだったが、それでもどっしりと重みがあり、名指しにされた二人はなにもできなくなる。

 シンと静まり返るリビング。

 ここは一家団欒を目的として設けられた場所。笑い声が飛び交い、豊かな表情が溢れていた場所。
 そこに母親がいるというのに、なぜこんなことになってしまっているのだろう。

 誰も何も言えず、動けない時間。

 思考すら止まっていこうとするなか、ゆっくりと動く存在が視界に入ってくる。
 ゆらゆらと揺れながら、少しずつ、けれど確実に桜花を目指している。

 止めなきゃ。

 辛うじてそう思うことができたが身体は動かなかった。

 あまりにも無垢に母親を目指す姿が健気で。それを受け入れようと手を広げる姿が眩しくて。

「天ちゃん」

 ようやくたどり着き、腕の中におさまる赤子。一切の不安から解放されたような穏やかな顔をしていた。



 魔族と恋をし、愛し合い、設けた命。それ故、会うこともままならなくなってしまった運命。
 彼女を、そして彼女の子を、不幸だと哀れむ者もいるのかもしれない。
 しかし、今の二人を目の前にすれば、それは間違いだと考えを改めるに違いない。
 そのまま最高級の絵画になるような、そんな光景だった。

 母がわが子を抱く。

 それだけの、当たり前のようなその行為が、神々しくも思える輝き放っていた。
 子を見守る母のまなざしは愛に満ち満ちて、愛に包まれた子供は、世界中で一番自分が幸せだというような最高の笑顔を浮かべる。
 しかし、この瞬間も桜花の身体に負担がかかり続けている。
 命を脅かす運命に立ち向かってでも、どうしても伝えたかった。

「天駆」

 全身を包む疲労感に、笑顔を浮かべる余裕など無いはずなのに、桜花は天駆にニッコリと微笑みかける。

「ごめんなさい。
 そばにいてあげられなくて」

 謝罪の言葉と共に頭を撫でる。
 天駆はまだ言葉の意味を解することはできないが、その言葉に微笑む様子は、桜花の言葉を受け入れているように見えた。

「でもね天駆。覚えていて。
 そして決して忘れないで」

 産んですぐに倒れ、それっきり会えなかった愛しい存在にどうしても伝えなければ。
 桜花はそれだけを胸に激しい疲労感と脱力感に立ち向かい、最愛を以ってわが子を優しく抱きしめる。

「私はあなたを愛しています。

 あなたは愛されています。

 あなたは祝福されて生まれてきました。

 私はあなたが生まれてくれて、とても幸せです」

 一語一語、大切に、ゆっくりと。
 思いの丈を、わが子に伝える。

「離れていても、それは変わらないこと。
 だから悲しまないで、寂しがらないで」

 母の胎内から離れ、この世に生れ落ちるのは、寂しさと不安を覚えることでもある。

 だから、愛されることが必要だ。

 母が子供を愛するのも、子供が母に愛されるのも必然。やがて自我が確立し、精神的に自立するその時まで、子供は母親を本能的に求める。
 本当のところどうかなんてわからないが、桜花はこの考えを信じている。

 だからこそ、何も告げずに別れたわが子にこれだけは伝えたかった。
 離れて暮らさなければならないわが子に。

「天駆、忘れないで。
 私はあなたを愛しています」

 そしてもう一度告げる。
 天駆は言葉を話すことも、言葉を理解することもできないが、目を細めて笑うことで応えてみせた。

 この場にいる全員が、二人は通じ合っていると感じた。桜花の想いを天駆は理解している。
 理屈は説明できないが、そうとしか思えないのだ。

「ありがとう」

 桜花はその言葉を最後に意識を失った。
 アスラがすばやく桜花の身体を支え、真央が天駆を桜花の腕から自分の腕へと移す。

「……真央、頼んだぞ」

 そしてアスラは、桜花を抱えて去っていく。
 腕の中の桜花はどこまでも安らかな顔をしており、桜花から離れた天駆も、ぐずることなく、母親を穏やかな表情で見送っていた。



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