聖夜のサンタ
第四部 聖夜のサンタ
クリスマスなんて、クリスマス・イヴなんて。そう思っていた。 だけど……。 今年のイヴは最高の日に。 「頼むよ!」 「頼むって言われてもなぁ。 クリスマス・イヴなんだぜ? しかも俺、今年は彼女いるんだぜ?」 電話口のイサムは俺の要求に戸惑っていた。無理もないだろうと思う。 ……だけど。 「そこをなんとか!」 「……あーあ。おまえと友達やってると苦労するよ」 「やってくれるか!?」 「わーったよ。ったく。その代わり、うまくやれよ?」 よしっ! 持つべきモノは親友だ! 「ああ! ありがとうな!」 「苦労はするけど退屈しねぇからな。それじゃ」 「おう!」 電話を切り、こんどは最近知ったばかりの番号に電話をかける。 次は……。 「もしもし!」 「もしもし? 黒須か? どうしたんだ」 「実はな。頼みがある」 今電話をしているのは智美。 「電話そうそういきなり、頼みかぁ? まぁいいや。言って見ろよ」 俺の要求は無茶かもしれない。だけど、今年のクリスマス・イヴを最高のものにするために。 「はぁ? 本気かよ!?」 「この上なくな。おまえなら無理じゃないだろ?」 「……そんなことまでするなんて、本当に本気なんだな」 本当に本気。……本当に本気だ。俺はあいつを本気で好きだ。 「ああ」 「わかったよ」 「恩に着るぜ智美!」 「……ふふ、ホント。おまえただもんじゃないな」 「え?」 ただもんじゃない? 「ああ、すげーことしようとして、それできっと成功させちまう……」 ……………………。 「ただものじゃないのは当たり前だ」 「はぁ?」 「俺を誰だと思ってるんだ? 三太だぞ?」 「何言ってるんだよ?」 何言ってるんだか……。 自分でもそう思う。 「ははは、まぁいいじゃねぇか。とにかく頼むぞ?」 「ああ、わかったよ。それじゃな」 ……だけど俺は、黒須三太。アホみたいな名前に生まれてきたんだ。だから、クリスマスくらいはすげーことができなきゃな。 そう、俺は三太。 約束の日。クリスマス・イヴにはサンタになってやる。あいつのサンタに。聖夜のサンタに。 踊る気持ち。このまま浮かれていたい。馬鹿騒ぎする奴らに便乗して、この気持ちのまま過ごしたい。 でも一人の時間はそれを許さない。 どうしたって現実を思い出してしまう。目を瞑っても、耳を塞いでも、覆されることのない現実。 聖夜が病気だと言うこと。聖夜は死んでしまうかも知れないと言うこと。 ……聖夜とはあれから一度も会っていない。一度だけ電話がかかってきただけだった。 その時、聖夜は自分のことを話してくれた。 自分のすべてを。今はそれなりに落ち着いているけど、その時はもう本当にどうしようもなかった……。 「私ね。小学生のころからこの病気なの」 何気なく聖夜は言った。 しばらく黙っていた聖夜の第一声。それからは一気に話し始める。 それはまるで、授業中に教科書を皆の前で音読しているかのように、芝居がかっていて、およそ自分の意志を感じられなかった。 「小さい頃からこの病気のせいで、入退院の繰り返し。いつ発作が起きるかわからなかったし、その頃は治療法もわからなかった。 だから、まともな学校生活なんてできやしなかった。 それでも高校に頑張って入ったんだけど……、ダメだった。出席日数が足りなくなって、それっきり。 ……だけどね、最近になって私の病気のことがわかってきて、発作を抑える新薬と、手術法が見つかったの。 でもね……発見してすぐなら成功率は高いんだけど、10年以上この病気を煩ってるから……難しいんだって」 「そうか……」 かける言葉なんて見つからなかった。相づちをうつことしかできなかった。 「……手術の日。決まったの。12月25日。 クリスマスだよ。私が希望を出したの」 「……うん」 手術。助かる確率は……30%、70%は死んでしまう。 今日は18日。一週間後には……もしかしたら……。 「なんで、クリスマスにしたかわかる?」 暗闇の中を彷徨うような気持ちでふさぎ込んで考えていた俺は、聖夜の問いかけにドキリとした。手術を、クリスマスにした意味? 「……いいや」 わからなかった。考えればいくつかそれらしい答えは思いついたかもしれないが、考えたくなかった。 どんな気持ちで、どんな考えで、聖夜は死ぬかもしれない日を選んだのか。 「クリスマス・イヴは三太と一緒に過ごすからだよ」 感情の薄かった声色が一気に喜色を帯びる。俺は突然の言葉に面を食らってしまって応えられなかったが、その言葉は俺にとってこれ以上無い言葉だった。 「その日は朝からずっとずっと一緒にいるの。日付が変わるまで、ずっとずっと。 ……一緒にいてくれるよね?」 声が上擦っている。顔が見えないのがもどかしかった。触れられないのが辛かった。 ドキドキして呼吸が止まりそうになる。幸せを感じる。確かな気持ちを感じる。それだけだったらどんなに良かっただろう。 「当たり前だろ?」 俺は答えるまでも無いと言わんばかりの勢いで答えた。 ……だけど、本当はこう答えるまえに色々と確認したかった。 手術前に俺と会っていいのか? 前日はゆっくり休むべきなんじゃないのか? でも、こんなことは聖夜の方が、俺よりもずっと考えていることだと思う。手術を受けるのは聖夜なんだ。 俺の好きな聖夜。いつも俺を見据えて話す強い心を持った女の子。その聖夜が考えて、悩んで、答えを出した。 だから、俺は何も気にする必要はないんだ。 「うん。その日までは、三太に会うのを我慢して、安静にしておこうと思うの。体調を整えておくの。いいかな?」 「ああ」 「しばらく会えないからって、泣いちゃダメだよ」 それは無茶な相談だった。もうすでに涙腺は刺激されっぱなしで、いつ泣き出してもおかしくなかった。 「……おまえこそ」 毅然として答えたつもりだったが、声が震えていた。 「……うん」 俺は堪えきれずに涙を流していた。だけど、きっとそれは聖夜も同じ。しばらくの沈黙がそれを示していた。 聖夜はきっと、今声を出せない状態にある。俺も、きっとまともに喋れない。 どうしてなんだろう。 なんで俺たちは涙を流さなければいけないんだ。 クリスマス・イヴに逢う約束をする。それはとても嬉しいことで、幸せなことで……。心が躍って、胸が弾んで、眠れないほど興奮して。待ち遠しくて、早くその日が来ないかと待ちわびて。 ……そんな当たり前の感情が許されない。 例えば……そう、この状況を創り出した、運命を司る神がいるとしたらボコボコにしてやる。俺たちが流した涙の倍以上の涙を流させてやる。 でも、きっとそんなものは存在しない。この憤りを、俺はどこにぶつけたらいいんだろう。 「じゃあ朝8時にいつもの場所で!」 どれくらい言葉のない時間が流れたかはわからない。聖夜はどうしようもない涙にキリをつけ、思いきり元気な声で言った。 「ああ」 だから俺も思いきり元気に答えてやる。カラ元気以外の何ものでもなかったけれど、カラ元気も元気のうち。 「楽しみだよね!」 聖夜はこの声を、不安や悲しみを抑え込んで絞り出している。 「これうえなく楽しみだ!」 だから俺も元気いっぱいに答えてやる。 「それじゃあ……ね」 「クリスマス・イヴにな!」 別れの言葉を言いあい、電話が切れる。通話終了の機械音が聞こえると、思わず「もしもし」と声に出してしまった。 もう聖夜の声は聞こえない。それだけで気が狂いそうになった。抜けられない闇の中に放り込まれた気がした。 点いていた灯りが妙に眩しくて電気を消した。目に映っていた物が黒一色に変わると、清々しい気分になった。だけど目が慣れてきてしまうと、うっすらと物が見えてしまう。だから俺はかたく目を閉じた。 闇の世界。何も無い世界。そんな世界にいけば思考を止められると思ったが甘かった。 ふと死後の世界を思い浮かべてしまう。 天国、地獄。そんなイメージでなく、ただ何も無い世界。聖夜はそこに行ってしまうかも知れない。 ガタガタと震えた。それほど寒くも無かったはずなのに、全身に寒気を覚えて毛布にくるまった。 聖夜……聖夜……聖夜……。 闇の中で聖夜の名を繰り返す。しかし、返事はない。そこには闇しか無く、返事など返ってこない。 好きで好きでしょうがない。ずっとずっとそばにいたい。 『いなくなっちゃうかもしれないんだよ?』 あの時聞いた聖夜の言葉。嗚咽混じりに絞りだしていた言葉。 どうして聖夜があんなことを言ったのかがやっとわかった気がする。 俺は正直言って、今のこの状況が苦しくないとは言えない。苦しくて苦しくてしょうがない。胸が張り裂けそうで、頭がおかしくなりそうで、心が壊れてしまそうだ。 好きな相手に、こんな思いをさせたくなかった。 好きになる。好きになってもらう。それが、この苦しみに繋がる。 好きになった相手を苦しめる。これほど辛く苦しい思いをさせる。 『好きになってもらう資格なんて無い』 聖夜がそう思ってしまうのは無理もないかもしれない。俺だって、俺がもし、聖夜の立場だったら、きっとそう思う。 ……だけど。俺はあの時言った言葉を後悔していない。 俺は聖夜が好きだ。聖夜を好きになって良かった。俺は後悔しない。 絶対。絶対に。 だけど……。いや、だから……。 溢れてくる涙を抑えることなんてできない。 「う、ううぅっ……」 嗚咽が漏れる。漏らさなければ胸が苦しかった。 頭が痺れていたのかもしれない。声を漏らしてしまえば心配する存在がいることすら忘れていたんだから。 コンコンコン。 「三太?」 控えめなノックと声。 声。人間の声。 今まで闇の中にいて、自分一人だけしかいないと思いこんでいた。だけど、この家にはもう一人住んでいる。 ……母親だ。 その声で現実に引き戻されるとともに、焦りと羞恥心が溢れてくる。しかし同時に安心感を覚えた。 「……っ……」 布団に顔を押しつけて必死で声を出さないように努める。だけどそれでは母親の心配をぬぐうことはできない。返事をしなければいけない。だけどそれは叶わなかった。 「どうしたの? 三太?」 鍵のついていない自室のドアが呆気なく開かれる。光が差し込むと、俺はその光に焼かれてしまうような錯覚を受けた。 「三太? 寝てるの?」 「………………」 気づかれてはダメだ。母親に心配をかけてはいけない。母親は大変で……だから俺は……。 「……泣いてるの?」 顔から火が出るほどの恥ずかしさを覚える。19歳の男が泣いている。理屈抜きに恥ずかしい。格好悪い。だけど、強がりも言えなかった。 母親が近づいてくる。 「三太」 横になっている俺のベッドに座り、俺の背中にそっと手を置いた。 「……愛してるわよ、三太」 突然だった。 言葉の意味するところはわからなかったが、包み込まれるような感覚を覚えた。母親のあたたかみを感じた。 「そばにいてほしくないってわかってる。だけど、こんな時くらい何かしてやりたいのが親ってもんよ。今まで、苦労ばっかりさせてたしね」 次に母親が口にするのは謝罪の言葉。 俺の心理状態はおかしくなっていた。聖夜のこと。そして母親の謝罪。 そんなことはないと声を張り上げて言いたかった。しかし、今はそれさえできない。ただ母親の添えた手のぬくもりを受け止めることしかできない。 「何があったか知らない。聞かない。 だけど、言わせて。あんたはいい子に育った。最高の息子だと思ってる」 どちらかというと、母親はこんなことを口にすることはない。いつも冗談ばかり言って、明るい雰囲気を作ってくれるそんな母親だった。 「だからあんたが泣くときは、きっと泣いてもいいときなのよ」 泣いてもいいとき? 「泣いちゃえ、三太」 その言葉に何かが壊れた。 母親。 父親がいなくなったあの日から、母親は守るべき存在だと思っていた。そして、守り続けていると思いこんでいた。 だけど、母親は母親だったんだ。 「うっ……、ううっ……」 19歳、でかい図体の男が母親の前で泣く。 格好悪い。情けないのは承知だった。 だけど俺は泣いた。 俺は弱い。 「よしよし」 子供をあやすような声を出す母親。 俺一人ではとても抱えきれない。いや、今の俺ではとても抱えきれない。 だけど、俺は聖夜を好きだ。だからあいつのそばにいたい。 母親は、俺を生んでくれた、育ててくれた、そして支えてくれている。 そんな存在。 ……素直に力をもらおう。抱えきれない感情を受け止められるように。 もし俺が子供をもって、その子供が今の自分のような状態であるなら、きっと俺は、母親がしてくれているようなことをすると思う。もし、子供が甘えてこないなら、とても辛い。そして息子も辛いままだ。 だから。 「うっうぅっ……」 涙を流す自分。格好悪くて恥ずかしいこの行為を俺は受け止める。母親の優しさに包まれている自分は弱いけれど、この涙を流しきったとき、俺はきっと……。 その日、俺は泣き疲れて寝てしまうという赤ん坊のようなことをしてしまった。 ……次の日、母親はその時のことに一言も触れなかった。泣きはらした目を見ても、笑わなかった。ただいつものように「おはよう」と声をかけてくれた。 思い返すだけで顔から火が出る気がする。 でも、強くなれた気がした。俺は弱いままなのかもしれないけど、そう思えた。 一人じゃないんだ。 恋愛は俺と聖夜の二人でするもの。だけど、二人であって二人じゃない。きっと、聖夜にも親がいて、友達がいる。 そのことに気がつかせてくれた。絶対的な安心感をもって気がつかせてくれた。 そのことで少し心の余裕を持つことができた俺は、友人に協力を求めることができた。俺には本気で心配してくれる友人、力を貸してくれると言ってくれた、かけがえのない友人がいる。俺の絵空事のような考えを具現化するために協力してくれると言ってくれている。 母親、イサム、智美。この三人がオレを支えてくれる。それだけで強くなれた気がした。 不安に押し潰されそうになる自分にカツを入れる。俺にできること、俺がやるべきこと、俺のやりたいこと。 聖夜のために。自分のために。クリスマス・イヴは最高の日に。 朝8時前という時間だが、クリスマスソングがしっかりと聞こえてくる。朝食を求める社会人用に開かれている、駅構内のパン屋が流しているのだ。 駅構内を忙しく行き交うスーツ姿の大人たちの表情は、いつもより軟らかいように感じた。 12月24日。クリスマス・イヴ。 風は冷たいが、雲一つ無い。きっと日中は冬とは思えないほど暖かいだろう。しかしまだ昇りきっていない太陽は、身震いするような冷たい風を許している。駅の出入り口から吹く風は、容赦なく俺に吹きつけた。 寒い。冬なんだから当たり前だ。俺は身体を無意味に動かして暖をとった。 10分前。そろそろだ……。 ポン。 叩かれる肩。声を聞かなくとも、顔を見なくとも、肩から伝わる何かで確信できた。 「オス」 振り向くと少し照れたように、手を控えめに挙げる。 「オス」 俺も何だか照れくさくて、同じような対応をした。 「久しぶりだね。三太」 大嫌いだった名前が心地よく聞こえる。この女の子に会わなかったら、きっと一生こんな風に思えなかった。 「そうだな。聖夜」 雪野聖夜。表情、声、仕草。その一つ一つが愛しく思える。やっぱり好きなんだなと思う。 「どうしたんだよぅ、ジッと見て」 顔を少し赤らめて言う聖夜。 「なぁにぃ? 見とれてたの?」 恥ずかしがりながらも、俺をからかうような口調。そんな行動さえも、どうしようも愛しく思える。 「ああ。見とれてた」 「な……」 俺が素直に答えてやると、耳まで真っ赤になる聖夜。こういう聖夜の反応は初めて見るような気がする。可愛いその反応に、思わず抱きしめたいという衝動にかられるが、人通りも多いし我慢だ。 「じゃあ行こうぜ。少し歩こう」 駅から出れば余計寒いかもしれないが、少し火照ってしまった身体に、外の風は丁度いいだろう。 「うん」 笑顔で頷き、手を絡めてくる聖夜。指の一本一本が絡まりあうと、その指全部から愛情が注ぎ込まれるような気がする。さらに暖まった心に、俺の顔は自然と柔らかい笑顔を浮かべた。 「信じられないよ」 聖夜は俺の方を見ず、煌びやかに飾られた街並みを見ながら呟くように言った。俺たちはどこに行くでもなく、にぎやかな方へと歩いる。 「何が?」 「今日はクリスマス・イヴなんだよね」 「そうだな」 そうなんだよな。今日はクリスマス・イヴだ。 「そして隣りにいるのは三太」 ビシリと指を指されて、不覚にも身体がびくりと反応した。 「信じられないよ」 絡めていた手を離し、今度は俺の腕にしがみつくように寄り添ってきた。 手を繋ぐ時よりもよりも距離が近くなり、感じる聖夜の温もりの面積がグッと広がる。そして柔らかさが俺の心臓を強く動かした。 「夢じゃないよね?」 少し不安そうな眼差し。俺も同じように思う。夢みたいだ。 「夢じゃない」 だけど違う。 俺は今、大好きだと思える女の子と一緒にいる。 その女の子は俺のことが大好きだと思ってくれている。本当に信じられない。信じられないくらい幸せだ。 誕生日はいつも陰鬱な気分だった。嫌で嫌で仕方がなかったはずだった。そんな日に、こんなにも楽しい時間が訪れるなんて。 「今日一日、思いっきり楽しもうな」 「うん!」 聖夜のその満面の微笑みに、今日が最高の一日になることを約束してもらった気がした。 「だから俺はこう思うんだよな〜」 「あー、なんとなくわかるわかる。私もさ、そういう時ってあるもん」 何気ない会話。 お互いが耳を傾け、一生懸命に相手の言葉を拾っている。 言葉の一つ一つが貴重な宝石のようで、聞き逃すのが惜しい。 「なんてあったら面白いよなー」 「アハハハッ、そんなのあるわけないじゃーん」 くだらない冗談。 くだらないと思えるその一つ一つでさえ、大切なものに感じた。俺の言葉で聖夜が笑顔になる。 聖夜の言葉で俺が笑う。それだけで嬉しくてしょうがない。 ただ歩いている二人。ボーリングやゲームセンターに行く選択肢もあったが、今日はその手のものは控えたかった。 ゲームなんかをすると、どうしても意識がそっちに行ってしまう。それがひどくもったいないように感じた。 聖夜は両方とも好きだったが、今日はやろうと言ってこない。聖夜も俺と同じような考えなのか、それとも俺が言い出さないからなのかはわからなかったが、なんとなく前者のような気がする。そうであって欲しいという俺の気持ちもあるんだろうけど。 「ねーねー、三太。そろそろお腹空かない?」 そんな言葉によって自分の空腹感に気がつく。時計を見ると、午後一時になっていた。時間が経つのがものすごく早い。 「そうだな。昼ご飯にするか。 どこか希望はあるか?」 「あるあるー! 着いてきてっ!」 聖夜はなんだかものすごくはしゃいで、グイグイと手を引っ張った。そんなに行きたい店があるのか? だが、そんな聖夜に少し不安を感じてしまう。 実は夕飯は店を予約してあって、そこはそれなりに高いのだ。昼に超高級ランチとか誘われたら、途中でATMコーナーに行かなければならなくなってしまう。 しかし、聖夜の希望の店は、俺が心配するような店じゃなかった。 ……というか、もの凄く安い店だ。 「……ファーストフード?」 「うん」 そういえば、聖夜はしょっぱいモノが好きだった。ファーストフードが好きなのだろうか。それにしたって、ここの他にも色々あるだろう。 ここは俺たちが出会ったときに食べに行った店なんだから違う場所にすればいいのに。 ……だからか? 「今度は私がおごる番だよっ、これで貸し借りゼロ♪」 なんだかとっても聖夜らしいと思った。 二人とも同じバーガーセットを頼み、向かいあって座る。なんだか妙に感慨深く感じた。 最初に二人でここに来たときは、こんな形でまた一緒にこの店に来るなんて想像もつかなかった。 「理想の恋愛」 「え?」 「覚えてる? 理想の恋愛の話」 忘れられる訳がない。 電話口で俺が口走ったことの意味するところを聞き出したいがために、聖夜は俺をここに引きずりこんだんだ。 「どうかな?」 「え?」 「理想の恋愛と比べて」 ポテトを囓りながら言う。 その時、聖夜は俺に目を向けていなかった。 聖夜はほとんど目を見て質問をする。こういう風に質問するときは恐れている時だ。 「違うな」 明らかに見て取れるほどの動揺を浮かべる聖夜。だけど俺は嘘はつけない。 「現実の恋愛と比べたら違う。思い描いていた通りじゃない。でも、思い描いていたよりも断然いい。比べものになんねぇよ」 そうなんだ。あれこれと一人で考えている恋愛、それが理想の恋愛。それは自分にとって心地よいものしかあり得ないが、自分が考え得る心地よさ以上のものは得られない。 今こうして二人でいる、二人でしている恋愛の心地よさとは比べものにならない。 「そっか」 こわばっていた顔がほぐれ、安堵に包まれる聖夜。少し潤んでいる目に、最初に『違うな』なんて言わないほうが良かったかもしれないと思った。 「ねぇ、訊いてもいい?」 「ん?」 「何で理想の恋愛から遠ざかろうとしてたの?」 理想の恋愛から遠ざかろうとしてた……。 女の子がある一線を越えたところまで近づいて来たことを感じると、俺は例外なく拒絶反応を起こしていた。 あの時も、目に見えてわかるような変化をもって聖夜を引き離そうとした。聖夜はあの時に何か感じ取っていたんだろう。 あの時聖夜は、『恋愛が嫌い?』と訊いてきた。その質問には違うと答えることができたが、今回は否定できない。 理想の恋愛から遠ざかろうとしていた……か。なるほど、そうかもしれないな。 「怖かったんだと思う」 自分でもはっきりしない気持ちだったけれど、今ならわかる。今なら言葉にすることができる。 「怖かった?」 「俺の理想の恋愛は、両親の恋愛だったから」 言葉にすれば、向き合える。聖夜と恋愛をしている今の俺ならそれができる。 「すっげー仲が良くてさ。馴れ初めもそのままドラマにでもできるような運命的な出会いで。俺が生まれてからもずっとずっと仲が良くて……」 子供から見れば、疎ましくも思えた仲睦まじい夫婦。 そう、両親は俺の理想の恋愛像。 「これからもずっとそうなんだろうって思ってたけど、そうじゃなかった」 俺は内心驚いている。今まで釈然としていなかった自分の心の部分を言葉にできているんだから。 「終わる時はあっという間。俺が絶対だと信じていたものは、脆いものなんだってことが思い知らされた」 「………………」 聖夜は黙って俺の言葉に耳を傾けている。 「理想の恋愛は壊れるものじゃ嫌だった。幼稚な考えかもしれないけどそう思ってた。だから、わざと否定して遠ざけようとしてみたりたりして……。 なんていうか……そうだ、アレだ。石橋を叩いて渡る? ……違うか。とにかく、否定してもしきれないもの。壊そうとしても壊れないもの。そんなものを恋愛に求めていたんだと思う」 少し気分が高揚していた。今まで見つめることのできなかった自分の弱さ。それを口にすることで、自分がそれに対して立ち向かっているかのような錯覚を覚えた。 ……錯覚じゃなく、そのつもりで口にしているんだろう。 「壊れるくらいなら最初から無い方がいい?」 「ああ、そう思ってたんだよ。きっと」 聖夜の言葉は的確に俺の気持ちを捉えていた。それがなんだかむずがゆく、気恥ずかしく、そして嬉しかった。 「私とつき合ったのは、否定しきれなくて……壊れない恋愛になると思ったから?」 今度は俺が聖夜の気持ちを捉えなければいけなかった……。いや、その表情が訴えている。 『本当に私で良かったの?』 死ぬかもしれない自分。壊れない恋愛を望む俺にとっては、相応しくないとでも思ったのだろう。 「最初はそうだったかもしれない。でも今は違う」 でも、違うんだ。 「否定しきれないものや、壊れないものなんて、ないと思うんだ。否定したくない、壊したくないものが恋愛なんじゃないかなって、そう思う」 聖夜との再会を果たす努力をしようと決めたときから、恋愛観が少しずつ変わってきたんだろう。 「……そっか」 少ししんみりして相づちを打ったかと思えば、「なぁんだか、湿っぽくなっちまいましたやねー!」と、何だ妙な言葉遣いでお茶らけてから、フライドポテトを貪るように食べ始めた。 「あはは、しょっぱくておいしー」 しょっぱいものか。聖夜は病気だったから、病院食に慣らされていたんだろう。だから塩分の多いものに、憧れのようなものを抱いていたのかもしれない。 「はい、アーン」 「んなっ」 俺がそんなことを考えていると、聖夜がフライドポテトを俺の口元に運んでくる。俺は突然の行為に耳まで真っ赤になった。 「ほーらっ! アーン」 「あ、あーん……」 俺が口を開くと、聖夜は喜々とした表情でフライドポテトを口に放り込んだ。 「アハハ、ラブラブカップルって感じだね」 「う、うん」 恥ずかしさのあまり、味なんてわからなかった。 「ラブラブカップルというより、バカップルかな」 「……そうかもな」 バカップルか。馬鹿と呼ばれようがこういう時間が愛おしく思える。嫌悪感を感じていた、バカップルと言われる恋人たちの気持ちが理解できた気がした。 どうしてだろう。時間が異常に早く過ぎていく。一分が一秒のように感じる。聖夜といる時間は本当に幸せで、少しでも長く一緒にいたいのに、一緒の時間を感じていたいのに。 「すっかり、真っ暗になっちゃったねー」 「そうだな」 あれからも俺たちは、ぐるぐると回るように街を歩いていた。クリスマスの街並み、店内の装飾を楽しみながら言葉を重ねていく。 そして少し高級なレストランで夕食をとった。 「夕飯、美味しかったね」 「少し奮発した甲斐があったな」 「でも奢って貰っちゃって悪いなぁ」 「お昼を奢って貰ったからな」 「それは、借りを返しただけで……」 「じゃあ今度、高級な夕飯奢ってくれよ……あ」 言ってハッとする。 今度という言葉を自然に使ってしまっていた。あまりにも楽しい時間に忘れてしまっていた。 『今度』は……。 「そうだね」 しかし、そう考えること自体が間違っていた。聖夜は笑顔を浮かべているが、目の奥にはうっすらと悲しみの色が見える。 『今度』はないかもしれない。 そう思ってしまった。 でも、聖夜が目の奥に悲しみの色を浮かべたのは、俺と同じ事を思ったからではないと思う。 『今度』がないかもしれないと思った俺が、表情を暗くしたからだ。 「……少し歩こう」 言い繕うことはできない。本当に、『今度』は無いかもしれないんだから。 でも、今日この時ぐらいは、楽しいことだけ考えていたい。幸せだけを噛みしめたい。だから俺は、忘れてしまうことはできないとしても、表に出すことはしちゃいけないはずだったんだ。 ゆっくりと歩く俺たち。さすがに12月末だけあって、夜は寒かった。 少し震えている聖夜。……もしかすると、寒いだけじゃないのかもしれない。 「三太」 「うん?」 「肩……抱いて」 甘えるような、怖がっているような、そんな仕草で身を寄せてくる。俺はぎこちない手つきで肩を抱いた。 「……ねぇ、これからどうしよっか」 その肩は、小さくて、冷たくて。グッと抱き寄せたいが、そうしたら壊れてしまいそうな儚さを感じた。 だから力の加減がよくわからなくて、変な疲労感を覚える。だけど、この手だけは離す訳にはいかない。そんな気がした。 「いいところに連れてってやる」 「今から?」 夜8時。今からどこかに行くには遅いかもしれない。でも、俺にできるとっておきを用意してある場所に聖夜を連れて行きたい。 「あの……あのね。三太。 12時に……、反町先生が、車で駅に迎えに来てくれることなってるんだ」 初めてこのデートが終わる時間のことが会話にあがった。朝に言うべきだったんだろうが、言えなかったんだろう。 俺も……言えなかった。 「大丈夫、反町先生には話をつけてあるから」 今日この日。俺は最高の日にしたかった。反町先生に苦労はかけるが、これから行くところに迎えに来て貰うことになっている。 「……どこに行くの?」 少し不安げな目をする聖夜。 「いいところだよ」 俺がそっと頭を撫でると、くすぐったいように首をすくめた。 俺たちはしばらく言葉を交わず、寄り添って歩いた。まだクリスマス・イヴは終わっていないぞと言わんばかりの、一層輝く装飾や、クリスマスソングが心地よかった。 「……ちょっと遠いから、車を呼んであるんだ」 「タクシー?」 「タクシーだともしかしたら断られるかもしれないから、友達に頼んだ。 ちょっと走りにくいところに行くからさ」 プップー。 控えめなクラクション。 自然と俺たちが音の方に目を向けると、窓から顔を出している見知った顔を見つけた。 「よぉ、ご両人」 ニカッと笑うのはイサムだ。 聖夜は突然現れた俺の友人に、対応に困っているようだ。 「俺の高校の時の同級生。イサム」 「自分の彼女とのドライブよりも、親友の幸せを運ぶドライバーになることを選んだ、アホな男でございます」 「おいおい」 俺たちの妙なノリに、聖夜はさらに困っているようだった。 「別に害は与えないはずだから、乗ろう」 「う、うん」 少しだけ意外だった。最初に出会ったときのことを思えば、聖夜は人見知りなんてしないタイプだと思っていたのに。 ……いや、人見知りをしないとしても、いきなり友人が出てきたらこうなるかな。自分で車の用意と運転ができれば、イサムの手を煩わせることも無かったし、聖夜を困らせることもなかったのに。自分の力不足が恨めしい。 「じゃ、出発しようか」 俺たちが後ろの席に乗ると、車を走らせるイサム。 「あ、えーと、自己紹介まだだったよね。 私、雪野聖夜って言うの」 少し、車がスピードにのってくると、聖夜が自己紹介を始めた。今まで困惑していて、自分がイサムに名前を名乗らなかったことに気がついたらしい。 「へへーっ、すごい名前してるね。黒須といい勝負だ。サンタクロースに雪の聖夜か」 「スゲーだろ」 そういえば、始めて自分たち以外に名前のことを言われた。聖夜と会う前の俺なら、きっとヘソを曲げていただろう。 笑って話せるようになった自分に少し驚いた。 「サンタを乗せて走る、か……」 「んー?」 イサムが少し、含み笑いをしながら言った。 「なぁ、俺のフルネームを言ってみな」 「フルネーム? 里中勇だろ?」 「サトナカイサム!」 いきなり何を言い出すんだろうと思った矢先、聖夜が大きな声でイサムのフルネームを言った。 驚いているようだが……、なんでだろう? 「お、聖夜ちゃんは気がついたみたいだな」 「何がだよ?」 気がついた? 何を言ってるんだ。 「おまえが強烈過ぎるんで、高校時代は言われなかったんだけどな」 「だから、何の話だよ」 「気がつかないの?動 物がいるじゃん!」 少し興奮気味の聖夜。 動物? サトナカイサム……サトナカイサム……。 「トナカイッ!?」 「当たり! 小学校の頃はトナカイさんとかって呼ばれたこともあったんだぜ?」 バックミラーに映っていたイサムはニヤリと笑っていた。 「クリスマス・イヴに、車で連れてって欲しいところがあるって言われたときにさ。これは断るわけにゃいかねーんだろうなと思ったぜ」 なんだか、心が弾んでくる。聖夜、サンタ、トナカイ。 トナカイの引くソリとは行かないが、トナカイの運転する車にサンタが乗っている。 「サンタにトナカイ」 聖夜もこの偶然に目を輝かせている。 「ははは、こりゃもう、どうしようもなくクリスマスだ」 それからしばらく、俺たちは笑った。馬鹿げているほどの偶然。もう偶然では済ませられないような気がしてくる。 いや、偶然じゃない。何せ俺はサンタだからな。 「お、そろそろだぜ」 しばらくそんな会話をしているうちに、そろそろ目的地の着くようだ。 「なぁ、聖夜。しばらく目つむっててくれない?」 「え?」 「目を開けるまでのお楽しみにして欲しいんだ」 さっき、トイレに行ったときに確認した智美からのメールよると、準備は万端らしい。 「うーん。……わかったよ」 目を瞑る聖夜。 聖夜は喜んでくれるだろうか? ……うん……喜んでくれると思う。 「よし、着いたぜ」 目的地に着き、車を停めるイサム。俺は目を瞑っている聖夜の手を引いて車から降りた。 「それじゃ、俺はこれで……」 「悪かったなイサム」 「ありがとうね、里中君」 目を瞑ったままお礼の言葉を言う聖夜。 するとイサムはチッチッチッと舌を鳴らした。妙に気取っている感じがする。 「今日の俺はトナカイだよ。聖夜ちゃん」 「ふふ、ありがとう、トナカイさん!」 「メリークリスマース♪」 思わず吹き出す俺と聖夜。イサムはその笑い声にウィンクを一つし、車を走らせた。 ホント、ありがとうな。イサム。 「さて、行こうか」 しっかりと聖夜の手を握る。聖夜は目を瞑ったままで、足下がおぼつかないため、俺は聖夜が転ばないようにと気を配りながら歩いた。 少し歩くと、予想以上の景色が広がっていて、俺の胸は感謝の気持ちではちきれそうになる。 ……智美。サンキュな。 「目、開けていいぞ」 俺に言われてゆっくりと目を開く聖夜。 「わぁ……」 聖夜は感嘆の声をあげた。 「どうして……なんで? 車に乗ってる時間、そんなに長くなかったのに」 車に乗っていたのは30分程度。星空が見える雲一つない今日この日に、この場所では見ることはできないだろう景色。 聖夜がその景色の中に足を踏み入れると、サクリと言う小気味よい音がした。 「雪……」 その景色には雪があった。 俺もここまでたくさんの雪があるとは思ってなかったので、正直驚いている。 雪は智美に頼み込んで運んで貰った。智美はトラックの運転手で、北の方によく行くと言う。無理を承知で頼み込んだので、量は期待していなかったのに……。 「キレイ……」 そして聖夜が目を奪われているもの。白い雪をかぶり、電飾こそないものの、月の光を浴びて煌びやかな光を放つ装飾がされている一本の木。 クリスマスツリー。 まだそれほど成長しておらず、俺たちの倍ぐらいの背丈ぐらいしかないが、まぎれもなくもみの木だ。 しばらく言葉を失い、じっとその光景に見とれている聖夜。俺の創り出した……いや、俺の親友が創り出した世界に入り込んでしまっているみたいに、ただただ見とれている。 「どうだ? 驚いたか?」 「すごいっ! すごいよっ!」 俺がポンと肩を叩くと、聖夜はやっと意識が戻ったかのように、声を目一杯張り上げて驚いてくれた。 「どうしたのっ? どうやったの? なんで! どうして!」 聖夜は興奮して、俺に問いかける。 「……このぐらいのことはできる」 俺は少し気取ってウィンクをする。 「今日はクリスマス・イヴ。俺はサンタ。今日の俺はこのぐらいのことはできちまうんだよ」 「三太っ!」 言い終わるか言い終わらないかのうちに、聖夜が飛びつくように抱きついてくる。俺は突然のことにバランスを崩し、二人はもつれるように倒れ込んでしまった。 背中に冷たくて、柔らかいような固いような感触を感じる。 「あはははっ! 三太、真っ白! お爺さんみたいだよ。 ますますサンタクロースっぽいよ。うん」 俺の上に座っていた聖夜が俺を見て笑った。俺も大声で笑った。 「ねぇねぇ、こんなに雪がたくさんあるんだからさ。雪合戦しようっ! 私やったことないの!」 「ほほう、この俺に雪合戦を挑むとは……」 ばふっ……。 また俺が言い終わらないうちから行動を起こされた。顔面に冷たい感触が広がる。 「ガァアアォォォォオオ!」 「あははははははっ! 鬼さんこちらーっ!」 友人の力で集められた雪が飛び交う。 その一カ所だけ積もっている雪。そして煌びやかな装飾がされているもみの木。創り上げられた俺たちのクリスマス・イヴの世界。 楽しくて、幸せで、夢の中にいるようだった。 「ふはぁ〜。あったまるねぇ〜」 もみの木を背もたれにして座り込み、あたたかいお茶を飲んでいる俺たち。 用意されていたビニールシートと大きめの毛布。そして水筒のお茶。智美はもみの木のところに、大きめのバッグを一つ置いておいてくれた。この雪一面の世界で凍えないようにと、用意してくれていたんだ。タオルなんかもあって、本当に気が利いている。 「こんな場所があるなんて」 俺の住んでいる町から一番近い場所でもみの木があるのはここぐらいだ。 たくさんの木がある場所。ここは街から少し離れた山の中。そこで、根を張っているもみの木。 「俺も、まさか残っているなんて思わなかったよ」 「え?」 「この木はもともと俺の家にあったものなんだ」 立派に育ったもみの木を見ると、あの頃のこと、そしてあの時のことが思い出される。 「両親が別居を始める前の年に父さんが買ってきたんだ。昔は一軒家で、小さな庭もあったから……」 買ってきた時は俺の腕の太さも無かったのにな。 「鉢植えで買ってきて、家の庭で育ててた。それを母さんが大事に大事に育ててさ。そろそろ鉢植えじゃなく、庭に植えようとしてた頃だったよ。 ……両親が別居するってことになったのは」 聖夜は無言を俺の話を聞いている。いつも目を合わせて話をしていて、それが二人を繋いでいたような気がしたが、今は寄り添う温かさがその役目を果たしている。 「別居が決まったら家は売ることになって、お互い集合住宅になるからこいつを置く場所がなくてさ。貰い手もなくて、でも捨てるのはかわいそうだからって、この場所に……。 不法投棄ってやつなんだけどな。ハハハ……」 なんだか声が震えてきたから慌てて笑った。 「家族へのクリスマスプレゼントのつもりで買ってきたみたいなんだよな」 ポンと木の幹を叩くと、手からぬくもりのようなものが伝わった。 「オレさ、自分の名前が嫌いだった。黒須三太なんて……、馬鹿みたいだと思った。しかもクリスマス・イヴが誕生日で……。だから、からかわれて、馬鹿にされて……。 嫌いだったんだ。 クリスマスが嫌いだった。 ……だからこんなプレゼント、嬉しくもなんともなかった」 家族で楽しいクリスマスを過ごそうと買ってきたもみの木。それが今、俺と聖夜に幸せを与えてくれている。なんだか、不思議な気分だった。 仲違いした原因はわからないけど、父さんの方に原因があると思っていた。……そんなふうに考える方が楽だったからだろう。これから一緒に暮らそうと決めた母親よりも、もう会えない父親を憎む方がずっと楽だ。 「素敵なプレゼントだね」 「そうだな」 ありがとう父さん。 記憶から消し去ろうとさえしていた父親に感謝の言葉。 「俺、聖夜に会えて幸せだ」 「うん」 色んなことがわかった。色んなことを受け止められた。 「私も三太に会えて幸せだよ」 そして今、こんなにも幸せだ。 月がキレイだった。星は都会の汚れのせいで輝きを抑えられていたが、それでも一生懸命に輝いている。 時間が止まればいいと本気で願った。この瞬間のまま時が止まって、それ以降の時間が無くなってしまってもいいとさえ思った。 寄り添い合う俺たち。どちらも口を開かない。動かない。 口を開いてしまえば、話をしてしまえば、時間が動いていることを思い知らされる。時間が止まっているのだという錯覚に捕らわれていたかった。それが錯覚に過ぎないことだと知っていても。そしてその行動は、残り少ない時間を、何もせずに無為に費やしていることだとわかっていても。 「……三太」 どのくらい時間が経ったのかわからない。時計を見るのも怖くて見ていない。でも、なんとなくわかった。 聖夜が口を開いた。 これは、今日の終わりがそれほど遠くないと言うことだ。 「私ね、今でも信じてるの。 信じない人の前には現れてくれないって言われたから。 初めてその存在を知ったときから今までずっと」 「……サンタクロース?」 聖夜は頷く変わりに、笑顔を浮かべる。 「サンタクロースはいないんだって言われても。……そんな夢のような話は存在はいないってことを思い知らされても、それでも信じ続けようと思ったんだ」 その笑顔はどうしようもなく寂しげで、正視してしまうと心が痛むけど、目をそらすことができない。 「クリスマス・イヴに生まれて、雪野聖夜って名前をつけられた。 だから、クリスマスは私にとって特別な日。 私の……特別だから……。 だから、サンタクロースは本当にいて、夢のような話は存在して欲しい」 その瞳には強い想いが宿っている。その強い想いはまるで炎のようだった。 「……私の……生きる希望だから」 自分の存在を、自分の命を、必死で燃やしている。聖夜の強さは生きようとする強さなんだと思い知った。 必死で生きようとしている、生きていたいと願う想いの強さなんだと思い知った。 「……待たせたな」 何となくそう口走る。 「ホント……遅いよ」 聖夜の言葉を聞いてから初めて気づく、その言葉の意味。それは不思議な感覚で、同時にごく自然なことのようにも感じた。 「日本のサンタは……、ひねくれいて、弱くて、勇気が無いどうしようもないヤツでな」 俺はゆっくりと立ち上がり、聖夜に背を向けるように歩き出した。なんだか恥ずかしくて、申し訳なくて、会わす顔がなくなったような気がして。 それ以上に……。 「だから……19歳まで信じ続けてくれた女の子の前にしか現れないんだ」 言い終わると同時に再び温もりを感じる。 離れてもすぐそばに来てくれることを確かめたかった。聖夜の好意を感じたかった。 こんな時にまでこんなことをする。 本当にひねくれていて、弱くて、勇気が無くて、どうしようもない。 「……特別に許してあげるよ。だって……」 触れあおうとする身体に力がこもる。 「そのおかげで、私が独り占めできるんだもん」 聖夜と向き合い、強く抱きしめた。 触れあう身体、触れあう心。あたたかくて、心地よくて……。 「……もうすぐ、クリスマス・イヴも終わりだね」 だから、その言葉を聞いたときは頭が真っ白になった。 「今、三太の腕時計が見えたの。もう11時過ぎ」 あと、……1時間もない? 「今日はとっても楽しかった。幸せだった」 今日が終わって、明日になったら……。 「三太、……ちょっと、痛いよ」 ハッとして腕を離す。 強く抱きしめすぎれば相手に痛みを与えてしまう。当たり前のことだけど、わかってなかった。 だって、会う前にあれだけ決めていたと思った覚悟が、こんなにもぐらついてしまったんだから。 今日一日ずっと一緒にいる。そして……今日が終わったら、聖夜は手術を受ける。 「悪い……」 聖夜は笑顔だった。 ……俺も笑顔を浮かべよう。だって俺も今日は楽しくて、幸せだったから。 それを伝えたい。笑顔を浮かべるのは難しくない。今日一日を思い返せば造作も無い。 「ねぇ三太、プレゼントが欲しいな。 いや、プレゼントっていうか……お願い……かな……」 聖夜の申し出は嬉しかった。俺にしてあげられることが一つでも多く欲しかったから。 「俺にできることだったら、何でも」 「……あの……ね」 聖夜が大きく息を吸い込む、言うのを躊躇っている感じがした。まるでその願いを口にすることが、罪なことかのような辛い表情。心を落ち着かせるために深呼吸をしている。 「……一年間、私のことを好きでいてください」 「え?」 言っている意味がわからなかった。だって俺はこれからずっと聖夜のことを好きでいるつもりなんだから。 「明日から一年間、私と会わないで。私のことを調べないで……」 「……い、意味がわかんねーよ……」 意味がわからない。好きでいて欲しいと願い、一年間会わないでくれと……それに、調べないでって……。 「私が死んだかどうか、来年のクリスマス・イヴの日まで知らないで欲しい。生きていると思って、ずっと、ずっと想い続けて欲しい……」 その言葉で、聖夜の言わんとしていることがなんとなくわかった。 「こんなの、ひどいわがままで、三太を苦しめるだけで、もうどうしようもないお願いだってことはわかってるの。 でも、でもね……」 何も言えなかった。今にも泣き出しそうな聖夜。その気持ちを口にすることを苦痛としているような面持ちで、自分の願いを俺に伝える。 「……私たち、会ってから一ヶ月も経ってない。恋人同士になってからはもっと短い。 私、もっともっと三太の恋人でいる時間が欲しいの……。例え死んでも……、三太が生きている私を恋人だと想って欲しい……」 聖夜はきっと、この願いを口にするかどうか悩んだだろう。悩んで苦しんで、それでも、消すことができなかった願いなんだろう。 「一年間……一年間でいい。 そして……一年後、私が死んでいるのを知ったら、私のことは忘れてください。 そのとき、私はもう充分幸せだから、私にとらわれることなく、新しい幸せを見つけてください」 「……生きていても、会いにきてはくれないのか?」 死ぬとは限らないと言いたかった。 色々言いたいことはあったけど、これを聞くのが精一杯だった。聖夜はそんなことはわかっているんだ。それでも、30パーセントという成功率は、今までサンタクロースを信じ続けてきた強い心にさえ、こんな言葉を言わせる。 いっそ、『おまえは絶対に死なない』と言ってやりたかった。だけど、そんな言葉では聖夜を救うことなんてできない。 「うん。自分勝手も甚だしいとは思うけど……、こんなことを思った……願ってしまった私への戒め。 生きていた時、三太に会いにいくことができないぐらいの辛さがないと……、こんな勝手なお願いできないから」 なんとなくわかっていた返答。その言葉、その考えに、どこまでも聖夜を感じた。 だけど……いや。 「次のデートは、来年の12月24日。時間は正午。待ち合わせはこの場所で……」 だから……叶えないわけにはいかないんだ。 俺はサンタ。愛する人の願いを叶える聖夜のサンタ。 「ありがとう」 聖夜は笑った。これで……いいんだよな。 「しばらく会えないからって、泣いちゃダメだよ」 いつしか電話口で言った言葉を聖夜が言う。 その目は潤んでいて、その声は震えていて。 「おまえこそ……」 泣きたくない。笑顔でいたい。 「うん」 泣くわけにはいかないと思った。だって、泣いてしまったら認めてしまうことになる。 もうこれで、聖夜に会えなくなるかもしれないことを。 聖夜に再び会えることを俺は強く信じていなければいけない。 だから……だから……。 「三太……目に涙がいっぱいたまってるよ」 必死で絞り出したような声で、俺をからかうような事を言う聖夜。 お互いに目は笑っていない。もし少しでも目を細めたら、涙がこぼれてしまうから。 「聖夜……こそ……」 笑顔で……笑顔を……。 その意識が俺の目を細めさせたのだろうか、頬を伝う冷たい感触を感じた。 「あーあ……言ったそばから泣いちゃって……」 「そういう……おまえだって……」 俺とほぼ同時だろうか、聖夜の目からも涙がこぼれた。 「三太が……涙なんて流すから……私……も……」 これ以上は言葉にならない。どちらが先に涙をこぼしたかなんてわからない。だけど、一度こぼれた涙はとどまることを知らない。 俺は聖夜を抱きしめた。聖夜は声をあげて泣き出した。俺も泣いた。 どうしてだろう。 なんでだろう。 俺たちは、何でこんなに涙を流さないといけないんだろう。 クリスマス・イヴ。愛する人と二人。 こんなにも幸せな時間を過ごしているのに、何で涙を流さないといけないんだろう。 俺たちはしばらく泣き続けた。 楽しさで覆い隠そうとした不安。幸せで塗りつぶそうとした不幸。それが一気にあふれ出したような気がして、俺たちはただただ泣き続けた。 泣いちゃえ。 母親の言葉の言葉を思い出す。 そうだよ。俺たちが泣いているときは、きっと泣いてもいいときだから。 泣いて、泣き続けて……。きっと二人なら泣きやむことができるから。二人でいるなら泣きやむことができるから。 「……三太」 どのくらい泣き続けていただろう。 「なんだ?」 もう涙がこぼれないのは、きっと流し尽くしたからだと思う。 「そろそろ……だよね」 時計を見ると、11時55分をさしている。クリスマス・イヴが終わる。 「ああ……あと5分」 泣いて良かったと思う。 「うん」 笑うこと、泣くこと。すべてをやりつくした。 「あっちの方に少し行ったら、反町先生の車が停まってるはずだから」 抱えている感情を出し合い、触れあった。 「うん」 抱き合った身体をそっと離すと、聖夜の目は真っ赤だった。きっと俺の目も同じ色をしているに違いないだろう。 「最高の日だった」 言葉にする。そう伝える。 「私もそう思う」 言葉が返ってくる。想いが伝わる。 「……大好きだぞ」 心からそう思う。 「私も大好きだよ」 同じ言葉が返ってくる。確かな想いを感じる。 俺がそっと頭を撫でると。 聖夜はゆっくりと目を閉じた。 ごく自然に身体が動いていた。 聖夜の顔が近づく。 愛しくてしょうがない人との距離が詰まる。 そして唇と唇が触れた。 その唇は柔らかくて、あたたかくて。 「愛してる」 初めて使うその言葉が口からこぼれていた。 「愛してる」 同じ言葉とともに、聖夜からのキス。 さっきよりも強く感じる柔らかさとあたたかさ。 そして強い想い。 やがてゆっくりと唇が離れる。 聖夜が微笑みかけると、俺も微笑んでいた。 「メリークリスマス……」 笑顔で言ったその一言。 「……メリークリスマス」 一瞬躊躇って俺も笑顔で応えた。 時間が来たんだとわかった。クリスマス・イヴが終わったんだとわかった。 時計なんて見なくてもわかる。 離れていく聖夜。見送る自分。つまりそれはそういうこと。 ずっと一緒に過ごそうと決めた時間が終わったんだ。 煌びやかに飾られたもみの木。足下にある雪。夢の世界から離れていく聖夜。 クリスマス・イヴは終わったんだ。 |
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