聖夜のサンタ
第三部 二人の気持ち
○×駅相撲取り石像前。 待ち合わせ場所として名高いそこに、俺は立っていた。 待ち合わせの場所だけあって、待ち人が来るのを伺っている人でごった返している。俺もその一人。 午前11時5分。約束の時間まで25分。……早く来すぎてしまった。 ぐ、ぐ、ぐぉおおおおおおお。 思わず叫びたくなる衝動に駆られてしまう。 黒須三太、19歳。今ではあまり聞かなくなった彼女いない歴。その数値が年齢と同じ数値だったというこの俺である。当然、デートは初めてである。 女の子と二人でどこかに出かけたとか、そういうことが無かったわけじゃないが……。 それとは全然違う。違うんだ。 息苦しいぐらいに心臓がバクバクと鳴って、この音がまわりにも聞こえているんじゃないかと錯覚してしまい、キョロキョロと周りを見てしまう。 あー……何かスゲー恥ずかしい。 黒須三太、19歳。……19歳だぞ。恋愛経験ゼロだから仕方ないかもしれないが、中学生でもこんなにドキドキしないんじゃないだろうか。 雪野聖夜は確か18歳だと言った。18歳なら、恋愛の一つや二つしてるだろう。結構可愛いんだからなおさらだ。放っておかれるわけがない。 ……当たり前だよな。 ………………。 不安と緊張に焦燥感と劣等感がプラスされた。……うまくできるだろうか。恋愛経験ゼロの俺なんかが、聖夜を楽しませることができるだろうか。 ぐっ……。 どうすればいいんだろう。どうすれば……何をすれば。 ……経験が欲しい。そうすればもう少し落ち着くことができる。まともなことができる。今日はきっとひどい緊張に手が震えてしまうだろう。頭が真っ白になってしまうだろう。 好きだと思うと言ってくれた聖夜。こんな俺を見て幻滅しないだろうか。 「スーッ……ふぅ〜」 深呼吸を一つ。だけど、やるしかない。精一杯やろう。やっと始まった恋愛。それを精一杯やって……それで……それで……。 「お待たせ」 「どわっ!」 どんどん考え事がエスカレートしていき、まわりのものが目に入らなくなって来た頃、視界一杯に女の子の顔が広がった。 しかもその顔は、好きだと思う女の子のもの。考え事の主役とも言うべき存在の雪野聖夜だった。 ……だから変な声を出してしまっても仕方がないと思いたい。 「リアクション大きいなぁ」 ニコニコと笑っている聖夜。緊張なんてしていないように見える。やっぱり慣れてるんだろうな。 「そ、そんなことはないよ」 何か言わなきゃいけないという使命感が、上擦った声で、変な口調で喋らせる。 「そんなにビックリしたのかな? ごめんごめん。だってボーッとしてたからさぁ」 落ち着け。 言いきかせるが心臓の高鳴りは止まらない。聖夜がどんなことを話しているのかさえはっきりと認識できない。 「ホラ、ボーッとしてる人がいたら、おどかしたくなるのが人情ってもんじゃない」 何か訊かれてる? え、えーと……えーと。 「う、うん。そうだな」 「やっぱりそう思う? 三太ってば性格悪いなぁ」 性格が悪い? な、何か悪いことを言ったのか。どうする? どう繕う!? 「そんなことはない」 「……三太?」 うっ、なんかまた間違ったか? 聖夜がキョトンとした顔をしてる。どうして? ちくしょう。別に変なことを言ってるつもりは無いのに。 「お、おう」 「どうしたの? 何か変だよ」 変なのかっ!? やっぱり変なのか! 気がつくと全身にうっすらと汗をかいてしまっていた。この寒空の下で、こんな風に汗をかくなんて。まさかそれが変なのか? 「俺、汗かきでさ」 「え? へ、へぇ……そうなんだぁ」 俺は何気なく言ったつもりだったが、聖夜の表情に、いっそう困惑の色が増した。 な、なんで……。 「あ、それよりも早く移動しようよ。どこに連れて行ってくれるの?」 そうだ。こんなところにずっと立っている場合じゃない。どこかに連れて行かないと。 えーと……、どこに行くつもりだったんだっけ? ……そうだ。いくつか候補があるから聖夜に意見を訊いて、それで。 「遠出する? それともここら辺で遊ぶ?」 「うーん。あんまり遠出はしたくないかなぁ」 遠出したくない。つまりここら周辺だ。ここら周辺だと、カラオケ、ボーリング、ゲーセン、ショッピングもあるなぁ。 聖夜は何がしたいんだろう。あんまり何したいって訊くもどうかと思うし、えーと……えーと。 「ねぇ、三太。とりあえず歩こう?」 俺があれこれ考えてると、聖夜がニッコリと笑ってそう言ってくる。 ………………。 ……何だか、やっぱり、聖夜はこういうのに慣れているような気がしてくる。そう思うと、なんだか自分がとっても惨めに思えてくる。 「三太?」 「え? ああ、うん。そうだな。うん」 しっかりしろ。しっかり……しっかり……。 聖夜と二人で歩く街。楽しいはずの時間。だけど何だか、どうしようもなく余裕が無くて。満足に歩けているのかさえ不安になっている。 聞こえてくるのはクリスマスソング。普段は耳についてしょうがないそれも、あまり耳に入ってこない。 視界に入るのは煌びやかな装飾。いつもは目についてしょうがないそれも、今はただの光っているものでしかない。 行き交う人々。街の雰囲気に心を躍らせたようにほころんでいる表情。その表情は、自分の滑稽な姿をバカにしているように見える。 理想の恋愛とか、偉そうなことを言って、クリスマスに浮かれる人々をバカにするようなことを言っていた自分。そんな自分はデートすら満足にできない。好きだと思う女の子を楽しませることもできない。 「……ねぇ、三太。あんまり喋らないね」 心配そうに俺の顔をのぞき込んでくる聖夜。 隣りにいる女の子。デートの相手。好きだと思う女の子。そんな女の子にこんなことを言わせている。 なんだよ。ダメダメじゃないかよ。俺。 「ゴメン。えっと……」 何か言わなきゃ。喋らなきゃ。聖夜を笑わせて、笑顔にして、楽しましせて……。 「あ、お腹空かないか? そろそろお昼ご飯だろ?」 もう12時過ぎだ。ちくしょう。30分も歩かせてた。 「あ、うん。そうだね。何食べようか? 三太の好きなものは?」 「好きなもの? え、えーと……。ブリカマの塩焼き?」 「し、渋いね……」 だーっ。俺ってヤツはぁ!何てものが好きなんだ。でも自分の好物を偽っても仕方がない。だけどもうちょっとマシなものならきっと会話が膨らんで。もっとこう……。 「和風レストランならあるかなぁ〜」 「い、いや。別に今は食べたくはないぞ」 「じゃあ何が食べたい?」 「え、えーと……」 『何が食べたい?』、これは俺の言うべきセリフじゃないのか? 聖夜の食べたいものを食べさせないと。聖夜の好きなもの……何かないか? 今までの会話の中で何か……。 「しょっぱいもの!」 そうだ。ファーストフードを食べたときにしょっぱくて美味しいと言っていた。聖夜はしょっぱいものが好きなんだ。 「しょっぱいものって、なんか漠然としてるね」 「…………」 おっしゃるとおり。 「あ、ファミリーレストラン! ここなら色々あるんじゃない」 ……なんか。 「ああ、そうだな。入ろうか」 なんか、さっきからずっと聖夜にリードされっぱなしだ。 でも、仕方がないことなんだ。最初からうまくできるはずなんて……ないけど……。でも、やっぱり自分が情けない。 向かい合うように座る二人。目の前にいるのは好きだと思う女の子。だけど、心は弾まない。 聖夜が悪いわけじゃない。 悪いのは……悪いのは……。 「二回目だね」 「え?」 スパゲティーを控えめにクルクルと巻きながらそんなことを思っていると、聖夜が声をかけてくる。二回目……。 「三太と一緒に食事するの」 「ああ、うん。そうだな」 一回目。最初に会ったとき。 その時の俺はしっかり会話ができていた。聖夜は「可笑しいし楽しいしおもしろい」なんてことを言ってくれてたし。 だけど今はどうだ? まともな会話すらできてない、こんなんじゃだめだ……、何か話さないと……何か……話さないと。 焦れば焦るほど頭の回転は鈍くなる。クソックソッ。 「……三太? 三太」 「え?」 「どうしたの? 呼んでも答えないから……」 ………………。 最低だ。 最低だよ……俺。 いくら何でもひどすぎるよな……。話しかけてくれてるのに、考え事をして答えないなんて。 「悪い。……ごめんな」 申し訳ない。どうしようもない。 こんな俺に恋愛なんてする資格があるのか? こんな……こんな……。 「ねぇ三太。どうしたの? 大丈夫」 心配されている。心配されなきゃならないようなそんな情けない男。 「……ホント。ごめん」 「………………」 気まずい空気。それを作ったのはこの俺。 しばらくは食器のぶつかる音と、他の客の会話しか耳に入って来なくなる。話しかけてきてくれていた聖夜も、今は黙ってしまっている。 ……もう、もうダメだ……。 やり場のない気持ちをどうにかするため、スパゲティを口に頬張った。もごもごと咀嚼すると、まるで味がしない。ゴムひもを口に入れているような、そんな錯覚すらする。 気まずく、会話もなく、笑顔もない。 こんなデート、最悪だ。 聖夜もきっと幻滅してる。『好きだと思う』を『好き』に変えることなんて、俺なんかにはできないんだ。 こんな俺なんかに。 「……三太。何がごめんなの?」 小さくささやくような聖夜の言葉が、沈黙をさりげなく壊した。 「何がごめんって……」 「さっきから謝ってるけど、何にもされてないよ?」 「………………」 もどかしい。もどかしくてしょうがない。何もされてない。何もできないんだから当たり前だ。何もできないことが……何もできないことが。 「言って。なんで謝るの?」 聖夜の目は明るさを失っていた。悲しみの色に彩られていた。俺のせいだ。俺のせいで。 ……もう、やめよう。 俺なんかじゃ……俺みたいなやつじゃ、聖夜を苦しめるだけだ。俺に恋愛なんて、出来るわけない。 「何にもできないから」 格好悪いところ。情けないところ。さらけだして、嫌われてしまおう。幻滅されても構わない。せめて、自分が悪いことをわかってもらおう。 このままよりはずっといい。このままじゃ、聖夜は自分が何かしたんじゃないかと思うかもしれない。それだけは絶対しちゃいけない。だから、素直に。 「何もできない?」 「……俺さ、デートなんて初めてでさ。どうしたらいいのかわかんなくて、頭回らなくてさ。 ホント、情けない話だけど」 「…………」 俺が意を決して話しはじめると、聖夜は何も言わなくなった。完全に訊く体勢入っている。 「この歳なら普通、デートなんかしたことあるよな。聖夜もそうだろ? 他のヤツが当たり前にできるようなことができないんだ」 初デートでこんな会話をするなんて、思ってもみなかった。……何してんだろ、俺。もうダメだ。きっと。こんなヤツに魅力があるわけがない。 聖夜は何も言わず、ジッと俺を見ていた。 その視線は痛かった。哀れまれているような気がする。蔑まされいるような気がする。 「……じゃあさ」 随分と長い時間、俺を見ていた聖夜が口を開く。 「できることをして」 その表情は笑顔だった。 「え?」 「三太にできることして。 普通とか、普通の人なら当たり前にできるようなこととか、そんなことしてくれなくていいから」 「俺にできること?」 「うん」 「…………」 「あのね三太。 私ね。ただデートがしたい訳じゃないんだよ。男の子とデートがしたい、当たり前な普通のデートがしたいって訳じゃないんだよ」 聖夜はしっかりと俺の目を見据えていた。心に直接話しかけられているような気がした。 「逆に訊くけど……、三太はただデートがしたかったの? 女の子とデートがしたかったの? 他の人がするような、一般的で普通な、そんなデートがしたいだけだったの? ……そうじゃなかったらダメなの? 私は三太とデートがしたい。黒須三太と。 普通のとか、そういうのにこだわってないよ。好きだと思える相手と、一緒に過ごしたい」 ……胸が痛くなった。 締め付けられるように痛くなった。 何をこだわっていたんだろう。俺は他の奴らとは違うなんてこと言ってたじゃないか。それなのに、型通りのものを望んでいた。普通の、一般的だと言われるもの。それ以外のものはダメだと決めつけていた。 そうじゃなくてもいいだろう。憧れとか、そういうのはあるかもしれない。でも、それは他のカップルの真似をすることじゃない。 同じようなことができないのは当然だ。俺は俺でしかないんだから。 「……そうだったな」 俺らしく。俺の恋愛を。……いや、俺たちの恋愛を。他と一緒じゃなくていい。他と一緒になる必要はない。そうじゃなきゃいけないわけじゃない。 「ウム。そうなのだよ三太くん」 雪野聖夜というこの女の子はすごい。 とても強い意志を持っている。しっかりとした信念を持っている。俺の迷い、弱いところ、しっかりと見据えて光を与えてくれる。 「おう」 「わかればよいのだ」 何も格好つけることはない。格好ばかり気にしていた時よりも気分がいいじゃないか。素直に話そうと決めてからの方がずっと心地いいじゃないか。 一気に肩の荷が下りたような気がした。 「それにね。私も初めてなんだよ」 「初めて?」 「デートだよ。好きな男の子とデートするの。初めてだよ」 初めて……って、じゃあなんで今まであんなに落ち着いて。 ……いや、そうだな。関係ない。もしかしたら落ち着いてなんかいなかったのかもしれない。俺と一緒だったのかもしれない。 「そっか」 「そうだよ」 ゆっくりと頭が回転し始める。気持ちが高揚してくる。 「……とりあえず。飯を食うぞ。腹ごしらえだ」 「腹ごしらえ?」 「エネルギーを蓄えないと、これから盛りだくさんの楽しいことを満喫できないぞ」 わざとらしく、ウィンクを一つ。くさい言葉かもしれない。気恥ずかしいかもしれない。でもそうなると思うんだ。そうしようと思う。だから素直に。 「うん!」 笑顔で応えてくれる聖夜。 緊張が無くなったわけじゃない、不安が無くなったわけじゃない。だけど、とても嬉しい。とても楽しい。それを感じとることができる。彼女の笑顔に気持ちが温かくなる。それだけで幸せだった。 時間の限り遊びまくった。思いつく限り遊んだ。冗談と笑いが止めどなく交わされ、豊かな表情で過ごす時間。 とても楽しかった。楽しくてしょうがなかった。ボーリング、カラオケ、ゲームセンター。二人とも下手くそだったけど、上手だから楽しいってわけじゃない。 そういえば聖夜はどれも初めてだと言ってたな。友達と遊ぶときはおしゃべりをしたり、ショッピングをするだけみたいだ。今時珍しいとは思うが、まぁそういう子もたまにはいるんだろう。 「楽しかった〜」 「ああ、楽しかったな」 二人でベンチに座り、缶ジュースを飲んでいる。ここは、智美と話した公園だ。あの時と同じように人は一人もいない。まぁ時間的に考えても、いないのが普通かもしれない。もう5時過ぎ。辺りはいい加減暗くなってきている。 聖夜は5時半で帰ると言っていた。もうそろそろそだ。楽しい時間は本当にアッという間に過ぎていく。 「本当に楽しかった。楽しかったよ三太」 満面の笑顔だった。俺はそれが心底嬉しい。素直に、飾らず二人で過ごした時間。それがこんなにも楽しい。 「おう。俺も楽しかった」 雪野聖夜。 今日一日だけでも思ってしまう。コイツが好きだと。コイツが好きなんだと。そのぐらい楽しかった。 聖夜といつまでも一緒にいたいと思った。 「ねぇ、三太」 「ん?」 「また、会ってくれる……よね?」 「もちろんだ」 「うん!」 聖夜から俺へと向けられるもの。 会話。笑顔。そして、好意。 とてつもなく幸せだ。怖いくらいに幸せだ。いきなりこんなに幸せになってしまっていいものかなんて思ってしまう。 「次、会えるのはいつ?」 「いつでもいいぞ。 暇なんだよ。冬休みだし、就職も決まってるからな。聖夜は?」 そういえばあれだけ会話をしたのに、聖夜が何をしてるのか、どこに住んでいるのか、そういうことを一切話していない。 聖夜について知ってることが全然増えてない。携帯は持っていないらしいから、携帯番号は教えてもらってない。 だったら自宅の番号を……とも思うが……。 「う、うん。私も暇だよ。とっても」 「大学生か?」 聖夜の年齢は十八だと言った。俺と同じ日が誕生日だから、ストレートなら、高校を卒業しているはずだ。 「その言い方……。大学生が暇みたいじゃない」 「違うのか?」 「ひどい偏見だよぉ」 はっきりと大学生だとは答えていないが、この答え方からして、聖夜は大学生なんだろう。 「そうか。大学に行ってる俺の友達はどうも暇そうに見えてな」 「ちゃんとやってる人はちゃんとやってるよ」 「聖夜はちゃんとやってるのか?」 「…………」 口を噤む聖夜。様子がおかしい気がする。何かあるのだろうか?触れて欲しくないことに触れてしまったような気がした。 「ちゃんと行ってなんだな?」 「もう、いいじゃない」 「そういうことにしておいてやるよ」 だから慌てて冗談にして、それについての会話をすぐ終わらせるようにする。 「……で、いつ会える?」 上目遣いですがりつくように聞いてくる聖夜。 そんな彼女にドキリとしてしまう。今までこんな態度はとってなかった。強い決意の想いを、いつも胸に秘めてるようなそんな女の子だと思っていた。 それなのに。 「いつでもいいって。何なら明日でも」 「ホント? 本当に明日でもいいの?」 こっちとしてはそれでも良かった。毎日でも会いたいと思う。そのぐらい楽しかったから。 でも、なんで? いきなり、どうしてこんな態度になるんだろう? こんな必死に……。 「ああ、いいよ」 「じゃあ、また明日だね。……必ずだよ? 三太」 「あ、ああ。必ずだ」 学校の話をしてからか? 何があるんだろう。初めてのデートでも、しっかりと大事なことを見据えて、俺を救ってくれた女の子。そんな女の子をここまで揺るがせるものがあるのか? 「……うん。待ち合わせは今日と同じ時間、同じ場所でいい?」 「ああ、うん」 「それじゃ、今日はバイバイ」 「あ、送っていくよ。家、どこだ?」 「ううん、いいよ。まだ5時半だよ? 一人で帰れるって」 まただ。 大げさにクビをふる聖夜。 ……何かある? 何か隠している? 「また明日」 逃げるように帰っていく聖夜。 ……何か、悪いことを聞いてしまったのだろうか? 呼び止めようか? 追いかけようか? ……いや、今は気にしないでおこう。何かあるなら、向こうから話してくれる時が来ると思う。 俺と聖夜はまだ始まったばかりで、俺は聖夜とこれからずっと一緒にいたいと思う。急いですべてを知る必要は無い。時間はまだたくさんある。俺たちはこれからなんだから。 今日は、今日楽しかったことを喜ぼう。そして明日会えることを幸せに思おう。 あれから俺たちは、毎日会うようになった。さすがにお金が続かなくなって、初日のような金のかかる遊びはしなかった。ファミレスで、ドリンクバーを頼み、長い時間居座ったり、天気が良くてそこまで気温の低くないときは、公園のベンチに座ったり話をしたり。 とにかく一緒にいたかった。一緒にいる時間が幸せだった。ただ一緒にいる。それだけでよかった。 ……でも、少しだけ不安になることがある。時々見せる聖夜の表情。そして喋ろうとしない自分のこと。うまくはぐらかされてる。 ……追求しようと思えばできる。でも俺はその気はなかった。一緒にいられる。明日も一緒にいられる。それがわかっているから。それで幸せだから。聖夜がそのことを話さないならそれでもいいと思ってる。話すのが辛いことだったら話さなくていいと思ってる。 ……そのはずだった。 その日。聖夜は待ち合わせの時間に来なかった。 いつもと同じ時間。5分くらい早めに聖夜は現れていた。遅刻なんてしたことはなかった。でも、そういうときもあると思った。そのうち来るさ。そう思った。 だけど、いつまでたっても聖夜は来なかった。 11時半がいつもの待ち合わせの時間。今はもう1時を回っている。俺の携帯の番号は知っているのだから、連絡をしてきてもいいもんだろう。 ……電話が出来ない状況なのだろうか。 そう思ったとき、嫌な考えが浮かんでくる。思い浮かび始めたら、もう止まらなかった。 事故に遭った。 変な奴らに絡まれている。 風邪をひいて高熱を出して寝ている。 どうしようもない不安。そしてただ待つことしかできないもどかしさ。俺は聖夜のことを知らない。家の電話番号でも知っていれば、家にいるかどうかだけは確認できる。例えば寝坊をしているのであれば、家にいることを確認できる。もしくは家族の人に家を出た時間を教えてもらえる。 でも何も知らない。 ありとあらゆる不安はすべて否定できない。 息が詰まる思いだった。でも俺には待つことしかできなくて、この場所にいることだけしかできなくて、そしてそれが最善の行動だ。これ以上どうしようもない。 腹も減らなかった。胸がいっぱいで息が詰まりそうで。 好きだと思う。 そんな気持ちに導かれて俺たちはもう一度会えた。 今はどうだろう。初めてのデートからどのくらいの時間を一緒に過ごしただろうか。 ふと時計を見てみる。日付も出ている時計は十二月十七日を示していた。 再会した日が十二日だったから……。五日間か。デートは四回。時間にしたらそこまで長くない。だけど、もう言える。言ってしまえる。 ……もしかしたら、初めての気持ちに浮ついてるだけなのかもしれない。だけど、もしそうだとしても、こう言って後悔はしない。そう思える。 俺は聖夜が好きだ。 「黒須三太君?」 「え?」 突然自分の名を呼ばれる。聖夜が来たのかと思ったが違う。明らかに男の声だ。 「黒須三太君だね?」 「はい、そうですけど……」 確かめるように俺の名を聞く男は、背が高く、整った顔立ちのスーツの男だった。歳は二十代後半ぐらいだろうか。 「初めまして僕は反町と言う者です」 「初め……まして」 丁寧な挨拶をする反町という男。誰だ? 何の用だ? 「雪野聖夜ちゃんを知っているよね?」 雪野聖夜……。 初対面の知らない男が口にしたのは、好きだと言える女の子の名前。 何だ? 何なんだよ! 突然の出来事で頭が真っ白になり始める。だけど、本当に真っ白になるのはこれからだった。 「僕は、聖夜ちゃんの主治医をやっている者なんだけど」 ……主治医? 自分から足を運ぼうとは思わない、高級感漂う喫茶店。薫り高く、値段も高いコーヒーを目の前にしている。 向かい合うように座っているのは、反町駆という男。聖夜の主治医と名乗る男。 「聖夜ちゃんを待っていたんだよね?」 声が出なかったので、首を縦にふることでそうだと伝える。 「今日は来ることができないんだ。発作が出てね。今は落ち着いてるけど、一日は安静にしないと」 発作? 安静? 何のことだよ。……なぁ、何の……。 「ここ数日。とても調子がよくてね」 「あの……どういう?」 ひどく喉が乾いていた。だから満足に声が出なかった。 少しでも落ち着こうとして、コーヒーを口にしようとカップを持つと、手が小刻みに震えていた。 主治医。発作。安静。 いくつものキーワード。 「……彼女ね。病気なんだよ」 そして決定的な言葉。 「病気……どんな……」 不安がよぎる。どこかでこういうのを見たことがある……。ドラマだったか、それとも小説だったか。 「……とても難しい病気」 難しい……。 「基本的に普通に生活はできるんだ。だけど時々発作がある。 発作の度に体に負担がかかって……、このままだとね。助からないんだ」 息が出来なくなった。 悪い予感が的中する。しなくたっていいのに、しなくたって……しちゃいけないのに……。 「……嘘ですよね?」 思わず言った。だけど、この言葉は意味を持たない。 俺はわかっていた。嘘でこんなことは言わない。 「残念だけど」 ………………。 信じられないことを再確認するだけの言葉。それだけでしかない。 「でも安心して。手術をすれば助かるんだ」 絶望に差し込む希望の光。しかし、こういう光は細くて頼りないものだ。 「成功率は?」 俺が訊くと、反町さんの顔が一瞬歪んだ。この人は嘘のつけない人みたいだ。 「大丈夫だよ」 「………………」 無言で睨みつける。相手が誰であろうと関係ない。きっと今の俺なら、相手がヤクザみたいな男だって睨みつけていただろう。 「……聖夜ちゃんをすごく大事に思ってくれてるんだね」 反町さんは目をそらさなかった。そらさず、答えてくれた。 「難しい手術なんだ。 でもね。成功させるよ。 ……成功率なんて訊かないで。成功させるから」 この人は信用できる人。直感的にそう感じた。 頭が真っ白になって、絶望に打ちひしがれていたはずなのに、受け止めていた。 俺は受け止めていたんだ。 もしかしたら感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。 「はい」 だからバカみたい物わかりがよかった。 ……どうにもならない。どうにもできない。 いや、受け止めていないのかもしれない。知らない男からこんな話をされても、信じられないというのが正直なところだから。 「どこの病院にいるんですか?」 聖夜から直接話をきかないと、信じられるわけがない。 「……実はね。聖夜ちゃんに頼まれてるんだ。病院は教えないでって」 「なん……」 「ベットに横たわってる姿。見られたくないんだって」 「…………」 気持ちはわからなくもなかった。だけど……だけど……。 「必ず連絡するって言ってたよ。待っててって言ってた」 「…………」 待っててって言ったって……。こんな話聞いたら、いてもたってもいられないだろう。 「……待っててあげてくれないかな」 俺の表情から何か察したのか、反町さんが表情を硬くした。 「明日にはとりあえず落ち着くと思う。だから、ね?」 「……はい」 納得できない気持ちはあったけど、諭すように言う反町さんの言葉に頷く。 聖夜が望んでいることなんだから。……だから。 それから俺は、反町さんと携帯の番号を交換して別れた。何かあったら連絡してくれるみたいだ。 ……でも……。 何かなんてあってたまるか……。あって……たま……るか。 聖夜が病気。このままじゃ助からない。そして、手術の成功率は高くない。 その事実がどういうことか、俺は家に着いて、飯を食って、風呂に入って。布団に入って……。 そうしてからやっとわかりはじめた。 聖夜が死んでしまうかもしれないということ。 それは聖夜がいなくなってしまうということで、聖夜と二度と会えなくなってしまうということ。 ……何で? 何でだよ。 俺は聖夜が好きだ。好きで……本当に好きで……。あいつと恋愛をしようと思う。していこうと思う。 そう思う存在。それなのに、何でそういうことになっちゃうんだよ。 男は涙を見せちゃいけないなんて言うけど、涙が自然にあふれてくる。どうしようもない。だって……だって……。 聖夜が……聖夜が……。 ピピピーピ♪ ピピピーピ♪ 俺が声をあげて泣いてしまいそうになったとき、俺の携帯が鳴った。 もう夜中の2時を回っている。誰だ……こんな、時間に……。 誰とも話す気になれない俺は、相手が諦めるのを待った。 しかし、その音は一向に鳴り止む気配がない。 「…………!」 俺はハッとして電話に出た。 「聖夜!?」 「…………」 出てすぐに呼びかける。その声は情けないことに震えてしまっていた。 「……よくわかったね」 その声を聞いたとき。声をあげて泣きそうになった。だけどグッとこらえる。 泣いてしまったら、聖夜の声が聞こえない。聖夜と話すことができない。 「まぁな」 「うん」 何を話せばいいんだろう。何を訊けばいいんだろう。 「聞いた?」 「……え?」 「反町先生に会ったんだよね」 ……聖夜の口から反町さんの名前が出てくると、いよいよ現実であると受け止めなければいけなくなる。 「今ね。病院を抜け出して、近くの電話ボックスからかけてるんだよ」 病院……。 「う……」 泣くな。俺が泣いてどうする。 「……ごめん……ね」 「なん……で、謝るんだよ」 「だって……黙ってて……」 聖夜の声色が変わった。明るく元気な声とはかけ離れた、弱々しく消え入りそうな、そんな声だった。 「どのくらいまで聞いた?」 「……おまえが難しい病気だって」 「このままだと助からないって話は?」 「…………」 「手術の成功率が低いって話は?」 「……聞いた……」 息ができない。どこかで信じていなかった。受け止めていなかった。だけど、もう逃げられない。 「成功率ね。30パーセントくらいだって」 「さん……」 30パーセント……。 「半分より低い確率なんだよ」 何を言えばいい。何て声をかければいい? 俺はまだ受け止め切れていない。受け止めきることができていない。そんな俺が……。 「聖夜……」 名前を呼ぶことしかできない。それしか……できない。 「ごめんね……本当にごめんね……」 「だから……なんで……謝るんだよ……」 「私……、死んじゃうかもしれないのに……、それなのに……それなのに……」 死。 冗談の中ではよく出てくる。死んでしまえ。なんてことを平気で言ったりすることもある。 でも……、これは現実だ……。 「何を……言ってるんだよ……聖夜」 「だって……いなくなっちゃうかもしれないんだよ?」 いなくなるかもしれない。 「……そんな私に好きになってもらう資格なんて無いよね」 好きになってもらう資格が無い? 聖夜は小さく、弱々しくそう言った。今にも消え入りそうな、消えてしまいそうなそんな声でそんなことを言った。 聖夜が震えている音がきこえているかのようだった。小刻みに震えている。そして必死で堪えている。 それが何か、俺にはわからなかった。 そのわからない何かは、聖夜の中で燻り、やがて叫び声となって表に出てくる。 「好きになる資格だって無い!」 血を吐くような叫び。 好きになってもらう資格が無い。好きになる資格もない。 死ぬかもしれない。いなくなるかもしれない。……それは辛いこと。自分も。相手も。 だからか? ……だから資格がないなんて……そんなこと言うのか? いなくなってしまうかもしれない存在。 ……だけど……そんなの。 「そんなことない」 「そんなことあるよぉ!」 「そんなことないっ!」 俺は泣き喚くように言う聖夜を怒鳴りつけていた。 だって……。 「おまえが好きだ。おまえを好きになって良かった」 聖夜がいなくなる。たとえ好きになってもらっても、いなくなってしまう。いなくなってしまえば、もう会えない。 それでも、俺は。 「……私、いなくなっちゃうかもしれないんだよ? ……それなのに……。好きになって良かったなんてそんなことあるわけないよ! そんなの……嘘だよぉ……」 「嘘じゃない! おまえが好きだ。 おまえを好きになって良かった! 絶対! 絶対だ!」 絶対。 そう言える。この気持ち。嘘じゃない。 「おまえと話すの……楽しい。 おまえの笑顔、とっても可愛い。 おまえの存在……とっても……とっても愛しい……」 うまく言葉にできないのが悔しい。この気持ち、どうやったら伝わる? 「三太はわかってないっ! わかってないよぉ! 好きでも、どんなに好きでも……、死んじゃったらどうしようもないんだよ? どうしようも……どうしようも……」 どうしようもない。 目の前が真っ暗になるようなその言葉を耳にして、一瞬壊れてしまいそうになる。 すでに涙はボロボロと流れていた。だけど、言わなきゃ。 「……それでも好きだ」 「……そんなの……そんなの……」 もう聖夜の声は言葉になっていなかった。うわごとのように同じ言葉を繰り返し、その後はもう嗚咽しか聞こえてこない。 何を言えばいい? 何て言えばいい? 大好きで大好きでしょうがない……、本当に愛しいと思える女の子に……。 「……聖夜……聖夜? ……聞いてるか?」 「……うっ……うっ……うぅっ……」 何か言葉にするとしたら、俺の気持ち。俺の素直な気持ち。そうだと思う。 彼女に俺の想いを言おう。器用な真似なんてできない。俺らしく、俺の言葉で。それしかできない。 それでも何もやらないよりは、ずっといいと思う。それでどうなるかわからないけど、それでも俺は。 「好きになってもらうのにも、好きになるのにも資格なんていらない。 そうじゃないと困る。だって……」 いなくなるかもしれない。 聖夜がそんな存在でも、それが現実でも、もう一つ確かなことがある。 「俺はおまえが好きだから。 ……おまえのこと知って、いなくなるかもしれないって聞いてもどうなるもんでもない。今の気持ち。この気持ち。それは絶対だから。 ……変わらないよ。 俺はおまえを好きになった。好きになって良かった。おまえと会えて良かった。おまえと同じ時間を過ごせて良かった。そう思えるから。 会って何日も経ってなくて、お互いあんまり知らないかもしれないけど、でも思う。思える。 これは嘘じゃない気持ちだ。 これは確かな気持ちだ。 俺の気持ちは、そういうモノだから」 俺はうまく言えてるだろうか、俺は……俺は……。 泣くな……泣くな! 伝えるまで……伝えきるまでは……。 「……もし、もしな。 例えおまえがいなくなったとしても、俺は後悔しない。今この時、今この瞬間、そしてこれから……可能な限り、おまえのそばにいたい。おまえを好きでいたい。 もう、どうにもなんねぇ……」 ………………。 頭の中が一杯で、胸も一杯で……、何を話したかなんて覚えてなかった。 ただ、伝えられたと思う。 「……三太。……私……私……」 聖夜は震える声で何か言おうとする。 言おうとしても言えない。そんな感じがした。何を言おうとしてるか……言いたいのか。 わかる。なんとなくじゃなく、間違いなく。そう思う。 「聖夜……俺が好きか?」 「好きだよぉ……、三太が大好きだよぉ……。 ……私も……どうにもならないよぉ……」 俺は聖夜が好きで、聖夜は俺が好き。 二人の気持ちはそれがすべてで、どうにもならない。 だから、何があろうと……絶対に俺たちは……。 |
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