聖夜のサンタ
第二部 つかまえやすい偶然
よくわからなかった。 ただあの日から、あの女の子のことが忘れられない。 「ユキノセイヤ」 雪野聖夜。 偶然だった。本当に偶然出会った女の子。いきなり声をかけられて、理想の恋愛について無理やり訊かれて……。 ただそれだけの女の子。それだけなのにな。 現在十二月十日。俺の通っている専門学校は、とっくに冬休みになっている。 学校がないと特にすることはない。就職も決まっていたし、しなければいけないこともほとんど無い。 独り暮らしならば、洗濯や掃除に炊事など、やることはあるだろう。一応片親だということで、専業主婦のいる家庭よりは幾分やることはあるのだが、それでも充分暇な時間があった。 もう昼過ぎだというのに、今も部屋でゴロゴロしている。 だからこそ、あの雪野聖夜という女の子のことをずっと考えてしまう。 彼女に出会ったのは三日前。それからずっと……日を増す事に気になっている。 ……恋と言うヤツなのだろうか? 一緒にいた時間はそれほど長くない。ものの数時間だ。ほとんど一目ボレに近い。 そういえば、彼女の「一目ボレしやすい」という質問に、「NO」って答えたっけ。 ……本当……なんなんだろう。 「三太。母さん仕事行ってくるからね。今日は九時ぐらいで上がれるから〜」 「おーっ」 母親の声が遠くに聞こえ、続いてドアを開閉する音が聞こえてくる。 「頑張れよ〜」 そんな母親を、聞こえるはずのない小さな声で送り出した。 母親は昼から夜遅くまで働いている。 父親とは、俺が中学三年の時から別居をしている。別居とは言ったものの、限りなく離婚に近い別居だ。……きっと俺のために戸籍上は夫婦という形にしているのだろう。 別居を始めてから、親父に会ったと言う話は一度も聞いていない。 あれからもう5年になる。今さらよりを戻すなんてことはないだろう。 多分俺が成人するとか、仕事を始めるとかいうタイミングで正式に別れるんじゃないかと思っている。 ……母親は、俺を引き取ってから随分苦労していた。 大学を卒業してすぐに結婚。そして専業主婦になった母親が、仕事を始めるのは並大抵のことじゃなかったはずだ。 それなのに、俺は専門学校まで行かせてもらっている。もちろん養育費は親父も出しているみたいだが。 ……別れるなんて思ってもみなかった。 アホみたいに仲が良くて、休日は子供をホッポリ出してデートに出かけるような、そんな二人だった。 理由はわからないけど、ケンカをして、それっきり。 別れた当時、母親は少し酒が入ると、よく俺に言った。 『考えてみれば、お父さん、嫌な所たくさんある。恋に酔って見ないようにしてただけなのかもね』 別れる前、別れた後。子供だった俺でも、母親は見ちゃいられないほど落ち込んでいるとわかった。 だから母親と暮らすことにしたんだ。自分の意志に任すと言われた俺は、父親よりも母親のそばにいることを選んだ。 ホント、アホみたいに仲が良かった二人だった。それがこんな風になるなんて思いもしなかった。壊れることなんてないと思っていた。 だけど呆気なく壊れて、だから俺は……。 「ふぅ……」 大きなため息を一つ。 ため息をつくと幸せが逃げていくなんて言うけど、ため息は心を少しだけ落ち着かせてくれる。 少しだけでも落ち着きたいんだ。それに、ため息をついたくらいで逃げていく幸せなんて俺はいらない。 ……頭を冷やしてくるかな……。 考えすぎで微熱の出始めた頭を冷やすために、俺は外に出ることにした。 突き刺さるような冷たさの北風が吹く町並みは、相変わらずの装飾。街路樹たちに厚化粧をさせ、キラキラと無駄に電灯を光らせる。省エネ省エネと騒いでいるんだから、もう少し慎ましさがほしいものだ。 それに俺と同じ名前の、真っ赤な服を着たじじぃたち。 多分バイトの奴らだろう。 楽しくも無いのにニコニコと笑いながら、店の売り物を必死に奨めている。プレゼントをあげるのではなく、売り込むサンタ。……反吐が出る。 そんな奴らと同じ名前。黒須三太。口にするのも嫌になる名前。 『とっても気に入ってるよ』 いつものように暗く悶々とした気持ちになりそうな頭に、澄んだ声が響いた。 あの女の子の言葉だ。 ……雪野聖夜。自分がこんな名前だったら、きっとこんなことは言わないだろう。 だけど彼女はそう言った。笑顔でそう言った。俺のひん曲がった視線を真っ直ぐにしてくれた笑顔。黒須三太と言う名前が……。俺自身が好きになれるような気がした時間。 やっぱり好きになってしまったのだろうか? ……もしそうだとして……。 そうだとしたからってどうなる? 名前しか知らないんだぞ? どうなるってんだよ。 プップー。 深く考え込んでいる意識が無理やり引き戻されるには、充分過ぎる音が耳に響いた。車のクラクションだ。 やば、赤信号。渡ろうとした瞬間で助かった。 「危ないだろっ!」 威勢のいい声。だかその声は低くない。 ……女の声? 顔を上げると大型トラックから女が顔を出していた。目が眩むほど染められた髪、キッとつり上がった目。 ……あれ? 「……智美?」 「あ……? 黒須? 黒須か!?」 小杉智美。 トラックの運転手は、高校時代の同級生だった女だった。 「ったく、なぁにボーッとしてたんだよぉ」 熱い缶コーヒーを放り投げる智美。熱いと言うのに放り投げるこの気配りの無さ。でも智美らしいな。 懐かしさに微笑みさえ浮かんでくるが、熱いものは熱い。 俺は自販機の中でしっかりと熱された、スチールの行き過ぎた温もりをしっかりと味わうことになってしまった。 「ちちっ。サンキュ」 熱に脅えながらカチカチとプルトキャップを開けると、甘い香りが寒さに冷たくなった鼻を温めた。 寒いせいか、子供が一人もいない児童公園。風はそんなに強くないので耐えられないほどではないが、好んでここに来るヤツはいないだろう。 人の温もりから見放されたブランコやすべり台が、寂しそうに見えた。 「車置いてくるからさ。 車庫、ここからそんなに離れてないんだよ。それ飲み終えるまでには帰ってこれる」 「一気で飲んでもか?」 「アホッ」 下らない冗談を、口の端を少しだけ上げて一蹴する智美。変わらないそのやりとりは、冷え切っていたはずの俺の身体さえ暖めてくれる気がした。 智美は高校二年の途中まで同じクラスだった女だ。 コイツは一言で言えば不良娘だった。不良娘なんて言葉は死語かもしれないが、俺はコイツのことをたまにこう呼んでいた。 その度に怒っていたけど、その怒る仕草がなんとなく気に入っていて、俺はおもしろがっていたっけ。 そんな俺をクラスメイトは、「度胸のあるヤツ」なんて評価をしていた。 よく考えればそうだ。俺も最初は怖かったし。 なんせ智美の目は、剃刀並に鋭かったからな。 世の中すべての人間が敵だって目をしてた。それに良くない噂もよく聴いたし、ケンカは負け知らずだと言う。 でもコイツはおもしろいヤツだ。そしてとてもイイヤツで、しっかりしていて、ただ人とつき合うのが苦手だっただけだ。 だからちょっとしたきっかけで、こんなにも仲良くなれた。 「悪ぃ。待ったかぁ?」 物思いに耽っていると、智美が走って戻ってくる。 「それなりにな」 声をかけられて思い出した寒さに身震いを一つして、コーヒーをグイッと飲む。ややぬるくなってしまったが、それでも心地よい温かさが食道を通り抜けた。 「茶店とかで、待たせときゃ良かったかな」 「その通りだ。アホウ」 「くっ、テメェ……。チクショウ、相変わらずだなぁ」 一瞬眉毛が吊り上がったかと思えば、笑顔に変わる。笑うと吊り上がっていた目尻が下がって、随分と可愛らしい顔になる。 そう言ったら、顔を真っ赤にしてギャーギャー言ってたっけな。 「まぁな。 で、どうするよ。ここで話すのか?」 「茶店でも入るか?」 「うーん、別にどっちでもいいけど」 「じゃ、ここでいいか? そこまで長話もできなくてな」 口調、表情。すべてが過去の記憶を呼び起こすものだった。 「どれくらいぶりだ?」 「んー……三年以上は経ってるだろ」 近くにあったベンチに腰掛けながら訊くと、智美は遠慮なく俺の隣りにドカッと座って答えた。 その手には、いつの間にか取り出したホットレモンティーの缶ジュースが握られている。 「コーヒーおかわり」 「アホウ」 それを見た俺は空になった缶を智美の前に突き出すが、智美は心底呆れて返ったように左手で缶を弾いた。 クルクルと回転しながら飛んでいく缶は、見事空き缶箱入る。 「ナイスショット」 「まーかせろっ」 偶然以外の何ものでも無いのだが、さも当たり前のように、狙ってやったかに見せかける俺たちは罪人かもしれない。 「で? トラック乗って何やってるんだ?」 「運送業だよ、運送業。北の方によく、クール便で荷物を運ぶ」 運送業か。まぁトラックに乗る仕事と言ったら、それしかないだろうな。 「北かぁ……、もう雪がガンガン降って危ないんじゃないのか?」 「まぁ慣れだよ。 だからって安全運転は怠らないけどな」 安全運転か……。 こいつの口からこんなことを聞けるとは思っても見なかったぜ。何だかプロって感じがする。 「中退してすぐ就職したのか?」 「しばらくはまぁバイトとかで適当にやりくりしてたけど、きっちり働かなきゃならない訳ができてな」 智美は二年の二学期に中退した。やってられないから、なんて言ってたけど真相はわからないまま、突然辞めてしまった。それ以来まったく会っていない。 「働かなきゃならない訳?」 「オレ、ガキがいるんだ」 「ガキねぇ……」 ……ガキ? ……智美は不良娘であるからして……、つまり、子供と書いてガキと読む。 「子供がいるのかっ!?」 「ああ、まぁな。今年で二歳だ。あ、ちゃんと親父もいるからな」 「へぇ〜、智美が一児のママかぁ〜」 「一児のママって……」 変な言い方をしたのはわざとだ。 それにしても、智美が……時の流れは早い。 「すげーなぁ。ほんっとすげー」 「名字も変わった。今は野木智美って言う。 ……できちまった結婚だよ。でも、イイ旦那だと思う」 「かぁ〜惚気かよぉ」 イヤだイヤだという仕草で言ってはいるが、俺は嬉しかった。 高校時代の智美は、どうも自分から幸せを遠ざけている気がしたから。 「そ、そんなんじゃねぇよっ!」 顔を真っ赤にして、怒鳴る智美。これだ。この仕草が好きだった。 「はははは」 思わず笑ってしまう俺、智美はブスくれたまま「なんだよぉ、まったくぅ」と小さく漏らしたが、やがてやれやれと言った感じで大きなため息をついた。 「……ったく。おまえは?」 「ん。専門学校に通ってる。 一応就職も決まってるから、暇を持てあましまくってるよ」 「へぇ〜。遊べる最後の時間だな。仕事が始まったら遊べないぜぇ?」 「そうなのか、やっぱり」 就職。社会人。 母親に少しでも楽をさせようと、早く社会人になろうなろうと思っていたが、いざ数ヶ月後に迫ってみると、やっぱり気が重い。 就職して、金稼いで、そうすれば大人になれると思っていた。 だけど、もうすぐそうなるっていうのに、全然実感が沸かない。 「……ああ、忙しいよ。今日はそうでもないけどな」 智美は俺が思っていた『大人』にもうなってるんだな。金稼いで……しかも子供がいて……。 なんだかそれだけで智美が大人に見えてくるのが不思議だ。 「なぁ、彼女とか……いるのか?」 「ん? いや……」 「会えてないのか? 運命の人」 え? 「う、運命の人?」 運命の人……。 コイツの口からそんな言葉が出るとは思いもよらなかった。 「言ってたじゃん。おまえ」 え? 俺!? 「コイツしかいねぇ、と思えるような女としか恋愛はしない。運命の人ってやつかな? 中途半端な恋愛はしない。確かな気持ちで、確かな気持ちを受け止めたい」 ……そういえば……。 そんなこと言ったような気がする。恋愛の話になって、彼女が今までいなかったってことを話したら、コイツにバカにされたから……。 それで言ってしまったこと。いつも思ってるけど、恥ずかしいからずっと胸の内で燻らせていること。 「言った……」 「真顔であんなこと言うだもんなぁ。 びっくりしたぜ」 「悪かったなぁ」 ちくしょうっ。恥ずかしい。 「ホーント、悪いよ。 ……あの時、オレさ。心がぐらついちまった」 「は?」 高校時代のような、冗談だらけの馬鹿話の中に出てきたその言葉。 「おまえに惚れてたんだぜ」 「なっ、なっ、なっ……」 「あははは、真っ赤になりやがって。コレだからチェリーは」 「て、てめぇ」 「でも冗談じゃないんだぜ?」 「何だよ、いきなり……」 何言ってるんだ智美は。いきなり……そして、今さら。 「確かな気持ちで、確かな気持ちを受け止めたい。……その相手になりたいと思った」 な、何なんだよコレ。 久しぶりに会ったと思ったら、いきなりこんな事言われて……、俺、何て言えばいいんだ……。 「おまえみたいなヤツさ。なかなかいないよな。 恋愛に妥協しないっつーか……。ガッチガチの理想立てて、それに向かい合う。 逃げ道なんてたくさんあるのにさ」 ……照れくさ過ぎて、冗談すら言えなかった。智美の口調、表情には冗談の色が一欠片もない。 「親父が逝っちまって、学校にいらんなくなって……。 いや、それ以前に無理だって気づいてたかな。 おまえ、オレのこと女として見てなかっただろ。ただの友達で、それ以上にはなりえなかっただろ」 智美は、友達で……。 そう、今智美自身が言ったような……そんな存在だった。 「おまえのことが好きだった。でも、今はダンナを愛してる。 ……ずっと心にひっかかってたんだ。 言いたかった。何も言わずに逃げたのがずっと心残りだった」 …………。 突然の告白と、今の気持ちの表明。 これでもかってほど智美らしいと思う。強気で、短気で、でも曲がったことが嫌いで、不器用で、そして優しくて。 「そうか」 自然と笑顔になった。こいつに好かれていたこと。今、こいつには愛している男がいること。そして、こいつと友達でいること。 たまらなく嬉しかった。 「ワリィな。一方的に話しちまって……」 「いや……、嬉しいぞ。 おまえに想われてたんだったら、俺もまんざらじゃないんだな、なんて思う」 本当にそう思う。俺は自分自身に魅力を感じることがほとんどないから。 「はは……、そういうとこだよ」 目を細めて小さく笑う智美。 「普段はひねくれてるクセに、真面目な話になると、そういう恥ずかしいこと言っちゃえる。 まったく、変わってねぇな」 ………………。 ちくしょう。恥ずかしいじゃねぇかよぉ……。 「……本当だからな」 「わかってるよ。おまえ、そういうことでウソはつかない。オレは知ってる」 なんだか……、泣きそうになった。コイツは、俺を認めてくれてる。俺と言う人間を好きになってくれていると強く感じる。 それはとても嬉しいことだ。 別に飾ってるわけじゃなくて、芸術的でもなんでもないけど、智美の言葉は真っ直ぐで、それはダイレクトに心を殴りつける。 「あっはははははは」 笑った。涙が零れそうな時は笑うに限る。嬉しさを燃料にして派手に着火する。涙が乾くぐらい大笑いしてやる。 「なぁに笑ってんだよ」 「いいじゃねぇか。おまえも笑え」 「はぁ〜、つき合ってやるよ」 それから二人はしばらく馬鹿笑いをした。 もう二十歳になろうと言う二人。だけど、別にいいと思う。こういう行為を大人らしくないと言うなら、大人になんてならなくていい。 この気持ちを持ったままでいたいと思う。 「……はは、ったく。で、結局どうなんだよ」 ひとしきり笑った後、智美は少し心配そうに言った。 ……なんだよ。イサムもそうだったけど、俺はそんなに心配されなきゃならないヤツなのか? 「……どうかな……」 「……おまえには幸せになって欲しい……。 ……おまえはオレが諦めちまったことを、しっかり今でも追ってるから」 「追ってる?」 「理想の恋愛ってヤツ」 「な、何言ってんだよっ!」 聞いてるこっちが恥ずかしい。 「妥協しないで、諦めないで……、ずっとそれを追い求めてる。 なんかさ、希望なんだよなぁ、おまえは。身勝手な期待かもしれないけど……。 おまえがする恋愛。おまえと、おまえの選んだ相手のする恋愛を見てみたい」 「……な、何だよ、ソレ……」 「古くさくて、青臭くて、恥ずかしくて、……でも求めて止まない、そんな恋愛をさ」 「………………」 俺は何も言えない。 だって言えないだろう。こんなこと言われたら。 「………………」 「………………」 智美は俺をジッと見ていた。熱意のこもった視線にたじろいでしまう。 俺のする恋愛? ……俺の……古くさくて、青臭くて、恥ずかしくて、……でも求めて止まない、そんな恋愛。 「……見つけたかもしれない」 「え?」 「……俺の恋愛の……相手」 …………。 俺のぽつりと零した言葉に目を丸くする智美。驚くのは無理もない。俺自身が一番驚いている。 「そうかっ!」 数秒後、驚きから解放された智美が作り上げたのは笑顔。俺が見た中で、一番いい笑顔だと思う。 「……まだ一回しか会ってない。でも……、何だかそう思う」 ……そう……なのか……? いや、そうなんだ、きっと。じゃないと……この胸の高鳴りの説明がつかない。 「じゃあこれからだなっ! 頑張れよっ。オレに出来ることがあったらなんでも言ってくれ。可能な限り協力するぜ」 目を輝かせて、とても嬉しそうに言う智美。 何だかものすごく温かい気持ちになって、心の中にあった靄みたいなものが晴れていく気がしてきて。 「ああ」 俺は笑顔で応えていた。こんなに恋愛に前向きになるのは始めてのような気がする。 「そうかそうか。ははははっ」 本気で喜んでくれている智美。別に大したことをしたわけでも、しようとしてるわけでもないのに。 「そ、それより、時間は平気なのか? 随分と話し込んでる気がするぞ?」 嬉しいと同時にもの凄く照れくさくなった俺は、目をそらしながらそんなことを言った。 「そうだな。そろそろ行かないといけないかも……。 あ、携帯持ってるよな? 番号交換しようぜ」 そんな俺にさえも温かい視線を送る智美。何だか母親を感じた。 そっか。そうだよな。コイツ、もう母親なんだよな。 「交換してもいいけど、ハァハァ電話とかするなよなぁ?」 「ったく、てめーは……」 だけどいつもの冗談も通じる。大人になって、母親になっても、何だかちっとも変わってない。 ……いや、変わったところもある。いいところが無くなってない。そういう感じだ。俺もこんな風に大人になっていきたいと思う。 お互いの番号をお互いの携帯電話に登録すると、「何かあったら連絡しろよっ!」と言い残して、足早に公園を後にした。 「……ふふ」 一人になると、寒さが身に染みてくる。だけど不思議と心は温かかった。 「……恋愛の相手……か」 思い浮かんだのは雪野聖夜。 「何ができる? 何かできることは……」 恋愛。まだ始まったばかりの恋愛。相手は一度しか会ったことの無い女の子。名前しか知らない。 そんな相手にどんなことができる? なんだかいてもたってもいられなくなった俺は、ベンチから腰を上げ、歩き始めていた。 気持ちだけが逸っている。 雪野聖夜。それだけが手がかり。だけど彼女の名前は珍しい。手がかりにならないはずはない。 名前……名前……。 それだけを頭の中に繰り返していると、今では随分と少なくなってしまったモノが目についた。 「……そうだ」 目についたのは電話ボックス。正確にはその中にある電話帳だ。 都内で雪野という名字の家に片っ端から電話をかける。それで聖夜という女の子がいないか聞く。雪野聖夜なんて名前、そうそういないだろう。 もし該当する家があったならそれが聖夜の家だ。 「………………」 ……でも……だ。 こんなことをして、家を見つけたとしてどうする? こんな方法で家を調べあげたなんて知ったら、普通ひくだろう。 ……考えようによっちゃストーカーだよ。いや、ストーカーそのものか……。 だけど……だけど……。 俺は何もしないわけにはいかない気がした。智美の期待を……いや、自分自身の心を、裏切ることは出来ない。当たって砕けるなら本望だ。 電話ボックスに入った俺は、電話帳をベラベラとめくりだした。 偶然なんかに頼ってられない。それにアイツも言ってたじゃないか……「キミは頑張るべきだね!」ってさ。 太陽の光がめいっぱい射し込んでいた電話ボックス。今は月の光と街頭の明かりだけを控えめに受け止めている。 「え? あ、そうですか。はい、はい……すいません。間違えたみたいです」 いくつの雪野邸に電話をかけたのだろう? だけど収穫は無かった。 もう七時。雪野という名字は想像以上に多い、まだ腐るほどあるようだ。 「……今日はやめておくか……」 少しかれてしまった声での独り言。それは俺の心に、やけに大きな音で虚しく響いた。 同時に何をやっているんだろうという気持ちになってくる。 何をやっている? ……何を……俺は……。何をしようとしていたんだっけ? そんなことを考えながら帰路に就く俺の足取りは異常に重かった。 ピピピピーピ♪ ピピピピーピ♪ 流れるガンダムのテーマソング。俺の携帯以外に考えられない……。 「はい。もしもし」 「オウ! 俺だ。イサムだ。ハッピーかーい?」 聞こえて来るのはついこのあいだ聞いたばかりのバカ声。 里中勇。中学の頃からの俺の親友。 「ハッピーじゃないな。それじゃ」 プッ。 バカ話をする気分じゃなかったので切ってやった。……まぁ、切っても……。 ピピピピーピ♪ ピピピピーピ♪ こんな風にすぐにまたかかってくる。 「おいおいヒデーなぁ、心の友よ」 「最近一回切らないと気が済まなくてな」 「………………」 「電話で無言になるのはマナー違反だぞ?」 「……すぐ切る方がよっぽど……。まぁいいや」 いいのか? まぁこいつがいいならいいんだろう。 「で? 何の用だ?」 「ん。まぁなんとなくな。どうしてるかと思ってよ」 ……なんとなくか……。 三日前の電話のことを考えると、また心配になって電話をかけたんだろう。 コイツは俺の親友だと思う。 だからわかる。自分だけに彼女ができて、自分だけが幸せになっているのが嫌だというか、後ろめたいんだ。 いや、今の自分が幸せだから、俺にもその幸せを感じて欲しいと思っているのかもしれない。 「どうしてるかって……恋してるよ」 だから、言ってみた。ちょっと照れくさかったので、わざとアホみたいな言葉を選んで。 「は、はぁ? 恋ぃ?」 「そう、恋だよ」 「それって……つまり好きな女ができたのか?」 「ああ」 「ははは! そうかそうか! それで、どんな子だ?」 どんな子……。 「よくわからん。一回しか会ってないからな」 「は?」 「名前と歳しかわかんねぇんだよ」 「はぁ!?」 ……まぁこの反応が正しいんだろうな。 「でも、好きになったと思う」 「……そうか。 で? どうするんだ? おまえのことだから何もしないって訳じゃないんだろう?」 俺は思わず笑った。お見通しかよ親友。 「その子の名字の家に、片っ端から電話かけたよ」 「うわっ、そりゃすげぇ。ストーカーみたいだ。 ……でもなぁんかおまえらしいよ」 「ストーカーみたいなところがかよ!?」 「ばぁか、違うよ。思いこんだら一直線。決めたことはキッチリやる。 スゲー事しそうなんだよな、おまえって。 なんかさ、こっちまで熱くなってくるんだよ。いっつもワクワクさせてくれるんだよなぁ」 スゲー事しそうか。 ……なんか、智美と同じようなこと言ってるな。 俺の恋愛を見てみたいとか……、ワクワクさせてくれるとか。 「買いかぶってないか?」 「そんなことねーよ。で、見つかったのか?」 「いや、その子の名字は意外に多くてな」 「……そうか」 自分でも気づかないうちに、声のトーンが落ちてしまう。それを受けてイサムの声も落ち込んでしまった。 少しの沈黙。 気がつくと、自宅の前まで来ていた。 「……でも、諦めてねぇよ。 一回しか会ってないけど、なんかこう、感じたんだよ。だから明日もまたやる」 イサムと智美の期待。そしてなにより自分の想い。やるだけのことはやるつもりだ。もう一度会って。それで、どうなるかわからないけど。それでももう一度。 「はっ、さすが」 「まぁ応援してくれよ」 「オウ、ストーカーとしてテレビに出ないことを祈ってるよ」 「それは切実にお願いしたいな。見つけた途端にムショ行きは悲しい。お百度でもやってくれ」 「ははは、考えておくよ」 俺は友人と馬鹿話をするのがとても好きだ。楽しいし、なんだか安心する。落ち込み気味の気持ちに熱さを取り戻せる。 イサム。ありがとよ。 口に出すのは何だか恥ずかしい。あっちもそうだろう。だから、心で感謝した。 「……なぁ黒須」 じゃあな、と言って切ろうとした瞬間、イサムが真面目な声を出して俺に問いかけてくる。 「その子のこと、本当に好きなんだな?」 「ああ、好きだと思う」 「わかった。頑張れよ、黒須」 「オウ。またなイサム」 その言葉を最後に、俺の電話からは、通話終了の機械音しか聞こえなくなった。 ……頑張れか。ああ、頑張るよ。 雪野聖夜。好きになってしまったと思う。こういうふうに、自分の気持ちに素直になることは苦手だった。 多分、親父と母親の別居が原因だろう。 ……理想の二人だった。 愛し合う二人。目も当てられないほどの仲睦まじい二人。それが壊れて……それを目の当たりにして、怖くなった。 確かなものだと思った。 壊れるはずのないものだと思った。 ……だけどそうじゃなかった。好きな気持ち。好きになる気持ち。愛し合う気持ち。 そんな感情に確かなものなんてないと思うようになってしまった。 でも、それでも俺は人を好きになった。そう思う。 最初は自分に素直になれないから気づかなかった。……でも、自分に素直になって話せる友人二人に、彼女を好きになってしまったと言ったんだから……間違いない。 だから俺は……。 「誰を好きだと思うの?」 …………!! 思わず耳を疑った。 三日前とほぼ同じだった。イサムから電話がかかってきて、電話を切って、それから物思いに耽っていたら、電話の内容に関係する問いかけがくる。 恐る恐る、声の方に視線を向けた。 そこにいたのは、女の子。 ニコニコと笑っているその表情は明るい。そしてよく似合っているショートカット。 「雪野、聖夜?」 「なぁに? 黒須三太」 聞き間違い、見間違い、人違い。その可能性は、もうすべてを否定できる。 確かに、俺の目の前に雪野聖夜がいる。 「何で……どうして」 「私の質問に答えてもらってないよ。三太」 もう完全に頭は正常に動作していなかった。 なぜ、どうして。 そればかりが頭を回る。 「……んー、もしかして、また電話を盗み聞きしたから怒ってるのかなぁ? でも今日はわざとじゃないよ。 三太を家の前で待ってたら、電話をかけながら帰ってくるんだもん。聞こえちゃったんだよ」 家の前で待ってた? ますます訳がわからない。 「三太って、声大きいよね。結構遠くにいる時から声が聞こえてたよ? それにしてもさぁ、好きになった子の名字の家に片っ端から電話したんだって? ストーカーかねチミは」 悪戯っぽい笑みを浮かべてながらそんなことを言う聖夜。 「私も人のこと言えないけどね。 ……黒須って名字は少なかったよ」 それって……。 聖夜の言葉の意味するところ。それは彼女も俺と同じ事をしていたということ。 だから、それはつまり。 彼女もそうまでして俺に会いたいと……。 「三太のお母さんの声。結構若いね。 友達だって言ったら住所教えてくれたよ」 「聖夜……」 「はい。まず質問に答えなさい」 歩み寄ろうとした俺に再び問いかける聖夜。 「誰を好きだと思うの?」 聖夜はさっきと同じように悪戯っぽい笑みを浮かべていた。からかっているようなそんな表情。 でも、なんとなくさっきとは違う感じがした。 何だか、少し怯えているように見えた。 不安そうだった。それを隠そうと冗談っぽく言っているように見えた。 ……俺も同じようなことをする。だからわかる。 こうするときは、確かな答えが欲しいとき。否定されたら、きっとどうしようも無く傷ついてしまうから、だから冗談っぽく訊いて、傷つかないために質問自体を冗談にしてしまう。 でも、これでは相手に真剣であることが伝わらなくて、真剣な答えが欲しいのに冗談しか返ってこない。それがわかっていても、そうしてしまう。 「俺は、雪野聖夜を好きだと思う」 でも俺は、この気持ちを冗談にしたくない。確かなものにしたい。 真剣な眼差しを向けた。真剣な声色で、自分の気持ちをぶつけた。 「……実は……ね」 それを受けた聖夜の表情から冗談の色が消える。そして……。 「……私もね、そう……思うんだ。黒須三太を好きだと思う」 俺への好意を口にする聖夜。 だけど、まだ確かなものじゃない。 ……好きだと思う。 まだ思うだけだ。 「でも、こんなのおかしいかな。一回しか会ったこと無いのに……」 そう。 おかしいかもしれない、だから。 「……わからない。わからないけど、……わからないから……。 もっと一緒にいよう。好きだと思うなんて言葉じゃなくて、好きだって言えるように」 この想いを確かなものにしたい。 出会いは本当に偶然で、自分の気持ちを信じられなかった。 だけど二人の友人の言葉に背中を押されて、彼女を好きだと思うことができて……。 「……うん」 そして、俺の恋愛が始まった。 |
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