女神の騎士

 夜。月明かりの恩恵が受けられる、雲の無い日だった。
 夜行性の動物と一部の人間だけが活動する時間。ほとんどの人間が深い眠りに誘われているが、この家の住人はそれよりもさらに深い眠りに就いている。だからこそ家の中でコソコソと動く影に気づくことができなかった。
「へっへへ、物騒な世の中なんやから、カギにはもうちょい金をかけなあかんやんかぁ〜」
 闇の中、ひそめた声と小さな笑い声を立てる者がいる。女性特有の声色で発せられるその言葉には、独特の訛りがあった。
 そこにいたのはまだ年端もいかない少女。その顔立ちは少女の面影をたっぷりと残し、くりくりとした垂れ目が特徴的だ。肩まで伸びた深緑色の髪は、外側に軽くカールしている。服装は全身黒。闇に紛れるにはもってこいの格好だった。
 彼女の名はラヴェルナ。いわゆる泥棒。それもコソドロと呼ばれる小物だ。
 住民を睡眠薬で深い眠りに誘ってから作業をするのが彼女の手口。だから多少の笑い声や独り言は許されるのだ。金品の物色は楽しみながらという彼女のポリシー故、考え付いたのだろう。
 彼女が狙うのは「やや金持ち」の家族の少ない家。金持ちの家は警備が厳しいのでパス。家族が多い家も、睡眠薬を余計に使わないといけないためにパスだ。
「ムフ。結構貯め込んでるやないの〜♪
 このぐらいは、分けてくれてもバチは当らへん」
 家具やら棚やらから掠め取った金品は思ったよりも多く、ラヴェルナはご機嫌だった。
「今夜は大漁やでぇ〜」
 作業後、二階の窓から外に出て屋根伝いに走って行く。その動きは軽快だ。
 そして、月に映った人影は町の外へと消えていった。


 ……ここまでは順調だった。


 旅をしながらコソドロをしているラヴェルナに決まったねぐらは無い。宿をとらないなら野宿をする必要がある。季節的にそれほど寒くない今なら野宿はそれほど苦ではない。治安の悪くないこの地域ならば、野宿でも問題がないだろうと、今日のねぐらは仕事の前に場所の目星を付けていた。
 町外れの森。ハンモックを用意し、ゆっくり揺られながら眠りにつこうと思っていた。
 しかし、そんな気楽な考えを吹き飛ばす存在がそこにいた。
「さ、最悪や……」
 異形の者。
 闇に慣れた目に映るその姿は、おぞましいの一言に尽きる。
 全身硬そうな鱗に覆われ、その鱗には粘り気のある液体がまとわりついている。鱗の隙間から放出しているソレだけでも充分なおぞましさがあったが、それだけで留まらない。半分以上飛び出している人の頭ほどの目玉。息と共に、液体を撒き散らす鼻。そしてズラリと並んだ鋸のような歯を覗かせる口。
 150センチほどあるラヴェルナの二倍以上の大きさはあろう異形の者は、ゆっくりと近づいてくる。
 異形の者は生きとし生けるものすべてを食らうとされている。無論、人も食らうのだ。
「ウ、ウチを食べてもウマないで」
 引きつった笑いを浮かべて後ずさる。だが異形の者に言葉は通じない。

 ニチャ……。

 口を開いた。
 纏わりついていた液体が音を立て糸を引く。その粘着質な音に、ラヴェルナの全身に悪寒が走りぬけた。
「ウ、ウチ忙しいねん。……ほなっ!」
 ラヴェルナは踵を返し全速力で走る。商売柄足には自信があった。
 逃げ切れると思った。
 しかし、相手は異形の者、歩幅が違う、筋力も違う。
 異形の者のスタートはラヴェルナよりも随分と出遅れていたが、その差を縮められるとは思えないほどの早い時間で追いつかれてしまった。
「あ、あつっ!」
 背中に熱さを感じる。追いかけてきた異形の者が走るたびに飛び散らせていた体液が、背中に降り注いだのだ。その体液は熱を持っており、服を焼き、皮膚を焼いた。
 その熱さに気が持っていかれたせいか、足がもつれてゴロゴロと転がるように転んでしまう。
「な、何でこないな目に遭わなアカンねん。うちが何したっていうんや」
 苦痛に顔を歪ませ、うめくように言う。
 人のモノを盗むのは、彼女にとって罪にはならないらしい。うつ伏せに突っ伏しているラヴェルナに、異形の者が容赦なく歩み寄る。
「ご、後生やっ、堪忍してぇな」
 ラヴェルナは異形の者を拝みながら言った。そうすることでどうにかなるとは思っていなかったが、何かしなければ気が済まなかった。
 これから訪れるであろう恐怖に目を瞑り、頭には様々なことが浮かんでは消えていく。

 悪運だけは強い思うとったのに。
 こんなとこで死ぬんかいなっ! 洒落になってないでホンマ。
 おかしいやろこんなん! なんでウチがこんなところで死ななあかんねん。
 誰か助けにきてくれへんかな。……助けてくれるんやったら男前がええなぁ。
 ……こんな時に何考えてるんやっ!

 ザンッ!

 そんな思考を一瞬で止める音と風を感じた。
 いよいよ異形の者が襲ってきたか。しかしそれにしては不自然だった。
 自分の身体に変化がない。痛みがない。
 ラヴェルナは恐る恐る目を開いた。
 異形の者とラヴェルナの間に入るようにその男はいた。臆することなく異形の者と正面から向かいあっている。その男の後ろ姿を見たラヴェルナは直感的に感じた。
 この男は強い。
 異形の者は動きを止めている。
 異形の者も、この男の纏うものに気圧されたのではないだろうか?
 異形の者にラヴェルナの考えるような感情があるとは思えない。しかし、命ある物であれば、この男の迫力に気圧されてしまうのではないだろうかと思ってしまう。
 背中に背負っていた大振りの剣が弧を描いた。
 男が剣を構える。それだけのことだったのだが、ラヴェルナは身震いをした。
 心臓がバクバクと動き出した。さっきまでかいていた汗とは違う汗が出ていた。瞬きをしてはいけないと思った。目が離せないという次元ではない。目が離れない。半ば金縛りにあってしまったかのような感覚。
 男が動いた。
 風が唸り、大振りの剣が水平に走る。空間を引き裂いているような轟音。荒々しく力任せに振っているように見えるが違う。その軌道は正確に異形の者の胴を狙っている。
 異形の者が跳ねた。上に飛び上がりその刃から逃れようとしたのだろう。しかしそれは叶わない。
 横一直線に振り切られると思われた刃の軌道は直角に折れた。
 上へと。
 男も異形の者を追うように跳ねていた。地面が軋むほど強く蹴り、異形の者を追うように舞い上がっていた。
 ラヴェルナの鼻を土の臭いが突く。男が跳ねるときに起こった土煙が鼻に入ったのだ。普段ならとても吸い込みたくないものだったが、ラヴェルナは甘んじてそれを受け止める。そんなことを気に止めていられないほど、男から視線が離せない。

 ザシュッ!

 地面に対して垂直に異形の者が裂けた。
 斬られたと表現するよりもそう表現した方が当を得ている。男の剣によって斬られたのは間違いないのだが、そうであってそうでないように思える。異形の者は……そう、斬られたのではなく、自ら裂けたように見えた。
 三つの物体が地面に舞い降りる。男と、異形の者の左半身と右半身。
 戦いは終わった。突然始まり、ほぼ一瞬で終わった。

 ブンッ!

 男の剣が虚空を薙ぐ。すると異形の者の体液がビチャビチャと飛び散った。
 まだラヴェルナは金縛りにあったまま、目を閉じることができない。決して美しいモノではない体液の飛び散る様さえ、目に、脳裏に焼き付けていた。
 剣を構えるときそうしたように、また剣が弧を描き、今度は背中にピシャリと収まる。
 それから数秒間、動くモノはなく、音を立てるモノもなかった。
 風さえ止んでいた。時さえ止まっていたのではないかと錯覚させる。

 ザッザッザッ……。

 その中で初めて動いたのは男。ラヴェルナの方を振り向きもせずに歩きだす。するとすべてが動き出した。
 ラヴェルナの身体に自由が戻る。
「あ、ああ……あ……」
 しかし頭はうまく回転せずに、言葉を作り出せない。男に声をかけたいという気持ちだけが先走り、意味の無い呻きのみが口から漏れる。
「ちょ、ちょっと待ちぃ!」
 やっと声が出たかと思えば、今度は足腰が動かなかった。
 どうやら腰を抜かしているらしい。ラヴェルナは焦った。呼び止めなければ。
 漠然としているがその想いは切実だった。呼び止めて、そのあとどうしようなんてことは一切考えていない。
「待ってぇなっ!」
 必死に声を張り上げる。しかし男は歩みをやめようとしない。自分の声が届いていないのではないだろうかとさえ思うほど、ラヴェルナの声に何の反応も示さなかった。
「あんたっ、ちょっと待ちぃやっ!」
 遠ざかっていく男。声だけが虚しく響く。
 その男はあっと言う間に闇に飲まれ、姿を消してしまった。



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