寺山修司・今月の一冊(2007年7月)
『現代詩文庫52 寺山修司詩集』
(思潮社/1972年10月15日初版発行)
書くことは速度でしかなかった 追い抜かれたものだけが紙の上に存在した
読むことは悔悟でしかなかった 王国はまだまだ遠いのだ
(本文9ページ「事物のフォークロア」より)
物書きを志そうと一度でも考えたことがある者なら、自らの言葉の貧弱さ、脆さに絶望したことがあるのではないだろうか。どんなに言葉をつむごうとしても、想いの百分の一、千分の一も伝えられない。回りを見渡せば、自分の想っているようなことを、もっとうまく、もっと的確に表現している人間がごまんといる。ほんとうは自分が表現をする必要も、価値もまったく無いのではないかという考えも浮かぶ。伝えたいことは山ほどあるのに、何から伝えていいのかわからない。どうやって伝えたらいいのかわからない。そうやって言葉を詰まらせ、呆然と立ち尽くしているうちに、次々と新しい出来事がおこったり、新しい考えが浮かんだりして、想いは上書きされてしまう。そして最後には想いは薄れ、風化していき、伝えたいことが何だったのかさえわからなくなってしまう。後には「何か語りたいことがあったはずだったのに」という、想いの残滓だけが、澱みのように心の奥底に残っていく。
たとえ語彙が貧弱でも、表現がつたなくても、とにかく自分の思いを形にしようという意志を持ち、必死で筆を動かし書き記るしていく速度、その速度が、自分の中に生まれた想いが風化し消えていく速度を上回った瞬間、その瞬間にだけ初めて誰かへと伝わる言葉が生まれる。後で振り返って、自分の書き記した言葉の脆さに絶望し、悔悟することになるとしても、結局人間にはそうやって言葉にする以外、想いを表現する手段はないのである。
……と、これが月間更新と言いつつ17ヶ月も放置してしまったことへの言い訳であり、今また再び性懲りもなく書き出した理由でもある。
思潮社版「寺山修司詩集」は、寺山修司の代表的な短歌・詩・評論のほか、映画「トマトケチャップ皇帝」のシナリオなどが収録されている。1972年の初版より版を重ねつづけて現在でも市販されおり、寺山修司の詩集の中では最も長く読み継がれている本ではないだろうか。とはいっても、収録されている詩歌の多くは他の文庫本などでも読むことが可能なので、この本を他の本と分けて特徴付けているものがあるとすれば、前半部に収録されている未刊詩集「ロング・グッドバイ」の章の部分だろう。冒頭の「事物のフォークロア」の他、寺山修司の演劇や映画の中で劇中詩として使われたものなど、多くの詩篇の中でもかなりバラエティに富んだ内容になっている。
おれはおれ自身の重力だった そしておれ自身の揚力でもあった
*
書きとめられる前から航空工学はあった 記憶される前から空はあった そして 飛びたいと思う前からおれは両手を広げていたのだ
(本文11ページ「人力飛行機のための演説草案」より)
最後に 二人の名前を消す 二人が同じ場所で出会うために
(本文13ページ「消されたものが存在する」より)
退屈はカメ それを追い越すウサギは想像力
(本文26ページ「ロング・グッドバイ」より)
これらの詩に共通していえることは、話し言葉を書きとめていったような不思議な速度があり、リズムがあることだ。それは声に出して読まれることを前提としているからだろう。以前にも記したが、寺山は「活版印刷の発明は詩人に猿轡を嵌める行為だった」と語り、常に肉声で伝わるダイアローグ(対話)としての詩を目指した。どんな速度で、どんな声で読まれるかによって、これらの詩の魅力はまったく違ったものになってくるだろう。事実私は、ロックミュージカル「時代はサーカスの象に乗って」(’99、昭和精吾事務所)の中で「マルのピアノにのせて時速100キロで大声で読まれるべき六五行のアメリカ」が、ミュージカル「さよならの城」(’02、メジャーリーグ)の中で「事物のフォークロア」が生きた人間の声によって発せられたときに、強い衝撃を受けた。この詩集が大好きになったのはそれからである。
ぜひあなたも、機会があれば、肉声で読まれるのを聞いてみてほしい。そしてあなた自身の声で、あなた自身の速度で、読んでみてほしいと思う。