寺山修司・今月の一冊(2006年2月)

『墓場まで何マイル?』
(角川春樹事務所/2000年5月初版発行/編集:白石征)

 


 

1983年5月4日、寺山修司47歳で没。病床でも疾走の速度を落とすことなく、あの世へと駆け抜けていった、そんな最期だった。寺山修司の最晩年の作品と未刊行作品を集めたのが、本書である。「墓場まで何マイル?」というタイトルの通りに、「死までの距離」、言い換えれば「自分の残り時間」というものが明確に意識されているのが印象的だ。

 まずは第二章。ここでは、「週間読売」に隔週執筆されていたエッセイ「ジャズが聞こえる」を全作収録している。絶筆となった原稿「墓場まで何マイル?」は、この連載の八回目だった。「私の墓、私のことばであれば、充分」の結びの言葉とともに、絶筆となった回が寺山の「遺書」とみなされている。だが連載を通して読めば、どの回で終わっても遺書と呼べるほどに、つねにみずからの死を予見していた様子がうかがえる。

 

時がくると、私の人生にはピリオドがうたれる。

 だが、父親になれた男の死はピリオドではなく、コンマなのだ。

 コンマは、休止符であり、また次のセンテンスへと引き継がれてゆくことになる。

(本文55ページ 「Dig」より)

 

 また第七章では、死の前年の演劇評論家・扇田昭彦氏によるインタビュー「私を撃つ」が収録されている。寺山が自分の創作活動を総括した文章として、読み応えがある。
 父が戦死し、母が出稼ぎに出て、親戚の元に預けられていた少年時代の「家族という定型」への憧れが、短歌という「定型」の創作活動へと寺山を向かわせた。それは「私」や「家族」というモチーフへ内向していくことでもあった。だが成人後に帰郷し、故郷を客観的に見つめ直してからは、短歌という定型詩に別れを告げ、「虚構として故郷」・「私/家族の解体」を表現する方向へと向かったのだ。

そこから先は我々の知っているとおりである。評論集「家でのすすめ」で家を捨てなければ若者は自立できないと説き、ラジオドラマ「大人狩り」では「暴力と革命を扇動する作品だ」と避難され、映画「書を捨てよ、町へ出よう」ではスクリーンの向こうから怠惰な観客を挑発し、市街劇「ノック」で一般市民の日常の現実を脅かした。

あらゆるジャンルの解体を目指した寺山修司。それはまさしく「私」というものを撃ち、破壊する作業だった。その寺山が、このインタビューの中で意外にもこうもらしている。

 

それは自分をある意味で、自分の演劇論を裏切ることになるわけだけど、物語性の強い、定型の歌舞伎かなんか一本やってみたい。落語であるよね、ソバ好きでたれをつけずに食べてたやつが、死に際に、一度だけ、たれをたっぷりつけてソバを食いたかった、っていうやつ(笑)。あの心理だな。

(本文243ページより)

 

 「死」を目前にして、寺山は最後の最後に外部から内部へと戻ろうとしたのだ。それは「私」や「家族」という内面、定型の世界へと帰ることであった。この頃再び短歌を作ろうとし、「雷帝」という俳句の同人誌を創刊しようとしていたのも、そのためだろう。だが寺山歌舞伎も、俳句・短歌活動の再開も実現することなく、寺山は死んでしまった。残念だが、それこそが寺山らしい、とも思う。やはり「永遠の前衛」というフレーズこそが、寺山にはふさわしい。彼は最後まで、無限の外部を目指す者だったのだ。

 

ぼくは

世界の涯てが

自分自身の夢の中にしかないことを

知っていたのだ

(本文257ページ 遺稿「懐かしの我が家」より)

 




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2006年1月
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