寺山修司・今月の一冊(2006年1月)

『馬敗れて草原あり』
(新書館/1989年新装版初版発行/カバー:宇野亜喜良)
 


 2005年10月23日、菊花賞をディープインパクトが制し、史上2頭目の3冠馬となった。私はたまたま入ったラーメン屋のラジオで、その中継を聞いた。解説者がその圧倒的な追い込みの速さを「解き放たれた矢のように」と美しく例えたとき、不意に目頭が熱くなった。「ああ、これは詩だ」と、思ったからだ。私は寺山修司の「八頭のサラブレッドが出走するならば、そこには少なくとも八篇の叙事詩が内包されている」という言葉を思い出していた。

 

『馬敗れて草原あり』は1971年初版発行。新書館の寺山修司競馬エッセイシリーズの第1弾として刊行された本である。寺山は多くの顔を持っていたが、そのうちの一つが競馬評論家としての顔だった。演劇でも映画でもアイロニーに満ちた語り方をする寺山だが、競馬について話すときはそれがなく、驚くほど素直に自分の心情を語る。おそらく本当に競馬が好きだったのだろう。思い入れたっぷりに語られる言葉の全てが詩に変わる、そんな魅力が寺山の競馬エッセイにはある。

競馬場で彼を見かけると必ずツキが落ちるという見知らぬ男の話に始まり(「死神」)、中世の凶悪な犯罪者と同名の馬に同じ悪の匂いを感じ取り(「悪の華ジルドレ」)、不運な血統の馬モンタサンに一篇の詩をささげ(「モンタヴァル一家の血の呪いについて」)、理性的認識に支配された世界の中で、エロス的現実によって成り立っているのがレースだと語る(「過去は故郷とは呼ぶな」)。競馬について語りながら、結局のところそれは馬に賭ける人間について語ることなっていく。

 

だが、私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである。この二つの警句はよく似ているが、まるでちがう。前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである。

(「栄光何するものぞ」より)

 

「競馬ファンは馬券を買っているのではなく、自分自身を買っているのだ」と、寺山は良く言っていた。たとえば現在、連戦連敗記録を更新続けるハルウララがなぜあれほどの人気を集めたのか?それは同じように負け続けの人生を送る百万の人間たちの、「いつかは自分も勝てるはずだ」という希望が込められていたからに他ならないだろう。どの馬に勝って欲しいかは、すなわち自分がどう勝ちたいかに他ならない。

自分は逃げ馬か、追い込み馬か?自分は良血か?今日は重馬場?このレースは重賞?今は人生の第何コーナー?今日は勝てるのか?明日は?誰もが馬に賭けながら、自分自身に対してそう問いかけている。

人生は終わりのないレースである。追いすがる我々に何馬身差もつけて、はるか彼方へと自分のレースを駆け抜けて去って行った寺山修司が、そのことを思い出させてくれる。そしてどんなに悪条件でも、このレースを途中棄権することはできない。生きているかぎり、走り続けなればならないのだ。

 

さて、今では入手が難しいかもしれないが、できれば1989年初版の新書館新装版を読んで欲しいと思う。武市好古の解説の中で、寺山の「遊びについての断章」という未収録原稿が紹介されているからだ。寺山がJRAのコマーシャルのために書き下ろした詩で、実際のCMでは短くされて、寺山自身のナレーションでオンエアされた。CMの方は数十秒間に寺山節が詰まった名作であるが、元の詩も寺山の競馬哲学の集大成とも呼ぶべき内容で、最後はこんな言葉で締めくくられている。

 

人はだれでも二つの人生を持つことができる

遊びは、そのことを教えてくれるのです

(「遊びについての断章」より)




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