寺山修司・今月の一冊(2005年12月)

『青少年のための自殺学入門』
(河出文庫/1994年初版発行)

 

 



「人生、どう生きるべきか」について語りたがる大人というのはたくさんいるだろうが、「人生、どう死ぬべきか」について語ってくれる大人というのはあまりいないだろう。

『青少年のための自殺学入門』、1979年初版本発行。『家出のすすめ』を書いた寺山修司らしい、じつに挑戦的なタイトルである。作者自身による序詞と死についてのエッセイに始まり、上手な遺書の書き方、自殺の方法・時間・場所の選び方、心中のすすめ、古今東西の有名な自殺者や死にまつわる名言の紹介、天井桟敷に下宿していた家出人の死にまつわる手記など、その話題は多岐に渡っている。

1994年に河出文庫版が発行された当時は、『完全自殺マニュアル』という本がベストセラーになっていた時期でもあるが、この本は「自殺入門」ではなく、「自殺学入門」である。ただ「死ぬ」ための本であるのではなく、「死について考える」ための本でもあるのだ。寺山風に言うなら、「死について考えることも、死ぬことの一部」なのだろう。

 

遺書は、書き終わったら、すぐ封をしないで、かならず読み返す必要がある。大切なことを書き抜かしていたり、言いすぎや、不備な点があっても、死んでからは“書き直し”ができないからである。(「上手な遺書の書き方」)

 

「人生が、いちばん安上りの遊びである。死が、いちばん高くつく遊びである」(「遊びについての断章」より)という自身の言葉通り、死について語りながら寺山はつねに遊び心を忘れない。それは死を遊戯化し、異化することで、その意味を問い直す作業でもある。それが最も明らかになるのは、「自殺のライセンス」の章である。

 

自殺の価値を守るために“事故死”や“他殺”“病死”と“自殺”との混同を避けたい。ノイローゼで首を吊った、というのは病死だし、生活苦や貧乏に追いつめられてガス管をくわえて死んだのは〈政治的他殺〉である。(中略)何かが足りないために死ぬ――というのは、すべて自殺のライセンスの対象にならない。なぜなら、その“足りない何か”を与えることによって、死の必然性がなくなってしまうからである。(「自殺のライセンス」)

 

このライセンスに当てはめるなら、世の自殺のほぼすべては「他殺」か「病死に」に分類されるだろう。「さかさま」に世の中を見据えるひねくれ者の寺山らしく、死について語りながら、結局のところ寺山は裏返しに「生きろ」と言っているのだ。

実際、解説文で柳美里も語っているように、寺山ほど自殺の似合わない者はいないだろう。18歳でネフローゼを患って以来、47歳で夭逝するまで、病と闘いながら作家人生を駆け抜けた。晩年はベッドに横たわりながら演劇や映画の演出を続け、死後の2年間先までスケジュールはいっぱいだった。もっと生きたい、もっと時間が欲しいと思うことはあっても、死にたいなどと思っている暇はなかったはずだ。

安易に自殺する者を寺山は許さない。自殺はすべてに充足した人間だけに許される快楽であり、特権階級に占有されるべきものなのだと語る。それは生きる自由を売り渡すだけでは飽きたらず、死ぬ自由までも他人に売り渡してしまっている者たちへの、侮蔑と激励の入り混じった、アジテーションである。「本当に死ぬ前に、お前は本当に生きたといえるのか」と。

 

さて、同じ「自殺のライセンス」の章で、寺山は自殺の値打ちもない男として、「1.早漏、性器短小になやんでいる男。2.大学受験に失敗した男。3.ローリング・ストーンズを聞いても何も感じない男。」など、14種類の例を挙げている。これによるとどうやら私にも、まだまだ自殺の資格はないようだ。いつでも自由に死ねるように、もっともっと自由に生きなければならない、と思うのである。