寺山修司・今月の一冊(2005年11月)
『寺山修司青春歌集』
(角川文庫/昭和47年初版発行/カバー:林静一)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽の我は両手を広げていたり
(『初期歌篇』より)
少女が海を知らなかったのは、何故だろう?
海から遠く離れた内地で育ったからかもしれない。それなら少年は少女に海の話をし、かわりに少女は少年に山の話をしただろう。
あるいは少女は病弱で、部屋から出たことがなかったのかもしれない。それなら少年は、少女の心を慰めるために、海以外にも空や街のいろんな話をしただろう。
あるいは少女はただ単に幼かっただけなのかもしれない。遠くまで出かけたことのない年下の少女に、自慢げに海の話をする少年。ほんとうは知ったかぶりをしているだけで、少年も海を見たことがないという可能性だってある。
そして両手を広げた、その後。少年は少女を連れ出して、海を見に行ったのだろうか?
たった一首の短歌が、こんな風に想像力を刺激してやまない。寺山修司と、その時代に現れた前衛短歌が新鮮だったのは、実体験を歌うことが大切とされてきた短歌の世界で、虚構を物語ろうとしたことだ。それはいわば、たった31文字で構成された、この世で一番短い短編小説なのだった。『寺山修司青春歌集』には、寺山の代表的な短歌のほとんどが収録されている。それは無数の物語の詰まった、言葉の宝箱である。初めて読んだ日から、わたしは一体何度この本を読み返したかわからない。気に入ったいくつかの歌は口に馴染んで、暇なとき、寂しいとき、まるで知らずに覚えた流行歌のように、口をついてできた。ぜひ声に出して読んでほしいと思う。寺山修司は活版印刷の発明を「詩人に猿轡を嵌める作業」であり、「吟遊詩人から生きた言葉を奪ってしまった」と語ったが、本当の詩歌というのは声に出して読まれることで完成するものだと思うから。「声に出して読みたい日本語」なんて本がベストセラーになるはるか前から、寺山修司はそのことを知っていたのだ。
一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき
マッチ擦るつかの間海に霧ふかし見捨つるほどの祖国はありや
(第一歌集『空には本』より)
地下水道をいま通りゆく暗き水のなかにまぎれてさけぶ種子あり
わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
(第二歌集『血と麦」より)
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな
(第三歌集『田園に死す』より)
寺山修司の歌人としての活躍は、10代後半から20代にかけてのことである。中学・高校時代から短歌や俳句を書き始め、早稲田大学に入学した昭和29年、第二回短歌研究新人賞を受賞してデビュー。その直後ネフローゼを患って入院、3年間の闘病生活を余儀なくされる。退院後は歌人として活動しつつ、ラジオドラマや映画のシナリオを書いたりして、その活動の場を広げていった。昭和38年には九条映子と結婚。そして昭和40年に『田園に死す』を刊行してからは短歌をほとんど書かなくなり、『寺山修司全歌集』(昭和46年)で短歌を「31文字の言葉の牢獄」と断じて「歌のわかれ」を宣言する。そして「書を捨てよ、町へ出よう」を合言葉に、より血の通った言葉を求めて演劇の世界へと旅立っていき、短歌の世界へ戻ってくることはなかった。『青春歌集』の題名のとおり、短歌は彼の青春時代とともにあり、青春時代とともに失われたのだ。
2005年夏、角川文庫版のカバーは、長く愛されてきた林静一のイラストから、新津保建秀撮影のポートレイトに代わったが、「少女」のイメージは共通している。少年の記憶には、いつも寄り添うように一人の少女がいるらしい。それはたとえば実在した誰かではなく、少女に憧れる思春期の少年の想像力が生み出した、「初恋の幻想」のようなものなのかもしれない。
夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
(『初期歌篇より』)
さて、さきほどの問いに戻ろう。少女は海を見られたのだろうか?
寺山は後年、「海を見せる」(『少女詩集』収録)という文章の中で、この短歌について解説している。それによると、「病院の少女に海を見せてあげようとして、バケツで海の一番青いところを汲んで持っていったが、バケツに汲まれた海はただの水になってしまっていた」そうである。少女は病弱だったという説が正しかったわけだが、少女が海を見られたのかについては触れられていない。
もちろんそれが虚構である以上、答えなどない。
でも私には、見えるような気がするのである。
砂浜で寄り添い合いながら、いつまでも潮騒の音に耳を澄まし続ける、二つの小さな影が。
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