すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「火を喰う者たち」 デイヴィッド・アーモンド (イギリス)  <河出書房新社 単行本> 【Amazon】
1962年9月2日、人々が第三次世界大戦の勃発を心配するキューバ危機のさなか、ロバート・バーンズ(ボビー)は母と行ったニューキャッスルで、マクナルティーを見た。 小柄で体中に刺青、みずからの頬を串刺しし、火を噴く大道芸人マクナルティー。あとで父に話すと驚いたことに、父は前の戦争でマクナルティーと一緒だったことがあると言う。 戦争によって、マクナルティーの精神は常軌を逸していたのだ。ボストングローブ・ホーンブック賞、スマーティーズ賞受賞作品。
すみ 初めて読んでみました、デイヴィッド・アーモンドです。
にえ わざわざ私が説明する必要もないだろうけど、デイヴィッド・アーモンドはデビュー作の「肩胛骨は翼のなごり」でカーネギー賞とウィットブレッド賞をダブル受賞し、これですでに邦訳本は5冊め。 なんとなくの感覚で言うと、翻訳本のYAでは今もっとも日本で人気のある作家さんじゃないかな。
すみ 人気あるよね〜。私なんか、最初の「肩胛骨は翼のなごり」でおくれをとってしまって、それ以来ずっと読み損ねていたから、内心ちょっと焦ってた(笑)
にえ でも、この「火を喰う者たち」はこれまでの作品とはちょっとテイストが違っているみたいだよね。前4作はもっと幻想的というか、超自然的なものが出てきたりするみたい。
すみ となると、これはデイヴィッド・アーモンドにしては珍しく地味な設定ってことになるんだろうね。超自然的なものはいっさい出てこなかったし、ストーリーじたいも現実であり得る範囲って感じだし。
にえ 読みながら、著者自身の子供時代の思い出が色濃く反映されているのかな〜なんて思ったけどね。登場人物たちが、じゃなくて、町の雰囲気とか、主人公の感じ方とかだけど。
すみ 舞台はキーリーベイっていう、石炭がとれる海辺の貧しい町なんだよね。石炭というと炭坑を掘って〜というイメージしかなかったけど、ここでは海に石炭があって、砂浜で石炭を掘るというか、拾うというか、そんな感じ。
にえ 時はキューバ危機真っ最中の1962年、人々はテレビで激化する米ソの対立を見ながら、第三次世界大戦が始まっちゃうんじゃないかと不安になっているところ。
すみ その不安については、私たちの感覚とはちょっと違うよね。主人公のボビーの父親もそうだし、他の大人たちもまだ前の戦争に行って帰ってきた人とかが多くて、戦争の記憶がなまなましくて。世界大戦というのが遠い存在ではなくて、 いつまた起こっても不思議のないものという感覚でとられられていて。
にえ ボビーの父親はときおり、ガスマスクとか引っぱり出してきて、ボビーに戦時中の話をしてくれていたよね。経験した者にしかわからない戦争の怖さ、嫌さを伝えようとしていた。だからこそ、キューバ危機にも敏感になっていたけど。
すみ ボビーの父親は船の整備工場で働く整備士なんだよね。いわゆる低層の労働者階級で、貧しい町キーリーベイでは平均的な住人ということになるのかな。でも、主人公のボビーは、そういう労働者階級の子供が行く学校じゃなくて、地元の名門セイクリッド・ハート中学校への進学が決まっているんだけど。
にえ 近所に住んでいる仲良しの女の子エイルサも、セイクリッド・ハート中学校の入試に合格しているんだよね。ただ、この子は亡くなった母親に変わって父と兄のために家事を引き受けたり、石炭収集の仕事も手伝っていたりして、進学は諦めているみたいだけど。
すみ もう一人仲のいい同い年、ジョゼフ・コナーは頭も良くなくて、そのまま労働者階級の子供たちの行く学校へ通うみたいだけどね。
にえ ジョゼフはもう刺青を入れはじめてたりして、ちょっと不良だし、口のほうも手のほうも乱暴だったりするけど、根は優しい子だよね。ボビーは頭がいいから、いつかこの町を出て大学へ行って、それきり縁も切れるんだろうな、なんてちょっと淋しく言ってみたりもして。
すみ そこにケント州から引っ越してきたダニエルという子が現れたり、マクナルティーとの出会いがあったり、進学したセイクリッド・ハート中学校でいろいろあったりするんだよね。
にえ ダニエルは両親とも大学で教鞭を執ってる、いわゆるエリート家庭の子供で、核兵器廃絶運動のバッチをつけてたりするんだよね。なんか違うって感じがプンプン。ボビーとは同じ中学校へ行くことになるけど、ダニエルを見るなり反発を感じるジョゼフの気持ちはわかる。
すみ ボビーはダニエルの目を通して、客観的にキーリーベイを、そしてキーリーベイに住む自分たちの姿を見ることになるよね。常に感じていた人々のつながりのあたたかさや優しさも、故郷に感じる親しみも、他から来た人の目を通すと、みすぼらしくて、やるせないばかり。ちょうどそういう見方ができるようになる年頃だよね。それでも愛を保つっていうことは、この年頃には難しいことじゃないかと思うんだけど、ボビーはサラリとやってのけてしまったなあ。
にえ 一方的に暴力をふるってくるジョゼフに対してもそうだし、学校での闘いの時もそうだったけど、ボビーっていうのは見た目と違って、決して折れない強さのある子だよね。
すみ 根っから強いっていうより、強くあろうと踏ん張ってる感じだったけどね。だからこそ、だれにも知られないところではひたすら祈っていたんだろうね。弱さを支える頼りが欲しくて。
にえ ここでの祈りはキリスト教的な祈りというより、もっと素朴な祈りだったよね。教義とかそういうものを信じるんじゃなく、ただ祈り、祈ることによって救われることを望むような、世界共通の素朴な祈り。それに対して学校で強制されるのは、もっと政治的な宗教感のある濁った祈りだった。読んでいて、その違いを意識したなあ。
すみ 素朴な祈りもそうだったし、とにかくボビーを通して見る世界は澄んでいて、でも、不安とかのいりまじったくすみもある、独特な美しさがあったよね。
にえ うん、ジワーンときた。この大人でも子供でもない年頃の子じゃないと見ることができない不安定な世界の美しさがハッキリと実感できた。あ、あとさあ、これを読むとどうしても「あいよ」が連発されているのが気になると思うんだけど。
すみ この場合の「あいよ」は方言的な意味あいだよね。ここの地元の人だけが「はい」と言わずに「あいよ」と言う。毎回そうだけど、方言を含む原文の翻訳文っていうのは読む方にとっても悩まされるね。
にえ そうそう、日本語で「あいよ」は方言じゃない感じがするから、「んだ」とかのほうがいいかな〜とも思うけど、実際に「んだ」とかにされちゃうと、どうしても日本の特定の地域のイメージで固まっちゃうから、それはそれで読むうえで邪魔になったりして、結局は文句を言う私たちになったりして(笑) これはもう、読んでる方もどこかで妥協するしかないかな。
すみ 私は可愛いと思ったけどね、「あいよ」は。この内容だと、「神秘な指圧師」みたいに会話部分をすべて方言にしてしまうのは明らかにやりすぎになっただろうし。ただ、巻末の訳者あとがきで、こういう読者がどうしても引っかかりそうなところについては、ちょっと触れておいてほしかったかな〜とは思うけど。
にえ まあ、でも、そんなことにはこだわっていられないぐらい、切なく美しい小説だったよね。不安に満ちていて、それが身近な不安から、世界への、その未来への不安にまで広がっていくんだけど、メソっとするような弱々しさがないから息が詰まらずに読めたし。オススメです。