すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「狂気」 ハ・ジン (中国→アメリカ)  <早川書房 単行本> 【Amazon】
山寧(シャンニン)大学の院生、萬堅(ワン・ジエン)は、北京大学の博士課程で古典文学を研究すべく、受験勉強のまっ最中だった。ところが、師と仰ぐ楊(ヤン)教授が脳卒中で倒れ、その看病で受験勉強どころではなくなってしまった。 楊先生の妻は獣医団の一員としてチベットに赴いており、萬堅の婚約者でもある一人娘の梅梅(メイメイ)は、北京大学で、萬堅と同じく大学院の受験勉強のまっ最中、なかなか大学を離れることができなかった。高潔の士であり、学者の鑑と讃えられてきた楊先生は、検挙で温厚な性格でもあり、 第一の弟子といわれる萬堅にとっても、他の多くの学生たちにとっても、尊敬され、慕われる存在だった。しかし、病に冒された楊先生は、別人のような暴言を吐きはじめた。
すみ ハ・ジンは「待ち暮らし」から2冊めの邦訳本です。
にえ やっぱり、ハ・ジンは良いっ、良いです〜っっ! 「待ち暮らし」がとても気に入ってしまったんだけど、他の著作はまたちょっと違うみたいだし、どうなんだろうと不安でもあったけど、これでわかった、ハ・ジンは間違いないっ。
すみ でも、「待ち暮らし」とこの「狂気」はだいぶ趣が違うよね。「待ち暮らし」はダラダラ、ウネウネと進む感じが、不思議と東洋を意識させるようなところがあったけど。
にえ これは最後の最後になるまで、ミステリー? サスペンスもの? と思っちゃったよね。
すみ うん、それほどテンポが速いとはいえないんだけどね。でも、謎が徐々に解き明かされ、表面的に見えていた人間関係が、謎が解き明かされるとともにガラリと変わって見えるという展開に惹きつけられ、読みだしたら止まらなかった。
にえ 北京大学の大学院受験をめざす萬堅が、恩師であり、婚約者の父でもある楊先生の看病をするところから、話は始まるの。
すみ 楊先生は、文学部教授で、文革時代には知識人であるがために”牛鬼蛇神(ニウグイシャーエン)”と呼ばれ、週に一度は大学じゅうを引き回されたりと辛酸をなめたけれど、それでも清廉潔白、学問だけに取り組み続けた高潔の士。ところが・・・なのよね。
にえ ところが、脳卒中で倒れ、病院のベッドで寝ている楊先生はまるで別人。文革時代の歌を大声で歌い、毛沢東を讃え、童謡を歌い、京劇の一幕を演じ、金が欲しい、大きな屋敷がほしいと喚き立てる。あげくに、奥さん以外の女性との情事を再演してみせる。萬堅はただただ驚くばかり。
すみ でも、驚くだけじゃなく、そのうちに、そういう別人のような言動が、単に病気のために常軌を逸しているだけなのか、それこそが楊先生の本心なのか、悩みはじめるのよね。
にえ それに加えて、見舞いに来る人たちの言動に、いつもと違うものを感じたり、なにやら秘密が隠されているらしきことに気づいたり。
すみ 先生の知られざる過去についてもしだいにわかってくるけど、まずは、誰との何が原因で、楊先生が脳卒中になったかってことだよね。
にえ 最初に疑うのは文学部の党支部書記、彭英(ポンイン)でしょ。この人は学歴のない女性なんだけど、大学での立場は上。どうやら楊先生がカナダで行われた学会に出席したとき、サンフランシスコの知人のもとに立ち寄ったのが問題になっていて、かかった費用の1800ドルを大学に返済するよう、楊先生に迫っていたみたい。でも、それは表向きで、他にもまだまだ隠していることがありそうな様子。
すみ あとは、楊先生が倒れるまではさほど親しくなかったのに、倒れてからはやたら病室を訪れる黄(ホアン)副学長やら、李白の生誕地で楊先生と仲違いして以来、犬猿の仲になってしまった宋(ソン)教授あたりかな。
にえ ブレヒトの「セチュアンの善人」を楊先生と共訳した外国語学部の講師、王凱玲(ワン・カイリン)も、もしかしたら先生の愛人で、なにか揉めていたんじゃないかと疑うところありよね。
すみ 複雑な人間関係の謎が解けていくと、そんな秘密が隠されていたのかと驚くばかりよね。表面的にしか見えていなかったこととは大違い。おまけに巧妙な罠が仕掛けられていたのよ。
にえ でも、この小説はそういう、単なる謎解き小説ってわけでもないのよね。楊先生に導かれ、なにも疑わず、ひたすら学問の道を進む萬堅は、別人のような先生の言動、それに友人たちとの関わりなどから、 しだいに自分の進むべき道を模索しはじめるの。
すみ とくに親しい友人は、萬堅とともに楊先生のもとで学んでいた二人の院生、班平(バンピン)と維亞(ウエイヤ)だよね。班平は貧しい農村の出身で、頭が良くないけど、生きていくということに対して迷いがなく、下級官吏になろうとしている青年。維亞はきれいで頭もよく、性格も穏和な女性だけど、なぜだか恋愛とは無縁な人。
にえ 班平は自分とはまったく違う人間だから、維亞は自分と似たところがある人間だから、萬堅は話すことで刺激されるんだろうね。萬堅もまた文革時代には、父親が知識人だったために苦労をして、孤独な少年時代を過ごしたから、似たような経験があり、しかも、似たように穏やかな維亞を大事に思っているみたい。
すみ 友情が愛情に変わるかなとも思ったけど、きわどいところで友情を保ちつづけるよね。萬堅には、梅梅(メイメイ)という婚約者がいて、好きで好きでしょうがないみたいだからってのもあるんだろうけど。
にえ 梅梅は、かなり気が強くて、若さゆえか、思いやりに欠けるところのある娘だよね。自分の道を迷わず突き進むタイプだから、萬堅にとっては惹かれるところがあるんだろうけど。
すみ そして、中国では学生運動がどんどん盛んになっていき、とくに北京では学生と警察、軍隊とのぶつかり合いも頻繁に。そういうことにはいっさい興味を示さない萬堅だったんだけど・・・。
にえ 大きな闘争のなかに個々人の理由があるっていうところ、あれはハッとさせられたな。本当にそうだよな〜と思った。こういう見方を提供してくれるんだから、やっぱりハ・ジンは読むべき作家だなとあらためて思ったし。
すみ そうそう、巻末解説を見て驚いたんだ。英語で書くようになって10年もしないうちに作家となり、小説や詩で、全米図書賞、PEN/フォークナー賞、PEN/ヘミングウェイ賞、フラナリー・オコナー賞、アジア・アメリカ文学賞と、権威ある賞を次々にとりつづけているハ・ジンだけど、話すほうはあまり流暢ではないんだって。その英語力で、賞をとるほどの小説が書けるものかと、かなり驚かれているみたい。
にえ アメリカで、英語の小説を書きながら、あくまでも舞台は中国というところも珍しいみたいだしね。というか、高行健の重い中国とも、莫言の激しい中国とも違うんだよな。この二人より、日本人が理解しやすい近さがあるような気がする。もっと普通に入りこめるというか。でも、最後のほうはちょっとハードだけど。とにかく、オススメ!