すみ=「すみ」です。 にえ=「にえ」です。
 「その名にちなんで」 ジュンパ・ラヒリ (アメリカ)  <新潮社 クレスト・ブックス> 【Amazon】
1968年8月、アシマ・ガングリーはセントラル・スクエアのアパートで産気づいた。アシマも夫のアショケもインドの出身で、このアメリカは故郷ではない。 ある事故がきっかけで、アショケは故国を旅立ち、アメリカの大学で学び、教職を得た。その妻となったアシマもアメリカに来ることになったのだ。 生まれてきたのは男の子だった。アシマの祖母が名前を付けてくれることになっているのだが、祖母が送ってくれた手紙はいつまでも届かない。名前がなければ退院もできない。 しかたなく二人は、ひとまずゴーゴリと名付けることにした。それはアショケが故国を旅立つきっかけとなったあの事件をきっかけとして忘れがたいものとなった、「外套」を書いたゴーゴリに由来する名前だった。
参考図書:ゴーゴリ「外套・鼻」 岩波書店・文庫
すみ 短編集「停電の夜に」で私たちを魅了してくれたベンガル人作家ジュンパ・ラヒリの初長編小説です。
にえ いやあ、短編集が良かっただけに、正直なところ、長編小説は期待しすぎないほうがいいかなと思っていたけれど、杞憂だったね。
すみ ガラッと変わって、ということではないのよね、短編小説の魅力がそのまま長編小説にもなって、だからといって、間延びした感じにもなっていなくて。
にえ 読み始めたとき、「停電の夜に」のラストを飾った短編「三度目で最後の大陸」の続きみたいな感触だなあと思ったんだけど。
すみ そうだね、インドのカルカッタ出身でアメリカで暮らす男が、カルカッタで見合いをして、花嫁をアメリカに連れてくる。あの短編とはちょっと設定が違うけれど、アメリカでどうにか地盤を固めはじめた男と、 インドから連れてこられた初々しい花嫁、二人は互いのことをあまりよく知らない、そういう共通するところが多くて、私も、あら、と思った。
にえ 短編の方だと、これからアメリカで二人が暮らすことに明るい希望が見えてくるところで終わっているけど、この小説はその先だよね。
すみ お嫁さんのアシマはとりあえず英語が話せるけど、やっぱりだれも知り合いのいないアメリカで暮らすのは心細い。そんなアシマを支えてあげたいけど、自分自身の夢や希望もあり、経済的にもがんばらなきゃならないアショカ。 そうか、「三度目で最後の大陸」では、単純に、この二人は互いに愛情を少しずつ深めあって、幸せに暮らすことになるんだろうな〜、ぐらいにしか考えなかったけど、当然、こういうことになっていくんだな、なんて感慨深かった。
にえ でも、そこはジュンパ・ラヒリだよね。こんなにガムシャラにがんばりました、とか、不幸が次々に襲いかかって・・・みたいな、大げさにドラマティックな展開を見せるのではなく、もっと滑らかにリアルに進んでいって。
すみ ストーリーだけ説明しようとすると、へたをすると何のおもしろみもない、ただ淡々と一つの家族、アメリカで生まれたベンガル人の青年が成長していく、それだけの話みたいに伝わっちゃいそうで怖いよね。たしかにそうなんだけど、でも、違うの。
にえ 読んでる感触は、なんとも柔らかで心地いいのよね。プールから出て、冷たいシャワーを浴びて、そのあとで肌触りのいいタオルに包まれているときみたいな、ホワンと全身が温かい感じがあって。
すみ うん、アシマの生活には、私たちの想像がつかないような過酷さがあるし、その息子のゴーゴリには激しい葛藤があるんだろうけど、すべてが優しく、温かなものにくるまれているから、ズキズキじゃなく、ジワンジワンと伝わってくるよね。
にえ いくつか、ハッとするようなセリフもあったけどね。そこに至るまでに、ふだんは感情を抑え気味にしている人たちだってむりなく理解できるようになっているからこそ、予期せぬほどの深い愛情を感じさせる、思いがけない心情の吐露に、ハッとさせられてしまうんだろうな。
すみ 柔らか、柔らかといっても、一般的なアメリカ人たちと、ベンガル人の生き方、暮らし方の違いは鮮やかに描かれていたけどね。
にえ ベンガル人どうしの結びつきの強さには驚くほどだったよね。アメリカに暮らすベンガル人どうしってだけで、何の血のつながりもなくても、もう家族なんだね。
すみ 成長していく過程で、ゴーゴリはそういうベンガル人的な考え方に、反発を感じはじめるんだけどね。
にえ それもまた、理解できるよね。アメリカ的な生き方、考え方に慣れてしまうと、強い結びつきを持ったベンガル人の輪がものすごく煩わしく感じられるし、 私たちから見ると、そういうのっていいなと思うけど、それはあくまでも、一歩離れたところで見ているからだっていうのはわかるし。
すみ ベンガル人どうしの結びつきを大切にして、アメリカにいても、ベンガル人としての儀式や儀礼は忘れないアシマとアショケ、しだいにそんな両親から離れていく息子のゴーゴリと娘のソニア。 ゴーゴリは付き合った女性の家庭における、きわめてアメリカ人的な生活に驚き、感化され、いつしかベンガル人的に生きるより、アメリカ的に生きたいとさえ思うようになり・・・。
にえ それに名前だよね。ベンガル人、アメリカ生まれのアメリカ育ち、なのに、名前はロシア人のもので、しかも名前じゃなく苗字。ゴーゴリはゴーゴリって名前さえ捨てたくなってしまうのよね。そこに両親の、とくに父親のどんな思いが込められているかも知らず。
すみ そうそう、この小説の中でもたびたび触れられるゴーゴリの「外套」を先に読んでみたんだけど、これがまた良かった。滑稽で、おもしろおかしく話が進んでいくんだけど、やがて悲しく、切なくなって。べつに「外套」と直接リンクしてるって話ではないんだけど、やっぱりなんというか、 こっちも読んでおくと、よりジワジワ来るかも。
にえ 何でもうまくいくわけじゃなくて、何もかもうまくいかないわけでもなくて、先に進むしかないんだけど、そこに両手で包み込んでくれるような優しい存在が見えてくるようで・・・、う〜ん、説明は難しいけど、「停電の夜に」を好き、と思った方なら間違いないでしょ。ジュンパ・ラヒリは狙った奇抜さがないのに、やっぱり稀有な作家だと確信させてくれる、ホントに上質な長編小説でした。