・・・・・・鈍い音がする。

 さっきから、遠くで鈍い音だけが聞こえている。
 俺はその鈍い音を聞きながら、目の前にある襟を掴んで…、
 それから、目の前にある男の顔を殴った。
 それを何度も何度も繰り返した。
 ただ繰り返して動かなくなると、襟を掴んだ手を離して終わり。
 俺の周囲には、倒れた男が数人転がっている。
 でも俺から仕掛けたワケじゃなく、あっちの方から襲ってきた。心当たりはあり過ぎてわからないけど、だからって無抵抗でやられる理由も筋合いもない。
 俺は襲ってきた連中が全員倒れると、眠かったのを思い出して手を軽く振りながらあくびをした。

 「暴力反対…、なーんてね」
 
 あくびをしながらぼんやりとそう言うと、俺のいる路地に運悪く入り込んだ女の子がこっちを見る。一瞬、状況が理解できなくて固まってたけど、すぐに顔をこわばらせて表通りに向かって走り出した。
 もしかしたら、警察に通報するつもりかもしれない。
 でも、通報したとしても意味はない。
 俺が望もうと望むまいと、すべてはそういう風に仕組まれていた。

 ・・・・・・俺の知らない所で。

 俺の首に付けられてる鎖は長く、けれど絶対に切れない。
 どこまでも自由だとそう見せかけて、どこまでも縛り続ける残酷な鎖が俺の首を縛り続けていた。
 あの部屋から出た今も、あの部屋にいた昔も…、変わらず…。
 そして、そんな世界は今も昔も変わらず現実味がなかった。
 くわえたセッタの煙の行く先を見つめて見上げた空は、まるで誰かが青い絵の具で描いたように雲一つなく青い。青すぎる空を見つめてると、後ろで倒れてるヤツらも街も何もかもが…、気を抜くと消えてしまいそうだった。

 誰かが見た…、夢のように…。

 住んでる部屋のあるマンションに向かって歩いてると、どこからかパトカーのサイレンが聞こえたような気がしたけど…、
 その音はすぐに消え、そんな音がした事もすぐに忘れる。
 覚えていた所で、何の役立たないし意味もない。
 ただ、サイレンが聞こえた瞬間にやっかいな事になると葛西さんがうるさそうだなぁとか、そんなコトをちょっとだけ思っただけだった。
 葛西さんは俺の叔父で、保護者で身元引受人…ってコトになってる。
 けど、いくら葛西さんでも保護者面して色々と干渉されたくないし、葛西さんもそんなのは柄じゃないと思ってる。だからこそ、一定の距離を保った今の関係が、途切れずに続いてきたのかも知れなかった。
 葛西さんは叔父だけあって、他の誰も知らないコトを知ってる。
 でも、俺の首についた鎖を切る術は、俺と同じように知らない。
 けれど、鎖が切れないワケだけは知ってる。
 俺の首についた鎖が切れないのは、それが赤い血で出来てるせいだと…、

 吐き捨てたくなるような、現実がそこにはあった。

 どこまでも自由に見せかけた自由は、ただの遺棄。
 遺棄された俺の首を引くのは、ただの腐敗。
 間違い腐り切った世の中が…、俺を生かし続けていた。
 どんなに間違いを犯しても、どんなに腐り果てても…、たどり着いたマンションのエレベーターに乗り込みながら握りしめた拳に痛みはない。だから、俺は402号室のドアの前でチャイムを鳴らす頃には、自分が手に傷を負っていたコトも忘れていた。
 
 「ふぁ〜…、今までどこ行ってたんだよ?」

 チャイムを鳴らして少ししてから、そう言ってドアを開けたのは時任。
 時任は俺が裏路地で拾ってきてから、ずっとこの部屋に居ついている。
 そして今日も当たり前のカオして、帰ってきた俺をオカエリと出迎えた。
 だから、俺も当たり前のカオしてタダイマを言って、なんとなく伸ばした手で寝起きで乱れた時任の髪を軽く撫でる。すると、時任はコドモ扱いされたと思ってムッとしたカオしたけど、何も言わずにおとなしく撫でられてくれた。
 ちょっと触っただけでも過剰に反応してた頃と比べたら、たいした進歩。
 でも・・・・・、そう思いながら俺の口元に浮かんだのは苦笑だった。

 「腹減ってない?」
 「腹減った」
 「じゃ、何かテキトーに作るから待ってな」
 「わぁった…。けど、その前にさっきの質問に答えろよ」
 「質問ね。それなら、ちょっち野暮用?」
 「最近、いっつもソレばっかじゃん」
 「じゃあ、所用」
 「行き先言わねぇなら、どっちも同じだってのっ。それに言い方変えただけで、どっちも似たようなモンだろっっ」
 「そう?」
 「・・・・・・・ったく、しょうがねぇな」
 「時任?」

 寝起きの時任は、いつも機嫌が悪い。
 起きた瞬間、小さく唸りながら必ず眉間に皺を寄せる。自力で起きた時はそうでもないけど、眠ってるのを起こした時は眉間に皺を寄せて毛布を被る事がほとんどだった。
 でも今の時任は自力で起きたにも関わらず、かなり不機嫌。
 かなりムッとした顔して腕を引っ張られて、リビングへ強制連行される。
 そして、強引にソファーに座らされた。

 「座ったままだと、メシ作れないんだけど?」
 「すぐ済むから、おとなしく座ってろ」
 「すぐ済む?」
 「タバコの火ぃ消せよ、ケムい」
 「あぁ…、うん」

 時任にそう言われて、おとなしく差し出された灰皿に押し付けてタバコの火を消す。すると、時任は持ってきた救急箱を床に置いて難しいカオをすると、俺の右手を掴んでじっと見つめた。
 だから、俺も忘れていたコトを思い出したように自分の手を見る。
 ついさっきまで、知らない誰かを殴っていた手を…。
 近くに武器になるモノがあれば、こんな風にならなかったんだけど、今日は人数が多かったせいか、俺の手の甲は皮が破れて血が滲んでいた。
 「別にこれくらいたいしたコトないし、手当てするほどじゃないっしょ?」
 俺はそう言ったけど、時任は傷を消毒して手当てを始める。その手つきは少し前までぎこちなかったはずなのに…、今はかなり馴れていて早かった。

 「包帯巻くの…、上手いね」
 「一体、誰のせいで上手くなったと思ってんだ」
 「・・・ごめんね」
 「わかってんなら、気をつけろよ」
 「うん」

 手にできた傷を見て俺が何をしてきたかわからないほど、時任は鈍くない。こういう事に関しては鈍くない所か、誰よりも目ざとく鋭かった。
 なのに、いつも何も言わないで手当てをする。
 傷口を消毒する時、自分のコトでも無いのに痛そうなカオをして…、
 包帯を巻くと、少しホッとしたようなカオになる。
 そんな時任の様子を眺めてると、また無意識に手が伸びていて…、気づくと目の前にある頭を撫でていた。
 「痛くないよ、全然」
 頭を撫でながら俺はそう言ったけど、別に時任に心配をかけたくないからじゃなくて事実だった。本当にこれくらいたいしたコトないし、別に痛みもない。
 痛かったのは、この手に殴られたヤツで俺じゃない。
 そう思いながら俺が手当てのために預けていた手を取り戻そうとすると、時任はその手を捕まえて両手で包み込むように握りしめた。
 
 「・・・・・・っ」
 「痛くないワケ、ねぇだろ」

 俺の手を握りしめた時任の手は、とても優しくて暖かい…。でも、そう感じた瞬間になぜか、今まで感じなかった痛みが包帯が巻かれた手に走った。
 ・・・・・・痛い。
 まるで、ぬくもりに溶かされるように痛みが滲み出て…、
 そこから、現実が襲ってきた。

 「やっぱ、痛いんじゃねぇか」

 下からカオを覗き込まれて、そう言われて目を細める。
 今、感じてる痛みは現実のはずなのに、苦しい痛みでも哀しい痛みでもなく…、たぶん甘い痛みってヤツで…、
 それを自覚すると笑いたくなった。
 
 ・・・・・・・・・・まったく、救いようがない。

 俺を真っ直ぐに見つめてくる綺麗な瞳は、俺の手がどんなに軽く拳銃の引き金を引くのかを知らない。罪悪感も後悔も微塵も無いから、迷うことも躊躇することもないコトを知らない…。
 撃った相手のカオなんて、撃った瞬間くらいしか覚えてない。
 何も痛まないし、何も傷つかない。
 そのクセ感じるのは、こんな甘い痛みだけだ。
 
 「・・・・・最悪だぁね」
 「…って、何が?」
 「ん〜? そー言えば冷蔵庫に何も入ってなかったなぁってハナシ」
 「げっ、マジ?」
 「食パンはあるけど、バターが切れてる」
 「うわっ、マジでサイアク」
 「デショ?」

 カオを見合わせて笑い合うと、痛みが消えて甘さだけが残る。
 すると、いつか誰かに言った自分の言葉が…、脳裏を過ぎった。
 『ね? 良かったでしょ、俺じゃなくて…』
 そんな言葉と一緒に、あの裏路地の暗がりを思い出すと…、
 気を失ってる大きな猫をかついだ時の重さが、やけにリアルに蘇ってきて…、
 その日と同じように両手を伸ばすと、俺はよいしょっと時任を持ち上げて肩に担いだ。
 
 「なっ、なにすんだよっ!!!」
 「いや、なんとなくね」
 「なんとなくでヒトのコト担いでんじゃねぇっ!」
 「せっかくだから、このまま買いモノにでも行く?」
 「だ、誰が行くかっ! さっさと降ろせっ!!」

 俺の肩の上で、大きな猫がジタバタと暴れる。
 あの日と違って大きな猫は、元気でとても生きが良かった。

 「やっぱ重いわ…、お前って」

 そう言うと猫はムッとして更にジタバタ暴れたけど、裏路地で拾った猫は俺が思っていた以上に何もかもが重くなっていた…。
 その重さは、甘い痛みを感じるほどに…、
 そして、引き金を引く指を止めるほどに重く…。
 けれど、同じように引き金を引く指をどこまでも軽くもする。でも、それを改めて知った所でどうにもならないし、口元には苦笑しか浮かばない…。

 やっぱり…、どこまでも救いようが無かった。

 俺のコトを人さらいとかヘンタイとか言ってる時任を床に降ろすと、俺は包帯の巻かれていない方の手で時任の頬をゆっくり撫でる。すると、時任は少し頬を赤くしながら、くすぐったそうに首を縮めた。

 「チャーハンとカレー…どっちがいい?」
 「カルボナーラがいいっ」
 「…って、二択なんだけど?」
 「じゃ、三択に変更」
 「うーん、手伝ってくれるならね」
 「つーか、今日は俺様が作る。久保ちゃんは手ぇケガしてんだろっ」
 「けど、カルボナーラ…、作ったコトあったっけ?」
 「ないっ!」
 「・・・・・・・だろうね」
 「でも、天才な俺様に不可能はないっ。作るからには、絶対にウマいカルボナーラ作ってやるっ」
 「はいはい、期待しないで待ってるから」
 「期待して待ってろよっ」

 夢のような現実…、現実のような夢…。
 俺にとってどちらがより残酷なのか…、どちらが罪で罰なのか…。
 それを知るのはまだ…、もう少し先なのかもしれない。
 けど…、ただ…、
 せめて…、今だけは甘い痛みを抱いていたかった。
 

 この夢が現実に…、この現実が夢に変わるまで…。

 
『夢現』 2007.3.25更新


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