さっきまでリビングで俺は新聞読んでて…、時任はテレビ見てて…、
 なのに、なんでこんなコトになっちゃってるのかが良くわからない。
 二人で話してたトコまでは記憶にあるのに、手に感じた衝撃と一緒にそれ以降の記憶が一瞬だけ頭の中から飛んでた。だから、今の状況が理解できなくて衝撃のあった手のひらを見つめると…、バタバタと時任がリビングから走り出していく足音が聞こえた。

 「・・・・・時任?」
 
 いなくなった時任を呼ぶマヌケな声が自分の口から出たのを聞いたのは、玄関のドアが壊れそうな勢いで閉まってからで…、
 さっきまで目の前にいた時任がいなくなったコトはちゃんと理解できてたけど、なぜか痛み始めた手のひらを見つめたまま動けない。
 ホントに痛いのは…、痛かったのは時任で俺じゃないのに…、
 だから、すぐに走って追いかけなきゃならないのに…、
 俺は自分の手を…、自分の意思に逆らった手のひらを見つめたまま…、

 ただ…、ひたすら途方に暮れていた…。

 そうしてる内にちょっとずつ…、さっき起こったコトを思い出してきたけど、それでもまだ手のひらの痛みのワケはわからない…。ホントは口を塞ぐだけだったのに、なぜか時任に向かって伸ばしたの俺の手は頬を叩いてた。
 時任は何も悪くないし、俺に叩かれなきゃいけない理由なんてない。
 それだけはハッキリとわかってて、それなのになぜなんだろうって…、
 そんな風に考えて…、また途方に暮れて…、
 時任が遠くなって時が過ぎて…、俺の思考と同じように空が赤く暮れていく。
 俺も空も…、街も・・・、

 何もかもが途方に暮れていくように…。
 
 俺の手を動かした時任の言葉…。
 それがようやく頭の中に浮かんできたのは、夕日は空に赤い残照だけを残して消えた頃…。俺のせいで時任が最後まで言えなかった言葉は、浮かんでくると窓から見える赤い残照のように胸の奥に焼きついて離れない。
 時任が口にしたのはほんのたった一言だったけど、ソレが大きくてちっぽけなこの世界を壊そうとする。でもたぶん…、ホントに世界を壊そうとしたのは時任の言葉じゃなくて俺の手の方だった。



 『俺…、実は好きなヤツができて・・・・。だから、もう一緒に…』



 ・・・・・パシンっっ。

 時任の顔が苦痛に歪んでる日が…、右手の痛みに耐えながら無理をして笑ってる日が急速に増えてきた頃から、近かったはずの俺らの距離はじりじりと離れて隙間ができて…、 だんだんと時任は俺に近寄って来なくなってきてた。
 抱きしめても暖かくて細いカラダは腕を擦り抜けて、手を伸ばせば視線で拒絶される。それでも強引に触れると、時任は哀しそうなカオをするだけで前みたいに微笑んだり笑ったりしてくれなかった…。
 触るなとかバカとか言いながら、怒った顔すらもしてくれなくなった…。
 抱きしめたら抱きしめた数だけ…、哀しそうなカオをするから…、

 だから…、時任を抱きしめられなくなった…。

 どんなに抱きしめても、時任の痛みはなくならない。
 最後までなんて言いながら結局、いつも見てるだけで…。
 そして時任のためじゃなくて、自分のために見て見ないフリして自分をだまし続ける。まるで眠り続けて夢を見続けるみたいに、いつもと同じ日常を続けながら…、
 時任がそう望んでるからって、自分に言い聞かせながら言いワケしながら…、
 ・・・・・・・・・現実から目をそむけた。

 「・・・・・・ごめんね」

 そう呟きながらさっきまで時任がいた場所を見つめて、それから立ち上がると玄関に向かう。けれど、途方に暮れてしまってる俺は、まだ空に赤く残る残照を見つめながら、なぜか近くの公園の前で立ち止まった…。
 












 『あのさー…、さっきテレビで見たけど』
 『ん〜?』
 『ネコってさ…、死ぬ時が近くなるといなくなっちまうんだってな』
 『うん、死期が近くなると唐突にいなくなるみたいだぁね』
 『それって、つまり自分の死ぬ時がわかってるってコトなのか?』
 『俺はネコじゃないからホントのトコはわからないけど、たぶん…』
 『・・・・・・そっか』
 『で、それがナニ?』
 『・・・・・・・』
 『時任?』

 『なーんでもないっ』

 そんな話を久保ちゃんとしたのがいつだったのか覚えてねぇけど、やけに気になってたってのは覚えてる…。でも、その頃は今みたいに手の痛い日が続いたり…、なかなか痛いのが治らなかったりしてなかった頃のコトだった。
 あの頃はこんなに右手が痛くなって、他の部分もちょっとずつ獣化が進んでとか…、いつかそんなコトになるんじゃねぇかって想像してても、たぶんホンキで思ってなかった。もしかしたら、このままの状態で進行はしないんじゃねぇかって…、
 いつの間にか自分に都合のいいコトばっか信じてた…。
 ずっとこのままで変わらなくて…、ずっと久保ちゃんと一緒で…、
 過去を探してんのに、ホントはそれよかこっちの方が俺にとって重要で…、
 だから、そう信じてたかった…。

 ずっと明日が続く保障なんて、どこにもねぇのに…。

 久保ちゃんと一緒にいんのがあんまり暖かくて気持ちよくて…、ずっと傍にいたくて…、今日は今日、明日は明日とかって言いながら強がって…、
 痛みも不安も胸の奥にぎゅっと押し込めて押し殺した。
 ずっと…、明日が続いていくように…。
 でも、痛みが強くなっていくにつれて、痛みを感じる回数が増えていくたびに胸の奥に仕舞い切れなくなって溢れ出しそうになる。嫌な予感ばかりが頭に浮かんで、久保ちゃんを見るたびに苦しくてたまらなくて…、
 抱きしめてきたカラダを抱き返したくて、触れてきた手を握りしめたいのにそうすることができなかった。もしも抱きしめたら握りしめたら、絶対に言えない言葉を…、絶対に言いたくない言葉を叫んでしまいそうで恐かった。
 久保ちゃんは最後までって言ったけど、やっぱり最後まで一緒にはいけない…。
 最後まで一緒に来て欲しくない…。
 どこまでも一緒に行きたいから一緒にいたいから、一緒にはいられない。
 二つのキモチが胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合って…、痛くて苦しくて…、
 触れてくる手が抱きしめてくれる腕が…、恋しくて切なくてたまらなくて…、
 俺はウソをついた…。
 きっと久保ちゃんは、どこにても追いかけてきて探しに来てくれる。だからネコみたいに突然にいなくなるコトなんて絶対にできないし…、そんなコトしたくないから…、
 最悪でも最低のカタチでも、ちゃんとさよならを告げたかった。

 もう一緒にはいられないって、そう自分に言い聞かせるみたいに…。

 そして頬を叩かれて部屋から走り出して…、何もかも自分の思う通りになった。きっと、これで久保ちゃんは追って来ないし、たぶん俺を探したりもしない…。
 この日のためにずっと…、暖かい優しい手も腕も拒んできたから…。
 何も知らせずに何も言わずに…、ここまで来たから…。
 でも、走り出した俺の足はすぐに遅くなって、長く伸びてるマンションの影を踏んだまま立ち止まった。
 
 「ココからいなくなるって、そう決めてんのに…。どこにも…、行く場所なんてねぇじゃん…」

 どこにも行く場所がなくて…、どこにも行きたい場所もなくて…、
 俺は途方に暮れて…、あてもなく歩きながら空を染めてる赤い色を眺めた。
 そうしたら、右手やカラダもズキズキ痛んできたけど、それよりももっと胸ん中が痛くて…、ずいぶん長い間歩いてた気がしたのに…、
 夕陽が沈んだ空に背を向けてマンションの方を振り返ったら、俺が想ってたよりも近くかった。走って帰れば・・・、まだすぐに帰れる距離に…。
 でも…、こうしてる間にも痛みがひどくなって獣化が広がっていく…。
 これ以上、そのことを隠して久保ちゃんと一緒に暮らすのは限界だった…。
 これ以上、久保ちゃんのそばにいたら広い背中にぎゅっと抱きついて…、泣きたくないのに泣き叫んでしまいそうだった。俺はこんな右手なんかに知らない過去なんかには負けないし、絶対に弱くなんてないのに…、
 久保ちゃんのそばにいると…、久保ちゃんが優しく微笑むのを見るたびに…、
 どうしようもなく苦しくて哀しくて…、
 どうしようもなく…、久保ちゃんが好きで大好きで…、
 俺は自分の右手を眺めながら、ただ途方に暮れていた…。
 そして今も途方に暮れて赤く染まった空の下を歩いて…、そうしたらいつの間にかマンションの近くまで戻ってて、また途方に暮れる…。けれど、途方に暮れながらも前に歩き出さなきゃならなくて、前に足を一歩だけ踏み出そうとした…。
 でも、戻った場所のすぐそばにある公園に、見慣れた影を見つけたせいで俺はそうするコトができなくなる。夕闇に沈んで暗闇に包まれかけている公園のベンチに…、マンションにいるはずの久保ちゃんが座ってた…。

 一人きりで…、空じゃなくて地面を見つめながら…。

 それを見た瞬間にさっきよりももっとすごく胸が痛くなってきて…、右手の痛みなんて忘れるくらい何もかも頭からなくなるくらい胸ん中が久保ちゃんでいっぱいになって…、他には何も考えられなくなって…、
 俺はいなくなるはずだったのに、一人きりでいる久保ちゃんのそばに向かって走り出す。そしてベンチにたどりつくと久保ちゃんの見つめてる地面に、薄く消えかかってる自分の影を落とした…。

 「・・・・・・おかえり」

 久保ちゃんは俺が着たのに気づくとそう言って、まるで行くなって言ってるみたいに右足で軽く俺の影を踏む。そして、今まで聞いたコトがないくらい柔らかい…、けれど、どこか哀しそうな声でポツリと…、
 お前がホントのネコじゃなくて良かったって…、そう言った…。
 いつもはネコみたいだとか、そんな風に言ってからかったりすんのに…、
 ネコじゃなくて…、ネコみたいじゃなくて良かったって…。
 それを聞いたら何かが目に染みてきて…、痛くて苦しくて…、
 俺の影を踏んでる久保ちゃんの足に、ポツリと雨が落ちた…。
 すると、久保ちゃんはゴメンね…って言いながら、ゆっくりと手を伸ばして叩かれた頬を撫でると黒い手袋に包まれてる右手を掴む。そして、掴んだ右手を自分の方に引き寄せると、獣化が進んでる右手ごと俺を抱きしめた…。

 「好きだよ…、時任…。どんな姿になっても、どんな終わりが来ても右手ごと、その痛みもすべてを愛してるから…」
 
 そう言った久保ちゃんに、言いたいコトも伝えたいコトもいっぱいあるのに、なにもかもがポツリポツリと落ちてきて止まらない雨に溶けて…、何も言えない。今も右手が痛くて胸が苦しくて、けれど久保ちゃんに触れてる部分があったかくて…、
 久保ちゃんにぎゅっと抱きしめられてると、いるのはマンションなのにウチに帰って来たんだって感じがすごくした。
 
 「ただいま…」

 やっと、それだけ言うと久保ちゃんがうん…ってうなづいてくれる。だから、それに答えるように久保ちゃんの背中を抱きしめると暖かかったのが、もっと暖かくなって離れられなくなった…。
 ずっと、明日が続く保証なんて、どこにもないけれど…、
 このままでいられるなら、ずっとこうしてられるなら何もいらない。
 もしも、こうしてられないなら明日はいらない…。
 でも…、そう想った瞬間に抱きしめた背中から胸から心臓の鼓動が伝わってきて…、俺は右手をぎゅっと強く握りしめた。

 「まだ終わらないし…、終わらせない…。こんなトコで終わってたまるかよ…っ」

 いつも痛む右手を握りしめて…、ヘーキだって強がってた。
 絶対に負けたりするもんかって叫びながら、ホントは負けそうになってた…。
 でも、久保ちゃんに右手ごと抱きしめられながら、抱きしめながら叫んだ言葉は強がりなんかじゃない。戦って勝つとか負けるとかそんなじゃなくて、ただ…、少しでも長く…、抱きしめた鼓動を感じていたいだけだった。
 
 「行こうぜ…、久保ちゃん」

 俺は抱きしめていた腕を放してそう言うと、右手で久保ちゃんの腕を引っ張る。すると、久保ちゃんは俺の手に引かれてベンチから立ち上がって、マンションに向かって歩き出した…。
 暗くなって公園についた電灯に照らされて、長く長く伸びた俺らの影は並んで歩いていく。それがなんとなく、くすぐったくておかしくて俺が笑うと久保ちゃんも笑って、ポツリポツリと落ちていた雨もいつの間にか止んでいた…。
 「なぁ、久保ちゃん」
 「ん?」
 「なんで、公園なんかにいたんだ?」
 「さぁ…、なんでだろうねぇ?」
 「俺が戻って来なかったら、どうするつもりだよ?」
 「そうねぇ、ずっと待ってるかも?」
 「じゃ、ずっと来なかったら?」
 「来るよ」
 「…って、なんでそんなのがわかんだよっ」
 「それはねぇ」
 「それは?」

 「お前のコトなら、なんでも知ってるから…」

 そう言った久保ちゃんの手を握りしめてると、いつか繋いだ手を離す時が来ても…、
 ぎゅっとぎゅっと手を繋いでたら…、その時が来たとしてもまた会える…、
 なぜか、そんな気がして…、



 俺はマンションに帰りつくまで、指切りするみたいに久保ちゃんと手を繋いでいた。



『ヤクソク』 2005.10.4更新


*WA部屋へ*