ある日目覚めた瞬間から、わかるのは自分の名前だけで他にはなにも覚えてなかった。
 けど、今まであった記憶がなくなるのがどういうことなのかって、それは記憶喪失になってる今もホントは少しもわかってない。
 あの日の始まりの瞬間のこと…。
 タバコ臭いベッドで目覚めて…、久保ちゃんと出会ってからのこと…。
 俺の中にはそこからしかなかったから、時々痛む右手を眺めてもわかることは何もなかった。
 忘れたなら思いださなくちゃならない気がするけど…。
 ホントは記憶をなくしてるんじゃなくて、思い出せないだけかもしれないって気もしたりする…。
 それは思い出そうとなんてしてない時にかぎって、ヘンな記憶が浮かんでくるからだった。
 
 「…あのさ」
 「なに?」
 「・・・・・・やっぱいい」
 「…うん」

 あの時、一緒にいたのって久保ちゃんだったかって、ホントぱそう聞きたかった。
 けど、ぼんやりした記憶の中にいる誰かが…、久保ちゃんじゃないかもしれないことが胸の奥に引っかかる。その記憶が出会ってない時のことだったら、久保ちゃんじゃないのは当たり前のことだったりするけど…。
 右手を見るたびに、こんな風になっちまったワケを知りたいと思ってるのに…。
 ホントは少しも記憶を…、久保ちゃんと出会う前のことを思い出そうとなんかしてなかった。
 それがなぜかなんて…、そんなことはわからなかったけど…。
 記憶喪失になってるのに、なにをなくしちまってるのか…、久保ちゃんと二人で部屋にいるとぜんぜんわからなかった。

 「なにやってんの?」
 「べっつにぃ…」
 「ま、いいけどね」
 「・・・ジャマ?」
 「いんや」
 「ふーん….」

 ソファーに座って新聞読んでたら、時任が俺のひざをマクラにして隣に寝転んだ。
 さっきまでしてたゲームに飽きたのかもしれないけど、ちょっとだけいつもより様子がおかしい。
 でも時任は何も言わないで、俺のひざに頭を預けながらじっと一点を見つめてた。
 何かを想うように…、何もない空間を…。
 だからなんとなく片手だけ伸ばして髪を軽く撫でてやると、時任はキモチ良さそうに少し目を細めてさっきよりもっと俺のひざに懐いてくる。
 ソファーに伸ばしてた身体をネコみたいに丸めて…。
 そんな時任の様子を横目で見てると、WA関係っぽい記事を読んでたはずなのに…、それがどうでも良くなってきて新聞を脇に置いた。
 
 「時任、今日の新聞に…」
 「…ん?」
 「・・・・・・って、思ったけど見間違い」
 「…ならいいけど」

 時任は自分のことを知りたがってる…。
 右手があんな風になったワケとか…、自分の過去のコトとか…。
 けど、その記憶が時任の中に浮かんでくるたびに、俺の知らないことを時任がしゃべるたびに、ココロの中がざわざわとしてくるのをカンジる。
 だから時任が俺の知らないことをしゃべるたびに、その口をふさいでしまいたくなって…。
 何かを思い出しそうになるたびに、その記憶ごとすべてを奪ってしまいたくなった。
 一緒に右手のことを…、そうなったワケを探してるのに、そう思うのはムジュンしてるってわかってるけど…。
 こうやって時任の柔らかい髪の毛を撫でてると、流れていく時間さえ気にならなくなってくる。
 そんな自分に苦笑しながら髪を撫でてた手を頬に伸ばすと、時任は少し笑いながら首を縮めた。

 「くすぐってぇって…」
 「あんまり暴れるとソファーから落ちるよ?」
 「だったら、落ちる時は道連れにしてやる」
 「じゃ、一緒に落ちよっか?」
 「えっ?」

 触れてくる手がくすぐったかったけど、それを振り払いとは思わない。
 くすぐったくても、久保ちゃんに触られるのはすごく気持ちいいから…、少し笑って頬に伸びてきた手に自分の手を重ねてみた。
 そしたら視界か暗くなって、唇に柔らかい暖かい感触が降ってくる。
 キスされてるんだってすぐにわかったけど…、それも気持ちいいから避けたりしなかった。
 深く深く何度もキスされて…、耳に濡れた音がしてきて…。
 その音がキスしてるんだなぁって、からみ合ってる舌の熱さと一緒に教えてくれてる。
 だからこれからどうしようって思いながら…、腕を伸ばして久保ちゃんの首にしがみついたら…。
 少し久保ちゃんの肩が揺れて、その振動が唇と腕から伝わってきた。

 「ん…っ、な、なに笑って.んだよっ」
 「困ってるなぁって思って」
 「困ってるって誰がだよっ」
 「お前が」
 「べ、べつに困ってねぇっつーの…」
 「キスすると伝わってくるから、わかるんだよねぇ」
 「んなワケねぇだろっ」
 「じゃあさ、ちゃんと伝わるようになるまでキスしない?」
 「つ、伝わるって…、困ってるのが?」
 
 そう言ったら、久保ちゃんは目を細めて微笑んで答えてくれなかった。
 けど、唇じゃなくて頬に触れてきた唇が何かを伝えようとしてる気がする。
 ちゃんと伝わるようになるまで、キスしようって言ったのに…。
 久保ちゃんは頬にキスしたら、髪を撫でてくれてるだけでもうキスして来なくなった。
 だからなんでかって思って頭を少しずらしてカオを見上げたら…、
 久保ちゃんは俺の方じゃなくて窓の方を眺めてた。
 目の前にさっきまでキスしてた唇があったけど、まるで何もなかったみたいにその唇がポケットから出したセッタをくわえようとする。
 それを見てたら胸の奥がドクンッと音を立てて…、気が付いたらくわえようとしてたセッタを手から奪い取って自分からキスしてた。

 「・・・・・時任?」
 「わかるまで…、するんだろ?」
 「・・・・ムリしなくていいから」
 「ムリなんかしてない」
 「してるよ」
 「・・・・なんで決めつけんだよ。わかってねぇのは久保ちゃんの方だろ…」
 「わかってないって何が?」

 「・・・・・・・・好きじゃないヤツとなんか、キスしねぇに決まってるじゃんか」

 時任が何を言ってるのか、すぐにはわからなかった。
 好きじゃないとキスしないって…、そのイミが…。
 けど、そう言いながらキスしてくる時任の柔らかい唇をカンジてると、少しずつそのイミが触れ合った部分から伝わってくる。
 とまどったカンジのぎこちないキスは…、ちゃんと好きだって言ってくれてて…。
 首に回してくれてる腕も、俺を抱きしめようとしてくれてた。
 そのことに気づいた瞬間、まるで時間の止まってしまったような気がしたけど…。
 きっとそれは止まってしまえばいいとそう思ってたから、そんな風にカンジたのかもしれない。

 「・・・・・・くぼちゃ…」
 「ゴメンね…」
 「バカ…、なんであやまんだよ」
 「好きって言わずにキスしちゃったから…」
 「・・・・・・・バカ」
 「うん、ゴメンね」

 昔のことが思い出せなくなったのは、記憶喪失っていうヤツで…。
 だから、たぶん俺はなにかをなくしたんだろうって思うけど…、久保ちゃんといるとそれをカンジるヒマなんかない。
 大切な今が目の前に、すぐ近くにちゃんとあるから…。
 それをカンジてるだけで、もう何もいらなくなるくらいいっぱいだった…。
 右手がこんなになったワケを知りたいのはホントだけど、なくしたから思い出したくて、取り戻したいとかじゃなくて…。
 ただ、前を向いて歩いてたかっただけだった。
 過去から逃げて逃げて…、逃げ回ってる自分でいたくなかっただけだった。

 久保ちゃんと一緒にいる今を…、二人でいる時間を生きていくために…。

 だからすべてを思い出した瞬間に、喪失するんじゃなくて…、
 自分で過去を見送って手を振りながら…、笑いながらバイバイって手をふるのかもしれない。
 今みたいに久保ちゃんの隣で、前に向かって歩き始めるその瞬間に…。


『喪失』 2003.1.16更新


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