まな板を包丁で叩く音。
　食器と食器が立てる高い音。
　状況によって変化する水の音。
　ゆっくりとした歩調の足音。
　新聞を開く音。
　たくさんの音がしてるけど、俺はまだ目を閉じたまま。
　朝の光を見ることもなく、今だ夜の中にいた。
　今日の始まり、一日の出発。
　それが来たのを教えてくれるまで、俺はいっつもこうして目を閉じたまま開かない。
　
　「時任…、時任」

　聞きなれた俺のこと呼ぶ声がして、それから目を開く。
　そうしないと、起きていいのか、もう一日を始めていいのかわかんねぇの。
　今日が始まんのは、単純に時間とか日が昇ったからとか、そんなんじゃないから…。
　思い切ってパチって目を開けると、じっと俺の顔を覗き込んでる久保ちゃんの顔が見えた。なんか飽きれた顔シテル。
　「ホント、寝起き悪いよね。お前って」
　「人のコト言えねぇだろ」
　「そうだけどさ」
　久保ちゃんは起こさないと絶対に起きねぇから、時々そんなコトを言うけど、俺は絶対に自力じゃ起きねぇって、そう決めたんだ。
　「おはよ、久保ちゃん」
　「おはよう」
　朝のアイサツして、時々そのオマケでキスして、それが一日の始まりの合図。
　窓から入ってくる明るい日差しとか、ベランダでチュンチュン言ってるスズメ。
　テーブルに置かれた新聞。いい匂いのする製造中のコーヒー。
　昨日、やりかけたままで放り投げてるゲーム。
　そんなモノが視界に入ってくんのも、この合図からあってからのコト。
　「卵どうすんの？」
　「ん〜、スクランブルっ！」
　「了解」
　俺の注文聞いて、スクランブル焼いてる久保ちゃんは、昨日の久保ちゃんじゃなくて今日の久保ちゃん。
　約束なんてしなくても来た、今日の証。
　それを見た瞬間、すっげぇホッとする。
　「ほら、早くこっちにおいで。ご飯食べよ？」
　「うんっ、食う！」
　久保ちゃんの作った料理囲んで、二人で朝食。
　「いただきまーすっ」
　「はい、どうぞ」
　食べる前にいただきますって言うのも、久保ちゃんが教えてくれた。
　いただきますって、カンシャの気持ちで言うコトバだって。
　なんにカンシャなのか始めはわかんなかったケド、ずっと久保ちゃんの作った飯食ってたらわかった。それは、心配なく毎日飯食えるってコト、誰かと一緒に食うコトがどんなコトかってのがわかったからだ。
　
　『なに泣いてるの、時任？』
　『…わかんねぇ』
　『わかんなくていい。わかんなくていいから』
　『うん』
　
　いつだったっけ？
　忘れたんだけど、ふつーに食べてて涙がとまんなくなったことがある。
　たぶんそれが、そういうコトがわかった瞬間だったのかもしんない。
　今までの自分がどんなだったかなんて、そんなのわかんねぇけど、たぶんこういうのが当たり前なんかじゃなかったみたいな気がした。
　俺がもくもく食ってると、久保ちゃんが箸を止めて、
　「今日はバイト入ってないから、どこかに出かけよっか？」
と、珍しいことを言った。
　「えっ、マジ？」
　「マジだから、食べたら出かける用意しなさいね」
　「するするっ」
　状況が状況ってヤツだから、久保ちゃんは俺が一人で出かけんのをあんま許してくんない。けど、それは俺のコト心配してくれてるって知ってるから、いっつもおとなしく留守番してる。
　「そんなあわてて食べなくても、置いてったりしないよ」
　「そんなんわぁってるってのっ！」
　早く出かけたくて急いで飯食ってる俺を見て、久保ちゃんが笑ってる。
　たぶんバイトは休みなんかじゃなくって、わざわざ仕事入れてないんだって、そんな気がした。




　風がザァァッと頬を撫でる。
　空が青くて、空気もいつもより澄んでるカンジがして気持ちいい。
　俺は久保ちゃんと並んで、連れられて来た公園らしき場所を歩いていた。
　「散歩ってのも、たまには悪くないでしょ？」
　「そーだな、なんか気持ちいいし…」
　俺は言おうとしていたコトを、途中だけどやめた。
　なんでかっていうと、視界に一面のピンクが飛び込んで来たからだった。
　「すっげー…」
　「うん。すごいね」
　真っ青な空にピンクの霞がかかったみたいになってる。
　淡い、淡いやさしい色。
　視界がぜんぶその色に染まっちまいそうなカンジ。
　こんなにいっぱい咲いてるけど、その花びらは風に揺られてハラハラと落ちていく。
　花びらは降り積もる雪のように、地面をその色に染めていた。
　敷き詰められた花びらの上を恐る恐る歩いてると、久保ちゃんが俺の頭を軽く撫でた。
　「時任はやさしいね」
　「えっ、なんで？」
　「ホントは踏みたくないんでしょ、花びら」
　「…うん」
　哀しそうに散りながらも、咲き続ける花。
　その哀しみがきれいにきれいに降り積もっていくのを、俺は吸い込まれそうな不思議な感覚にとらわれながらじっと見てた。
　まるでココだけ時間が止まっちまったみたいな気がする。

　ザァァァァ・・・・・・・・・。

　「・・・・・・っ！」
　その場にじっと立っていると、突然、突風が吹いて視界が風にさらわれた。
　激しい春の嵐。
　身体が風に押されて、少しふわっとしたカンジがした。
　身体ごと何もかもさらっちまいそうな風。
　息が少し苦しくなって目を閉じる。
　そんな風に耐えていると、ふいに風がゆるやかになった。
　「…久保ちゃん」
　目を開けると、久保ちゃんが風除けになってくれてた。
　俺のコト抱きしめて、風から守ってくれてる。
　「時任が花の嵐にさらわれそうだったから…」
　久保ちゃんはまるで桜霞のように、淡く微笑んでいた。
　「俺はさらわれたりしねぇよ。久保ちゃんがいるトコが俺のいる場所だからさ」
　「俺もそう。時任がいるトコが俺のいる場所」
　俺たちは舞い落ちる桜の花びらの下でキスをした。
　花びらのように散ってしまわないこの気持ちを、ありったけ込めて、今日を生きてる久保ちゃんにカンシャしながら…。
　「もっかいキスして」
　「時任が望むだけ、俺の好きなだけ…ね」
　久保ちゃんがいなきゃ、明日は来ない。
　明日は今日になんかならない。
　俺は今日が終わったら、久保ちゃんのいる今日になった明日に目を覚ます。
　たとえ嵐が来たとしても、それだけは変わんない。
　俺が絶対そうだって決めたから…。
　　
　だから、散り急ぐのを恐れず、今を咲き誇ろう。
　すぺてをその色に染め上げるくらい、見事に…。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 　　　　　2002.3.29
　「桜霞」


　　　　　　　　　　　　 　　　　　　　　*ＷＡ部屋へ*