「いやっっったぁぁぁぁっっ!!!!!!」


 私立荒磯高等学校の廊下に、何者かの絶叫が響き渡ったのは放課後のことだった。
 だが、その声は人間のものとは思えないほど大きく、高速道路やパチンコの店内の騒音よりも有害だったため、近くにいた名もなき通行人の被害者A君は両耳を抑えたまま壁に激突する。そして、さらに外で素振りをしていた野球部員が校舎から聞こえた奇声に驚いて、素振りしていたバットが思わず手から離れた。
 被害者A君は壁に激突した勢いで床に倒れ込んで無事だったが、飛んできたバットはちょうど開いていた窓から、被害の元凶である人物の頭を直撃…。
 しかし…、当たった瞬間にかなりいい音がしたにも関わらず、その人物は周囲にピンクの花を散らして微笑みながら軽快なリズムでスキップを踏んでいた。

 「な、なんだっ、なんださっきのはっ!!!!」
 「まさかっ、宇宙からの怪音波攻撃かっ!!!」
 「いやっ、違うっ! さっきの人間とは思えない不気味な奇声は、なんとなくバナナを奪い合う猿山の猿に似ていたぞっ!」
 「えっ、猿山の猿っ? 俺の耳にはしっぽを踏まれたタロウの鳴き声に聞こえたけど?」
 「…って、しっぽを踏まれたタロウって何モノだよ?」
 「俺んちの犬」

 「・・・・・・あっそう」

 荒磯校内を混乱の渦に巻き込みながら、一枚の紙切れのようなものを眺めながらクルクルと踊る100mどころか300m以内に近づきたくない人物…。
 それは校内の治安を守る執行部補欠で、二年の藤原だった。
 誰もが藤原を避けて通るために周囲には誰もいない不自然な空間ができていたが、本人は気にした様子もなく、自分の手の中にある物を見つめて瞳をキラキラさせている。実は藤原が持っているのは、ただの紙切れではなく一枚の写真だった。
 この写真は盗み撮り写真を裏で売買している写真部から買ったものだったが、買った時の値段が高かったことからもわかる通り、かなりめずらしい貴重な一枚である。それを手に入れることに成功した藤原は、廊下を歩きながらピンク色の妄想にひたっていた。

 『俺のこの微笑みは藤原…、お前だけのモノだよ』
 『あぁあぁぁっ、久保田せんぱいっ、僕の微笑みも先輩だけのものですぅぅぅっ!!』
 『うれしいよ、藤原ぁ〜』
 『久保田せんぱぁぁいぃぃぃっ!!』
 『ほ〜ら、ここまで来たらキスしてあげるよ〜』
 『あぁんっ、そんなイジワル言わないで待ってくださぁい〜っ』
 『あはははは、ここまでおいで〜』

 『キスしてくれるまで、どこまでも追いかけて行きますぅぅぅっ!!!』

 久保田のセリフは素晴らしく棒読みだったが、それはどうでも良いらしい…。唇をチューの形にしたまま、写真の中で微笑んでいる久保田を見つめて遠い世界に行ってしまった藤原からは、ドドメ色の不気味な空気が漂っていた。
 そんな中、藤原のラブラブ脳内シアターは最高潮を迎え、チューっとか言いながら藤原は写真に唇を近づけていく。写真にキスしても写真の味しかしないと思うが、藤原の場合はイチゴやレモンの味がするのかもしれなかった。
 だが、斜め四十五度を向いている久保田の顔にあと一ミリで唇が到達するという所で、藤原の背中にガツッと前のめりになるほどの衝撃走る。その瞬間、藤原の手から大事な久保田の写真が離れて窓から吹き込んだ風にヒラヒラと舞った。

 「ぎゃあぁぁぁっ!!! 僕の久保田先輩がぁぁぁっ!!!!」

 時任がいたら即座にツッコミを入れる所だが、今はここにはいない。実は藤原の背中に衝撃を与えたのは、校内に奇声を発する謎の生物が紛れ込んでいるという連絡を受けて見回りに来た室田だった。
 まるで壁のような室田の巨体にぶつかった藤原は、この世の終わりのような顔をして悲鳴をあげながら写真に向かって手を伸ばしたがヨロヨロと床に倒れる。すると、ヒラヒラと舞っていた写真もポトリと床へと落ちた。
 写真は運良く表の部分を上にして落ちていたが、そこに笑ってふざけあいながら歩いてくる男子生徒達が通りかかる。藤原はとっさに立ち上がろうとしたが、それよりも早く生徒達の足が写真の上に影を落とした。

 「久保田せんぱぁぁぁぁいぃぃぃっ!!!!!」

 藤原の願いもむなしく、久保田の顔は靴底の餌食に…。
 だが、踏まれる前に靴底の横から器用に写真を拾い上げた人物がいた。
 その人物は拾った写真を藤原に返さずにぼんやりと見つめていたが、やがて視線をあげるとなぜかおもむろにポケットからサイフを取り出す。そして、優しく微笑んでいる久保田の写った貴重な写真の値段を藤原に聞いてきた。
 「コレっていくら?」
 「あ、はいっ、三千円ですぅっ」
 「ふーん…」
 「あ、あの…、その写真は…っ」
 「じゃ、千五百円ね」

 「えっ?」

 写真を持った人物は、財布から半額の千五百円を取り出すと藤原に渡した。
 けれど、藤原は渡されたお金を持って呆然としたままで何も言えないでいる。
 すると、その人物はあまりのことに口をパクパクさせている藤原の前で、貴重な写真をビリビリと半分に破った。

 「それじゃ、そういうコトで…」

 そういうコトがどういうコトなのかはわからないが、千五百円を払った人物は藤原に破った半分を渡すと後の半分をポケットに入れる。それから床に倒れ込んだまま立てないでいる藤原と、謎の生物を探している室田を残してのほほんとした様子で廊下を歩いて行った。
 藤原はその背中をだーっと涙を滝のように流しながら見送ったが…、突然、横から伸びてきた手が千五百円分の写真を藤原の手から奪い取った。
 
 「なーんだ、写真はちゃんと無事じゃないっ。なのに、なに泣いてんのよ」

 そう言ったのは謎の生物を退治するために、ハリセンを片手にやってきた桂木だった。桂木の手には半分だけの写真が握られていたが、その半分の写真の中で久保田が穏やかずきるほど穏やかに優しく微笑んでいる。
 藤原は滝のような涙を流していたが、実はさっきチューしようとしていた微笑みは残された半分に写っていたのだった。
 「半分持ってかれたって、アンタの欲しかった部分は無事なんだからいいじゃない。半額になったって思えばどうってことないでしょっ」
 「ううう、それはそうですけど…、でもっ、だってっ、半分がっ!」
 「半分が…って、残りの部分には一体何が写ってたのよ? 風景じゃないの?」
 「そ、それは…っ」
 「なに? なにか言えないようなものでも写ってたの?」
 「そうじゃありませんけど…」
 「けど?」

 「久保田先輩だけでいいはずなのに、半分だけだと不自然なんですよ…、すっごくくやしくてイヤなのに…」

 藤原の言葉の意味がわからずに桂木は不審そうに首をかしげたが、手に持っている優しく微笑んでいる久保田の写真を見て小さく息を吐く。そしてやっと立ち上がった藤原に半分になった写真を渡しながら、わずかに微笑んでハリセンで軽く背中を叩いた。
 「なにもしてないのにっ、なんで叩くんですかっ!!」
 「うるっさいわねっ! こんなとこで油売ってないでさっさと謎の生物探しにいくわよっ!」
 「な、謎の生物って、そんなの学校にいる訳ないじゃないですかっ!」
 「探してみなきゃわかんないでしょっ」
 「探さなくったってわかりますっ!!」
 「ほらっ、とっとと行くわよっ!」

 「うわっ、なにすんですかって…、あっ・・・・・・」
 
 桂木がぐいっと襟を引っ張った瞬間、手が窓枠に当たって、またしても藤原の手から写真がヒラヒラとすべり落ちる。だが、今度は窓枠に当たってしまったために、落ちたのは廊下ではなく窓の外だった。
 藤原はまるで桂木が探しているという謎の生物のような叫び声をあげながら、外に出て写真を拾うために廊下を走り出す。しかし、ヒラヒラと落ちていく写真の先には、久保田を探しながら歩いていた時任がいた。
 風に乗ってヒラヒラと舞い落ちた写真は、まるで吸い寄せられるように時任の足元に落ちる。すると、足元に落ちている写真に気づいた時任は、それを地面から拾い上げた。

 「なんだ…、コレ?」

 そう言いながら写真を見たが、そこには見知らぬ誰かではなく…、久保田が少し下の辺りを見ながら優しく微笑んでいる。それを見た時任は少し驚いた顔をした後、まるで写真の中の久保田と微笑み合うように、穏やかで優しい表情になった…。
 時任は持ち主を探して辺りを見回したが、周囲には誰も何かを探している様子はなかったので少し迷った後…、
 「やっぱ…、このまま置いとけねぇもんな…」
 と、ぽつりと呟いて、写真を自分のポケットの中に入れる。そして久保田を探すために屋上に向かって歩き出したが、そこに向かう途中で写真部の前を通りかかった時…、
 なぜか、写真部の部室のドアを開けて久保田が出てきた。
 「あれ、なんで久保ちゃんが写真部から出てくんだよ?」
 「ん〜、ちょっちね」
 「どうせ、また松本になんか頼まれたんだろ?」
 「まぁ、そんなトコ」
 「ふーん…」
 「なに? 俺の顔になんかついてる?」

 「べ、べっつになんでもねぇよっ!!」

 久保田の顔を少しじっと見つめた後、時任はなぜか少し赤くなってドカドカと怒ったような乱暴な歩調で歩いていく。そんな時任の後ろ姿を一緒に歩き出さずに眺めていた久保田は、ポケットの中から紙片のようなものを取り出した…。
 その紙片は右側が、少しだけギザギザになっていて切ったような跡がある。久保田は時任の背中から紙片に視線を移すと、時任のポケットの中に入っている写真と同じ穏やか過ぎるほど穏やかな…、優しい表情で微笑んだ。

 「早く来いよっ、久保ちゃんっ」
 「ほーい」

 久保田は少しの間、微笑みながら写真を見つめていたが時任に呼ばれるといつものようにのほほんとした歩調で歩き始める。だが、二人の歩調はまったく違っているはずなのに、歩き始めるとすぐに横に並んだ。
 二人で並んで歩きながら、久保田は時任に気づかれないように紙片をポケットに収めたが…、実はそれはただの紙片ではなく…、

 そこには切れた半分に写っている優しい微笑みに見守られながら…、柔らかな日差しの中で眠っている時任が写っていた…。


                                             2004.4.20
 「ポラロイド」


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