今日の空は、とても青い。


 花の季節が過ぎ、緑の葉ばかりになった桜の木の下。
 座り込み見上げた空には、雲一つなく。
 その深い青に手をかざし目を細めれば、グラウンドからの歓声が耳に届いた。
 ゆっくりとゆっくりと髪を撫でていく、柔らかで暖かい風を感じながら、時任がふーっと軽く息を吐くと隣で寝転がっていた久保田がどうしたのかと聞いてくる。けれど、特に何を思った訳でも、何か考え事をしていた訳でもない。
 ただ、空を見ていたら、息を吐きたくなっただけ。
 こんな空の下で吐きたくなるのは、ため息なんかじゃない…と思いたい。
 だから、緑の芝生の上に足を伸ばし伸びをしながら、時任が空が青すぎるからだろっと答える。すると、時任の答えを聞いた久保田も、伸びをしながら軽く息を吐いた。
 「確かに青いね…。昨日も青かったけど、今日は雲も無いし、また一段と」
 「だろ?」
 「うん」
 ここは二人の通う、荒磯高校の敷地内にあるグラウンドの片隅。
 そこに植えられた桜の木の中の一本、その木陰。
 今は放課後だが、所属している執行部の公務は非番。その場合、部室である生徒会室にいようと自宅へ帰ろうと、それは本人の自由だ。
 しかし、非番でも特に用事が無ければ時任も久保田も、他の部員達も下校時間まで生徒会室にいる。だから、こんな風に放課後の時間帯に、部室でも二人で良く行く屋上でもなく、グラウンドの片隅でぼんやりとしているのは珍しい事だった。
 そのせいか二人きりでいるのを見つけると、すぐに飛んでくる藤原の姿も未だ無い。他の部員達も何か用事があって、今日は帰ったと思っているだろう。
 風に吹かれて桜の青葉がカサカサと音を立てるのを聞きながら、時任は脇に置いていたペットボトルを掴む。だが、それは一人で飲むのに手頃な500mlではなく、大きな1.5Lサイズのものだった。
 こんな場所にわざわざコップを持ってくるはずもなく、男らしいのかどうなのか、時任は大きなペットボトルに口をつけ、ゴクゴクと飲む。すると、そんな時任の横顔を、寝転がったままの久保田が、ぼんやりと細い目で見つめた。
 「なんで、1.5なワケ?」
 「そーいう気分だったんだよ」
 「重いのに」
 「う、うっせぇよっ。そう言う久保ちゃんの方こそ、なんでこんなトコで寝てんだ?」
 「ん〜…、そーいう気分だったから?」
 「こんなトコで寝てっと、毛虫落ちてくんぞ」
 「かもねぇ」
 青葉の桜の木は、季節により毛虫の宝庫。
 そんな忠告に、のほほんとした緊張感のない返事。
 ここから動く様子の無い久保田をちらりと見た時任は、無言で飲んでいたペットボトルを真横へと差し出す。すると、久保田はむくりと起き上がり、それを受け取った。
 「お前、カバンは?」
 「教室…、そっちは?」
 「右にオナジ」
 「久保ちゃんがココにいんなら、持ってくりゃ良かった」
 「それも右にオナジ」
 いつものように一緒に居るが、別に待ち合わせをしていた訳ではない。最初に久保田が桜の木の下で寝転がり、その数分後、ペットボトル片手に時任が来た。
 時任はここに来るまで、久保田が居るのに気付かなかったらしい。
 ぼんやりとしていたらしい時任と目が合った瞬間、何となく気まずい空気が流れたのは、おそらく気のせいではなかった。
 数時間前に見た光景を思い出しながら、久保田は口元に当てたペットボトルを傾けながら青空を眺める。
 けれど、特に何を思った訳でも、何か考え事をしていた訳でもない。
 ただ、時任と同じように空を見ていたら、息を吐きたくなっただけ。
 こんな空の下で吐きたくなったのは、ため息じゃない…と思いたい。
 そうして、久保田が一口、二口と中に入っているコーラを飲み、また少し長い息を吐き出すと、時任がどうかしたのかと聞いてきた。
 「ベツにどうもしないけど、空が青いから…、じゃない?」
 「ソレは、俺がさっき言った」
 「けど、俺もオナジだし?」
 「さっきからオナジって、ソレばっかじゃん」
 「いいんじゃないの、相方らしくて」
 久保田がそう言うと、時任はなんだかなぁ…とポツリと呟く。
 だが、そう言われても本当なのだから仕方がない。たとえ、脳裏に数時間前に見た光景が浮かんでいても、息を吐きながら見上げているのは青空だ。
 そんな屁理屈並べて苦笑を浮かべていると、横から伸びてきた時任の手にペットボトルを奪い取られる。そして、時任も久保田と同じように青空を見上げながら、中に入っているコーラを飲んだ。
 
 「なぁ、知ってっか?」

 時任がそう言ったのは奪い取ったコーラを飲み終え、また横に差し出してから…。すると、久保田は知ってるって何を?…と聞き返しながら、差し出されたペットボトルを受け取る。
 しかし、何となく口にしてしまった一言を少し後悔していた時任は、すぐに答える事ができなかった。
 そんな時任の脳裏に浮かぶのは、数時間前に見た光景…。
 中庭から見上げた窓に、可愛い女の子と並んで話している久保田の姿。
 ふと、そんな光景を見てしまったために、自分の目の前にいた女の子の告白の言葉を聞き逃してしまい。ごめんけど、もう一回…と、勇気を出して告白してくれた女の子の気持ちを踏みにじるような、失礼な事を言ってしまった…。
 自分の身に置きかえて考えると、俺のバカヤロウと頭を抱えたくなる。
 ひたすら謝る時任に、女の子は気にしないでと笑って許してくれたが…、放課後、一人で出向いたコンビニで1.5Lのコーラを買いたくなった。
 学校からコンビニまでは10分もかからないが、それでも500mlの手ごろサイズと比べると重い。飲むのも飲みづらい。
 それでも1.5Lを買って桜の木の下に来たのは、珍しく一人になりたかったから。そもそも、机に突っ伏して寝ていた久保田を置いて、放課後になるとすぐにコンビニに行ったのも同じ理由だった。

 「今は毛虫の宝庫だけどさ。卒業式の日は、ココで告ると成功率があがるとかって、そういうウワサ…みたいなの、あるって知ってたか?」

 時任が明るいけれど、少しだけ焦ったような声でそう答えたのは、久保田が受け取ったペットボトルからコーラを2口飲み終えた後…。しかし、久保田は返事が遅れた事を気にしていない様子で、あぁ、らしいね…と相槌を打ちながら、軽くなってきたペットボトルを二人の間に置いた。
 「その頃にはまだ咲いてないだろうけど、卒業って言えば桜ってイメージあるし、たぶん気分的にココなのかも?」
 「ふーん、場所なんて人気がなけりゃドコでもいい気すっけど、そんなもんか」
 「そんなもんデショ」
 そんな会話を久保田と続けながら、考えるのは卒業ではなく、卒業した後の事。そして、久保田はいつも何気に多いが、最近になって時任の方にも増えてきた告白…。
 卒業した後の事を二人で話した事はなかったが、あと一年だからと勇気を出して告白に踏み切った女の子達を見ていると、考えずにはいられない。
 けれど、何をどう考えればいいのか…、
 そもそも何を悩んで考えているのか、自分の事なのにおぼろげでハッキリとしない。いつ頃から悩み始めたかも正確にはわからなくて、1.5Lのコーラを飲んでも出るのはため息ばかりだ。
 出所のハッキリしない噂話も、なに言ってんだ、俺…と、今の気分を更に落ち込ませる要因にしかならない。
 けれど、それでもハッキリしている事が一つだけある。
 それは、いずれ卒業を迎え去る事が決まっていても・・・、
 今が、ずっと続けば・・・と思ってしまうほど・・・、
 執行部で相方で、同居人で、そんな今が大切だという事だった。
 
 「・・・・ったく、なんだってんだか」
 
 時任の小さな呟きは、久保田の耳に届いていた。
 しかし、久保田は聞こえていないフリをして、吹き始めた風に髪を撫でられながら、細い目をいつもよりも少し大きく開く。そして、声には出さず唇だけで、なんだろうね…と相槌を打った…。
 そんな久保田の脳裏に浮かぶのは、時任が思い浮かべていたのと似た光景。だが、見上げる時任と違い、久保田は自分の居た2階から下を…、中庭を眺めていた。
 そう、時任が気づくより早く、久保田は気づいていたのだ。
 自分と同じように中庭で、告白を受けている時任の存在に…。
 だから…、投げた…。
 学ランのボタンを引きちぎり、池に小石を投げるように放った。
 すると、目の前の女の子はしていた告白を思わず止め、久保田の不思議な行動に首をかしげる。
 それは一見、女の子が感じたように、不思議で無意味な行動のように思えた。
 しかし、そのボタンが中庭の地面を跳ねると同時に、その気配を感じ取ったのか時任の顔が下ではなく、反射的に上を向く。
 それは執行部での経験の成せる技なのか、それとも元から持っている野生の勘なのか、相方の素敵な反応に久保田の口の端が自然に上がった。
 しかし、上を向いた時任と視線を合わせる事なく、久保田は女の子の方へと向き直る。自分の横顔に注がれる視線を感じながら、久保田は、ゴメンね…と言った。
 中庭に落としたボタンは後で拾いに行ったので、今はポケットの中にある。
 自分の衝動的な行動に苦笑しながら拾ったボタンは、意識していた訳ではなかったが、第二ボタンだった。
 「我ながら、笑っちゃうけど」
 「…って、何が?」
 「さぁ?」
 「つか、俺、もうコーラ腹だからソレいんね。久保ちゃんにやる」
 「買ってきたの、お前デショ」
 「確かにそーだけど、久保ちゃんだって飲んだじゃんっ。こういう場合って、買ってきた俺じゃなくて、おすそ分けな久保ちゃんの役目だろ」
 「持って帰れば?」
 「・・・・・・・イヤだ、めんどい」
 「じゃ、捨てる?」
 「もったいねぇじゃんっ」
 
 そんな会話を軽快に続ける二人だが、実は心中複雑、悩みは多し…、
 
 二人揃えば向かう所、敵ナシの執行部の最強コンビだが、告白の桜の下に並ぶと、その心は晴れ渡る青空のようにはいかない。
 いつから、こうなっちまったんだ、何でなんだと一人は悩み考え…、
 もう一人は、すでに出ている答えに苦笑する…。
 二人に挟まれたペットボトルは、どっち付かずで水滴を汗のように浮かべながら、残ったコーラが飲まれる時を待っていたが…、
 しょうがないなぁ…と久保田が言いかけた瞬間、二人以外の声…、しかも奇声に近い叫び声が辺りに響き渡った。

 「久保田せんぱぁぁぁあい…っ!!!!!!!」

 げっ、やっぱ来やがったっ!
 そう言ったのは時任だが、二人で話していると藤原がやってくるのはいつもの事なので、奇声を聞いても、物凄い形相で走ってくるのを見ても驚きは少ない。
 久保田に恋している藤原が向かう先は、言わずものがな…である。
 しかし、こちらに向かって突進してくる藤原がタックルしようとしているモノが、珍しく久保田ではない事に気づいた時任は、それをひょいと片手で持ち上げて避難した。
 「ちょ…っ!!! 何すんですかっ!!!! ソレは僕の久保田先輩のっ!!」
 「…って、コレって俺のだし、久保ちゃんはてめぇのじゃねぇしっ!」
 「でも、さっき久保田先輩が飲んでたじゃないですかっ!」
 「だからっ、俺が買って来て、久保ちゃんも一緒に飲んでたんだだけだろっ。てか、どこから見てたんだよっ! このストーカーっ!」
 「どこから見てようとアンタに関係ないって、ま、ままさか一緒にってことは、か、間接…っ」
 「・・・・っ!!!か、間接とか男同士で関係ねぇだろっ!」
 「だったら、ちょうど喉が渇いてるんで僕にくださいよ。それにキスしたいなら、中庭でイチャイチャしてた彼女と、間接でも直接でも好きなだけすればいいじゃないですかっ」
 「イチャイチャしてねぇしっ、彼女じゃねぇしっ、そーいうんじゃねぇって…ってか、なんで見てんだよっ!」
 「中庭のあんな目立つ場所で告られて、通りかかったら僕じゃなくても誰でも見ますよ。それにしても、こんな凶暴な単細胞バカに惚れるなんて彼女も悪趣味ですよねぇ。久保田せんぱいもそう思いませんか?」
 「アレ…、もしかして俺って悪趣味?」
 「だーれーがっ、凶暴で単細胞だっ! このブサイクストーカーっっ!!」
 「ぶ、ブサイクなのはアンタだろっ! この単細胞ブサイクっっ!!」
 
 「あのー…、もしかしなくても俺の存在って空気? スルー?」

 飲みかけのコーラかけた、時任と藤原の凄まじい攻防。
 しかし、二人が争っているのは本人とのキスではなく、あくまで間接…。
 そんな二人に思いっきりスルーされた久保田は、いつもの見慣れた光景に平和だなぁ…と一つ欠伸をすると、いらないって言ってたし、あげたら?と独り言を呟く。
 だが、その独り言を聞いているのかいないのか、男同士で関係ないと言いつつも、時任は執念で迫り来る藤原に渡さなかった。
 「久保田先輩のくちびるは、この僕が必ず守ってみせますぅぅっ!!」
 「・・・・・・て、ただのペットボトルだろ、コレ」
 「ただのじゃありませんっ! 久保田先輩のっ、く、く、くちびるが触れたペットボトルですっ!そんじょそこらのペットボトルと同じにしないでください…っっ!!!」
 「だぁぁっ、もうっ、いい加減あきらめろっ!!」
 「あきらめるのは、アンタの方ですっ!!」
 しつこいっ、あまりにもしつこいっ。
 逃げても避けても、恋するヘンタイは追って来る…っ!
 このままでは埒が明かないと感じた時任はグラウンドを走りつつ、フェイントで藤原をかわして背中に蹴りを入れると、久保田のいる桜の木のしたへと走り込む。そして、藤原との間に距離を取り、くるりと振り返ると右手にペットボトルを持ちつつ…、おもむろに腰に左手を当てた。

 「ぎゃあぁぁっ、ま、まさかそのポーズは…っっ!!」
 「ふっははははっ、そのまさかだぁぁぁっっ!!」

 時任の腹は、すでにコーラ腹だった。
 しかし、風呂上りに牛乳を飲むポーズで、時任はゴクゴクと喉を鳴らしながら、一気に残りのコーラを飲み干す。すると、藤原がこの世を終わりを見たような顔で、ガックリと地面に膝を突いた。
 「僕の久保田先輩の…っ、先輩のくちびるの純潔がぁぁあ…っ!」
 「だーかーらっ、ペットボトルだっつってんだろ」
 「ううう…っ」
 「元気だせよ、コレやっから」
 「って、アンタと間接なんて真っ平ごめんですっていうか…」
 「ていうか?」

 「中身入ってないじゃないですか…っ!!!」

 ・・・・・本当に喉渇いてたのか、お前。
 背後にじめじめとした空気を背負いつつ涙ぐむ藤原を、時任は生ぬるい視線で見つめる。すると、すぐ近くでクスリと短く笑う声が聞こえ、次にひょいっと持っていたペットボトルが横から伸びてきた手に奪われた。
 「な、なに笑ってんだよっ」
 いつの間に立ち上がっていたのか、自分の手からペットボトルを奪った久保田を時任が睨むようにみる。だが、頬が少し赤くなっているために、少しも怖くない。
 久保田はペットボトルを片手に、時任の頭をヨシヨシと撫でた。
 「確か、コーラ腹じゃなかったっけ?」
 「・・・・・っっ、うっせぇっ!」
 「あんまり怒鳴ると、コーラ、口から出ちゃうかも?」
 「出ねぇよっ!」
 水滴を浮かべたペットボトルを挟む二人の間に流れていた、いつもと少し違う空気は、今の騒ぎでまた曖昧になる。そうして答えは出ず、苦笑は消えず、歩き出した二人はいつもと変わらず同居人で相方だ。
 それでも、変わらず空は青く、二人は自然に並んで歩き始める。
 そんな二人はずっと平行線なのか…、それとも先で交わるのか…、
 今の所、二人の間の距離に変化はなかったが、コーラ腹と可愛い嫉妬に口元に笑みを浮かべたままでいる久保田を見て、時任はプルプルと震えながら顔を赤くする。そして、勢い良く伸ばした手で、コーラ腹の原因となった1.5Lのペットボトルを奪い取ると…、
 その軽くて凶器にならない凶器で、口元が緩んでいる久保田の頭を叩き、可愛い嫉妬に似合いの可愛い音を立てた。


 ・・・・・・・ポコッ!


 可愛い嫉妬に可愛い音を鳴らし、真っ赤になった時任の顔を見た久保田は、たいして痛くもない自分の頭を軽く撫でる。そして、うん…と独り言のようにうなづいた後、自分を呼ぶストーカーの声をバックミュージックに、そう遠くない…、
 けれど、少しだけ遠い未来の提案をした。

 「あの桜が咲いたら、花見に行こっか…」

 ポツリとした、たった一つの提案…、小さな約束。
 あの桜が咲くのは卒業した後で、実は卒業だけではなく、春の季節には告白の名所。それを知っているのかいないのか、久保田の言葉を聞いた時任は迷わず行く…と答え、二人の上にある青空のように、晴れやかにうれしそうに笑った。

 「絶対だかんなっ」
 
 二人が出会って一年経ち、二年が過ぎ、そして三年目。
 時折、周囲の人間をやきもきさせながらも、二人の歩みは変わらずゆっくりで…、
 けれど、指切りは今年ではなく、来年の約束。
 別れの日など、思いもしないで人差し指を結び…、
 時に悩み考え、時にお互いの想いが可愛い音を立てる。

 ポコ・ア・ポコ。

 少しずつ、ゆっくりと…、
 肩を並べ頭を撫でて…、肩を抱き、抱きしめて…、
 やがて、口付ける頃にペットボトルを思い出し、腹を抱えて笑い出す。
 そんな日が少しずつゆっくりと歩んだ日々が、すでに恋を通り越して愛だったかなぁ…と顔を見合わせて笑う日が来るのか来ないのか…、
 それを影を並べてゆっくりと歩む二人が知るのは、遠すぎず近すぎない未来なのかもしれなかった。


                                             2010.7.1
 「ポコ・ア・ポコ」


                     *荒磯部屋へ*