・・・・・・生まれて始めて抱きしめたものは、猫だった。
 

 しゃがみ込むと膝の上に乗って来たから、していた手袋を外して…、
 抱き上げて…、腕の中に収めてみると…、
 黒くて柔らかくて…、温かかった。
 そう、アレは生きものだった。
 当たり前のコトだけど、抱きしめて始めてソレを知ったような気がした。
 あたたかい…、生きてる、小さいけど…。
 そんな単語が頭の中に浮かんで、少しだけ抱きしめる腕の力が緩む。
 それはコーヒーカップを両手で包む動作に似てるようで…、違うようで…。
 俺を見上げてニャー…と鳴いた猫の額に、自分の額をくっつけながら、自分の口元が腕の力のように緩んでいるのをカンジた。

 「お前・・・・、かわいいね」

 そう言うと猫は、また返事するようにニャーと鳴いた。
 けれど、その温かさもぬくもりも、長く抱きしめてはいられなくて…、
 頭を数回撫でてやり、腕の中から解放し、地面へと降ろす。すると、猫は鳴きながら足にカラダをこすりつけてきたけど、俺は無視して、その場を後にした。
 そして、二度とその場所には行かなかった。
 だから、猫を抱きしめたのも、頭を撫でたのも、その一度きり…。
 そうして、時は過ぎ…、俺は猫の事を忘れた。


 ・・・・・・忘れ去って、思い出すコトもなかった。


 「なぁ、久保ちゃんっ。帰りにゲーム屋、行って良いか?」
 「この間、新しいの買ったばっかじゃなかったっけ?」
 「あー、アレなら、もうクリアした。天才の俺サマの手にかかればっ、あんなゲームちょろいちょろいっ」
 「…って、あんだけ、ずーっとやってれば、クリア早いの当然だと思うけど?」
 「そ、そんなにずーっとはしてねぇよっ。昨日は俺がメシ当番だったしっ!」
 「うん、まぁ、確かに当番だったけど、ゲームしてて忘れかけて、慌てて買い置きのパスタ茹でてたような? 少し硬かったんだよねぇ、アレ」
 「しょ、少々、硬くても食えりゃ問題ねぇだろっっ」
 「じゃあ…、今度の当番の時、そうめんを少し固めに…」
 「スイマセン、固ゆでした俺が悪かったデス」
 いつもウチのリビングでしてるような、何気ない普通の会話。時任と二人で早くも遅くもない足取りで並んで歩く、暮らしてるマンションへの帰り道…。
 並べた肩は遠くもなく、近くもなく、地面に落ちる影も同じ距離で…、
 その距離を縮めるコトを、俺は望んでいなかった。
 正確には望んでいないの前に…、たぶんが付く…。
 それは望んでいないくせに、ジリジリとジリジリとほんの少しずつ…、変わらないはずの距離が縮まっているのを感じていたから…。
 俺の叔父…、葛西さんに言わせると情が移ったってコトらしい。
 同じ距離を保つために、不自然じゃない程度に時任に触れるコトは避けていたはずなのに、気づけば…、気軽に肩を叩いたりしてる自分の手があった。
 「無いものねだり…、か…」
 「ん? 今、何か言ったか?」
 「いんや、何にも」
 人はあるモノは欲しがらない…、無いモノは欲しがる。
 それは当たり前のコト。
 だけど、時任に向かって伸びる自分の手を見ても、何を欲しがっているのかわからない。わからないし、知りたいとは思わない。
 元から無いなら、そのままで問題無いし必要ない。
 生きるのに何の不都合も無い。
 そう思うけど、今、こうして肩を並べて歩いてる現実に…、
 俺はセッタの煙を胸の奥深く吸い込み、吐き出すコトしかできないでいた。
 増えるセッタの量に、時任は眉間にシワを寄せてケムいって怒るけど、中毒だから止められない。犯されてるんだ…って口元に笑みを浮かべて言うと、やらしい言い方すんなって背中に蹴りを入れられた。
 そして、そんなコトを考えている今も、手は…、横へ伸ばす代わりにセッタの入ってるポケットへと伸びて…。あぁ、犯されてるなぁ…って、ココロの中で呟く。
 犯されて、もう救いようがない…。
 だけど、セッタを口にくわえようとした瞬間、するりと足元に何かが寄って来て…、
 俺は足と一緒に、セッタをくわえようとしていた手を止めた。

 ニャー…、ニャー・・・・。

 足元に寄ってきたモノは…、白と黒のブチ猫。
 カラダを俺の足にすりつけながら、周囲をグルグルと回る。
 それを見た時任も足を止めて、猫の頭を撫でてやろうと屈み込んだ。
 でも、俺はそんな猫を時任の様子を眺めているだけで、手を伸ばすつもりはない。
 きっと、温かいに違いないから触りたくない。
 あんな強く抱きしめたら壊れそうな、ぬくもりには触れたくなかった。
 だから、猫を撫でてる時任に行くよ…と声をかけるようとしたけど…、
 その前に、聞き覚えの無い女の声が近くからした。

 「あら、珍しいわね。その子、あまり人に懐かないのに…」

 俺らに声をかけてきたのは、どうやら、この猫の飼い主らしい。
 エプロンをしたまま来たという事は、きっと、家はすぐ近く…。
 飼い主は自分が来た事に気づいて寄ってきた猫の頭を撫でながら、この猫、いつもこの時間にココにいるんですよ…と人懐こい笑みを浮かべた。
 その笑みに警戒心を解いたのか、時任も飼い主に笑いかける。
 そして、時任も飼い主と一緒に猫を撫で始めた。
 「親の世代から、なんですけどね。いつの頃からか、なぜか同じ時間にそこにいるんですよ。もしかして、何かあるのかと思って見張っていた事もあるんですけど、誰も来ないし何もないし…」
 「へぇ、なんか犬みたいな猫だな」
 「でしょう?」
 「けど、親世代って?」
 「ココで待つようになったのは、この子の親。この子は白と黒のブチだけど、親猫は真っ黒だったんですよ。本当に小さくて可愛くてね…」
 
 ・・・・・・小さい黒猫。

 飼い主が言った言葉が、少しだけ何か…、記憶の片隅に引っかかる。
 その引っかかりが妙に気持ち悪くて、ソレを取りたくて辺りを見回すと…、
 どこかで見覚えのある光景が視界に飛び込んできて…、
 次に二人が撫でている猫を見ると、ピッタリとパズルのピースがはまるように、忘れ去って思い出すコトも無かった記憶が脳裏に蘇る。だけど…、ソレを思い出した所で、飼い主の言っている猫と同じ猫とは限らないし、同じ時間に待っていたのも、何か思いもよらない猫の事情というのがあったんだろう…。
 あり得ないコトで、ヘンな感傷に浸る趣味はないし…、
 そんなモノに浸るようなコトが、あったワケじゃない。
 ただ…、抱き上げて抱きしめただけだ…、一度だけ。
 けれど、話好きの飼い主の思い出話が、そんな俺の思考を止めた。

 「あぁ、そうそう…。そう言えば、どこで拾ってきたのか、黒い手袋がお気に入りで…。いつもくわえて遊んでたわねえ…、懐かしいわ」

 黒猫、いつの間にか失くした手袋…、同じ場所…。
 時間はわからない・・・、でも夜じゃなかった。
 だけど、おとぎ話か何か…、夢物語の方がしっくりとくる。
 なのに、思考が止まったままのせいか、ハマってしまったピースが外れなくて…、
 俺は話している二人を置いて歩き出し、少しだけ距離が出来てから、それに気づいた時任が慌てて後ろを追ってくる。
 だけど、俺は時任が追いついてくるのを待たずに、一人で歩き続けた。
 
 「後悔…って、ホント、先には立たないもんだなぁ…」

 それは三度目の後悔…、だったのかもしれない。
 一度目も二度目も、少し温かさに触れて後悔して…、
 三度目はあり得ないのに、毎日、同じ時間、同じ場所に居た猫の姿が脳裏に浮かぶのを止められない。そんな自分の脳は持ち主の予想に反して、意外とロマンチストなのかどうなのか…、浮かんだ苦笑をくわえたセッタの端と一緒に噛み殺し…、
 ようやく立ち止まると後ろから追いかけてきてた時任が、俺の背中に勢い良くぶつかる。すると、その瞬間、額がカラダが背中に強く押し付けられて…、まるで包み込むように時任の温かさが伝わってきた。
 だけど、それは始めてカンジるものじゃない…。
 もう、知ってる…、ぬくもりだった。
 裏路地で背負った時に…、手を伸ばして触れた時に…。
 だから、三度目の後悔も、やっぱり先に立たないのかもしれない。
 先に立たないから、後で悔いて…。
 でも、離れていかずに押し付けられたまま、二本の腕が前に回ってくるのを止めず、逃げずに見つめてるのはなぜだろう。そうして、もう知ってる…、今までカンジた中で一番温かな、ぬくもりに包まれながら聞いた少し震えた声の呟きに…、
 俺は・・・、もうすでに自分が無いものねだりをしていないコトを知った。

 「俺を置いてくんじゃねぇよ…、バカ…。久保ちゃんに置いてかれたら…、帰る場所、なくなっちまうだろ…」

 無いものが何だったのか…、それは今も俺には答えられない。
 でも、それでも背中のぬくもりをカンジながら、回された腕に手を置き撫でると…、
 何度も何度も…、バカって言われた。
 
 「・・・・・バカ」
 「うん」
 「バカ…、バカ…」
 「・・・うん」
 「バカ…、バカ野郎…っ」
 「うん・・・・、ごめんね」

 無いものねだりじゃなくても、また後悔するのかもしれない。
 ぬくもりに犯されて、きっと最初から手遅れで、ちっとも先に立たなかった。
 でも・・・、それがわかっていても…、
 この後悔が海よりも空よりも果ても無く、深く深くなっていくとわかっていても…、
 それでも、離れられないのは三度目ではなく…、
 時任にバカって言われる俺らしく、四度目の正直ってヤツなのかもしれない。
 そう思い振り返って始めて抱きしめたぬくもりは、後悔よりも深く…、果ても無く…、温かくて愛おしかった。

『待ちびと』 2010.7.21更新


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