綿毛の雪 16





 『必ず帰ってきますから…、貴方に会うために…』


 約束を破ったら、針千本。
 約束の指切りをするのに、そんな決まり文句を誰もが言う。
 だが、決まり文句が実際に出来もしないような事なのだから…、約束自体も守られるなどと思う方がどうかしている。そんな約束は指を切った瞬間に、忘れた方が身のためだ。
 渡された本も、その本に記された題名にも意味など無い。
 橘は留学したのではなく、罪を犯して牢獄に入っていた。
 初めから意味など・・・、何もありはしなかったのだ。
 それを父が知ったなら、何と言っただろう。
 母がすべてを知ったなら、一体、何を思っただろう。
 けれど、そんな事を考えても答えなど出るはずもなく、何を考えても思っても、ただ座り込んだ床の冷たさが、ゆっくりと足元から全身へと染み渡っていくだけだった。

 『うれしいだろう? 君が橘君を救ったのだよ』

 式場から真田の屋敷へ戻り、俺をこの部屋に閉じ込めながら、真田はそう言った。
 うれしいだろう? うれしいのなら、素直にそういう顔をしたまえと笑った。
 けれど、俺は微笑む事ができない。
 それは裏切られたから? それともすべて偽りだったと知ったからだろうか?
 だが、俺は初めから何も信じていなかったし、何の期待もしていなかったはずだ。
 だから、事実や真実がどうだろうと、俺には関係ない。俺は誰のためでもなく、自分のために真田の差し出した契約書と誓約書にサインをした…、ただ、それだけの事だ。
 それに、こんな事はありきたりで、良くある事で特別ではない。
 父が生きていた頃は、誰もが父の印象を良くしたいがために、俺を利用するために媚びへつらっていた。あの叔父夫婦でさえも、それは同じで…。
 つまり事情は叔父達とは異なっていても、橘も俺を利用しようとした人間の一人だったというだけだった。
 
 『・・・・・橘を救ったのは、俺じゃない』

 そうポツリと一言だけ呟くと、真田は口元に笑みを浮かべたまま、俺の頭に向かって手を伸ばす。それから、その手で髪をゆっくりと優しく…、撫でた。
 撫でられた瞬間に、その優しさに気持ち悪さに鳥肌が立った。
 すぐに反射的に手を振り払ったが、それでも真田は優しく撫でてくる。
 払っても払っても、優しく撫でてくる。
 この男には髪どころか、身体のあらゆる場所を触られ撫でられ…、もっと、気持ち悪くて吐き気のするような真似もされていた。
 だが、それよりも今の方が遥かに気持ち悪く耐え難い。
 髪を撫でる優しい手が、懐かしい人の手を思い出させて…、
 それを思い出させた手が、俺を犯した男の手だという事実に吐き気が止まらない。
 しかし…、本当に気持ち悪かったのは、優しく撫でてくる手ではない事を俺は知っていた。知っていたけれど、認めたくなかった…。
 けれど、そんな俺の心を知ってるかのように、真田は俺に気持ちの悪い優しさを与え続け。しばらくして髪を撫でるのをやめると、俺の頬を両手で包み込んだ。
 『何の…、真似だ』
 『私はただ、傷ついた息子を慰めたいだけだよ。父親として当然の事をしているだけなのだが、気にさわったかね?』
 『・・・・・俺に触るな、吐き気がする』
 『そう思うのなら、さっきのように私の手を振り払えばいい。本当に嫌なら振り払うだけではなく、手の届かない場所まで逃げればいいだけだ。別にベッドで身体を繋いでいる訳でもないのだから、それくらい簡単にできるだろう?』
 『・・・・っ』
 『くくく…っ、今の君の様子はまるで、口付けを待つ少女のようだよ』
 真田の言葉を笑い声を聞いていると、胸の奥から煮え立つような憎しみと怒りが湧いてくるのを感じる。橘が俺の家に入り込んだのも、あの叔父が借金を重ねたのも、真田が仕組んだ事だ。
 橘の事ばかりに気を取られていたが…、すべての元凶は真田。
 俺も橘も、そして叔父も真田の手のひらの上で踊らされているだけだ。
 だが・・・、俺にはもう他に行く場所がない。
 行く場所も帰る場所も、どこにもない。
 契約書と誓約書の存在ではなく、そんな現実が今の俺を追い詰める。
 港でいなくなったという相浦の事も、そんな俺に追い打ちをかけていた。
 自分の目で見て話して信じられると思ったから、ミノルの事を託したのだが…、やはり金だけが目当てだったのだろう。渡した金と一緒に消えた相浦の行方を真田が探していたが、未だ見つかっていなかった。
 『私はこれでも、とても気に入っているのだよ。君の亡くなった父君ではなく、君自身を』
 『・・・・・俺、自身を』
 『そう、私は隆久君…、君を気に入っている。これでも私は気に入らない人間を抱くほど、暇ではないつもりだ』
 『・・・・・・』
 『だから、君さえ受け入れてくれるなら、君と私は思う以上に良い親子になれると思うのだが…。君もそうとは思わないかね?』

 ・・・・・・・・嘘だ。

 真田の言葉など、信じられるはずがない。
 真田が俺自身を見ていたとしても、それに何の意味がある。
 真田が何をどう思っていようとも、俺には関係がない。
 だが、そう思っていながらも、なぜか逃げられなかった。
 近づいてくる唇から、頬から身体へと降ろされていく手から逃げなかった。
 変わらず気持ち悪さも吐き気も感じているのに、俺は抵抗しなかった。初めて抵抗せずに真田の手でベッドに横たえられ、自分の体重で軋むベッドの音を聞いた。
 そんな俺の脳裏では式場での冷たい視線とざわめき、そして、橘の残酷な言葉が繰り返し浮かんでは消え、浮かんでは消えて…、
 気づけば、俺は間近で自分を見つめる真田を見つめ返しながら手を伸ばし、頭の両側に置かれた真田の腕を握りしめていた。

 『君が嫌なら、今日は何もしない』
 
 どうするかね?…と、目で聞いてきた真田の前で、俺は自ら足を開き…、
 真田を受け入れ揺さぶられるままに喘ぎ、その背中に腕をまわして…、
 ほんの数時間前のそんな出来事を思い出すと、腹の辺りを抑えた手が震える。
 俺は女ではない…けれど、この中に何かを孕んでしまったような気がして、いつまでも熱の引かない身体が、とてつもなく醜く汚いもののように思えた。
 雨の日にミノルを拾ってから何かが変わっていくような気が、自分にも何かが出来るような気がしていたが…、結局、前に踏み出した足は行き先を失い。遠い日の思い出も、たった一人の友人も失ってしまった。
 その後に残ったのは、汚れた身体と心と…、孕む熱と…、
 真田によって知らされた現実に犯され、この部屋に暗く満ちていく、絶望だけだった。
 『私は君を手放すつもりはないが、おそらく、近い内に橘はここへと戻ってくるだろう。君を助けるためではなく、逃げ出したはずの場所に戻るために…』
 『しかし、橘は今日、美和と…っ』
 『先ほど、式は取りやめになったと連絡が入った。式が始まる前、花嫁が犯罪者とは結婚したくないと、橘との結婚を拒否したらしい』
 『・・・・・・』
 『罪人の烙印を押された上に元より身寄りのないアレには、他に行く場所など、ありはしない。つまり自由になって初めて思い知る事もある…、という事だよ』
 俺を身代りにして自由になった橘が、今度は俺を追い出すために戻ってくる。
 帰る場所の無い俺の居場所を…、奪い取るために…。
 もしも、橘がここへ戻ってきたら、俺はこの部屋を出なくてはならない。
 そして…、この部屋を出た先に待っているのは、今よりも暗い場所。
 そんな信じられない言葉と一緒に、俺よりも前に橘の身代りにされかけた少女の話を俺の耳に囁いてから…、真田は部屋を出て行った。

 『君のような少年や、あの少女のような子供を欲しがる客は皆、とても素敵な趣味をしていてね。だから、可愛い息子である君を、私はそんな場所には行かせたくない…と思っているよ』
 
 俺の前に身代りにされかけたのは、金色の髪の少女。
 だが、結局、少女は真田が懇意にしている取引先へと売られた。
 真田が少女よりも橘を選んだから、そうなってしまった。
 だから、もしも真田が気まぐれを起こして、また橘を選んでしまったら…、
 今度は俺が少女のように、暗闇に落ちる番…なのかもしれない。
 そして、その暗闇に俺を落とすのは真田なのか、それとも橘なのかと…、
 そう考えた瞬間、真田に熱を孕まされた腹が震えた。

 「ふ…っ、くくく・・・・っ」

 こんな時くらい…、泣けば良いのに…、
 俺の口から出たのは泣き声でなく、笑い声だった。
 しかも、その笑い声は自分のものなのに、止めようとしても止まらない。
 痙攣するように震え続ける腹を抱えながら、俺は脳裏に想い浮かべた橘を待ち、橘を想い続けた自分を、まるで他人を見るように見つめた。
 馬鹿で愚かな…、自分自身を・・・。
 すると、腹を震わせていた笑い声が、別の何かに変わり…、
 苦しくて、苦しくてたまらなくて思わず伸ばした手に、偶然、触れたものを抱き寄せ抱きしめた。

 「・・・・・・・ミノル」
 
 一人きりの部屋で抱きしめたものは、ソファーの上に置かれていたクッション。
 けれど、それはとても柔らかくて…、
 その柔らかさはなぜか、たった一人の友人のぬくもりを思い出させる。
 片割れのクマに会いたいと必ず会うんだと、何があってもあきらめないミノルの真っ直ぐな想いだけは、その願いだけは叶って欲しいと祈っていたのに…、
 結局、俺は背中を押すどころか、足を引いてしまった。
 それどころか、今も無事でいる保証すらない。
 一緒にここから出ようと、いつも必死に俺のズボンの裾を引っ張っていたミノルの姿を思い出すと…、クッションを抱きしめた胸に痛みが走った。
 
 「あの日…、お前を拾ったりしなければ良かった。そうしたら、お前をこんな目に遭わせずに済んだのに…、どうして俺は・・・」

 ミノルと出会って、前に足を踏み出したつもりでいた。
 自分にも出来る事があると、そう思っていた。
 だが…、それはただの思い込みでしかなかった。
 何もかもが苦しく痛みに満ちていて、終わらない暗闇だけが目の前に続いている。
 そして、その暗闇を見つめる視線の先…、ソファーの置かれている場所の床が、一か所、わずかに不自然に浮いているのを見つけた俺は…、

 苦しみと痛みを止めるために…、そこに向かって手を伸ばした。




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  2009.1.31