パチリと閉じていた目を開くと、すでに放課後。
 授業中から机に突っ伏し、うつらうつらとしながら眠りを貪っていた久保田は、ようやく目を覚まし顔を上げるとふぁ〜と大きく口を開けて欠伸をする。そして、欠伸が終るとゆっくりと座っていた椅子から立ち上がって、机の横にかけていた鞄を手に取ったが、そうしながら、いつもの習慣で思わず見てしまった方向には、ただ椅子と机があるだけで誰も居なかった。
 うつらうつらしていた時に話しかけられ、先に行くからな…と言われていたから、居ない事は最初から知っていたが、それでも向けてしまった視線に久保田は苦笑する。
 クセや習慣というものは、無意識でしている事もあるから恐ろしい。
 おそらく、視線を向けた後で今のように姿が無かった時、苦笑するのも久保田のクセの一つに違いなかった。

 「あぁ、そういえば今日は非番だったっけ…」

 校内の治安を守る執行部に所属している久保田は、当番がくればペアを組んでいる相方と二人で、校則違反者を取り締まるために見回りをしなくてはならない。だが、クセで向けてしまった視線の先にある椅子に座る相方が、強引に久保田を起こさず、執行部の部室である生徒会室に行ってしまったのは、今日が非番だったからだろう。
 置き去りにしたのではなく、急ぐ必要がないから、ゆっくり寝ていろという事なのだろうが…、そう思う前に、何度か起こそうと試みた相方は、ムスッとした顔でしょうがねぇなーと呟いたに違いない。その時の相方の顔を思い浮かべた久保田はクスっと小さく笑い、そして、自分も生徒会室に向かうべく教室を出た。
 だが…、それから数歩も歩かない内に、ある物が行く手を阻み進めない。
 無視して立ち去っても構わないのだが、このままにして置くのはあんまりだろう。それに実は久保田には、行く手を阻んだ物を無視できない事情というものもある。
 廊下に落ちていた、あきらかにラブレターか何かの類だと思われる封筒には、久保田の良く知る人物の名前が書かれていた。

 ・・・・・・・・時任稔様。

 執行部でペアを組んでいる相方で、同じマンションの部屋で暮らしている同居人の名前。拾い上げて裏返してみると、やはり差出人と思われる女の名前が書かれていた。
 見覚えの無い名前だが、差出人はこの学校の生徒に違いない。
 さて、どうしたものかと手紙を眺めつつ、久保田が考えているとツカツカと前から歩いてやってきた人物が、ひょいっと手紙を持っている手元を横から覗き込んできた。

 「・・・・・まさか、捨てるつもりじゃないでしょうね?」

 久保田に向かって平然とそう言い放ったのは、同じ執行部に所属している桂木。
 桂木は執行部の紅一点だが、個性の強い人間の集まりである部を白いハリセン片手に見事に纏め上げている。季節外れの転校生だった彼女を執行部にスカウトしたのは、久保田と相方である時任だった。
 そんな桂木に冗談とも本気とも取れる口調で、捨てるつもりかと言われた久保田は、手紙と桂木を交互に見た後…、
 「そんな風に見える?」
 …と、精一杯、可愛く首をかしげてみる。
 すると、眉間を人差し指で押さえた桂木にキモイと言われた。
 「それ…、視界の暴力だから」
 「えー、可愛くない? 一応、俺ってラブリー久保田だし?」
 「・・・・・前々から聞きたかったんだけど、言ってて恥ずかしくない?」
 「うーん…、まぁ、多少?」
 「なら、やめれば?」
 「決めゼリフないと、公務に若干支障が…」
 「ある訳ないでしょ、そんなのっ」

 「いやぁ、実は大アリだったりして…」

 手紙の話だったはずが、いつの間にか久保田と時任の執行部の公務を執行する時の決めゼリフになっている。その事に気づいているのかいないのか、桂木は眉間の皺を深くして、はーっとため息をついた。
 「そんなに決めゼリフが必要ならラブリーじゃなくて、ブルーとかブラックとか言えばいいんじゃない? その後にいつもの言えばいいんだし」
 「もしかして、俺って裏切りカラー?」
 「裏切らないわよ、アイツがレッドな限り」
 「断言しちゃうんだ?」
 「でも、違ってないでしょう?」
 桂木の言葉に、久保田は口元に笑みを浮かべただけで頷かない。
 しかし、桂木はそれを気にした様子もなく、軽く肩をすくめただけだった。
 そんな二人の会話は、いつもと違うようで同じなのかもしれない。
 ふと、何かに気づいたように、細い目でじーっと桂木を見た久保田は口元に笑みを浮かべる。すると、桂木が何なのよ…と、不審そうな顔で自分を見る久保田を見返した。
 「何? その始めて居る事に気づいたみたいな、失礼な視線っ」
 「そんな視線向けたつもりなかったけど、相変わらず鋭いなぁ」
 「鋭いなぁ…じゃないわよ。事と次第によっては、ハリセンじゃ済まないけど?」
 「ハリセンでも、十分に痛いんだけどね」
 二人の間に、わずかに空気が張り詰める。桂木の手にはハリセンが握られ、久保田の手には相変わらず時任宛ての手紙が握られていた。
 だが、そんな二人の空気を奇声を上げて走ってきた空気の読めない人物が、あり得ない妄想に緩みきった顔で、粉々に破壊する。しかし、その人物の手が久保田の腕に届く前に、桂木のハリセンが脳天に炸裂した。

 バシッ、バシィィィンッ!!!!

 「目覚めに一撃っ!!! ハリセン一本っっ!!!」
 「…ってっ、そんな目覚めは欲しくありませんっっ!!!! というより、走ってきた人間に対して目覚めって、アンタの方が寝てんじゃないですかっ!??」
 「さっきから、白昼夢見てた人に言われたくないわね」
 「僕が見てたのは白昼夢じゃなくて、近い将来ってヤツですっ。もうじき、僕は僕の久保田センパイと、二人で幸せな家庭を…っ」
 「あー、そう。つまり目覚めの悪い頭に、もう一撃欲しいって事ね」
 「そんなモノ欲しくありませんっていうかっ、どうしてそうなるんですかぁぁっ!!」
 「変態退散っ!!!」

 「ぎゃあぁぁ…って、誰が変態ですかっっっ!!!」

 ハリセンが振り下ろされると同時に、絶妙なタイミングで入れられるツッコミ。
 乱入してきた空気の読めない人物は、久保田と桂木の後輩で、執行部で正規の部員ではなく補欠として席を置いている藤原。藤原は久保田に惚れていて、いつも積極的すぎるくらい積極的にアプローチを繰り返しているが、それが成功した試しはない。
 フル、フられる以前に、藤原の言動も行為も全て、見事に久保田にスルーされている。藤原に腕にすがり付かれながらも、動揺どころか視線すら向けず、平然と何事もなかったかのように歩く久保田を見かけた生徒が、校内には何人か居た。
 そんな藤原の恋の行方は、周囲の人間から見れば望みはゼロなのだが…、
 どうも、未だ本人だけは違うらしい。
 変態は退散できなかったものの、ハリセンのよって妄想を一時的に止める事に成功した桂木は、藤原の首根っこを掴みズルズルと引きずりながら歩き出す。そして、忘れてないわよ…とばかりに、伸ばした左手で久保田の手からスルリと手紙を抜き取った。

 「これは私から渡した方が良さそうだから、受け取って置くわ。もちろん、時任じゃなくて…、手紙を書いた彼女にね」
 
 それは久保田ではなく、手紙を落とした彼女を気遣っての行動。
 けれど、それを口に出して告げるのは、久保田を気遣っての言動。
 最初に会った時から、執行部に入ってからも桂木は変わらない。
 そして、ふと気づけば…、いつも桂木とは時任の事について話している。それは今まで気づかなかったが、らしくないと自分で思い、無意識に深いため息をついたりする時の息抜きや気分転換になっていたのかもしれなかった。

 「ありがとね、桂木ちゃん」

 礼を言った久保田に、桂木がどういたしまして…と答える。
 だが、久保田の言った礼を手紙の事だと思っているのか、それとも別の事だと思っているのか…、
 「さっきのハリセンも、ハリセン以外も無しにしておいてあげるわ」
と、言ってヒラヒラと手を振った。
 そんな桂木の背中を見送りながら、なんとなく過去を振り返りかけた久保田は、それこそ…らしくないかと小さく呟く。今日に限って感傷的とも言える自分の思考回路に苦笑を浮かべかけると、背後に気配を感じて振り返った。
 すると、執行部に顔を出す前に用事でもあったのか、ノートパソコンを小脇に抱えた相浦が立っている。この場所に立ち止まったのは手紙が落ちていたせいだが、桂木に藤原…、そして相浦とくれば千客万来…。
 だが、ここは自宅マンションではなく学校だ。
 別に廊下ですれ違ったり、出会ったりしても何の不思議も無い。
 相浦は久保田にノートパソコンと一緒に脇に抱えたファイルを指差して見せながら、今月も赤字だと、ははは…と肩をガックリと落とし力無く笑った。
 「先月もドアとか机とか派手にぶっ壊してたもんなぁ、時任」
 「あ…、ドアは時任じゃなくて、俺だったりして」
 「けど、例の件なら時任がらみ…だよな」
 「さぁ、どうだったっけ?」
 …と答えてはいるものの、確かにドアは時任がらみだった。
 時任の相手が少数ならドアを壊すこともなかったのだが、10人近くもいるとなっては話が変わってくる。他校生徒まで巻き込んでの復讐劇は、久保田がドアを蹴破り、その足で時任に危害を加えていた男を蹴り飛ばして終った。
 容赦なく蹴り飛ばされた男は派手に肋骨を折って、今も入院中らしい。
 おそらく、時任が止めなければ、全員が病院送りだっただろう。
 事後処理は生徒会本部がしたらしいが、壊れたドアはやはり執行部の赤字予算から捻出されるようだった。
 「どっちにしろ。今月は頼むから、おとなしくしててくれよ」
 「うーん、努力はしてみるっていうより、毎月してるんだけどね?」
 「それでコレか〜…、何だか泣けてくる〜」
 「苦労かけて、ゴメンね?」
 「そのセリフ、時任から聞いてみたいっっ」
 どうやら、予算の事で生徒会本部、ドアの修理の件で職員室へと次々に呼び出され、その帰りだったらしい執行部、会計担当の相浦は、深まる赤字を嘆いている。だが、これはいつもの事で、別に珍しい事ではない。
 しかしながら、赤字に比例するように校則違反者や悪事を行った生徒の公務執行率は上がっているので、相浦によると生徒会本部も複雑な心境らしかった。
 「せめて、もう少し予算があげればなぁ…」
 そうブツブツと呟くと相浦は、生徒会室に向かい歩き出す。
 けれど、一緒に歩き出そうとしない久保田に気づいて足を止め振り返った。
 でも、そうしながらも相浦が口に出して言った事は、一緒に生徒会室に行かないのかとかそんな事ではなく、もっと別の事…。赤字を抱えた会計担当のセリフとは思えないことを、久保田に言って笑った。

 「確かに赤字は赤字だけどさ、それに変えられないモンはある…ってのは、やっぱあるだろ? だから、もしも前みたいな事とかあったら、ドアなんか何枚壊したって構わないぜ? こういう時に何とかするのが、会計の腕の見せ所ってヤツだしなっ」

 執行部の頼もしい会計担当は、そう言うと再び歩き出す。
 すると、見回りの途中で通りかかった松原と室田が二人の話を聞いていたらしく、久保田の両脇を通り過ぎる瞬間、ポンッと肩を叩く。両肩を二人に叩かれた久保田は、右を見る事も左を見る事もなく、前方の…、相浦を追うように歩く二人の背中を見つめた。

 「いざとなったら、ドアくらい俺が直す。工作は得意だからな」
 「だったら、人は道ずれ、世は情け…で、僕も手伝います」
 「い、いや、それを言うなら、旅は道連れだと思うのだが…」

 見つめる背中越しに聞こえてくる声を聞きながら、久保田はぼんやりなのか…、それとも呆然となのか、その場に立ち尽くす。そうしながら、一体、今日は何の日だっただろうかと、今年のカレンダーを思い浮かべた。
 でも、そうしてわかる事は今が11月だという事だけだ。
 特に何の日という訳でもない…。
 ただ11月が過ぎ、もうじき12月になって…、年を越えると卒業が近くなるだけだ。
 だが、久保田が声に出して何か言おうとするよりも先に、時任よりも前に執行部でコンビを組んでいた、元相方がやってきて近くの窓辺に立つ。そして、その窓から見える校庭を眺めながら、時が経つのは早いものだな…と呟くように言った。
 「卒業など、まだまだ先だと思っていたが…、もう11月か…」
 「ふーん…。もしかして、それで窓辺で黄昏たくなったワケ?」
 「お前こそ、こんな所でどうした? 黄昏た顔をして」
 「…って言われても、俺って、そんな顔してたっけ?」
 「さぁな、カマをかけてみただけだ」
 「さすが松本、相変わらず狸さんだねぇ」
 「そういうお前も、相変わらずのようだな」
 相浦に続いて、松原と室田…。
 そこで終ると思いきや、珍しく副会長である橘を連れずに一人でやってきた松本が、今度は久保田の居る場所を通りかかる。しかし、相手が松本故に偶然通りかかったのか、それとも久保田と話すためにやってきたのかは不明。
 だが、相浦と違ってドアや赤字の件については触れなかった。
 相変わらず、付き合いは中学からで長い方だが、お互いにお互いの事を知らない。住んでいる場所や電話番号や誕生日やデータ的なものは、もちろん知っているが、それ以外の部分については、お互い知ろうとはしなかった。
 いや、知ろうとしなかったのではなく、知る必要がなかったからだ。
 しかし、それでも縁が切れないのは、同じ学校に通っているせいか…、
 それとも、立場的にお互い色々と利用価値があるせいなのか…。
 だが、そんな関係も終わりが近いと感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。
 松本が生徒会長、久保田が執行部員ではなくなり、こうして同じ場所に立つ事が無くなれば、必然的に連絡の必要もなくなりプツリと切れるだけだった。
 
 「・・・・・・選挙前だが、会長の後任が決まったよ」

 久保田が珍しく松本との関係についてぼんやりと考えつつ、無意識にズポンのポケットに手を伸ばすと、何の前触れもなく、唐突に松本がそう言う。そして、狸と呼ばれるのに相応しい、何かを含んだような笑みを口元に浮かべた。
 選挙前に後任が決まったという事は、対立候補には気の毒な話だが、何か余程の事が起こらない限り、松本の発言が覆されることは無い。誰が後任なのか興味はないが、狸の松本が選んだのだから…、おそらく同じ狸の類に違いなかった。

 「それはいいけど、俺に紹介とかしないでくれる?」

 唐突な松本の発言に対して、久保田が軽く肩をすくめて、それだけ言う。
 すると、松本はそれは残念だ…と、口元に浮かべた笑みを深くした。
 「次期選挙戦、少し手伝ってもらえると有り難かったんだが…」
 「自力で当選できないなら、落ちた方がいんじゃない?」
 「確かにな。しかし、後任は何と言うか人徳はあるが、その他はまったく…」
 「狸じゃないんだ?」
 「たとえるなら、リスか小鳥って所だな」
 「ふーん…、どういう心境の変化?」
 「小鳥で、オオカミを釣った」
 「あぁ、それなら納得」
 松本の話によりと、どうやら来年の会長は可愛いらしい。そして、その可愛い会長を可愛がってる有能なオオカミを、副会長に据えるつもりのようだった。
 伝統かどうかは知らないが、今期も来期も会長と副会長は只ならぬ仲。
 松本は狸で小動物ではないが、鶴である橘と付き合っていた。
 「つまり、今期も来期もバカップルってコトだぁね」
 「・・・・・それは、お前だけには言われたくないな」
 「そう?」
 そんな会話を二人が続けていると、英語教師の三文字と保健医の五十嵐という珍しい組み合わせが並んで背後を通り過ぎる。その時、男であるのに女の格好をした、時任いわくオカマ校医の五十嵐が久保田に向かってウィンクをした。
 どれくらい本気なのか測りかねるが、五十嵐は久保田に想いを寄せている。
 松本と話していなければ、おそらく腕にまとわりついてきたに違いない。
 アプローチをウィンクだけに留めた五十嵐は、隣にいる三文字に何か言い、人差し指で前方を指差す。すると、そこには何をしたのか、五十嵐を見て顔色を悪くした大塚が立っていた。

 「あら、誰かと思えば…、学校の窓を派手に割ってくれちゃった大塚クンじゃなぁい」
 「げっ!! 執行部…っ、じゃなくて五十嵐っ!!」
 「先生を呼び捨てするなんて、相変わらず悪い子ね。アタシを呼ぶ時は、女・王・様と呼びなさいって言ったでしょう?」
 「〜〜〜〜〜〜っ!!!」
 「さぁ〜、オシオキしてあげるから、保健室にいらっしゃ〜い」
 「…というワケだ、大塚。俺は職員室に戻るから、後はよろしくお願いします、五十嵐センセ」
 「うふふふふ…、任せてちょーだい」
 「ぎゃあぁぁーーっ!!」

 廊下で巻き起こった騒ぎに、久保田と松本の会話が途切れる。
 そして、聞こえてくるので仕方なく三人の会話を聞いていたのだが、久保田だけではなく松本も、明らかに保険医らしくない五十嵐の発言に突っ込みを入れたりはしなかった。
 五十嵐の格好も発言も、他の学校では非常識だか荒磯では常識だ。
 それに、何か予期せぬ事態が起こった時、女らしさと男らしさを併せ持つ五十嵐は頼りになる。さっさと職員室に退散した三文字は頼りないが、教師という立場に居ながら、生徒会本部、特に執行部のやり方に理解を示してくれている貴重な存在だった。
 大塚が五十嵐に連行され、三文字が職員室へ戻り廊下が静かになる。すると、松本が何かを想うように目を閉じ、口元に狸とは違う…、うれしそうな笑みを浮かべた。
 「本当に、ここは良い人材が揃っている…。それはやはり他より問題が多くとも、良い学校だからなのだろうな、荒磯は…」
 「それって、自画自賛?」
 「いや、荒磯は通う生徒達、教える教師達…、この学校に居る全ての人間のものだ。私は、そこまで自惚れてはいないし、学校というのはそうあるべきだと思っている」
 「会長みたいな発言だぁね」
 「みたい…じゃなくて、今はまだ会長だからな」
 そう言った松本は、とても清々しい良い表情をしていて…、
 それは、まだ会長だと言いながらも、その責務が終わりつつあるからかもしれない。
 普段、、狸と称される生徒会長とは思えない、そんな表情の松本を見た久保田は、伸ばしかけた手を再びポケットへと伸ばし、その中を探ってみる。すると、何の予感だったのか、購買でパンを買った時、サイフに入れるのが面倒でそのまま突っ込んでいた10円玉が2枚入っていた。
 しかも、その内の一枚は側面がギザギザとしていて、触るとその感触が指から伝わってくる。そう言えば、中学の頃、タバコの自販機の前で、松本が金の足りなかった久保田に向かって差し出した10円もギザギザしていた。
 ・・・・・・良くこんな事を覚えている。自分でもそう思えてしまう記憶に、何となく可笑しさが込み上げてきて久保田の口元に笑みが浮かんだ。

 「借りてた10円、長い間借りっぱなしだったけど、返すから…」

 久保田が松本に向かって差し出した、ギザギザの10円玉。
 そこから、二人の奇妙な関係も縁も始まり、そして終わりを告げようとしている。
 松本は久保田の手から10円玉を素直に受け取ると、律儀なヤツだと笑った。
 「やはり、あの時、お前に10円を貸したのは正解だったな」
 「ソレ、二度目はないよ」
 「だろうな」
 二人の間にあるのは仲間でも友人でもない、ただの利害関係…。執行部でコンビを組んでいた時すら、二人は気軽に仲間とも友人とも呼べない距離にいた。
 しかし、右手の中の10円玉を見つめた松本は、左手を久保田の方へ向かって差し出す。そして、あの日のタバコの自販機の前に居た久保田に、10円玉を差し出した中学生みたいな顔をして缶コーヒーを買う金が足りないと言った。
 「ポケットの中に100円、これを合わせると110円だ。あと、10円足りない」
 「それで、俺から10円借りちゃうんだ?」
 「いけないか?」
 「・・・いや、別にいいけどね」
 そう言って再びポケットに手を突っ込むと、残りの10円玉を取り出し松本の手に乗せる。すると、松本は先に受け取った10円玉と合わせて右手で握りしめ、橘が呼んでるようだ…と、来た方向へと戻り始めた。
 久保田がその方向へと視線を向けると、確かに橘が優雅に微笑みながら、少し離れた場所でこちらを見ている。その視線に嫉妬が混じっているのはいつもの事だが、恋人らしい余裕のようなものも感じられるようになったのは、つい最近の事…。
 その証拠に、橘は今立っている場所からは近づいて来ようとしない。
 橘は松本と同じ大学に行くらしいと、直接、本人からではなく風の噂で聞いていた。

 「この分だと卒業後は同居…、いや同棲ってトコかな」

 自分の事は棚に上げて、久保田はそんな風に呟く。
 すると、まるでその呟きが聞こえたかのように、松本が立ち止まり振り返る。そして、いつもと変わらない細い目を向けた久保田を相手に、強引な約束を取り付けた。
 「この10円は気が向いた時に、取りに来るといい。その時には、お前が支払った過払い分の利子分も、まとめて返させてもらうつもりだ」
 「過払い…、なんてあったんだ?」
 「悪徳金融業者ではないつもりだよ、一応な。俺に連絡が取れない場合は、橘に連絡してくれればいい。この件については、すでに橘も了解済みだ」
 「じゃあ、ま…、気が向いたらね」
 「そうしてくれ。お前一人ならまだしも、二人なら…、10円でも必要になる時が来るかもしれない」
 「・・・・・・・・」
 強引な約束は松本の手によって取り付けられ…、しかし、その約束が果たされる可能性は久保田の性格からして、限りなく低いに違いない。だが、一人ではなく二人で居るとするなら、何かあった時に頼める相手はいた方がいい…。
 口元から笑みを消し、開きかけた口を閉じたのは、迷い戸惑いながらも浮かんだ…、そんな想いの暖かな作用。けれど、迷い戸惑う気持ちは切なさをも生み、笑みの消えた口元にそれが滲み噛みしめられた。

 「俺は・・・、今のお前をとても好きだと思うよ、誠人」

 そんな言葉を残して、松本は再び久保田に背を向け歩き出す。
 そして、橘の元へと歩み寄り、二人肩を並べて目的地に向かい始めた。
 向かう方向は本部とは違うため、何をするためにどこへ行くか予想はつかない。けれど、一緒に行かない久保田にとって、それはどうでもいい事だった。
 時任宛ての手紙を拾って立ち止まり、桂木が…、藤原が立ち止まり通り過ぎ…、
 次に相浦が、そして室田と松原が同じように立ち止まり通り過ぎ…、
 それから、三文字と五十嵐が通り過ぎ・・・・、
 一番長く立ち止まっていた松本も、橘と一緒に立ち去り通り過ぎ…、
 最後に久保田だけが、この場所に残った。
 
 「ココは箱庭たけど…。そういえば、スクランブル交差点の上にあったんだっけ」

 そう呟き眺める校内風景…。
 そこには生徒達の姿があって、それぞれが自分の目指す方向へと歩き、走り…、
 立ち止まっていた箱庭の上を通り過ぎていく。
 それは決まり切った、当たり前の事で何の不思議も無いこと…。
 だが、過ぎていく月日の中で、なぜか忘れがちになってしまっていた。
 なぜかはわからないけれど、そう…、忘れていた…。
 久保田はぼんやりと目の前に広がる見慣れた光景を眺めながら、なんとなく、ある場面を思い出す。それは、ある人物との出会いの瞬間…、始めて口を利いた日の事…。
 かなり失礼な事を言われた気がしたが、それがなぜか面白く楽しかった。

 『でっけぇー…っ! つか、目が細っせぇぇっ!』
 『いや、うん…、まぁ、そうなんだけどね』

 思い出した過去の光景に、思わず噛みしめていた口元が緩む。
 すると、次から次へと鮮やかな光景が、脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えて…。ふと…、あぁ、あれからだと気づく…。
 かなり失礼な口を利いた、あの人物と出会ってから、あまりに時が過ぎていくのが早く感じられ、この箱庭が交差点の上にあって、通り過ぎていく場所である事を忘れがちになってしまっていた。
 そして、ただ同じ執行部に所属しているというだけの…、そんな存在だった他の部員達との関係が、次第に変化していったのも…、たぶん同じ頃から…。
 目の前に広がる光景を、やがて立ち去ってく場所を温かく懐かしく感じるのも、あの日に自分に向かって差し出された手があったからだ。

 『俺は時任って名前だけど、アンタの名前は?』

 差し出された手に向かってゆっくりと手を伸ばし、指先で触れ握りしめる。
 その時、他人の体温を温かいと感じた…。
 それは手が差し出されると同時に、自分の上に降ってきた笑顔が、あまりにも無防備で無邪気だったせいかもしれない。何か裏があるのかとか、何か目的でもあるのかとか、そんな事を思わせない笑顔だった。
 ただ、純粋に眩しい…と思った…。
 もしかして、あれは夜明けだったんだろうかと、そんな事をぼんやりと思い…、
 らしくない自分の思考に、外を眺めつつ噴出しかける。
 すると、横から早足で駆けてくる足音と共に、聞き慣れた声が聞こえてきて…、次に頭を軽くペシッと叩かれた。
 「待ってても、ぜんっぜん生徒会室に来ねぇし…。寝てんのかと思ったら、こんなトコで一人で思い出し笑いかよ」
 「あぁ…、ゴメンね。ずっと、俺のコト待っててくれたんだ?」
 「べっ、べっつに待ってたワケじゃねぇけど、今日は帰りにスーパーの特売に行く約束だろ?」
 「・・・・・って、そうだったっけ?」
 「そうなんだよっ」
 「じゃあ、今晩の晩メシは?」
 「寒い季節にふさわしく、当然、鍋っ!」
 「この間から、食べたいって言ってたもんね」

 「そうそう、だから早く行こうぜ」

 そう言って伸ばされた手は、久保田の腕を取り引く。
 すると、自然に久保田の足は歩き出し、時任の後に続いた。
 そして、やがて歩く内に久保田は時任の横に並び…、
 まるで、交差点を渡っていくように、行き交う生徒達の間を歩いていく。今はまだ、歩いても交差点を渡り切る事は無いけれど、時期にその時が確実に来る。
 ここにいる誰もが、この場所に居る誰もが…、通り過ぎ行き過ぎ…、
 だが、きっと…、何もかもが消えてしまう訳じゃない…。
 交差点の途中で久保田が立ち止まると、時任も立ち止まり…、
 久保田が出てきた校舎を振り返ると、時任も同じように振り返った。
 「ココで手を振り払ったら裏切り…、それとも?」
 「…って、何の話だよ?」
 「いや、ただの戦隊モノの話」
 「戦隊モノ?」
 「じゃなくて、やっぱり独り言」
 「なんだよ、ソレ?」
 「さぁ?」
 校舎を振り返り、思い出された桂木の言葉。
 それは絶対に裏切らない、裏切れないだろうと言っている。
 けれど、ここから先の事を考えた時、この手を振り払わない事が時任にとって良いことなのかどうか…、わからない…。わかってる事は、ただ手を離したくないと自分が思っているという事だけだ。
 そんな自分の感情に、のほほんとした表情の裏で迷い戸惑い…。
 すると、何かを吹き飛ばすかのように久保田の髪を、突然吹いた突風が乱した。
 その瞬間に、なぜか良く知る人達の声が聞こえた気がして、久保田が細い目をわずかに開く。ここから誰もが行き過ぎ立ち去り、いなくなり…、けれど何もかもが消えてしまう訳じゃない…。
 それに背中を押されるなんて、物凄く不本意だった…。
 でも、不本意だけれど、悪い気分じゃない…。
 そんな風に感じられるように自分を変えた存在に、あの頃と変わらず眩しい笑顔を自分に向ける相方に視線を向けると…、
 久保田はあの時とは逆に、今度は自分から手を差し出した。

 「晩メシが鍋で決定ならさ…。せっかくだから、今日は二人で鍋を囲んで…、


 ・・・・・・ほんの少しだけ、未来の話でもしよっか?」


 久保田がそう言うと眩しかった笑顔が、少し驚いた顔になった後で…、更に温かく眩しくなる。二人の胸に咲き誇る笑顔も想いも11月の寒さに負けることなく、歩き始めた二人の前には、住み慣れた街と空があって…、
 そこへと帰っていく二人の後ろには、どんなに時が経っても消える事のない…、

 そんな記憶と思い出と…、それを描くキャンバスのような風景が広がっていた。


                                             2008.11.9
 「校内風景」


                     *荒磯部屋へ*