昨日の夕方に出かけたっきり、久保ちゃんは次の朝んなっても帰って来なかった。
 帰りが遅くなるからって晩飯を作ってくれてたケド、なんとなく食べたくなくってそのままになってる。たぶん腹はすいてんだけど、朝になっても何も食べる気になんなかった。
 一緒に暮らすようになってから、いくら遅くなっても久保ちゃんが朝になっても帰って来なかったなんてことは今までない。
 
 「おっせぇなぁ…」

 久保ちゃんが金を稼ぐためにしてるコトってのが、世間様でいうとあんま良くないコトだってのはなんとなく知ってる。キケンでヤバイんだってことも…。
 けど、ソレは俺たちが生活するためにやってんだし、久保ちゃんがいいって言うなら、ソレでいいんだと思う。
 悪いコトだとか、良いコトだとか、そんなん俺にはわかんねぇしな。
 でもさ。
 でも…、久保ちゃんがキケンな目に合うのだけはイヤだ。
 もし、いつか出かけてったまま、久保ちゃんが帰って来なかったらなんて考えると、すごく胸がキリキリして痛くなる。
 「久保ちゃんのばかっ、あほっ、エロ親父!」
 気分紛らわすために、たくさん久保ちゃんの悪口言って、タバコの匂いのするクッションを抱きしめた。なんかわけのわかんねぇ病気になったみてぇなカンジ。
 「…なんで帰って来ねぇんだよ」
 久保ちゃんのいない部屋は、どことなく寒い。
 俺は毛布をかぶって自分の肩を自分で抱いた。
 時計はもう、午前7時を指してる。
 もう完璧な朝だった。
 うとうとはしてたけど、俺は一睡もしてない。
 俺がずっと座り続けてるソファーに倒れ込むと同時に、ドアのチャイムが鳴った。
 
 ピンポーン…

 「時任、開けて」

 久保ちゃんだっ!
 俺はいつもと違って、すごい勢いで玄関まで走って行った。
 あわててるから、ドアのチェーンが上手くはずれねぇっ!
 「時任」
 「もうちょい待てっ!」
 「はいはい」
 俺がやっとドアを開けると、久保ちゃんが眠そうな顔して立ってた。
 「ただいま、時任」
 「おかえり」
 久保ちゃんが俺の顔を見て微笑んでる。
 むっ、寝不足してんのばれたか!?
 まあ、べつにいいけどなっ。
 俺は久保ちゃんが玄関に入ると、とりあえずなんか食おうと思ってリビングに戻りかけた。
 けれど、ふとあるコトに気づいて足を止める。
 あれっ? なんかヘンな匂い…。
 あまり嗅いだコトのないみたいな匂いがする。
 なんだろうと思いつつ、久保ちゃんと一緒にリビングに戻ると、俺はキッチンに置いてあった昨日の夕食をあっためようとした。
 すると久保ちゃんがやってきて、少しも減ってない夕食を眺める。
 「もしかして、何も食ってないの?」
 そう尋ねる久保ちゃんに、俺はふんっとそっぽを向いて、
 「ちょっと食欲なかっただけじゃんっ」
と、言った。
 久保ちゃんが心配で食えなかったなんて教えてやんねぇよっ。
 なーんて思いつつ、テーブルの皿に手を伸ばそうとすると、その手は皿に届く前に久保ちゃんに捕まってしまった。
 「ごめんね、時任」
 「なんであやまんの?」
 「んー、なんとなくね」
 「ふーん」
 バレバレってヤツか。
 けど、俺のことちゃんとわかっててくれてるのはうれしい。
 俺は後ろから抱きしめてくる久保ちゃんの手に、自分の手を重ねた。
 「ゴハン食べたら一緒に寝ようね」
 「うん」
 あったかい久保ちゃんの体温を感じて、気持ち良くなりかけてたけど、さっきのヘンな匂いが久保ちゃんから匂ってきて、俺は思わず久保ちゃんの腕から逃げ出した。
 「時任?」
 久保ちゃんがちょっと驚いた顔シテル。
 けど…。
 俺は驚いてる久保ちゃんになんでもないって、そう言うことができなかった。
 久保ちゃんの襟元。
 ソコに付いてるのがなんなのか、そんなのは俺にだってわかる。
 赤い跡は口紅。
 ヘンな匂いは香水。
 そーいうのって、やっぱり…。
 「どしたの?」
 久保ちゃんが俺に向かって手を伸ばす。
 俺はその手をパシッと弾いた。
 「バカッ!!!」
 それ以上、俺は何も言えなかった。
 …なんか息が苦しくて死んじゃいそうなカンジで。
 …胸が。
 …ココロが痛い。
 俺はめちゃくちゃになりそうな自分が怖くて、久保ちゃんの部屋に逃げ込んだ。
 そうしないと、なにするかわかんなかったから。
 「ゴホッ、ゴホゴホ……」
 なんか吐きたいけど、昨日から何も食ってないから何も出ない。
 俺はベッドに横になると、うずくまって腹を抱えた。
 「時任、時任…」
 ドアの向こうで久保ちゃんが呼んでる。
 部屋にはカギかけたから、久保ちゃんは入って来れない。
 「開けて、時任」
 絶対にカギは開けらんねぇ。
 もう一回、あのヘンな匂い嗅いだら、たぶん俺はおかしくなるから。
 「ゴホ、ゴホ…」
 匂いが身体の中に入ったような気がして、なんとなく気持ち悪い。
 鼻がまだあの匂いを記憶してる。
 この匂い付けてた女の影が、脳裏にチラチラと浮かんだ。

 …久保ちゃんはどんな顔して、どんなキモチでこの匂いつけたんだろう?

 色んなこと想像しかけて、俺は頭を左右に振った。
 イヤだっ、そんなのイヤだっ!!
 あの唇が俺以外のヤツに触れて、あの腕が俺以外のヤツ抱くなんて!!
 ぜったい、ぜったいに…!
 「うぅっ…」
 苦しくて苦しくてこのまま死にそうだった。
 たくさんの抱えきれない想いが、俺の中でキリキリしてる。

 息が…息が…できない。

 吐き出した息を吸い込むことができなかった。
 このままじゃ、窒息する。
 
 たすけて…。
 息できないよ、くぼちゃん。
 ……くぼちゃん。

 意識が遠のいてく。
 もう、ダメ…。

 俺が意識を手放しかけた瞬間すごい音がして、開かないはずのドアが開いた。
 久保ちゃんが部屋の中に飛び込んできて、険しい顔して俺をのぞき込む。
 久保ちゃんからは、まだあの匂いがしてた。
 俺は力の入らない手を上げて、久保ちゃんの手を振り払う。
 「どうして?」
 …久保ちゃんはまだ気づいてない。
 俺は必死の思いで久保ちゃんの服の袖を引っ張る。
 すると久保ちゃんはハッとした顔をして、自分の服の袖を匂った。
 
 くぼちゃんなんて…きらい…。

 俺は完全に意識を手放した。



 
 「う…ん…」
 
 もう死んじゃったかと思ったけど、どうやらまだ生きてたらしい。
 腕を上げようとしたら、パシャンと音がした。
 あれ?
 これって水音?
 身体の不思議な感覚に目を開けてみると、見慣れたタイルが目に入った。
 このタイルはバスルームのタイル。
 俺はフロに入れられてた。
 「気が付いた?」
 後ろから久保ちゃんの声がする。
 俺は久保ちゃんに後ろから抱きしめられる格好でお湯につかってた。
 「もう、あの匂いしないでしょ?」
 「くぼちゃん?」
 「ちゃんと呼吸できる?」
 「う…ん…」
 俺がゆっくりうなづくと、久保ちゃんは腕を伸ばしてぎゅっと俺のこと抱きしめた。
 「…心臓が止まるかと思った」
 ほっと息を吐く久保ちゃんは、ホントに俺のコト心配してくれたみたいだった。
 背中に感じる鼓動も少し早い気がする。
 でも。
 でも…くぼちゃん…。
 俺が再び久保ちゃんの手を振り解こうとすると、久保ちゃんは強い力で俺を抱え込んでそうすることを許さなかった。
 「は、放せよっ!」
 「放さない」
 ホントは、ホントは俺だって離れたくなんかないっ。
 離れたくないのに、なんでなんだろう…。
 苦しさのあまり胸を押さえていると、久保ちゃんが俺の頭を優しく撫でてきた。
 「勘違いしてるみたいだけど、あの香水がついたのは時任が思ってる理由じゃないよ?」
 「……えっ?」
 俺が思わず久保ちゃんの方を振り返ると、久保ちゃんは穏やかな顔で微笑んでた。
 柔らかい視線。
 少し首をかしげて俺は久保ちゃんを見た。
 「昨日、代打ちのバイト出ちゃったんだけど、ちょっと色々あってそれが長引いちゃってさ。そんときにいた女の人が、突然俺に抱きついてきたんだよね。もちろん、丁重にお断りしたケド」
 「じゃあ…」
 「うん。すっごく香水きつかったから、そんときについたんだと思うよ」
 「・・・・・・」
 …勘違い?
 けど、朝帰りだし、あんな匂いとか口紅とかつけてるし、疑う条件は十分だよな。
 俺はじーっと久保ちゃんの顔を眺めてると、久保ちゃんは小さくため息をついた。
 「そんなに信用できない?」
 「そ、そんなコトねぇケドさ」
 「まだ疑ってるよね?」
 冷静に考えれば、久保ちゃんが浮気なんてしないってわかる。
 でも、完全に信じ切れないのも事実だった。
 だって、俺は久保ちゃんじゃないから…。
 久保ちゃんのコト全部はわからない。
 俺は久保ちゃんに向かって手を伸ばすと、その身体に腕を回して抱きついた。
 「…時任」
 返事できない。
 泣きなくなんかないのに、涙が自分の頬を伝ってんのがわかった。
 「泣かないで、時任」
 久保ちゃんが背を撫でてくれてる。
 けど、俺の涙は少しも止まらなかった。
 「俺が欲情できんのは時任だけだから、俺は時任以外抱けないよ? ココロも身体も時任にしか反応しないから」
 「・・・・くぼちゃん」
 「いっぱい時任の匂いを俺に付けてよ。いつも時任のコト感じられるように…」
 バスルームにしてる匂いは、石鹸とシャンプー、そして久保ちゃんに染み付いてるタバコの匂い。
 それは俺の知ってる大好きな匂いだった。
 「キスしよ?」
 「うん」
 暖かいバスタブの中で、俺たちは長い長いキスをする。
 
 お互いのキモチがちゃんとココロに届くように願いながら…。

 たぶんこれからも、嫉妬と独占欲で苦しくなったりするんだろう。
 好きってキモチはワガママだから。
 けど、呼吸できなくなるくらい苦しくても好きをやめたりできない。
 それはたぶん、これが俺にとって。

 一生に一度の恋だから・・・・・・。


                                             2002.3.17
 「恋するキモチ」


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