日の沈みかけた夕暮れ時。
 公園の横を長い長い影が二つ歩いていた。
 夕闇に包まれかけた公園には、まだ二、三人の子供が残っていたが、その子供達も自分達を呼ぶ母親の声を聞いてそちらへと走っていく。
 そんな様子を、時任がぼんやりと眺めていた。
 「どうかしたの?」
 時任があんまりぼんやりしているので久保田がそう声をかけるたが、やはり時任はぼんやりとしたまま、じっと子供と母親を眺めている。その顔からは、何を思っているのか感情を読むことはできなかった。
 「…久保ちゃん」
 「なに?」
 時任が突然立ち止まったので、久保田も少し遅れて立ち止まる。
 右手に持ったコンビニの袋がカサカサ鳴っていた音も、立ち止まったので消えてしまった。
 子供達が帰ってしまったため、辺りは静けさに包まれつつある。
 ただ、時々吹いていく風が木々を揺らして、ザァァっと音を立てていた。
 「時任?」
 久保田の名を呼んだきり時任が喋らないので、不審に思った久保田は時任がぼーっと見ている方を見る。するとそこには、何か黒いモノが落ちていた。
 地面に落ちている影よりも黒い色。
 「…あれ何?」
 時任はそう聞いているが、きっと本当は薄々それが何なのかわかっているに違いない。
 近くに行って自分の目で確認せずに聞いていることが、それを物語っていた。
 久保田は時任を置いてゆっくりと歩き、その黒いモノの前で立ち止まる。
 その黒いモノからは、鼻をつく凄い匂いがしていた。
 「猫の死骸」
 久保田がそう言うと、時任は少しだけ目を見開いた。
 「猫?」
 「うん。もう死んで何日もたってるからさ、だいぶ腐っちゃってるね…」
 猫の死骸はすでにその形を保てなくなってるのか、身体がぐちゃりとコンクリートに張り付いて、あの柔らかな身体の膨らみをなくしている。眼球もすでに腐って落ちたのか、眼窩は空洞になっていた。
 たぶん、もうしばらくこのままにしておいたら白骨になってしまうんだろう。
 久保田はその場にしゃがみ込むと、その以前は猫だった黒い塊に手を伸ばした。
 「く、久保ちゃん…」
 時任がその動作に驚いて思わず声を出す。
 けれど久保田は、その塊のボロボロになった毛並に素手で触れた。
 冷たい感触。
 ぬるっとした感じがして、次に硬いものが指が当たった。
 思った以上に腐食が進んでいるらしい。
 久保田は持てそうな部分に手を入れると、猫の死骸をバリバリとコンクリートから引き剥がした。その音を聞いた時任は、なぜか痛そうな顔をしている。だが、目をそらしたりはせずに、じっと久保田の様子を見守っていた。
 「どうすんの?」
 時任が痛そうな顔のままそう聞くと、久保田は普段と変わらない表情で、
 「埋めるよ」
と、短く言った。
 すぐ近くが公園だから、埋める場所ならいくらでもある。
 久保田は猫の死骸を持って立ち上がると、公園に向かって歩き始めた。
 すると時任も、黙ってそれに付いていく。
 おそらく、今の久保田の行動を見たらほとんどの人間が顔をしかめるに違いなかったが、運がいいのか悪いのか周囲に通行人はいなかった。
 日が急速に西に沈んでいき、長かった影が闇に紛れて消えようとしている。
 久保田は公園内の大きな木に前に到着すると、猫の死骸をそっと地面に降ろし、木の根元を掘り始めた。
 「そこに埋めんの?」
 「うん」
 時任は地面に袋を置くと、久保田と同じように地面を掘り始めた。
 近くにあった折れた枝とかを使ったが、地面が硬いのでなかなか掘れない。
 けれど二人は文句を言うこともなく、ひたすら地面を掘っている。
 「久保ちゃんは怖くねぇの?」
 そう時任が久保田に言ったのは、埋めるために必要な深さの半分くらい掘れた辺りだった。
 「何が恐いの?」
 久保田が手を止めることなくそう答えると、時任はチラリと猫の死骸を見た。
 「猫なのに、猫じゃないみたいだから…」
 「どして?」
 「動かないし、鳴かない」
 「それが死んでるってコトでしょ?」
 「…それはそうだけど」
 ザクザクザク…。
 次第に穴が深くなっていく。
 ここに埋めると、たぶんしばらくすると身体のほとんどが地面に吸収されてしまって、そしていつか猫だった痕跡は跡形もなくなる。
 その存在が完全に消えてしまうのだ。
 久保田は自分の手元だけを見たまま、
 「この猫を埋めたからって別になんの意味もないし、何も変わらないよ」
と、そう時任に言う。
 時任は少し顔を上げて久保田の顔を見たが、久保田はやはりいつもと同じ顔をしていた。
 「死んだらそこで終わり。この猫は何も想わない、何も感じないタダの塊だからどうなってもわからない」
 久保田の言う通り、猫はもう二度と鳴くことも動くこともない、何も想うもこともない。
 ただ、やがて死んだ細胞が崩れていき、その形が崩壊するだけだ。
 けれど久保田はその塊を埋めるために土を掘っている。
 そして時任もやはり土を掘り続けていた。
 「でも、久保ちゃんは埋めるんだよな?」
 「うん」
 「だったらさ。久保ちゃんは俺が死んでも埋めんの? この猫みたいに」
 突然の時任の問いかけに久保田の表情が微妙に動く、けれどそれがなんの感情の色を浮かべているのかはわからない。
 「…さぁ」
 久保田は時任の方を見もせずにそう答えた。
 穴が深くなって猫の死骸を埋められるくらいになると、久保田と時任は掘るのをやめて手をパンパンと叩いて土を払う。久保田が猫の死骸に手を伸ばそうとすると、その前に時任がその小さな黒い塊に手で触れた。
 「やっぱ冷たいんだな。嘘みたいに軽いし…」
 「そーだね」
 時任が穴の中に猫の身体を横たえると、二人で土をかけ始める。
 手ですくって少しずつ少しずつかけると、土が死骸当たる音がなんとなくリアルに聞こえた。
 「なにもわかんなくなって、冷たくなって、ココロがなくなっちゃった分だけ…軽くなっちゃったのかな? こんなになって身体だけ残って…もう他に何も残ってねぇの?」
 「何か残ってるって願うのは、生き残ったモノの都合。それを願うのは、生きてた時の面影とか、痕跡とか、そういうのを、思い出とか過去になるまで感じていたいからかもね。自分自身が生きてくために」
 「それって…」
 「うん、エゴだなぁって…」
 そう言った瞬間、久保田の動きが止まる。
 それを横目で見た時任は、何も言わずに猫に土をかけていた。
 猫の黒い眼窩が空を仰いでいる。
 パラパラと降り注ぐ土が猫を隠し終わった頃、久保田は再び土に手を伸ばした。
 辺りはすでに暗くなっているので、公園を電灯が照らしていてる。
 その電灯だけを頼りにして二人で順番に土をかけていくと、やがて穴が完全にふさがり、猫がいた痕跡が跡形もなく消えた。
 時任はそこら辺に生えていた花を折ると、埋めた部分の中央にそれを置く。
 「バイバイ」
 この地面の下の猫に声は届かないとわかっていながら、時任はそう言った。
 久保田はしばらく周囲とは土の色が違う部分を眺めていたが、歩き出した時任に続いてその場から離れる。
 二人は公園の水道で手を洗った。
 「久保ちゃん」
 「ん〜?」
 「俺はさ…、エゴでもなんでも猫の死骸を埋めると思う。たぶん生きるために、何匹も何匹も猫の死骸を埋めちまうのかもしんない…」
 「うん」
 「久保ちゃん…、俺が死んだらちゃんと埋めろよ。絶対だかんなっ」
 「・・・・・・・」
 時任は真っ直ぐな瞳で久保田の方を見たが、久保田はそれを見返しはしたものの、何も答えなかった。
 視線だけが絡み合って、やがて離れる。
 夜だというのにやけに明るいと思って時任が上を見上げると、白い白い月が二人の頭上を照らしていた。
 「腹へった。帰ろうぜ、久保ちゃん」
 「走ると危ないよ」
 「へーきだってっ」
 時任がたくさん明かりのついたマンションに向かって走り出すと、久保田もそれを追って走り出す。
 二人の手には、まだ猫の死臭がわずかに残っていた。


                                             2002.4.25
 「傷」


                     *WA部屋へ*