「時任。早く起きないと遅刻するよ?」
 起きないと遅刻するというギリギリの時間まで、時任はベットにもぐったままだった。
 寝起きが悪いのはいつものことだが、今日はなんだか様子がおかしい。不審に思った久保田は、頭から被っている毛布を強引に取る。すると、時任は思いっきり不機嫌そうな顔をしていた。
 「どこが痛いの?」
 そう久保田が言うと、時任がちょっとだけ驚いた顔をする。
 久保田は時任の額に手を当てた。
 「熱はないみたいだけど…」
 ひんやりとした手を当てられ、時任が気持ち良さそうに目を細める。
 その様子はまるで猫のようだった。
 「時任」
 「ゴホ…ゴホ…」
 「もしかして、のど痛い?」
 そう言われた時任は、ゆっくりと小さく頷く。
 「口開けて」
 そう言って久保田が時任の口の中をのぞきこんでみると、喉が赤くなっていた。
 完璧な風邪である。
 熱はないものの、喉が腫れて喋れないとなれば、休んだ方がいいのかもしれない。
 「学校、お休みする?」
 久保田が時任の頭を撫でながらそう言ったが、時任は首を横に振る。
 それを見た久保田は小さくため息をついた。熱がない以上、行きたいというものを止めることができないからである。
 「時間がかかってもいいから、起きなね?」
 久保田は時任がちゃんと起きたら学校に行くことにした。
 だがやはり時任は、不機嫌そうな顔をしてベットからちゃんと起きて来たのである。
 意地でも学校に行くつもりなのだった。
 「絶対、ムリはしないこと。わかった?」
 久保田は時任にそう約束させると、風邪薬を飲ませてからマンションを出た。




 「ゴホ、ゴホ…」
 学校についてからも、時任は咳をしている。
 購買から買ってきたマスクをつけて、机に突っ伏していた。
 そんな時任を見た桂木が、
 「そんなになってまで、なんで来るのよ?」
 と、あきれた顔をして言う。
 すると時任は、じろっと桂木のことを睨んだ。
 喋れないため、何を言われても言い返すことができない。だから、言いたいことを伝えることができないのである。
 時任がちょっと情けない気持ちになっていると、横から久保田が、
 「今日はカンベンしてやってよ、桂木ちゃん」 
と、桂木に向かって言う。
 すると、桂木は久保田に向かって肩をすくめてみせた。
 「別に責めてるわけじゃないわ。ただ心配してるだけよ」
 まるで母親か姉のような感じで桂木がそう言うと、時任の顔がムスッとした表情になる。桂木はふ〜っと、息を吐いた。
 「心配してやってんのよっ。ありがたく思いなさい」
 本人の言うとおり、桂木は時任のことを心配して言っている。
 時任はやはりムスッした表情をしていたが、明らかに照れている顔だった。
 目は口ほどにモノを言う、ではないが、その表情を見ただけで時任の気持ちがはっきりとわかる。
 「ったく、素直じゃないんだから…」
 「ケド、そういうトコが時任なんだと思わない? 桂木ちゃん」
 「まあ、素直な時任は気持ち悪いけどね」
 「でしょ?」 
 久保田と桂木の会話を聞いて、時任が二人を睨みつける。
 本当は喉だけではなく身体もだるいので、今日は暴れる気力がない。
 だから、睨みつけることしかできないのだった。
 「そんなに睨んでばかりいたら、ホントにそおいう顔になっちゃうよ? だから、それがイヤならやめなさいね?」
 怖い顔をしている時任の頭を、そう言いながら久保田が撫でる。
 そんな二人の様子をクラスメイトがじ〜っと眺めていたが、久保田も時任も少しも気にしていないようだった。別に男が男の頭を撫でてどうということはないが、この二人がやるとなぜか妖しい空気が漂ってくる。
 久保田は愛しそうな目付きで時任を眺めていた。
 一見そんな風には見えないのだが、いつも妖しい空気を作っているのは、時任ではなく久保田の方なのである。あんな微笑を浮かべられては、それに込められている意味を考えずにはいられないのだった。
 「有害だわ」
 久保田の微笑を見た桂木は、そう小さく呟いたのだった。




 「…ゴホッ」
 なんとかノートを取りつつ四時間目までの授業を終えると、時任は机に突っ伏したまま動けなくなり、いつもは屋上で食べる昼食を教室で食べざるを得なくなった。
 そのため、久保田がパンを買いに行っている間、時任は教室でその帰りを待っている。時任はなんだか少しだけ、頭が熱くなってきたような気がしていた。
 もしかしたら、本当に熱が出てきているのかも知れなかった。
 もう、動きたくない。
 そう時任が思っていた時、一人の生徒が時任のいる教室のドアを勢い良く開いた。
 「ケンカだっ! 時任、来てくれっ!」
 どうやら、校内でケンカが発生したらしい。
 時任はポケットの中から腕章を取り出すと、自分の腕に付けた。
 学校に来ている以上、執行部としての公務を果たさなくてはならない。
 険しい表情で椅子から立ち上がると、時任はマスクを外した。
 マスクをつけていると、公務の妨げになるからである。
 「こっちだ、早く着てくれ」
 時任は無言で頷くと、飛び込んできた生徒に連れられ公務に出かけた。
 喋れないが仕方ない。
 少々目眩を感じながら、ケンカの現場である体育館の裏まで走る。
 現場に到着すると、時任はすぅっと息を吸い込んだ。
 (これっくらい平気に決まってる)
 自分自身にそう言って覚悟を決め、時任がケンカの現場に踏み込む。
 するとそこには、一週間前に公務を執行した不良グループが三人立っていた。
 時任が案内してきた生徒の方を振り返ると、その生徒はすでに姿を消している。
 どうやら、罠にはまってしまったようだった。
 「おっ、マジで来やがったぜっ」
 「仕事熱心だなぁ、時任」
 「ご苦労さん」
 ニヤニヤと笑う顔が不快感を増大する。
 時任は拳に力を入れて意識を保つと、攻撃にそなえて体勢を整えた。すると、男達はざっと素早く時任を取り囲んだ。
 「風邪引いてて、喋れないんだって?」
 「そりゃあ、大変だなぁ」
 不良達は時任の具合が悪いのを知っている。
 おそらく、時任が弱っているのを知って、こんなことを思いついたのだろう。
 「風邪んトコ悪けど、俺たちの相手してくれよな?」
 リーダーらしき男がそう言うと、三人はいっせいに時任に攻撃を仕掛けてきた。
 左、右、斜め前、後ろ。
 攻撃をなんとかかわしながら、時任は攻撃を試みる。だが、目眩のせいで攻撃はなかなか当たらなかった。力の方もいつもより半減している。
 「こないだの威勢の良さはどこにいったのかなぁ?」
 「天下の執行部が、風邪くらいで俺らなんかにやられたら、格好つかねぇんじゃねぇの」
 「言えてるぜ」
 嫌な笑いが時任の耳に届く。
 そう、冗談でもこんなやつらに負けるはいかなかった。
 執行部員としてのプライドと、時任のプライド。それらがこの場から逃げることを拒絶させている。
 時任は再び体勢を立て直すと、三人に殴りかかっていった。
 「ぐっ!!」
 その拳は一人だけなんとかとらえることができたが、後の二人をらえることはできなかった。
 時任はふらつく足を手で押さえると荒い息を吐く。
 頭がぐらぐらしてきていて、身体もいうことを効かない。
 そろそろ限界だった。
 「ヤロウッ!」
 「やっちまえっ!!」
 三度攻撃をかわした所で、意識が遠のく。
 時任は攻撃を受けていないのに、地面へと倒れた。
 「おい、自分で倒れやがったぜ?」
 「かまわねぇよ。やっちまおうぜ」
 「俺もやる」
 倒れて意識を失っている時任を、三人が取り囲む。
 そしてその内の一人が、時任の腹に向かって足を振り下ろした。

 「ぐあぁぁぁっ!!!」

 体育館の裏に叫び声が木霊する。
 けれどその声は、時任のものではなかった。
 腹を押さえて転がっているのは、時任ではなく時任の腹を蹴ろうとしていたヤツだったのである。容赦なく蹴られたらしく、起き上がれないようだった。
 「病人を蹴るなんて、許せないよねぇ?」
 「病人じゃなくても許せないけど、病人ならいっそう最低だわっ」
 「暴力反対です〜」
 現れたのは、久保田、桂木、藤原の三人。
 購買でパンを買っていた久保田の所に、時任が公務に出かけるのを見かけた桂木が知らせにきて、そこに藤原も居合わせたのだった。
 「怪我はないようだけど、無茶をさせたってのはちょっと、ねぇ?」
 「ほどほどになさいよ」
 「はいはい、わかってますって」
 久保田は桂木にそう返事をすると、残りの一人と、時任が完全に倒しそこなったもう一人に向かって攻撃を仕掛ける。勢い良く飛び掛ってくる二人を器用に避けると、久保田は鋭い蹴りを二人に見舞った。
 「ぐうっ!!!」
 「がぁっ!!!!」
 容赦のない蹴りが、二人の腹を直撃する。
 腹を狙ったのは、さっき三人が時任の腹を狙っていたからかも知れない。
 そんな久保田を見た桂木は、深くため息をつき、何もわかっていない藤原は、久保田の姿に見とれていた。
 公務が終了すると、桂木と藤原が時任に駆け寄る。
 「時任…」
 「起きてくださいよ、時任先輩」
 二人が心配そうな顔で時任を起こそうとすると、それを久保田が止めた。
 「悪いケド、起こさないでやってくれる?」
 久保田はそう言うと、時任を抱き抱える。
 ぐったりとしている時任は、気を失ったままだった。
 「ほ、保健室にっ」
 「五十嵐先生を呼ばなくちゃ…」
 藤原と桂木が慌てて保健室に向かう。
 そんな二人を見送ると、久保田は時任の身体をぎゅっと抱きしめた。
 「良くがんばったね、時任。お疲れさま…」
 そう言った久保田の顔は、どこか悲しそうな表情をしていた。




 一旦、時任を保健室に預けた久保田は、荷物を取るために教室に向かった。
 二人で早退して、病院に行くためである。
 病院に行くというものの、なんとなく心配で保健室から出られない桂木と藤原は、五十嵐とともに久保田が戻るのを待っていた。
 「ったく、学校に来るから公務なんて行くハメになんのよ。一日ぐらい授業受けなくっても死にやしないってのに…」
 いつもよりも幾分青白い顔をしている時任に向かって、桂木がそう言った。
 確かに桂木の言う通り、学校に来なければこんなことにはならなかっただろう。
 けれど、それを聞いた五十嵐はふっと微笑んだ。
 「確かにそうかもしれないけど。時任君が学校に来た理由は、もっと別だと思うけどな、先生は」
 「別な理由ってなんなんですか?」
 五十嵐の意味深なセリフに、藤原が首をかしげる。
 「理由はなんなんですか?」
 桂木もその理由を思いつかなかった。
 桂木と藤原の問いかけに、五十嵐は自分の頬に右手を当てる。そんな仕草も五十嵐がすると色っぽく見えた。
 「理由はね、久保田君よ。時任君が休んだら、心配した久保田君も休んじゃうでしょう? 時任は自分のために学校を休んでほしくなかったのよ、きっとね」
 時任が学校に来た理由を五十嵐がそう告げる。
 その理由を聞いた二人は、じっと眠っている時任を眺めた。
 いくら薬があると言っても、だからと言って喉を腫らせて苦しそうな時任を置いて、久保田が学校に来るとは思えなかった。もし今日、時任が休んでいたら、久保田も休みだったに違いない。
 「早く治るといいわね、風邪…」
 桂木はそう言うと、風でユラユラ揺れている白いカーテンの隙間から見える景色に視線をうつしたのだった。
 



 病院から風邪の薬と喉の薬をもらって帰ってきた久保田は、ぐったりとしている時任をベッドに寝かせる。時任はすでに意識を取り戻していて、うっすらと目を開けた。
 「熱が高いんだから、おとなしくしてなさいね」
 久保田が優しくそう言うと、時任はぼんやりした顔で頷く。
 熱は高いものの、さっきよりは元気になったようだった。
 ほっとしたように小さく息を吐いた久保田は、時任に何か食べさせるため、キッチンに向かおうとする。けれど、時任が久保田の服の端を掴んだ。
 「どしたの? 心配してなくても、すぐに戻るよ?」
 そう言ったが、やはり時任は掴んだまま放さない。
 久保田は仕方なく、時任の手を外そうとその手に自分の手を伸ばす。けれど、そうしようとした瞬間、時任の唇が動いていることに気づいた。
 「時任…」
 久保田が時任の口元に耳を寄せると、時任のかすれた小さな声が聞こえてきた。

 「ごめん、久保ちゃん…」

 喉が腫れていて、喋るのも苦しいだろう。
 けれど、時任は一生懸命声を出そうとしている。
 久保田はそんな時任の額と頬、そして唇と、順番に口付けると、
 「こうしてそばで生きていてくれるなら、俺はそれでいいから」
と言って、時任の肩に顔を埋めた。


 結局、時任が喋られるようになるまで三日、風邪が完治するまで一週間かかった。
 けれどもその間、時任の希望により、公務は休んだものの久保田は通常通り学校に通ったのである。
                          『風邪』 2002.4.5 キリリク4649


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